2009年9月21日追記:
いよいよNHKのテレビドラマ「白洲次郎」が完結する。今日夜10時から3夜連続で、第一話から第三話まで連続して放映される。
吉田茂役の原田芳雄の病気で、当初から今年2月末の第一、二話から半年遅れて第三話が8月に放映されることになっていた。これが衆議院選挙の関係でさらに一ヶ月遅れて完結することになったものだ。
ドラマの完結を祝して原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2009年2月27日追記:
いよいよ明日(2月28日夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送される。NHKも相当力が入っているようで、放送は全3回。2月28日、3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
大変期待しているドラマなので、テレビ放映にあわせて原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2009年1月31日初掲:
別ブログ「あたまにスッと入るあらすじ」で紹介して、思いがけず著者の北康利さんからメッセージを頂いた「白洲次郎 占領を背負った男」。
いろいろなブログで取り上げていただきましたが、こんな気合の入ったものは初めてです。感激しました。Posted by 北康利 at 2008年05月17日 11:41
あまりに良い本だと、あらすじが長くなりすぎてしまう。たとえばいまだにあらすじが書けないのが、カーネギーの「人を動かす」と新将命さんの「成功する5つの習慣」だ。いつかはあらすじを書こうと思うが、どの部分も捨てがたく、どうしても短くまとまらない。
人を動かす 新装版
著者:デール カーネギー
販売元:創元社
発売日:1999-10
おすすめ度:
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成功する5つの習慣 (成美文庫)
著者:新 将命
販売元:成美堂出版
発売日:1997-06
クチコミを見る
この本も記憶に留めておきたいストーリーが満載なので、あらすじが大変長くなってしまった。
今まで「あたまにスッと入るあらすじ」では400冊以上の本を紹介したが、そのなかでも筆者の一番気に入っている本である。
この本をベースにしたドラマ「白洲次郎」が2月28日からNHKで放送される。
たぶんNHKのプロデューサーの人も北さんの本を読んで感激したのだと思う。非常に楽しみだ。
文庫本になって買い求めやすくなったので是非一度は手にとってみて欲しい。年間250冊読む筆者の一番のおすすめのノンフィクションである。
白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
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白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-13
クチコミを見る
吉田茂の腹心の部下として、戦争直後の対GHQ対策を担当し、日本国憲法が生まれる現場に立ち会った異色の実業家白洲次郎の伝記。
筆者は東京の町田市に住んでおり、小田急線の鶴川駅が最寄り駅だ。その鶴川駅から歩いて5分程度の場所に白洲次郎・正子夫妻の武相荘(ぶあいそう)があって、現在は記念館になっている。
一般的には白洲正子がエッセイストとして有名だが、白洲次郎もここ数年で数冊の本が出て、一躍有名になった。この本も2005年の発行だ。
白洲次郎は「日本で初めてジーンズをはいた人物」と呼ばれているが、次の本の表紙写真にあるようにジーンズ・Tシャツ姿も決まっている。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
発売日:2000-07
おすすめ度:
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鶴川の書店では白洲正子コーナーがある。その一部に白洲次郎に関する本も少しだけ置いてあったが、最近では白洲次郎の本もかなりの数になっている。
この本の表紙の写真は白洲次郎が一目惚れした樺山正子、後の白洲正子に送った若き日のポートレートだ。ハンサムガイである。
白洲次郎は身長180センチを超え、当時の日本人としては非常に背が高く、外人の中に入っても見劣りしない体格と、ケンブリッジ大学出身の英語力で、戦後直後のGHQと渡り合い「マッカーサーをしかりとばした日本人」と言われている。
この本の著者の北康利氏は、東大法学部出身で銀行系の証券会社に勤務する傍ら、兵庫県三田市の郷土史研究家として九鬼隆一、川本幸民など三田市出身の名士の伝記を出版している。
また近々紹介する「国を支えて国を頼らず」も、九鬼隆一と浅からぬ縁がある福沢諭吉の伝記だ。
福沢諭吉 国を支えて国を頼らず
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2007-03-30
おすすめ度:
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白洲次郎の祖先も三田出身だ。それにしても現役のビジネスマンながら、綿密な資料調査に基づき内容に全く手抜きのない400ページもの力作を何冊も出版している北さんのエネルギーには敬服する。
筆者も見習いたいものだ。
城山三郎氏の推薦文
あらすじが長くなってしまったので、この本の帯に載せられている城山三郎氏の推薦文を紹介しておく。この本の内容を簡潔に言い表している。
ある超名門ゴルフ・クラブのテラス。その大長老ともいえる人物に声をかけられ、私はその隣の椅子に。著名な政治家や財界人などが会釈するのに対して、その人物は軽くうなずくだけ。それに見合う不思議な存在感の持ち主。それが、白洲次郎氏であった。
この人の出自も結婚も、華やかそのもの。平然と官界、政界、財界、それに軍とも闘う。よく見て、監督し続ける。トヨタのトップには、「かけがえのない車を目指せ」とアドバイスし、政府に対しては、「何で勝手に勲何等とか決めることができるのか」と。
その人物がどんな風に育ち、人格を形成していったのかを、話題豊かに展開していく快著である
白洲次郎という人の経歴を一口で言うと、次のようになる。
白洲次郎は、神戸の豪商の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、作家の白洲正子と結婚、戦前は吉田茂の「ヨハンセングループ」に協力し、戦時中は東京都下の鶴川村に隠棲、戦後は吉田茂の側近としてマッカーサーのGHQと日本国憲法制定交渉にあたる。数々の民間企業の経営に携わった他、初代貿易庁長官、通商産業省設立、東北電力会長就任、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任という華やかな経歴を持った日本の戦後を創った功労者の一人である。
1985年に白洲次郎氏が亡くなったときは、総理大臣の中曽根康弘氏が弔問に駆けつけたという。
北さんが「占領を背負った男」と表したのも、実に的確と思う。
この本の最後に北さんは次のように記している。
白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。
たしかに良い映画を見終わって映画館から出てくるような読後感のさわやかな作品である。この本に触発されて、筆者も白洲次郎に関する本を何冊か買ったので、いずれあらすじを紹介していく。
北さんは「司亮一」というペンネームで、兵庫県三田市出身の官僚九鬼隆一、蘭学者川本幸民の伝記を書いているが、ペンネームからも司馬遼太郎を意識していることがうかがえる。
この本も司馬遼太郎の作風を思わせる様に、あたかも見てきたように著述している。
筆者の住む町の有名人で、同じ旧大洋ホエールズファン、ストーリー性が高い人生を送った白洲次郎氏の伝記と言うこともあり、400ページ弱の大作だが、つい引き込まれてしまい、あらすじが大変長くなってしまい続きを読むにまでかかってしまった。
白洲次郎は強烈な人柄の人物なので、敵も味方も多く居たと思うが、この本ではもっぱら良い面だけが書かれている。その意味ではやや片手落ちの感もあるが、一度読んだら白洲次郎のファンになること請け合いだ。
このあらすじを読んだら、ほとんどこの本を読んだような気になるかもしれないが、是非手にとって読んで欲しい本だ。
それでは、この本の目次に従ってあらすじを紹介する。筆者は良い本は目次を見れば分かると思っているが、その典型の様な良くできた目次だ。日本国憲法制定以降は続きを読むに記した。
稀代の目利き
これは白洲正子、つまり白洲次郎の妻のことだ。昭和を代表する目利き青山二郎や昭和を代表する評論家小林秀雄、河上徹太郎などと親しくつきあい、著述家、目利きとして白洲正子は成長していく。
白洲正子は、プリンシプルを重んじる白洲次郎のことを「直情一徹の士(さむらい)」と表している。
エピソードには事欠かない。
白洲次郎はマッカーサーをしかりつけた日本人として有名だ。「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」が次郎の口癖だったという。日本人離れした体躯と英国風のエレガンス・英語力を身につけていた次郎はGHQ高官とも堂々とわたりあった。
次郎は、うるさ方として音に聞こえた存在で、まず相手を威嚇して、その度量を図るという悪い癖があった。初対面の相手はそれだけで震え上がったという。青山二郎からは「メトロのライオン」(MGM映画の冒頭の吼えるライオンのこと)というあだ名を付けられたほどだ。
育ちのいい生粋の野蛮人
白洲次郎は1902年生まれ。兵庫県三田藩で代々儒官をつとめた白洲家で生まれ、祖父白洲退蔵は家老職を勤めた。白洲次郎は母よしこ似だったという。
父の白洲文平(ふみひら)にはなじめなかったが、芦屋の北の4万坪の屋敷に住み、何不自由ない少年時代を過ごした。家には美術館があり、雪舟や狩野派、土佐派の日本画、コロー、モネ、マティスといった洋画のコレクションがあったという。
神戸一中時代には親から米国車を買って貰って、自動車運転を始めている。同級生の作家今日出海は、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。
ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
旧制高校に行くだけの学力がなかった次郎を、父文平は「それならいっそのこと留学せえ」と、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに送る。
次郎は生涯を通じ「プリンシプルが大事だ」と口にしたが、これはケンブリッジの"Be gentleman"(紳士たれ)という教育が元になっている。ケンブリッジ時代に生涯の友、後のストラッフォード伯爵、通称ロビンと出会う。
次郎への仕送りは1回で現在の金で3,000万円ほどという高額で、留学時代はベントレーの3リッターとブガッティタイプ35という超高級車2台を持っていたという信じられない生活をしている。
ケンブリッジの仲間からは、「オイリーボーイズ」と呼ばれ、サーキットに入り浸ったり、大陸へのグランドツアー(卒業旅行)をロビンと二人で2週間行っている。
孫の著述家白洲信哉氏の「白洲次郎の青春」は、このグランドツアーの旅程を現代のベントレーで巡った旅行記で、こちらも読み物として面白い。
白洲次郎の青春
著者:白洲 信哉
販売元:幻冬舎
発売日:2007-08
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そんな次郎の元に昭和の金融恐慌で白洲商店が倒産したという知らせが届き、次郎は8年間の留学生活にピリオドを打ち帰国する。帰国してからは「ジャパン・アドバタイザー」という英字新聞で働いた。米国の女学校への留学帰りの樺山伯爵家の娘正子と出会い、一目惚れして結婚する。樺山家には黒田清輝の「湖畔」と「読書」が客間と食堂を飾っていたという。
次郎はセール・フレーザー商会を経て、35歳で日本水産の取締役に就任する。
近衛文麿と吉田茂
次郎はカンパクと呼ぶ近衛文麿と親しくなり、近衛に頼まれて長男近衛文隆の面倒を見た。近衛文隆はソ連軍にシベリアに抑留され、とうとう1956年にシベリアで亡くなる。次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。
正子の父樺山愛輔は、吉田茂の義理の父の明治の元老牧野伸顕と同じ薩摩出身で親しかったことから、次郎も吉田と知遇を得る。
昭和10年当時、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂は「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれ、軍部から目を付けられていた。
次郎は吉田や吉田の妻雪子にも可愛がられ、吉田の三女、和子の麻生太賀吉への縁組みをまとめ上げる。政治家麻生太郎氏の両親だ。
吉田は戦争回避に尽力するが、流れは食い止められず日本は戦争に突入する。次郎は日本の敗戦を予測し、間違いなく食糧不足になるとの見込みのもとに、東京都鶴川村で5,000坪の農家を買って移り住み農業を始める。これが鶴川にある武相荘だ。
牛場友彦、細川護貞などがこのころの次郎の友達だ。
吉田は近衛の依頼を受け、天皇に終戦の上申書を提出しようとしていたことから、軍部に逮捕され、昭和20年4月に収監されるが、阿南惟幾陸軍大臣(あなみこれちか)の口添えで不起訴となり釈放される。
終戦連絡事務局
1945年(昭和20年)、次郎が43歳の時に日本はポツダム宣言を受諾した。マッカーサーが進駐してきて、GHQを設立する。GHQは第一生命本社ビルを接収して事務所として使った。
当時65歳だったマッカーサーの様々なエピソードが紹介されていて、面白い。マッカーサーは演出効果、アナウンスメント効果を常に考えて行動する名優だったという。天皇との写真の演出などはその最たる物だ。
正装の天皇と略服のマッカーサー。日本国民はこの写真を見て衝撃を受けたという。
出典:Wikipedia
次郎は近衛に対して吉田を外相として起用するよう進言する。吉田は外務省の部長以上を辞めさせ、次郎をGHQとの折衝を担当する終戦連絡事務局参与として抜擢する。
GHQの窓口は民政局(Government Section)であり、局長はホイットニー准将、局次長はユダヤ人でハンサムガイのケーディス中佐だった。
北さんは宮澤喜一元首相にも取材しているが、「白洲さんはとにかくよく進駐軍に楯ついていましたよ」と語っていたという。
英語の喧嘩はお手のもので、ホイットニーが「貴方は英語がお上手ですな」とお世辞を言ったら、「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返した話は有名だ。次郎のあだ名は"Mr. Why"とも"Sneaking eel"(岩の間に入り込むうなぎ)とも言われた。次郎の行動をよく示しているあだ名である。
憤死
マッカーサーは近衛と会い、「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」と促す。近衛はこれに基づき、京大時代の恩師の佐々木惣一をヘッドとする憲法調査会を内大臣府に編成した。しかし戦犯容疑のある近衛を重用するマッカーサーへの批判がアメリカ国内で強まると、マッカーサーは近衛を切り捨てる。
GHQは日本側案を一顧だにせず黙殺、ついには近衛を戦犯指名する。近衛は逮捕前日に親しい友人を夕食に招待したが、勘の鋭い次郎は招待を断る。予想通り近衛は青酸カリ服毒自殺を遂げる。
その直後、次郎が天皇のクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に届ける時に、マッカーサーが「その辺にでも置いておいてくれ」というと、次郎は「いやしくもかつて日本の統治者であった人からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」と叱りとばし、マッカーサーはあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという事件が起こる。
次郎がマッカーサーをしかりつけた唯一の日本人と云われるゆえんだ。
「見ていてくれましたか?カンパク、あの野郎に一矢報いてやりましたよ」、近衛を憤死させた義憤があったからこそ、絶対権力者に対して大胆にも声を荒げて怒ったのだ。
"真珠の首飾り"ー憲法改正極秘プロジェクト
マッカーサーは絶対権力者として、欲しいままに日本を荒療治する。自分をフィリピンで破った本間雅晴中将に対しては43の罪で戦犯として銃殺刑を科した。
本間は、刑の執行の前に「私はバターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」と語ったが、その声は無視される。
GHQの民政局を実質支配していたケーディスは昭和21年1月に公職追放を発表し、1年半ほどの間に20万人の有力者が追放され、指導者を失った現場は大混乱した。
近衛死後日本側で新憲法案を検討していたのは、国務大臣で法学者の松本烝治ただひとりだったが、昭和21年2月に憲法問題調査委員会試案が毎日新聞記者の西山柳造によりすっぱ抜かれ、毎日新聞の1面にスクープされたのだ。
ちなみに西山記者が情報入手ソースを明かさなかったため、この世紀のスクープの真相は50年近く不明だったが、死の直前の1997年に西山氏は真相をあかしている。
日本側案は明治憲法を微調整したものだったので、毎日新聞スクープの2日後にマッカーサーはホイットニーに象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の3つの原則を柱とする憲法改正草案の作成を命じる。これがコードネーム"真珠の首飾り"の新憲法案作成プロジェクトだ。
GHQが憲法を制定することは、そもそも国際法に違反する行為だった。国際法の基本であるハーグ条約には次のような規定がある。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(ハーグ条約付属書規則第43条)
しかしソ連が日本の占領がアメリカ軍だけで行われていることに不審を抱き、GHQを監視する極東委員会が設置されることが決まったことが、マッカーサーに憲法改正案をつくらせる引き金となった。ソ連が口出しする前に先手必勝というわけだ。
ホイットニーはケーディスにリンカーンの誕生日(2月12日)までに憲法改正案を創るように指示する。ケーディスは民政局から25名のメンバーを選び、いわゆるマッカーサー草案を期限前の2月10日に完成させる。
25人のメンバーの構成は、陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名だった。弁護士資格を持つものこそ3名いたが、憲法の専門家はゼロだった。
マッカーサー草案は予定通り2月13日に吉田外相、松本烝治国務大臣、次郎、外務省嘱託長谷川元吉にホイットニー、ケーディスらから伝えられた。天皇象徴制、一院制が骨子だ。当時GHQ民政局には共産主義者が多かったといわれているが、それを反映した土地国有化条項も織り込まれていた。
日本側がマッカーサー草案を見ている間、ホイットニーらは席を外す。戻ってきた時に次郎に言った言葉が"We have been enjoying your atomic sunshine"だった。次郎は憤慨し、それを聞いた吉田が、GHQなんて"Go Home Quickly"だと怒る。
ジープウェイ・レター
次郎は、マッカーサー案は日本の固有の事情を顧みない"Airway letter"(空路)であり、日本側の案は曲がりくねった山道を行く"Jeepway letter"で、日本の伝統と国情に即したものだと反論したが、全く功を奏さなかった。
次郎がホイットニーと交渉するが、48時間以内に回答しないとGHQ側でマッカーサー案を発表し総選挙の争点にするとおどされる。
幣原首相がマッカーサーと会談し、天皇に関する規定や戦力不保持といった基本原則以外は修正を加えても良いとの一応の言質を取り付け、回答期限の2月22日に天皇に上奏し了承を得た。
2月26日の閣議にマッカーサー案の外務省訳が閣僚に配布され、3月4日を期限としてマッカーサー案を土台にして日本案を作る作業にかかることが決定される。
ソ連が動き、極東委員会が活動を開始したので、マッカーサーは早急に憲法改正案をつくる必要が出てくる。
「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス
3月4日に法制局の佐藤達夫部長、松本烝治、次郎と外務省の担当者他でGHQのホイットニー以下と30時間におよぶマラソン翻訳会議を開始する。ベアテ・シロタというロシア系ユダヤ人で日本に10年間滞在して日本語が堪能なメンバーが通訳として加わる。
彼女が加わったことで、女性の権利を保障する日本国憲法第24条などが織り込まれた。
ベースとなるのは3月2日案と呼ばれる松本案だった。マッカーサー案から大幅に修正されていることがわかり、ケーディスと松本の激論が始まったが松本は途中で官邸に戻るとして退席し、次郎と佐藤、外務省スタッフだけが残って交渉を続ける。
結局修正が認められたのは一院政と土地所有くらいで、松本修正案はほとんど徒労に終わった。
ソ連の呼びかけで極東委員会が3月7日にワシントンで開催されることが決まったので、ケーディスは3月5日までにファイナルドラフトをつくると宣言する。次郎は松本を呼ぶが、松本は病気を口実に拒否し、次郎と佐藤がケーディス、シロタ他と徹夜で外務省訳をもとに3月5日朝までにドラフトを作成する。
次郎はそれまで何度も官邸に途中報告し、できあがった英文の「憲法改正草稿要項」を官邸に持ち込み、3月5日午後4時半からの閣議にかける。松本は引き延ばしを主張するが、幣原首相は涙ぐみ「もう一日でも延びたら大変なことになる」として受諾を決意する。
その後皇居に幣原と松本が参内、「敗北しました」と天皇に閣議決定を報告する。天皇は皇室典範の天皇の留保権と、堂上華族を残せないかと2点につき要望を述べられるが、そのままになった。
翌3月6日に「日本政府による憲法改正案」として世間に公表される。完全な「出来レース」だ。極東委員会はこれが日本人によるものでないことを見抜いたが、マッカーサーは押し切る。
大日本国憲法の改正だったので、枢密院可決を経て、帝国議会で承認、貴族院でも可決され、昭和21年11月3日日本国憲法は公布され、翌22年5月3日に施行された。
GHQは憲法案成立直後に松本烝治を公職追放した。次郎は「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と言っていたそうだ。
次郎が汚れ役になってGHQの矢面に立ったおかげで、吉田茂は憲法案成立の数ヶ月後に首相になれたと指摘する歴史家もいる。
屈辱を堪え忍んだ次郎だが、近々紹介する自著の「プリンシプルのない日本」の中で「戦争放棄の条項などプリンシプルは実に立派なので、押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と冷静な意見を言っているのは注目に値すると北さんは指摘する。
プリンシプルのない日本 (新潮文庫)
著者:白洲 次郎
販売元:新潮社
発売日:2006-05
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いよいよNHKのテレビドラマ「白洲次郎」が完結する。今日夜10時から3夜連続で、第一話から第三話まで連続して放映される。
吉田茂役の原田芳雄の病気で、当初から今年2月末の第一、二話から半年遅れて第三話が8月に放映されることになっていた。これが衆議院選挙の関係でさらに一ヶ月遅れて完結することになったものだ。
ドラマの完結を祝して原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2009年2月27日追記:
いよいよ明日(2月28日夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送される。NHKも相当力が入っているようで、放送は全3回。2月28日、3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
大変期待しているドラマなので、テレビ放映にあわせて原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2009年1月31日初掲:
別ブログ「あたまにスッと入るあらすじ」で紹介して、思いがけず著者の北康利さんからメッセージを頂いた「白洲次郎 占領を背負った男」。
いろいろなブログで取り上げていただきましたが、こんな気合の入ったものは初めてです。感激しました。Posted by 北康利 at 2008年05月17日 11:41
あまりに良い本だと、あらすじが長くなりすぎてしまう。たとえばいまだにあらすじが書けないのが、カーネギーの「人を動かす」と新将命さんの「成功する5つの習慣」だ。いつかはあらすじを書こうと思うが、どの部分も捨てがたく、どうしても短くまとまらない。
人を動かす 新装版
著者:デール カーネギー
販売元:創元社
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著者:新 将命
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この本をベースにしたドラマ「白洲次郎」が2月28日からNHKで放送される。
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白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
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白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)
著者:北 康利
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吉田茂の腹心の部下として、戦争直後の対GHQ対策を担当し、日本国憲法が生まれる現場に立ち会った異色の実業家白洲次郎の伝記。
筆者は東京の町田市に住んでおり、小田急線の鶴川駅が最寄り駅だ。その鶴川駅から歩いて5分程度の場所に白洲次郎・正子夫妻の武相荘(ぶあいそう)があって、現在は記念館になっている。
一般的には白洲正子がエッセイストとして有名だが、白洲次郎もここ数年で数冊の本が出て、一躍有名になった。この本も2005年の発行だ。
白洲次郎は「日本で初めてジーンズをはいた人物」と呼ばれているが、次の本の表紙写真にあるようにジーンズ・Tシャツ姿も決まっている。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
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この本の表紙の写真は白洲次郎が一目惚れした樺山正子、後の白洲正子に送った若き日のポートレートだ。ハンサムガイである。
白洲次郎は身長180センチを超え、当時の日本人としては非常に背が高く、外人の中に入っても見劣りしない体格と、ケンブリッジ大学出身の英語力で、戦後直後のGHQと渡り合い「マッカーサーをしかりとばした日本人」と言われている。
この本の著者の北康利氏は、東大法学部出身で銀行系の証券会社に勤務する傍ら、兵庫県三田市の郷土史研究家として九鬼隆一、川本幸民など三田市出身の名士の伝記を出版している。
また近々紹介する「国を支えて国を頼らず」も、九鬼隆一と浅からぬ縁がある福沢諭吉の伝記だ。
福沢諭吉 国を支えて国を頼らず
著者:北 康利
販売元:講談社
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白洲次郎の祖先も三田出身だ。それにしても現役のビジネスマンながら、綿密な資料調査に基づき内容に全く手抜きのない400ページもの力作を何冊も出版している北さんのエネルギーには敬服する。
筆者も見習いたいものだ。
城山三郎氏の推薦文
あらすじが長くなってしまったので、この本の帯に載せられている城山三郎氏の推薦文を紹介しておく。この本の内容を簡潔に言い表している。
ある超名門ゴルフ・クラブのテラス。その大長老ともいえる人物に声をかけられ、私はその隣の椅子に。著名な政治家や財界人などが会釈するのに対して、その人物は軽くうなずくだけ。それに見合う不思議な存在感の持ち主。それが、白洲次郎氏であった。
この人の出自も結婚も、華やかそのもの。平然と官界、政界、財界、それに軍とも闘う。よく見て、監督し続ける。トヨタのトップには、「かけがえのない車を目指せ」とアドバイスし、政府に対しては、「何で勝手に勲何等とか決めることができるのか」と。
その人物がどんな風に育ち、人格を形成していったのかを、話題豊かに展開していく快著である
白洲次郎という人の経歴を一口で言うと、次のようになる。
白洲次郎は、神戸の豪商の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、作家の白洲正子と結婚、戦前は吉田茂の「ヨハンセングループ」に協力し、戦時中は東京都下の鶴川村に隠棲、戦後は吉田茂の側近としてマッカーサーのGHQと日本国憲法制定交渉にあたる。数々の民間企業の経営に携わった他、初代貿易庁長官、通商産業省設立、東北電力会長就任、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任という華やかな経歴を持った日本の戦後を創った功労者の一人である。
1985年に白洲次郎氏が亡くなったときは、総理大臣の中曽根康弘氏が弔問に駆けつけたという。
北さんが「占領を背負った男」と表したのも、実に的確と思う。
この本の最後に北さんは次のように記している。
白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。
たしかに良い映画を見終わって映画館から出てくるような読後感のさわやかな作品である。この本に触発されて、筆者も白洲次郎に関する本を何冊か買ったので、いずれあらすじを紹介していく。
北さんは「司亮一」というペンネームで、兵庫県三田市出身の官僚九鬼隆一、蘭学者川本幸民の伝記を書いているが、ペンネームからも司馬遼太郎を意識していることがうかがえる。
この本も司馬遼太郎の作風を思わせる様に、あたかも見てきたように著述している。
筆者の住む町の有名人で、同じ旧大洋ホエールズファン、ストーリー性が高い人生を送った白洲次郎氏の伝記と言うこともあり、400ページ弱の大作だが、つい引き込まれてしまい、あらすじが大変長くなってしまい続きを読むにまでかかってしまった。
白洲次郎は強烈な人柄の人物なので、敵も味方も多く居たと思うが、この本ではもっぱら良い面だけが書かれている。その意味ではやや片手落ちの感もあるが、一度読んだら白洲次郎のファンになること請け合いだ。
このあらすじを読んだら、ほとんどこの本を読んだような気になるかもしれないが、是非手にとって読んで欲しい本だ。
それでは、この本の目次に従ってあらすじを紹介する。筆者は良い本は目次を見れば分かると思っているが、その典型の様な良くできた目次だ。日本国憲法制定以降は続きを読むに記した。
稀代の目利き
これは白洲正子、つまり白洲次郎の妻のことだ。昭和を代表する目利き青山二郎や昭和を代表する評論家小林秀雄、河上徹太郎などと親しくつきあい、著述家、目利きとして白洲正子は成長していく。
白洲正子は、プリンシプルを重んじる白洲次郎のことを「直情一徹の士(さむらい)」と表している。
エピソードには事欠かない。
白洲次郎はマッカーサーをしかりつけた日本人として有名だ。「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」が次郎の口癖だったという。日本人離れした体躯と英国風のエレガンス・英語力を身につけていた次郎はGHQ高官とも堂々とわたりあった。
次郎は、うるさ方として音に聞こえた存在で、まず相手を威嚇して、その度量を図るという悪い癖があった。初対面の相手はそれだけで震え上がったという。青山二郎からは「メトロのライオン」(MGM映画の冒頭の吼えるライオンのこと)というあだ名を付けられたほどだ。
育ちのいい生粋の野蛮人
白洲次郎は1902年生まれ。兵庫県三田藩で代々儒官をつとめた白洲家で生まれ、祖父白洲退蔵は家老職を勤めた。白洲次郎は母よしこ似だったという。
父の白洲文平(ふみひら)にはなじめなかったが、芦屋の北の4万坪の屋敷に住み、何不自由ない少年時代を過ごした。家には美術館があり、雪舟や狩野派、土佐派の日本画、コロー、モネ、マティスといった洋画のコレクションがあったという。
神戸一中時代には親から米国車を買って貰って、自動車運転を始めている。同級生の作家今日出海は、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。
ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
旧制高校に行くだけの学力がなかった次郎を、父文平は「それならいっそのこと留学せえ」と、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに送る。
次郎は生涯を通じ「プリンシプルが大事だ」と口にしたが、これはケンブリッジの"Be gentleman"(紳士たれ)という教育が元になっている。ケンブリッジ時代に生涯の友、後のストラッフォード伯爵、通称ロビンと出会う。
次郎への仕送りは1回で現在の金で3,000万円ほどという高額で、留学時代はベントレーの3リッターとブガッティタイプ35という超高級車2台を持っていたという信じられない生活をしている。
ケンブリッジの仲間からは、「オイリーボーイズ」と呼ばれ、サーキットに入り浸ったり、大陸へのグランドツアー(卒業旅行)をロビンと二人で2週間行っている。
孫の著述家白洲信哉氏の「白洲次郎の青春」は、このグランドツアーの旅程を現代のベントレーで巡った旅行記で、こちらも読み物として面白い。
白洲次郎の青春
著者:白洲 信哉
販売元:幻冬舎
発売日:2007-08
おすすめ度:
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そんな次郎の元に昭和の金融恐慌で白洲商店が倒産したという知らせが届き、次郎は8年間の留学生活にピリオドを打ち帰国する。帰国してからは「ジャパン・アドバタイザー」という英字新聞で働いた。米国の女学校への留学帰りの樺山伯爵家の娘正子と出会い、一目惚れして結婚する。樺山家には黒田清輝の「湖畔」と「読書」が客間と食堂を飾っていたという。
次郎はセール・フレーザー商会を経て、35歳で日本水産の取締役に就任する。
近衛文麿と吉田茂
次郎はカンパクと呼ぶ近衛文麿と親しくなり、近衛に頼まれて長男近衛文隆の面倒を見た。近衛文隆はソ連軍にシベリアに抑留され、とうとう1956年にシベリアで亡くなる。次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。
正子の父樺山愛輔は、吉田茂の義理の父の明治の元老牧野伸顕と同じ薩摩出身で親しかったことから、次郎も吉田と知遇を得る。
昭和10年当時、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂は「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれ、軍部から目を付けられていた。
次郎は吉田や吉田の妻雪子にも可愛がられ、吉田の三女、和子の麻生太賀吉への縁組みをまとめ上げる。政治家麻生太郎氏の両親だ。
吉田は戦争回避に尽力するが、流れは食い止められず日本は戦争に突入する。次郎は日本の敗戦を予測し、間違いなく食糧不足になるとの見込みのもとに、東京都鶴川村で5,000坪の農家を買って移り住み農業を始める。これが鶴川にある武相荘だ。
牛場友彦、細川護貞などがこのころの次郎の友達だ。
吉田は近衛の依頼を受け、天皇に終戦の上申書を提出しようとしていたことから、軍部に逮捕され、昭和20年4月に収監されるが、阿南惟幾陸軍大臣(あなみこれちか)の口添えで不起訴となり釈放される。
終戦連絡事務局
1945年(昭和20年)、次郎が43歳の時に日本はポツダム宣言を受諾した。マッカーサーが進駐してきて、GHQを設立する。GHQは第一生命本社ビルを接収して事務所として使った。
当時65歳だったマッカーサーの様々なエピソードが紹介されていて、面白い。マッカーサーは演出効果、アナウンスメント効果を常に考えて行動する名優だったという。天皇との写真の演出などはその最たる物だ。
正装の天皇と略服のマッカーサー。日本国民はこの写真を見て衝撃を受けたという。
出典:Wikipedia
次郎は近衛に対して吉田を外相として起用するよう進言する。吉田は外務省の部長以上を辞めさせ、次郎をGHQとの折衝を担当する終戦連絡事務局参与として抜擢する。
GHQの窓口は民政局(Government Section)であり、局長はホイットニー准将、局次長はユダヤ人でハンサムガイのケーディス中佐だった。
北さんは宮澤喜一元首相にも取材しているが、「白洲さんはとにかくよく進駐軍に楯ついていましたよ」と語っていたという。
英語の喧嘩はお手のもので、ホイットニーが「貴方は英語がお上手ですな」とお世辞を言ったら、「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返した話は有名だ。次郎のあだ名は"Mr. Why"とも"Sneaking eel"(岩の間に入り込むうなぎ)とも言われた。次郎の行動をよく示しているあだ名である。
憤死
マッカーサーは近衛と会い、「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」と促す。近衛はこれに基づき、京大時代の恩師の佐々木惣一をヘッドとする憲法調査会を内大臣府に編成した。しかし戦犯容疑のある近衛を重用するマッカーサーへの批判がアメリカ国内で強まると、マッカーサーは近衛を切り捨てる。
GHQは日本側案を一顧だにせず黙殺、ついには近衛を戦犯指名する。近衛は逮捕前日に親しい友人を夕食に招待したが、勘の鋭い次郎は招待を断る。予想通り近衛は青酸カリ服毒自殺を遂げる。
その直後、次郎が天皇のクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に届ける時に、マッカーサーが「その辺にでも置いておいてくれ」というと、次郎は「いやしくもかつて日本の統治者であった人からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」と叱りとばし、マッカーサーはあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという事件が起こる。
次郎がマッカーサーをしかりつけた唯一の日本人と云われるゆえんだ。
「見ていてくれましたか?カンパク、あの野郎に一矢報いてやりましたよ」、近衛を憤死させた義憤があったからこそ、絶対権力者に対して大胆にも声を荒げて怒ったのだ。
"真珠の首飾り"ー憲法改正極秘プロジェクト
マッカーサーは絶対権力者として、欲しいままに日本を荒療治する。自分をフィリピンで破った本間雅晴中将に対しては43の罪で戦犯として銃殺刑を科した。
本間は、刑の執行の前に「私はバターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」と語ったが、その声は無視される。
GHQの民政局を実質支配していたケーディスは昭和21年1月に公職追放を発表し、1年半ほどの間に20万人の有力者が追放され、指導者を失った現場は大混乱した。
近衛死後日本側で新憲法案を検討していたのは、国務大臣で法学者の松本烝治ただひとりだったが、昭和21年2月に憲法問題調査委員会試案が毎日新聞記者の西山柳造によりすっぱ抜かれ、毎日新聞の1面にスクープされたのだ。
ちなみに西山記者が情報入手ソースを明かさなかったため、この世紀のスクープの真相は50年近く不明だったが、死の直前の1997年に西山氏は真相をあかしている。
日本側案は明治憲法を微調整したものだったので、毎日新聞スクープの2日後にマッカーサーはホイットニーに象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の3つの原則を柱とする憲法改正草案の作成を命じる。これがコードネーム"真珠の首飾り"の新憲法案作成プロジェクトだ。
GHQが憲法を制定することは、そもそも国際法に違反する行為だった。国際法の基本であるハーグ条約には次のような規定がある。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(ハーグ条約付属書規則第43条)
しかしソ連が日本の占領がアメリカ軍だけで行われていることに不審を抱き、GHQを監視する極東委員会が設置されることが決まったことが、マッカーサーに憲法改正案をつくらせる引き金となった。ソ連が口出しする前に先手必勝というわけだ。
ホイットニーはケーディスにリンカーンの誕生日(2月12日)までに憲法改正案を創るように指示する。ケーディスは民政局から25名のメンバーを選び、いわゆるマッカーサー草案を期限前の2月10日に完成させる。
25人のメンバーの構成は、陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名だった。弁護士資格を持つものこそ3名いたが、憲法の専門家はゼロだった。
マッカーサー草案は予定通り2月13日に吉田外相、松本烝治国務大臣、次郎、外務省嘱託長谷川元吉にホイットニー、ケーディスらから伝えられた。天皇象徴制、一院制が骨子だ。当時GHQ民政局には共産主義者が多かったといわれているが、それを反映した土地国有化条項も織り込まれていた。
日本側がマッカーサー草案を見ている間、ホイットニーらは席を外す。戻ってきた時に次郎に言った言葉が"We have been enjoying your atomic sunshine"だった。次郎は憤慨し、それを聞いた吉田が、GHQなんて"Go Home Quickly"だと怒る。
ジープウェイ・レター
次郎は、マッカーサー案は日本の固有の事情を顧みない"Airway letter"(空路)であり、日本側の案は曲がりくねった山道を行く"Jeepway letter"で、日本の伝統と国情に即したものだと反論したが、全く功を奏さなかった。
次郎がホイットニーと交渉するが、48時間以内に回答しないとGHQ側でマッカーサー案を発表し総選挙の争点にするとおどされる。
幣原首相がマッカーサーと会談し、天皇に関する規定や戦力不保持といった基本原則以外は修正を加えても良いとの一応の言質を取り付け、回答期限の2月22日に天皇に上奏し了承を得た。
2月26日の閣議にマッカーサー案の外務省訳が閣僚に配布され、3月4日を期限としてマッカーサー案を土台にして日本案を作る作業にかかることが決定される。
ソ連が動き、極東委員会が活動を開始したので、マッカーサーは早急に憲法改正案をつくる必要が出てくる。
「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス
3月4日に法制局の佐藤達夫部長、松本烝治、次郎と外務省の担当者他でGHQのホイットニー以下と30時間におよぶマラソン翻訳会議を開始する。ベアテ・シロタというロシア系ユダヤ人で日本に10年間滞在して日本語が堪能なメンバーが通訳として加わる。
彼女が加わったことで、女性の権利を保障する日本国憲法第24条などが織り込まれた。
ベースとなるのは3月2日案と呼ばれる松本案だった。マッカーサー案から大幅に修正されていることがわかり、ケーディスと松本の激論が始まったが松本は途中で官邸に戻るとして退席し、次郎と佐藤、外務省スタッフだけが残って交渉を続ける。
結局修正が認められたのは一院政と土地所有くらいで、松本修正案はほとんど徒労に終わった。
ソ連の呼びかけで極東委員会が3月7日にワシントンで開催されることが決まったので、ケーディスは3月5日までにファイナルドラフトをつくると宣言する。次郎は松本を呼ぶが、松本は病気を口実に拒否し、次郎と佐藤がケーディス、シロタ他と徹夜で外務省訳をもとに3月5日朝までにドラフトを作成する。
次郎はそれまで何度も官邸に途中報告し、できあがった英文の「憲法改正草稿要項」を官邸に持ち込み、3月5日午後4時半からの閣議にかける。松本は引き延ばしを主張するが、幣原首相は涙ぐみ「もう一日でも延びたら大変なことになる」として受諾を決意する。
その後皇居に幣原と松本が参内、「敗北しました」と天皇に閣議決定を報告する。天皇は皇室典範の天皇の留保権と、堂上華族を残せないかと2点につき要望を述べられるが、そのままになった。
翌3月6日に「日本政府による憲法改正案」として世間に公表される。完全な「出来レース」だ。極東委員会はこれが日本人によるものでないことを見抜いたが、マッカーサーは押し切る。
大日本国憲法の改正だったので、枢密院可決を経て、帝国議会で承認、貴族院でも可決され、昭和21年11月3日日本国憲法は公布され、翌22年5月3日に施行された。
GHQは憲法案成立直後に松本烝治を公職追放した。次郎は「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と言っていたそうだ。
次郎が汚れ役になってGHQの矢面に立ったおかげで、吉田茂は憲法案成立の数ヶ月後に首相になれたと指摘する歴史家もいる。
屈辱を堪え忍んだ次郎だが、近々紹介する自著の「プリンシプルのない日本」の中で「戦争放棄の条項などプリンシプルは実に立派なので、押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と冷静な意見を言っているのは注目に値すると北さんは指摘する。
プリンシプルのない日本 (新潮文庫)
著者:白洲 次郎
販売元:新潮社
発売日:2006-05
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