時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

自叙伝・人物伝

あの日 小保方晴子さんの逆襲始まる しかし…

あの日
小保方 晴子
講談社
2016-01-29


STAP細胞騒動で、名前を知らない人はいなくなった小保方晴子さんの逆襲本。

Amazonのカスタマー・レビューでは賛否両論で、800以上ものカスタマー・レビューが投稿されている。

さらにそれぞれのカスタマー・レビューにも、時には数百のコメントが寄せられている(相当なコメントがアマゾンによって削除されているので、攻撃コメントだと思われる)。

中には科学誌への論文投稿に詳しい専門家や自殺した笹井副センター長の後輩と称する人も投稿している。

カスタマー・レビューだけを読んでも、この本の内容が大体わかるような分量だ。

小保方さんは、最近、婦人公論に登場している。この本を2016年1月に出版して、逆襲を始めたようだ。



また、STAP HOPE PAGEという英文サイトを立ち上げている。

このサイトは2016年3月に開設されて、4月に数件の追加がなされた後は、そのままとなっている。このタイミングで海外でのSTAP細胞研究のニュースがあって、サイトを開設したのではないかと思う。

STAP HOPE PAGE












出典: STAP HOPE PAGE

STAP HOPE PAGEにはSTAP研究の概要STAP細胞製作のプロトコルSTAP細胞検証実験の結果などが紹介されている。

この本を読んでの筆者の小保方さんに対する評価は、到底一流の研究者とは言えないレベルにあるということだ。

ケアレスミスが多すぎる。さらに、ミスをそのまま放置しているので、これは人をミスリードすることと結果的に同じだ。

筆者も仕事柄、多くの人の報告書をチェックする立場にある。

筆者自身も自分が書いた文章の読み返しはあまり好きではなかった。しかし、他人の報告書をチェックする立場になったら、どれだけ"Proofreading"(日本語の「校正」とは、ちょっとニュアンスが違うので、"Proofreading"という言葉を用いる。徹底的な読み返しのこと)が重要なのか、よくわかった。

スペルミス、タイプミスなどのケアレスミスが多いと、報告書の信用度を大きく棄損する。

報告書作成者が”Proofreading"をしていなければ、報告書の品質は保てず、そんな人が実施した調査や実験はミスがあるのではないかという印象を与える。

また、筆者の経験からいうと、読み返しの習慣は簡単なものなので、他の人に一度注意されたら、ほとんどの人が実行するようになり、次回からはミスは相当減る。

それでもミスが減少しないということは、本人がやる気がないということだと思う。

もともとSTAP細胞の真偽についての論争は、STAP細胞実験がなかなか再現できないというところから出たものではなく、小保方さんの過去の論文の発表資料の使い回しがあったり、早稲田大学での英文の博士論文の序論の部分の大半が、米国国立衛生研究所のサイトのES細胞に関する説明コピーだったということに端を発した。

これはネットのブロガーなどが見つけた不備で、STAP細胞の発表から1週間も経っていなかったので「クラウド査読」として話題になった。

製本して国会図書館に収められた博士論文が草稿段階のものだった。だから、相当な部分がコピペだった?

小保方さんだけの責任ではないかもしれないが、あり得ない言い訳だ。

この件に関しては、アマゾンのカスタマー・レビューで同じ意見を書いている人もあり、これまた賛否両論のコメントが寄せられている。


ともあれ、この本のあらすじを紹介する。

小保方さんは、高校受験に失敗し、大学はAO入試で入れる早稲田大学を選択した。早稲田では体育会のラクロス部で活躍し、理工学部の応用化学科に進学した。応用化学科に進学したのは、組織工学による再生医療に強い興味を持っていたからだ。

組織工学は、細胞と足場になる材料を用いて、生体外で移植可能な組織を作りだすものだ。

この分野が注目を集めるきっかけとなったのは、のちに小保方さんが留学するハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が人工的に作られたヒトの耳をマウスに移植した「バカンティ・マウス」を発表したからだった。

Vacanti_mouse








出典:Wikipedia英語版

組織工学を研究するために、早稲田大学が提携していた東京女子医大先端生命医科学研究所で、大和雅之教授の指導を受けて細胞シートを用いた再生医療技術を研究し、それが縁でハーバード大学に留学する。

ハーバード大学ノバカンティ研では、東京女子医大に比べると設備が揃っていなかったという。バカンティ教授は、麻酔学教室の教授であり、組織工学の第一人者ではあるが、ハーバード学内外で、あまり支援を受けていなかったようだ。

この本の最初の部分は、小保方さんが行った実験に関する技術的な説明で、脚注もないので、あまり一般読者を意識したものになっていない。

覚えておくべきなのは、もともと単一細胞の受精卵から細胞分裂を繰り返して体の各組織が形成されていくなかで、エピジェネティクスと呼ばれる、いわば鍵がかけられ、分化した細胞には多能性は失われるということだ。

そのエピジェネティクスを解除する方法が、iPS細胞では、4つの遺伝子で、STAP細胞は弱酸性の環境である。

STAP細胞の発表の際に、発表の司会を務めていた亡くなった笹井副センター長が、得意顔で「これでiPS細胞が時代遅れとなったとは、決して考えてほしくない」(正確な表現は思い出せないので、筆者の記憶)というようなコメントをしていたことを思い出す。

その時にマスコミに示され、あとで回収されたSTAP細胞とiPS細胞の間違った比較図は、いまだにネットで検索すると手に入る。

STAPiPS比較


















出典:インターネット検索

小保方さんは、バカンティ研所属の研究員として、理研の若山研で、バラバラのリンパ球にストレスを与え、Oct4陽性細胞に変化していくことを確かめる実験を行っていた。これが次のビデオにある実験の第一段階で、STAP細胞研究の発表の際に、公表されたスライドの緑に光る細胞だ。

その次の段階として、Oct4陽性細胞という多能性を示す細胞を使ってキメラマウスをつくる実験は、若山教授が担当していた。これはSTAP幹細胞への変化を立証するものだ。

最初は失敗の連続だったが、Oct4陽性細胞をマイクロナイフで切って小さくした細胞塊を初期胚に注入してキメラマウスができたという連絡があった。

しかし、これはゴッドハンドの若山教授しか成功していないもので、若山教授自身も「特殊な手技を使って作製しているから、僕がいなければなかなか再現がとれないよ。世界はなかなか追いついてこれないはず」と話していたという。

この作製方法は、結局小保方さんには明かされなかった。「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と言われたという。

キメラマウス作製のデータを作る際には、つじつまの合うデータを仮置きして、ストーリーにあわせたデータを作っていくという若山研での方法に従って行われた。

特許申請の手続きも開始され、若山教授は幹細胞株化は若山研の研究成果であり、特許配分も若山教授51%、小保方さん39%、バカンティ教授と部下の小島教授に5%ずつという特許配分を理研の特許部門に提案していた。

このころ、先輩研究員から、「若山先生の様子がおかしい」と言われたという(このあたりが伏線となる)。

小保方さんは、理研のユニットリーダーに応募して合格し、英語の論文をまとめるための指導教官として笹井芳樹副センター長が加わってきた。

STAP=Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotencyという名前を考えたのも笹井教授だ。

STAP論文は5ページくらいのアーティクルと3ページくらいのレターとして、ネイチャーに投稿していた。何度かのやりとりを経て、2013年12月にネイチャーからアクセプトの連絡があり、2014年1月28日に記者会見を開催した。



このときに使われた上記のiPS細胞との比較図に京大の山中教授が抗議して、理研はあとで配布資料を回収し、笹井教授は山中教授に謝罪している。

論文発表から1週間で、前述の通り、論文の写真の使いまわしの疑義があるという話が分子生物学会から理研に持ち込まれた。あとはご存知の通りの顛末だ。



この本で小保方さんは誰かがES細胞を混入させた可能性があるという状況証拠をいくつも上げて、その立場にいたのは研究室の責任者の若山教授ではないかと思わせるような発言を繰り返している。

さらに、若山教授は、論文撤回の際にも、他の著者たちに知らせずに単独で撤回理由書の修正を依頼していたという。

論文撤回の部分はともかく、誰かがES細胞を混入させたなどという証拠もない話を信じるほど世の中は甘くない。

若山教授もいい迷惑だと思う。

小保方さんは、NHKにも、また毎日新聞の須田桃子記者にも逆襲している。

「特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせられるものがあった。」

須田さんは、先日読んだ「捏造の科学者」という本を書いている。須田さんは小保方さんの早稲田大学理工学部の先輩だ。

捏造の科学者 STAP細胞事件
須田 桃子
文藝春秋
2015-01-07


一方、今年に入って、ドイツのハイデルベルグ大学の研究チームが、小保方さんの作成手順を一部変更する形で細胞に刺激を与える実験を行い、多能性を意味するAP染色要請細胞の割合が増加することを確認したとする論文を発表している。

STAP細胞が再現できる可能性も出てきた。

筆者も、STAP細胞が再現できることはありうると思う。しかし、問題は、それが酸に浸されて死にゆく細胞の最後の光なのか、それともその後STAP幹細胞となる細胞分裂の始まりなのかという点だ。

ドイツでもキメラマウスはできていない。

結局、STAP細胞は単なる捏造騒動に終わるのではないかと思う。

最後に、アマゾンのカスタマー・レビューで、小保方さんの文章力をほめるレビューが結構ある。しかし、筆者はこの本は小保方さんの話をゴーストライターがまとめたものだと思う。

あのメモ程度の文章力しかない人が書ける文章ではない。

obokatamemo















出典:”小保方メモ”ネット検索

この関係では「ビジネス書の9割はゴーストライター」という本のあらすじを紹介しているので、業界事情を参考にしてほしい。




これからも小保方さんは逆襲に転じるのだろうと思う。これは共同研究者同士のいわゆる「内ゲバ」に近い。STAP細胞というアイデアが実用化できない以上、無益な戦いに思えるのだが…。


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ぼくの命は言葉とともにある 全盲ろうの東大教授 福島さんの本



9歳で失明、18歳で聴力も失って全盲ろう者となった東大教授の福島智さんの本。

この本はアマゾンの「なか見!検索」には対応していないので、なんちゃってなか見!検索で、目次からピックアップして紹介しておく。大体の内容がわかると思う。

☆プロローグ 「盲ろう」の世界を生きること

・「世界」から消えて行った光と音
・コミュニケーションの喪失―絶望と希望の狭間で揺れ動く
・コミュニケーションの復活と再生

第1章 静かなる戦場で
・生きる意味を探す闘いが続く
・極限状況の中でこそ人間の本当の価値が発揮される
・意味があるからこそ生きられる―フランクルの公式「絶望=苦悩―意味」との出会い

第2章 人間は自分たちが思っているほど強い存在ではない
・どん底の状態にあって、それでも生きる意味があるかと自らに問う
・どんな人間にも、生きる意味がある
・石のように眠り、パンのように起きる、そんな素朴な生の中に生きる意味が与えられている
・豊かな先進国にしか「自分らしさ」を求める人間は存在しない
・盲ろうを受け止めた精神力、しかしそれも無敵ではなかった

第3章 今この一瞬も戦闘状態、私の人生を支える命ある言葉
・コミュニケーションこそが人間の魂を支える
・その言葉にどういう意味が込められているのか
・たとえ渋谷の雑踏の中にいても、人は孤立する
・コミュニケーションによる他者の認識が自己の存在の実感につながる
・指先の宇宙で紡ぎ出された言葉とともにある命

第4章 生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた(この章は全節を紹介する)
・「クマのプーさん」が想像の世界に誘ってくれた
・「杜子春」を読み、真の幸福について考える
・自分の中の沼に沈む
・「いのちの初夜」にいのちの本質を見る
・吉野弘の誌「生命は」によって、いのちの美しい関係性を感じる
・小松左京のSF的発想に生きる力をもらう
・自由な発想とユーモア、SFと落語に共通するエッセンス
・落語が教えてくれた「笑いが生きる力になる」ということ
・アポロ13号とロビンソン・クルーソーに極限状況をいかに生きるかを学んだ
・この四年間は北方謙三の小説に支えられて生きてきた

第5章 再生を支えてくれた家族と友と、永遠なるものと
・自分が人生の「主語」になる
・「しさくは きみの ために ある」
・病や障害は因縁のためなのか
・宗教は「料理」のようなもの(宗教は人間にとって必要な「魂の食べ物」のようなもの)
・限界状況と超越者の暗号

第6章 盲ろう者の視点で考える幸福の姿
・後ろに柱、前に酒…
・幸せの四つの因子
・幸福の四つの階層
・幸福の鍵を握る「ある」ということ
・幸福の土台は希望と交わり
・競争でなく協力を伴うチャレンジが人生を輝かせる

フランクルについては、このブログの「夜と霧」のあらすじを参照願いたい。

福島さんは全盲ろう者として初めて大学に進学(東京都立大学)、教育学を専攻し、大学院に進んで、金沢大学助教授などを経て、現在は東大の先端科学技術研究センターで、バリアフリー論や障害学の研究に取り組んでいる。

ちなみに全盲ろう者で、大学に進学したのはヘレン・ケラーが世界で初めてということである。福島さんは、2011年に米国の国立ヘレン・ケラー・センターに1年間長期出張している

筆者はヘレン・ケラーの話をどこで読んだか覚えていないが、たぶん教科書に載っていたのではないかと思う。映画「奇跡の人」の有名なサリヴァン先生が、ヘレンの手で水を触らせ、”water”と教える場面などを覚えている。

奇跡の人 [DVD]
アン・バンクロフト
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2011-06-22



福島さんの本は、これまで福島さんの奥さんとの会話など、日常生活を中心に紹介している「生きるって人とつながることだ!」を読んだことがある。



全盲、あるいは全ろうだけでも大変な障害だろうが、全盲ろうということは、全く音の聞こえない暗闇で生活しているわけで、想像できない困難な環境だ。

この本では「生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた」という章で、全盲ろう者の福島さんが様々な本を紹介しているの。上記の目次で第4章の全節のタイトルを紹介したのは、そのためだ。

福島さんは、2011年にニューヨークに長期出張して体調を崩しているときに北方作品を知って、最近四年間は北方謙三に支えられて生きてきたとまで言っている。本の最後に、北方謙三と対談したことを紹介している。

北方謙三は、分厚い手をしていて、福島さんは握手した時に、「さすがにしっかりとした、いい手をなさっていますね」と思わず言った。

対談の最後に、北方謙三は、「(福島)先生の言葉は、鼓動ですよ」と語った。福島さんは、その端的で美しい表現に感動したという。

北方謙三の本は、いままで一冊も読んだことがなかったので、この本に紹介されている「秋霜」を読んだ。これは「ブラディー・ドール」シリーズの一冊ということだ。

秋霜 (角川文庫)
北方 謙三
角川書店
1990-10


そのほかにも北方さんの警部もの、剣豪もの、歴史小説、中国歴史小説などの作品が紹介されている。




小説以外にも、聖書のイエスの起こした奇跡、パスカルの「パンセ」、デカルト、ヤスパース、トルストイの「戦争と平和」、バートランド・ラッセル、吉本隆明、エーリッヒ・フロム、果ては「アルジャーノンに花束を」まで、非常に広いジャンルの作品の一節を紹介している。




ちなみに「アルジャーノンに花束を」はTBSで昨年ドラマ化されている。

アルジャーノンに花束を





















出典:TBS番組サイト

盲ろう者の福島さんがこれだけの本を読んでいることに対して、健常者の筆者は忸怩たる思いを感じながらも北方作品を読み始めているところだ。

盲ろう者の福島さんが活発に活動できるのは、お母さんが発案した「指点字」のおかげでもある。次の本の表紙になっている通り、指で言葉を伝えるもので、世界で初めて福島さんとお母さんが使い始めた。

さとしわかるか
福島令子
朝日新聞出版
2015-12-07


大学の仲間もすぐに指点字のやり方を覚え、福島さんにコミュニケーションをはかってくれるようになったという。

この本の最後に2007年度の東大の入学式での祝辞が収録されている。東大のウェブサイトでも全文が公開されており、動画も公開されている

盲ろう者の福島さんが、これだけ本を読んで、様々な情報発信をしているのだから、健常者の筆者も、多くの本を読んで、あらすじをこまめにアップしなければならない。

自戒の念を新たにした。感動を与えるストーリーが満載の本である。


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アー・ユー・ハッピー? バリバリのビジネスマン・矢沢永吉



先日紹介した「成りあがり」に続く矢沢永吉(永ちゃん)の独白録。

「成りあがり」に続くといっても、「成りあがり」は永ちゃんが28歳の時の本で、「アー・ユー・ハッピー?」は永ちゃんが51歳の時の本だから、その間23年間もブランクがある。

「成りあがり」は図書館で借りた本を読み終わらないうちに購入したと書いたが、この本も同じだ。

全くぶっとんだ。

前作は、永ちゃんの生い立ちから、キャロルが売れる前の下積み時代を経て、わずか3年弱のキャロルの大躍進と、早すぎる解散、そしてE.YAZAWAとしてソロシンガーとなって独立した永ちゃんが、年間150ステージをこなすまでの道のりを描いている。

それから23年経ち、「アー・ユー・ハッピー」では、ビジネスマンとしての永ちゃんを描いている。

成功した永ちゃんの姿ばかりではない。

1980年代に、永ちゃんはマネージャーによる横領事件に巻き込まれた。早い話が、ピンハネだ。永ちゃんには150万円のギャラを50万円と言って、100万円をネコババするという手口だった。

永ちゃんは警察沙汰にはしなかったという。

次に永ちゃんが巻き込まれたのが、オーストラリアのゴールドコーストで、永ちゃんの世界戦略のための音楽施設を建設するというプロジェクトで、永ちゃんの部下が永ちゃんをだまして30億円を横領したオーストラリア事件だ。

これはオーストラリアで詐欺事件として刑事裁判になり、被告の2人はオーストラリアで1年程度服役した。この本の末尾に実名と顛末が書かれている。

永ちゃんの離婚についても書いてある。

糟糠の妻すみ子さんと離婚して、再婚したのはマリアさんというクオーターの女性だ。

マリアさんと知り合ったのは「成りあがり」を出すちょっと前の1977年だ。

スーパースターとして成功はしていたが、すみ子さんからは家には仕事は持ち込むなといわれ、すみ子さんや家族との気持ちの隔たりを感じていたころだった。

すみ子さんは、「私は朝8時に家を出て、夕方6時にちゃんと帰ってくる男と一緒になりたかった。」という。

夜中の酒が増えていった。さびしかったのだと。

1980年ころからマリアさんと一緒にロスで生活しはじめ、結局すみ子さんと離婚したのは1989年だ。

前作同様、この本には糸井重里が協力している。

実はこの本の原稿は10年前にできあがっていたが、なにか違うという感じがあり、その時は糸井さんと永ちゃんが話して、お蔵入りすることにしたのだという。

それから10年経って出版した。

この本ではビジネスマンとしてもバリバリの永ちゃんの姿を紹介している。

日本の外タレ招聘ビジネスは一部の興行会社が独占している。出入国管理局の許可が既得権化していたのだ。

永ちゃんは政界に顔の利く実力者に頼んで、出入国管理局長と3者面談し、外人タレントの招聘権を取った。永ちゃんのバンドのメンバーは永ちゃん自身が選んで呼んでいるという。

日本国内のコンサートツアーも、キョードーなどの音楽事務所に地方の興行を仕切ってもらって、ブラックボックス化していたのを、一部自分で手掛けた。弁当の仕出しから、ケータリングまですべてやった。キャラクターグッズも当初は他人に任せていたが、今は自分の会社で手掛ける。

すべて「なめんなよ」というメッセージだ。

猿の調教師は、まず猿の頭をかじって、「オレがボスだぞ」っていうことを教えるという。そうすると猿は調教師のいうことを聞くようになるのだと。人間も、一発かじられなきゃ気がつかないときがあると永ちゃんは語る。

この本で、永ちゃん流の「倍返し」が出てくる。

テレビドラマの半沢直樹で有名になった「倍返し」で、半沢直樹の場合はリベンジという意味だが、永ちゃんの場合は違う。



オーストラリアの30億円詐欺事件で、巨額の負債を負った永ちゃんに対する銀行の目は厳しかったという。だから、永ちゃんはすぐに「倍返し」をするようマネージャーに指示した。

月々の返済額を倍にするのだ。

そうすると当然、予定より早く返済が完了する。あわてたのは銀行だ。永ちゃんのような優良融資先を失ってはならないと、態度が変わったという。

永ちゃんが権利関係を意識するようになったのは、永ちゃんが崇拝するビートルズの影響だという。読んでいたビートルズの本に、著作権や、フィルム権、肖像権とかが出ていたのだと。

前作「成りあがり」では、年間150回ものコンサートをこなしていた永ちゃんだが、この本では年間5〜6カ月程度しか音楽をやっていないと語る。

音楽を離れると、音楽が恋しくて、より一層のパワーがでるのだと。

その他にロスでの暮らしぶりや、アメリカで持っている大型クルーザーの維持費が日本とは比べ物にならないくらい安いことなどを語っている。

最後にウェンブリーで行われた世界のスーパースターを集めた” SONGS AND VISIONS"コンサートで、ロッド・スチュアートとかボン・ジョビと一緒に歌ったことを語っている。



筆者は永ちゃんの曲もほとんど聞いたことが無いし、ファンでもなんでもないが、永ちゃんの本には感心する。

是非一読をおすすめする。


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成りあがり 永ちゃんこと矢沢永吉の激白集 



見城さんの本で、当時の角川春樹社長に言われて、小学館から出ていた矢沢永吉(永ちゃん)の単行本「成りあがり」の文庫化を実現したと書いてあったので読んでみた。

筆者は大体1日1冊のペースで本を読んでいるが、めったに本は買わない。本当に手元に置いておきたい本は限られるからだ。

その筆者が図書館から借りた本を読み終わる前に買ったのがこれだ。

まったくぶっ飛んだ。

「取材構成 糸井重里」と書いてあるので、糸井重里がインタビューをプロデュースしたのだろう。まさに永ちゃんの本音、そのものズバリが書かれている。

永ちゃんの生い立ち(広島生まれだが、実母は3歳の時に出奔、父は2年生の時に病没)、親類をたらいまわしされて、やっかいものとして、なんとか高校を卒業したこと、おばあさんを唯一の肉親として育ったこと、貧乏で小学校6年生くらいから新聞配達や牛乳配達をやって食べていたこと、中学2年くらいからラジオで音楽を聞きだし、映画館のフィルム運びをやりながら発声練習していたこと、高校生のころから独学で音楽を学んで作曲していたことなどが語られている。

そして永ちゃんが「10回くらい、リフレインで読んだよ」という本が、友達のお姉さんが勤めていたキャバレーチェーンの社長がくれたカーネギーの「人を動かす」だ。永ちゃんが高校生の時だ。「えらく気に入ってね、キザに友達の誕生日に贈ったりしたよ」と。

人を動かす 新装版
デール カーネギー
創元社
1999-10-31


「『ああなるほど。なるほど。一理あるな。一理いえるな』と感じたわね。」

「たまに女房に花を買って帰るというのも、カーネギーの影響かもしれないね。多少」。

「ともかく、10回以上も読んだものな」。

なんと永ちゃんもカーネギーに影響受けているんだ。

永ちゃんは、「BIGになる」という強い意志を持って、高校卒業と同時に上京し、横浜で活動し始めた。

いろいろなアルバイトをやりながら、メンバーを集めてバンドを結成、3番目のバンドのヤマトで横浜のディスコやキャバレーで演奏していた。

そしてヤマトを解散し、内海利勝ジョニー・大倉と一緒に始めたのがキャロルだ。キャロルがレコードデビューするときには、ミッキー・カーチスがプロデューサーとしてかかわったが、契約があまりにもキャロルに不利な契約なので、後で永ちゃんはミッキーを切った。

キャロルは1972年7月に横浜市立大学の講堂で練習を始め、その年の冬にレコードデビュー、そしてスターダムにのし上がった後、永ちゃんと他のメンバーの考えが離れ、1975年4月の日比谷野外音楽堂のラストライブで解散した。



その間のことは、この本よりもジョニー・大倉の「キャロル 夜明け前」に詳しいので、これも追って紹介する。永ちゃんとしては、ギャラは4等分。何の文句があるんだというところだろうが、他のメンバーの思いは違う。

キャロル 夜明け前
ジョニー大倉
主婦と生活社
2003-10


キャロル解散後、永ちゃんはソロ活動を始め、この本の単行本が出た当時は、年間150回ステージに立ち、その間にレコーディングしている。

なぜ?150を50にしないのか。その方が楽だし。どんでもない。簡単な理由よ。

ロックはまだまだメジャーじゃない。やっと矢沢永吉という人間が少しずつ頭を持ち上げてきた。日本じゃその程度だ。これは、やっている本人にしかわからない。

フォークは、定着しかけている。でもオレたちばまだまだ、もがいてももがいてもそこまでできていないと思う。

150ヵ所でも少ないと思っている。

本当に引き込まれる本だ。

こんな話も載っている。

キャロル結成前、永ちゃんが金がないときに、親しらずが悪化して1か月くらい口も開けられないことがあった。日大病院に行ったら、1万円取られて、ろくに治療もやってもらえなかった。

それで有り金全部持って、奥さんの肩につかまって、御茶ノ水の医科歯科大に行って、教授に事情を話したら、基本料金だけで治療してもらえた。インターンの研究材料になったけど、ともかく注射代、レントゲン料金とかすべて無料にしてもらった。

永ちゃんはいう。やっぱり、オレ、あの時つくづく思ったね、国立と私立の差だね。

あの時、オレ、倅は私立に入れるのやめようと思ったね…。

この本は昭和53年に小学館から単行本として出版され、昭和55年に角川文庫で文庫化されている。

平成16年には改版され、筆者が買った本は平成27年9月15日発行の改版27刷だ。これだけ売れると角川書店も小学館も、ウハウハだろう。見城さんの置き土産だ。

改版されて無くなったのが、冒頭の永ちゃんの言葉だ。

初版には「すみ子、栄一郎、寛十郎、そして、もうすぐ生まれる子供に、贈る。」となっているが、改版にはない。

永ちゃんの私生活はよく知らないが、再婚しているから、前の奥さんとその子供たちへのメッセージは消したのだろう。

糟糠の妻を棄てた、という見方もできるが、永ちゃんが世界的にビッグになるためには、ハーフだという英語のできる奥さんが必要だったようにも思われる。

100万部以上のベストセラーだけあって、楽しく読める。筆者自身もそうだが、矢沢永吉「食わず嫌い」の人にもおすすめできる本である。


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黒子の流儀 DeNAを支えた春田前会長の自伝

黒子の流儀 DeNA 不格好経営の舞台裏
春田 真
KADOKAWA/中経出版
2015-04-12


南場智子さんが創業したDeNAの経営を「黒子」として支えた春田真(まこと)さんの自伝。

この本はアマゾンの「なか見!検索」に対応していないので、目次を紹介しておく。春田さんの経歴が1/3、DeNAのビジネスが1/3、横浜DeNAベイスターズのことが1/3という感じだ。

第1章 球界参入
第2章 銀行員時代
第3章 ベンチャー
第4章 DeNA事件簿
第5章 野球への想い

DeNA創業者の南場智子さんの「不格好経営」のあらすじは別ブログで紹介しているので、参照してほしい。春田さんは、もちろん「不格好経営」の中にも登場する南場さんを支えた腹心の部下だ。

不格好経営―チームDeNAの挑戦
南場 智子
日本経済新聞出版社
2013-06-11



「不格好経営」のあらすじにも書いた通り、筆者はDeNAには大変感謝している。横浜大洋ホエールズ以来、長年続けてきた横浜ファンから卒業できたからだ。

横浜ファンだったころは、シーズン初めは期待できたが、5〜6月で調子を落とし、毎年最下位あたりを低迷するという繰り返しだった。

1998年に優勝した当時のマシンガン打線大魔神・佐々木主浩を擁した投手陣は、ほんの一時のピークに終わり、あとは毎年同じことの繰り返しで、毎年欲求不満を抱えていた。

今はプロ野球のひいきチームはない。「明鏡止水」という心境だ。

そんなわけで、ベイスターズファンだったら、この本はもっと興味深く読めたかもしれないが、春田さんの横浜ベイスターズ買収の裏話を聞いても、フーンという感じだ。

以前から友人から横浜スタジアムには既得権がからんでいるという話を聞いていたが、この本ではそのあたりは簡単に触れている。どうやらDeNAがベイスターズを保有することとなって、条件見直し交渉をしたようだ。

そういえば、DeNAの前にベイスターズ買収交渉をしていた住生活グループ(LIXIL)は、本拠地を新潟か静岡に移転するという考えを明かしたので、これが破談の原因になったという話があった。LIXILも既得権対策として本拠地移転案を出してきたのだと思う。

春田さんも書いているが、DeNAがプロ野球に参入を表明し時に、最も反対したのは、楽天の三木谷さんだ。

春田さんは、次の理由を挙げている。

1.経営者として球団を持つことのメリットの大きさを自身の体験からよく理解しており、競合の可能性のある企業が大きなメリットを得られる球界参入を阻止しようとした。

2.単純に競合する事業もあるDeNAが嫌い?

南場さんと三木谷さんについては、不仲が取りざたされている

この記事では南場さんが春田さんに代わってベイスターズのオーナーに就任する6月以降、オーナーとして三木谷さんとやたらと衝突すると予測しているが、そんなことはまずないと思う。

春田さんは、ベイスターズをDeNAが保有する宣伝効果は試算では1,000億円になるという。NHKでもDeNAの名前を毎日何回もニュース等で紹介してくれるのだ。なるほどと思う。

この本では、春田さんのおいたちも紹介している。

春田さんのお父さんは住友銀行に勤めていたが、春田さんが小学校5年生の時に、病気で亡くなり、以降はお父さんの実家の春田家で、母子家庭としてお母さんに育てられたという。

お母さんの話では、お父さんが亡くなった後も、住友銀行にはなにかと世話になったという。だから春田さんが京都大学を卒業して、住友銀行に就職した時は、お母さんは大喜びだったという。

逆に、1999年の住友銀行とさくら銀行の合併を機に、30歳で春田さんが住友銀行を辞めてDeNAに転職した時は、お母さんは泣いたという。

そんな春田さんご自身の経歴も、この本を読むうえで別の見方を与えてくれる。

この本の「黒子」というタイトルほど、春田さんは脇役ではないと思う。

飾らない語り口が好印象を与える本である。


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キングオブオイル マーク・リッチ伝

キングオブオイル
ダニエル・アマン
ウェイツ
2010-11-05


原油のスポット市場を作り上げ、イランやナイジェリアなどの原油を、イスラエルやアパルトヘイト時代の南アフリカに販売して巨額の富を得たが、米国でイランとの禁輸の網をくぐったとして訴追され、クリントン大統領の特赦により免罪されたトレーダー マーク・リッチの物語。

マーク・リッチという名前は、一般の人にはあまりなじみがないかもしれないが、筆者は鉄鋼原料の商売を20年ほど担当していたので、まさに同時代のビッグショットとして知っていた。

Marc Rich









出典:ネット検索で取得

米国政府からイランとの禁輸を破り、巨額の脱税をしたという罪で訴追されるまでは、マーク・リッチの会社のマーク・リッチ+Co. AGが世界最大のコモディティトレーダーとして君臨していた。

訴追後、マーク・リッチ+Co. AGはグレンコアと名前を変え、マーク・リッチが持ち株を売却すると、エクストラータがスピンアウトして石炭などのコモディティトレードで大きく成長した。

2013年には、グレンコアがそのエクストラータを合併して、グレンコア・エクストラータとして世界最大のコモディティ・トレーダーとして君臨している。

筆者はマーク・リッチとは取引したことはないが、マーク・リッチがトレーダーとして頭角を現したフィリップ・ブラザースとは取引したことがある。入社して初めての仕事が、フィリップ・ブラザースからの鉄鋼原料の輸入商売だった。

いままでマーク・リッチはメタル・トレーダーだと思っていた(「メタル・トレーダー」というマーク・リッチの伝記も出版されている)。



しかし、この本を読んで、実は巨額の富を築いたのは、もっぱら原油のスポットトレード、それもアラブ諸国から石油の禁輸措置を食らって、「油断」状態だったイスラエルに、シャーの時代はもとより、ホメイニが復帰してからもイラン原油を売っていたためだということがわかった。

この本によると、マーク・リッチは1973年から20年間、イスラエルの石油必要量の1/5を供給し続けた。

マーク・リッチは同様に、アパルトヘイトで国連から禁輸措置を受けていた白人政権時代の南アフリカにも、イラン産原油やナイジェリア産原油などを売って、こちらでも巨額の利益を上げている。サダム・フセイン時代のイラクともマーク・リッチは取引があった。

もともと原油は長期契約で取引され、原油のスポット市場は存在していなかった。そのスポット市場を作り上げたのが、マーク・リッチだ。

マーク・リッチはベルギーに生まれ、幼少の時に、一家はナチスを逃れて、カサブランカ経由で米国に逃れる。外国語が達者だったお父さんは、南米からのジュート(麻)の輸入会社を立ち上げて成功し、マークはニューヨークの私立ローズ高校から、ニューヨーク大学に進み、19歳からフィリップ・ブラザースの見習いとして働き始める。

マーク・リッチは最初に水銀の取引で大儲けして、頭角を現した。

次にマーク・リッチは「石油は武器になる」と予想して、イランと原油100万トンの固定価格(5ドル)での長期取引を決めた。この買持取引は、フィリップ・ブラザースのトップの了解を得ておらず、当時の公定価格3ドルよりも高かったため、マークはその原油を米国のアシュランドオイルに転売するはめとなった。

これがマーク・リッチがフィリップ・ブラザースから独立することを決心するきっかけとなった。

その直後に、第4次中東戦争が起こり、イスラエルが軍事的には勝利したが、アラブ諸国はイスラエルと親イスラエル国に対する石油の禁輸で対抗し、第1次オイルショックが起こり、原油価格は12ドルまで急騰した。

マーク・リッチが予想していた通り、「石油は武器になる」ということが明らかになったのだ。

ちなみにこの本では、トップシークレットとして、第4次中東戦争前にイランとイスラエルは共同でパイプラインを運営して、イラン原油をパイプラインでイスラエルまで輸送していたことが明かされている。

マーク・リッチは1979年1月にシャーが追放され、イラン革命が起きてからもイラン革命政府との取引を続けた。

1979年11月にイランによるアメリカ大使館人質事件が起こって、米国はイランと断交してからも、マーク・リッチはイランとの取引を続け、イランから原油を買って、イスラエル等に販売していた。

イランは原油の向け先がイスラエルであることを知っていたが、何も言わなかったという。

この取引はマーク・リッチのスイスのツーク(Zug)にある本社が行った取引で、スイス法ではイランとの取引は合法だった。(Zukは法人税が約10%と安く、フィリップ・ブラザースなど多くの企業が本社を置いていた)

しかしこの取引に目をつけて、政治問題化しようとたくらんだ人物がいた。後にニューヨーク市長となり、一時共和党の大統領候補ともなったルドルフ・ジュリアーニ連邦検事だ。

マーク・リッチは1982年に米国籍を離脱して、スペインに帰化していたが、米国政府はこれを認めず、1983年にイランとの禁輸破りと脱税で起訴した。

マーク・リッチは「逃亡者」となったのだ。

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2013-10-02


筆者には、デビッド・ジャンセン主演のテレビドラマシリーズの方が親しみがある。

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2010-04-30


マーク・リッチの元妻のデニーズ・リッチは民主党の支援者として知られ、100万ドル以上を民主党に寄付していた。イスラエルのバラク首相からの頼みもあり、ビル・クリントン大統領は2001年の任期満了の数時間前にマーク・リッチに対する大統領特赦にサインした。

この行為は金で特赦を買った行為として非難され、政治問題となったが、覆されることはなかった。

しかしマーク・リッチは特赦後も、米国を訪問したり、スイス国内でスイス法を平気で無視する米国官憲に捕まると、また訴追されかねないとして警戒し、死ぬまで米国には足を踏み入れなかった。

そして2013年、稀代のトレーダー、マーク・リッチは79歳でスイスで死去した。

筆者はマーク・リッチと会ったことはないが、この本は興味深く読んだ。

マーク・リッチのスイスの豪邸には、モネ、ルノワール、ピカソなどの絵画が飾ってあったという。

巨額の富を築いたトレーダーの先輩ではあるが、尊敬する気にはなれない。

1980年前後は「コンプライアンス」という言葉はなかった。「コンプライアンス」が単に法令順守以上のものを意味するようになったのは、割合最近のことだ。

マーク・リッチの行為は、マーク・リッチ本人が言うように、形式からすればスイス法では違法ではないということになるのだろうが、実質的には米国の対イラン禁輸の網をかいくぐった、まさに「コンプライアンス」違反である。

今でいう「コンプライアンス」意識がなかったのが、マーク・リッチの致命傷になったともいえる。

同時代史としても楽しめる。

マーク・リッチの名前を憶えている人には、是非一読をおすすめする。


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異端児たちの決断 日立製作所 川村隆前会長が日経「私の履歴書」に登場



リーマンショックの直後、日本の製造業では最大規模の8,000億円弱の最終赤字を計上した日立製作所の経営を立て直した川村隆さん他の経営改革の本。

川村さん自身も「ザ・ラストマン」という本を書いているので、今度読んでみる。




現在(2015年5月)の日経新聞の「私の履歴書」に、この本の主人公の日立製作所の前会長 川村隆さんの履歴書が連載されている。最初の部分だけ紹介しておく。

日本経済新聞 印刷画面_ページ_1





























出典:日経新聞(電子版)2015年5月1日「私の履歴書」

日経IDに会員登録してログインしないと、読めないかもしれないので、その場合には登録して読んでほしい。

日立製作所の2005年から2014年までの業績推移は次の表の通りだ。

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出典:日立製作所IRデータ

川村さんは2009年4月に庄山会長、古川社長の後を継いで日立製作所の社長兼会長に就任し、1年間社長と会長を兼務した後、中西さんを社長として引き入れ、川村・中西体制で日立製作所の復活の舵を切った。

川村さんは2014年に会長職を中西さんに譲り、自らは相談役となって取締役も退任した。中西さんは川村さんを引き継いで2014年に会長兼CEOに就任している。

川村さんは日立製作所では重電畑をずっと経験し、中西さんも重電畑出身だ。日立工場では一緒に働いたこともある。川村さんは1999年に日立製作所の副社長に就任した後、4年後の2003年に、日立本体の副社長を退任し、子会社の日立ソフトウェアエンジニアリング(現日立ソリューションズ)会長に転出、その後は日立マクセルなどのグループ会社の会長職についた。いわゆる「上がり」の人事だ。

そんな「上がり」の川村さんを呼び戻した日立製作所の人事は当時評判になった。

この本では、川村さん自身がちょうど乗り合わせた1999年の全日空機ハイジャック未遂事件が、ちょうど乗り合わせた非番(デッド・ヘッド)のパイロットが、機長を包丁で刺し殺した航空マニアのハイジャック犯がいる操縦室に突入し、かろうじて機体を墜落から救った話を紹介して、川村さんをはじめとする員数外の人間が日立を救ったと紹介している。

筆者はあまり日立製作所に注目してこなかったが、この本で紹介されている日立製作所の取締役会のメンバーを見て驚いた。

ソニーの取締役会は20年ほど前から、国際性とバラエティに富んだ人材で構成されていて有名だが、今の日立製作所の取締役会メンバーも、ソニーと比べても遜色のない多彩な人材をそろえている。

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出典:本書

取締役がそろった写真も本書に載っている。

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出典:本書

筆者は総合商社に勤めているが、日立製作所の取締役会の構成をみると、最も事業のグローバル展開が進んでいるはずの商社が、経営体質では全然グローバルでないことを痛感させられる。

この本を読んで、日立製作所が川村体制下、素晴らしい強靭な体質の会社に生まれ変わったと思ったが、日立OBの大前研一さんは、厳しい評価をしている。

大前さんの「BIZトピックス」というメルマガ?を紹介しているサイトから引用すると。

「このようにV字回復を果たした日立ですが、「本当の復活と呼べるかどうかはまだわからない」と大前研一は指摘します。近年の日立の業績推移をよく見ると、利益は回復しているのに、売り上げが伸びていないことに気づきます。

これが何を意味しているのかといえば、日立が新しい成長産業を見出して、大きな利益を挙げているわけではないということです。既存事業の取捨選択だけでは巨大企業の将来戦略としては不十分というわけです。

「赤字事業をどんどんリストラする一方で、グループに儲かっている会社があれば本体に取り込むという形で、数字の見栄えをよくしてきただけに過ぎない」というのが大前研一の見方です。」

たしかにセグメント別の2009年から2014年までの売上高推移をみると、あまり大きな変化が見られない。

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出典:日立製作所IRデータ

しかしそうはいっても、鉄道車両事業で英国で工場を建設して英国のみならずEU向けを狙ったり、火力発電部門は三菱重工の火力発電部門と経営統合して、三菱65%、日立35%で三菱日立パワーシステムズを発足させたり、大変ダイナミックな動きをしているのは間違いない。

子会社の本体への吸収や、日立金属と日立電線の合併など、日立グループの子会社改革も進んでいる。

大前さんは単に「数字の見栄えをよくしてきたにすぎない」と手厳しいが、筆者には、日立製作所のシンボルツリーである、ハワイオアフ島のモンキーポッドのように日立グループが有機的な成長を続けているように思える。

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従業員30万人以上の日立グループの総帥・日立製作所がここまでグローバル経営に体質改善しているとは、まったく気が付かなかった。大前さんは手厳しいが、筆者はやはりすごいと思う。

日立製作所の現会長兼CEOの中西さんは料理が趣味だという。中西さんの米国駐在時代の来客用のメニューがこの本に載っているので、最後におまけで紹介しておく。プロの料理人の域に達していて、すごいとしかいいようがない。

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出典:本書

大変面白い読み物となっており、読んでいて元気がわいてくる。お勧めの本である。


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ウィスキーと私 「マッサン」の主人公・竹鶴政孝さんの自伝

ウイスキーと私
竹鶴 政孝
NHK出版
2014-08-27


現在NHKの朝ドラで放映中の「マッサン」の主人公、日本のウィスキーの創始者・竹鶴政孝さんの自伝。

日経新聞の「私の履歴書』の連載をNHK出版が単行本にしたものだ。

「マッサン」は筆者も「どんど晴れ」以来、久しぶりに見ている朝ドラだ。毎日録画して、土日に1週間分まとめて見ている。



朝ドラを見だしたきっかけは、昨年北海道旅行の際に余市蒸留所を訪問したからだ。

すでにその時にNHKの朝ドラになるという話は決まっていたが、まだブームとなる前で、ゆったり蒸留所やその中にある竹鶴邸を見学できた。

その時はフーンと思って、あまり気にしなかったが、ポットスティルで蒸留した無色無臭のアルコールを樽に入れて5年ほど熟成すると、量は2/3くらいに減ってしまうかわりに、ウィスキーのあの色と味が出るのは思えば不思議なものだ。

減ってしまう分は「天使の分け前」と言われている。

この「ウィスキーと私」は竹鶴さんの自伝で、事実と違う点は、リタさんと出会ったときは、リタさんの父親は亡くなった後だったという点だけだと、この本の註と竹鶴さんの孫の竹鶴孝太郎さんの随想で語られている。

父親の亡くなった家庭に独身男性が出入りすることになっては、リタさんの実家に不名誉だと思って、わざと事実を変えて記しているのではないかというのが、孫の孝太郎さんの見解だ。

「マッサン」は、テレビドラマとして部分部分、脚色はされているが、ストーリーは竹鶴さんの原作に近い内容となっている。

この本では、竹鶴さんがスコットランド留学を決め、アメリカのサンフランシスコ経由で、アメリカのカリフォルニア・ワイナリーというワインの醸造所を見学してから、スコットランドに渡ったことも紹介されている。

当時は第一次世界大戦の最中で、竹鶴さんの乗った船が、ドイツの潜水艦攻撃を避けるために随伴船とジグザグ航行していたら、随伴の貨物船にぶつかって貨物船が沈没してしまい、生存者は1名だけだった話が紹介されている。

ちょうど乗り合わせたベルギーの皇太子が音頭を取って、竹鶴さんが犠牲者の義捐金集めに一役買ったのだという。

当時の日英同盟の関係もあり、スコットランドでは王立工科大学(原書ではグラスゴー大学と記されているが、これは記憶間違いのようだ)やロングモーン・グレン・リベット蒸留所の工場長に大変親切にしてもらっい、ウィスキーの製造法を学んだ。

しかし日本に帰ってからは、留学に送り出してもらった摂津酒造ではウィスキー製造は、株主会議で否決され、結局サントリーの前身の寿屋の鳥井信治郎さんに拾ってもらい、京都の山崎に蒸留所を建設する。

鳥井さんは今のボンドなど接着剤をつくっているコニシの前身の小西儀助商店の出身で、「やってみなはれ」の人だ。

鳥井さんがマッサンをウィスキー工場長として、年俸4,000円で雇うのも、朝ドラの通りだ。大正12年、1923年のことだ。契約は10年間だったという。

その後、サントリーは日本で白札、赤札などのウィスキーを売り出し、当初は日本人の味に合わなかったが、だんだんに売れるようになった。マッサンは横浜でサントリーのビールもつくっていた。

マッサンはその後独立して、出資者を集め、住友銀行などから融資を得て、大日本果汁株式会社を設立。昭和9年に余市工場を建設した。ウィスキーの原酒を寝かす5年以上の間は、リンゴジュースをまず販売して食いつないだ。これがニッカの社名の由来だ。

工場設立の2年目の昭和11年にウィスキーの蒸留を始め、一級ウィスキー工場として大蔵省の認定を受けた。戦争中は海軍の指定工場となって、原料は優先的に配分されていた。

戦後は、ウィスキーは酒税法で、特級から3級(その後廃止)まで等級分けされ、3級は原酒の配合率が0〜5%とされていた。つまり、ウィスキーの原酒がゼロでも3級ウィスキーは作れたのだ。

筆者の学生時代は、2級ウィスキーはサントリーのレッド、1級はホワイト、特級は角瓶以上だったが、たぶん当時も2級ウィスキーには原酒はほとんど入っておらず、醸造用アルコールが主体だったのだと思う。

どうりで飲みすぎると悪酔いしたわけだ。

ニッカは余市工場と、仙台郊外に宮城峡に工場を建設し、昭和44年から生産を始めた。

余市はハイランド・モルト工場だ。

西宮工場にカフェ式連続蒸留機を入れて、穀物原料からアルコールを蒸留してグレイン・スピリッツをつくり、ハイランド・モルトと混ぜた。

さらに宮城峡では、ローランド・モルトをつくり、これでうまいウィスキーの原酒のフルセレクションがそろった。

最後に竹鶴さんは、ウィスキーのうまい飲み方をエッセーで書いている。

毎日飲むにはストレートだと、胃に悪いので、ウィスキー:水=1:2が適当だという。竹鶴さんは、オンザロックは冷えすぎるとしてあまり勧めていない。いずれにせよ、人それぞれ、一番うまいと思う方法で楽しむべきだし、飲む人の量によっても変わってくると。

巻末のコラムや随想も入れて190ページ余りの本で、簡単に読める。

竹鶴さんの他の本も読みたくなる。ウィスキーのことも学べ、読んでいて楽しい明治生まれの気骨ある日本男児の自伝である。



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熔ける 大王製紙元社長の井川意高さんの転落記



カジノの借金の穴埋めのため、自分が社長をしている大王製紙子会社から約107億円ものカジノ資金を借りまくったことで特別背任罪が確定し、現在、セコムや三井物産がやっているPFIによる東日本初の民営刑務所・喜連川社会復帰促進センターで服役中の元大王製紙社長・井川意高(もとたか)さんの本。

井川さんは、借りた金はすべて金利をつけて返済したから執行猶予が妥当だとして上告していたが、2013年6月に最高裁が上告を棄却して、4年の懲役刑が確定した。

この本の”つかみ”に、シンガポールのマリーナ・ベイ・サンズホテルのカジノで、20億円のチップを目の前に置き、ジャンケットというカジノに雇われた私設コンシェルジュさえもが、勝ち逃げを示唆しているのにもかかわらず、さらに勝負して結局すべてを失った話が出てくる。

負けが込んでいたから、20億円の勝ちでは引き下がれなかったという。およそ金額が尋常ではない。


井川意高さんの経歴

井川意高さんは大王製紙の創業家の3代目。1987年に東大法学部を卒業して、大王製紙に入社した。第4代社長として2007年から2011年まで大王製紙の社長を務めた。

社長になる前は、名古屋にあった子会社の立て直しでも実績を上げた。

社長に就任してからは、タイやベトナムでの合弁事業や、エリエールのナプキンやP&Gから買収した大人用のオムツのアテント事業など、消費者向け商品の開発でも成果を上げた。


井川家の人びと

井川さんの祖父の井川伊勢吉さんは、もともと製紙原料商だった。つぶれかけた製紙工場を引き受けて立て直して、小さな製紙会社をまとめ上げて、全国区の大王製紙を創業した。一度、1962年に倒産したが、会社更生法で見事に復活させている。

1943年から大王製紙の社長を長く務め、1987年に井川さんのお父さんの井川睛困気鵑飽き継いだ。

井川睛困気鵑蓮大王製紙の社長を1995年まで勤め、中興の祖と言われている。仕事にも息子たちの教育にも厳しかったことが、この本で語られている。往復ビンタ、ゴルフクラブのヘッドで殴られそうになったこともあるという。

大王製紙は、もともと四国の愛媛県、現在は四国中央市となっている伊予三島市で製紙工場を始め、その後、全国に工場展開し、タイやベトナムにも合弁会社を持っている。

大王製紙は井川家の会社だったが、「大王製紙事件」と呼ばれる井川意高さんの特別背任事件で、井川家は持ち株を北越紀州製紙に売った。現在は北越紀州製紙の持ち分法適用会社となっている。

しかし、大王製紙グループの商事会社などの関連会社は、井川家が株式を押さえている会社もある。大王製紙本体からは井川家は手を引いたが、依然として大王製紙の事業には様々な面で関与している。


この本で井川さんが言いたいこと

井川さんは、中学から今の筑駒に入学、東大法学部にストレートで合格し、東大在学中はBMW635を乗り回していたという。典型的な金持ちのおぼっちゃんだ。清泉女子大出身の最初の奥さんとは、在学中に知り合ったという。

BMW635CSi (ベージュ・メタリック)
BMW635CSi (ベージュ・メタリック)

はっきり言って、あまりに恵まれすぎていて、実刑で服役することになっても別に憐憫の情はわいてこない。

子会社から巨額のカジノ資金を借り入れたが、すべて返済した。会社に迷惑はかけていない。だから情状酌量で、執行猶予が妥当ではないかという主張は、あまりに身勝手だ。主張を露骨に書いているわけではないが、行間から発するメッセージは、その主張そのものだ。

井川さんも、「わずかな望みを懸けた執行猶予判決を得ることはできなかった」と書いている。

筆者が大学で刑法を勉強した時は、故・団藤重光先生の構成要件を違法有責類型とする学説が主流だった。たぶん、今でもそれは変わらないだろう。

会社からの告発もあるので、特別背任罪構成要件は満たしている。後から、金を返せば罪が軽くなるような単純な話ではないことは、東大法学部出身の井川さんも大学で学んだだろう。

ホリエモンは、井川さんと面識があり、井川さんが東京拘置所に収監されたときに、厚い座布団をまっさきに差し入れてくれたという。

このブログではホリエモンの「刑務所なう。」を紹介している。さすが拘置所暮らし経験者というところか。



井川さんは、ギャンブル狂はWHOに認められた「病的賭博」や、アメリカ精神医学会に認められた「ギャンブル依存症」という「病気」であって、「癖」ではないという。

アメリカ精神医学会の「ギャンブル依存症」の10要件を列挙し、「私が重度のギャンブル依存症患者であることは間違いない」と語っている。

その主張は正しいと思うが、今となっては、むなしい。

あとがきの井川さんの言葉が、含蓄がある。

「一番信用できないのは、自分 − 106億8千万円の代償として私が得たものは、かくも悲しい事実のみだった」。

最後に、「本書の印税は、全額社会福祉事業に寄付いたします。井川意高」というメッセージがある。

ホリエモンがエールを送っている通り、井川さんはまだ若い。模範囚として4年の刑期を半分くらいに短縮し、2015年くらいには社会復帰を果たすだろう。1964年生まれだから、51歳だ。

是非、第二の人生で、カジノ狂い病を克服して、活躍してほしいものである。


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祝!アジアカップ優勝!なでしこ力 佐々木則夫さん監督の本 再掲

2014年5月25日再掲:


なでしこジャパンがベトナムで開催されたアジアカップを制した。

今大会好調な岩清水選手の得点も良かったし、川村選手の守備もよかった。





決勝トーナメントではフォワードの中核の大儀見選手を欠き、決定力不足が心配されたが、1点を守り抜き、チーム力の勝利だった。

筆者もテレビ観戦した。後半は攻め込まれる場面が多かったが、なんとか守り抜いた。新しい選手も出てきており、徐々にではあるが新旧交代も進んでいるという印象を受けた。

佐々木監督の手腕はたいしたものだと思う。なでしこジャパンのアジアカップ優勝を祝して、佐々木則夫監督の「なでしこ力」を再掲する。


2014年3月24日初掲:






会社で佐々木則夫さんの講演を聞いたので、読んでみた。

ちょうどソチ冬季オリンピック開幕前だったので、「今の時期は、なでしこは"ソチのけ"で…」とかいったおやじギャグを飛ばすノリの人だった。

レジリエンス・ジャパン(国土強靭化計画)のポスターでは精悍なイメージがあるが、めちゃくちゃ面白い人だ。

佐々木監督





























出典:国土強靭化HP

講演を聞いただけだったら、「人を楽しますことを常に心がけている気配りの人」という印象で終わっただろうが、本を読んで驚いた。

帝京高校のサッカー部が全国優勝した時のキャプテンなので、都会出身の順調な人生を送ってきた人かとおもったら、大変な苦労人だった。


「観葉植物」

この本で「観葉植物」という一節がある。ここで佐々木さんの生い立ちを書いている。

佐々木さんは山形県尾花沢市出身。関東地方に出稼ぎに出ていた両親と別れて、山形の祖母の家に預けられていた。一人っ子だったので、おばあさんと二人で暮らし、佐々木さんが小学校2年の時におばあさんを看取った。

だんだん衰弱していくおばあさんに気づいて、常におばあさんのことを気遣っていたから、相手を気遣う性格が養われたのだろうと。

おばあさんが亡くなると、両親と一緒にお父さんの土木工事会社の従業員との共同生活を始めた。

土木工事会社なので、作業現場に近いところに住み、現場が変わると、また次の現場の近いところに住むということで、毎年のように転校していたという。転校ばかりしていたので、悪い仲間に誘われ万引きの見張りをやらされそうになったこともあった。

6年生のころは、サッカー仲間が出来た学校から転校するのが嫌になり、2時間かけて通って、友達の家に居候させてもらった時期もあったという。

埼玉県の芝中学時代は足が速く、運動神経抜群だったので、1年生でレギュラーになったが、スキーに行って足を怪我してしまい、その後怪我の連続で、結局公式戦は出場ゼロだった。

中学のサッカー部の先生の口利きで、帝京高校に入り、持ち前の走力を生かして1年生からレギュラーになり、帝京高校サッカー部のキャプテンで高校日本一となり、高校全日本代表チームのキャプテンを歴任した。

明治大学を経て、ノンプロのNTT東日本(現在の大宮アルディージャ)に就職してからも貧乏くらしだった。

今の奥さんと付き合っていて、実家に招いた時に、畳の隙間から雑草が生え出ていたのを、「観葉植物」だと冗談で言った。これで嫌気がさすようであれば、付き合うのをやめようと思っていたという。幸い奥さんは気にせず、結婚して今はお嬢さん一人と犬がいる。

これが「観葉植物」の由来だ。


男子選手と女子選手の違い

佐々木さんはNTT東日本で現役サッカー選手を引退後は、サッカー部の監督もやったが、24年間ずっと平社員だった。NTT東日本時代は、滞納者からの未払い料金回収や、利用者の苦情に対応する電話料金担当や、広報担当などをやっていた。

料金担当は、ユーザーから様々な要望が寄せられるので、臨機応変な対応が求められ、やりがいのある仕事だったという。その経験がコーチ業にも活かされている。

その後、日本女子サッカー代表チームのコーチに就任した時、すぐに足を怪我して、選手の練習に付き添えない状態だった。

この時、冗談まじりで「コーチになったけど、怪我したので、すぐにクビかも」と一人の女子選手に言ったら、チーム全員が佐々木さんを気遣っていたという。

女子選手はみんな相手を気遣う気持ちが強いので、たとえコーチであっても、誰かの不安が伝播して、共有してしまい、チーム全体の士気に影響することを初めて知ったという。

佐々木さんは講演の中で、「必ずやろうと思うこと」の一つに、「トイレ使用後、トイレットペーパーを三角に折ること」を挙げていた。

筆者はトイレットペーパーを三角に折るのは、掃除の人が掃除が終わった印だと思っていた。まさか、男性で三角に折る人がいるとは!初めて知った。佐々木さんの人柄を表しているエピソードだと思う。

この辺が気配りの人・佐々木さんが女子サッカー指導者としてまさにハマるところだろう。


指導者の11の心得

佐々木さんの指導者の11(イレブン)の心得は次の通りだ。

1.責任
2.情熱
3.誠実さ
4.忍耐
5.論理的分析思考
6.適応能力
7.勇気
8.知識
9.謙虚さ
10.パーソナリティ

講演では、ここまでをスライドで示し、そして次のスライドで、11.コミュニケーションと追加した。

まさにコミュニケーションの達人、佐々木さんが最も言いたいところだろう。

しかも、これらの11項目は、足し算ではなく、掛け算で、一つでもゼロがあるとすべてがゼロで、その人に指導者の資格はないと語る。

サッカーはチームとしての「集団的知性」(”多くの個人が協力したり切磋琢磨しあうことにより、その集団自体に知能や精神が存在するかのように見える知性”)が大事で、めざすはソーシャル・フットボールだと講演でも語っていた。

しっかりとした考え方のもとで、チームを育成する様々な気配りの一端が紹介されている。

なでしこらしい選手のイメージは、ひたむき、芯が強い、明るい、礼儀正しい、の4つだ。他国のチームの選手が、試合前に上着を投げ捨ててスタッフに拾わせているのに対し、なでしこジャパンの選手は自分できちんと折りたたんで、並べて置いて、他チームの監督にも感心されたことがあったという.

ちょうどアルガルベカップが開幕したところで、なでしこジャパンは世界最強の米国と引き分けた。 ぜひ優勝めざして頑張ってほしい。



なでしこジャパンを率いるのに最適の人。それが佐々木監督だと思う。これからも、なでしこジャパンを応援したくなる本である。


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海賊とよばれた男 ベストセラーとなった出光興産創業者・出光佐三の伝記小説

海賊とよばれた男 上海賊とよばれた男 上
著者:百田 尚樹
講談社(2012-07-12)
販売元:Amazon.co.jp

海賊とよばれた男 下海賊とよばれた男 下
著者:百田 尚樹
講談社(2012-07-12)
販売元:Amazon.co.jp

2011年に100周年を迎えた出光興産の創業者・出光佐三(いでみつ・さぞう)の伝記小説。本の中では、「国岡鐵造」として登場する。

会社の知人が出版社の講談社の人と仕事で打合せしたら、講談社の人から「これは面白いですよ」ということで、この本をもらったという話を聞いたので、読んでみた。

作者の百田尚樹さんの最初の作品の「永遠の0」は、別ブログで紹介している

永遠の0 (講談社文庫)永遠の0 (講談社文庫)
著者:百田 尚樹
講談社(2009-07-15)
販売元:Amazon.co.jp

小説のあらすじは、いつも詳しく紹介しないので、自分でも「予想外の最後の展開に驚く」と書いていながら、最後の展開がどうだったか忘れていたので、再度「永遠の0」を読み返した。



「永遠の0」の宮部も登場

実は、「海賊とよばれた男」の中に、「永遠の0」の主人公の宮部がチラッと出てくる。それは、昭和15年(1940年)の秋に国岡鐵造(出光佐三)が、当時幅広く事業展開していた中国の支店を訪問する場面だ。

上海で石油タンクを保有している国岡商会の上海支店を、国岡が訪問した時に、旧知の海軍大佐と会って、海軍の最新鋭戦闘機として零戦を見せてもらい、その時の若い航空兵が「宮部」という名札を付けていたという場面だ。

講談社の人が勧めるだけあって、上下700ページほどのボリュームだが、一気に読める。


この本の構成

この本の構成は、よくできている。アマゾンの「なか見!検索」に対応しているので、ここをクリックして目次を見てほしい。

第1章 朱夏 (昭和20〜22年)

第2章 青春 (明治18年〜昭和20年)

第3章 白秋 (昭和22年〜昭和28年)

第4章 玄冬 (昭和28年〜昭和49年)


この本は「伝記小説」だ。筆者は、ポリシーとして「小説」のあらすじは詳しく紹介しない。

しかし、出光佐三の経歴自体は一般的に知られているものなので、「伝記」として扱い、割合詳しいあらすじを紹介する。

この本の面白さは、それぞれのストーリーの痛快さにあり、「あらすじ」ではそれを伝えることができない。

以下のあらすじを参考にして、ぜひ本を読んでみてほしい。


第1章は、戦争直後の話。

戦前、朝鮮や満州、中国で幅広く事業展開していた国岡商店は、日本の敗戦で海外の資産をすべて失い、ゼロから再スタートした。

海外からの帰国社員を一名もクビにせずに、ラジオ修理や海軍の巨大な石油タンクの底さらいなど、なんでもやったという話が、国岡鐵造の「馘首(かくしゅ)はならん!」という言葉とともに紹介されている。

海軍のタンクの底に残っている廃油さらいは、専門家の廃油取扱い業者でも嫌がる危険な作業だったが、国岡商店の社員は、幹部社員でもホワイトカラーでも嫌がらずに真っ黒になりながらやりとげた。

そのことが、GHQも注目するところとなった。国岡鐵造は、一旦、公職追放されたが、GHQが見直して、すぐに取り消されることとなった。


第2章は、国岡鐵造の生い立ちから、戦前、戦争中まで。

国岡鐵造は明治18年(1885年)に福岡県宗像市赤間に生まれた。両親は染物業をいとなんでいたが、家は貧乏だった。

鐵造は、父親に反対されながらも、何とか福岡商業(福岡市立福翔高校)、神戸高商(神戸大学)を卒業する。

神戸高商の校長にもらった色紙に書いてもらった言葉が「士魂商才」で、これが鐵造の座右の銘となった。

神戸高商を卒業後、多くの友人が三井物産や鈴木商店などの大会社に就職する中で、鐵造は社員数名で小麦と機械油を取り扱う神戸の個人商店に入社した。独立を考えていた鐵造は小さな会社で、すべての技能を身につけることを選んだのだ。

台湾向けに三井物産の向こうを張って小麦粉の販路をつくるなど、数年で大きな成果を上げ、出身地の福岡の門司で、親族・家族を社員として国岡商店として独立する。明治44年(1911年)、25歳のときだ。

日邦石油の機械油の取り扱いが主な事業で、起業するときに神戸時代に知り合った支援者の日田重太郎から独立資金を出してもらう。

日田重太郎には、その後も国岡商店が潰れそうになった時に追加出資をしてもらい、鐵造の生涯の恩人となった。

ちなみに、鐵造は日田の恩義に感謝して、1970年には日田の出身地の兵庫県姫路市に製油所を建設し、番地名を日田町と命名している。


石油の公示価格

石油は1859年に米国のドレイク大佐が、ペンシルベニア州で油田を発見し、当初は1バレル20ドル近くまで上がったが、その1年半後には供給過剰で10セントまで下がった。石油相場は乱高下してリスクの高いビジネスとなり、石油を掘り当てても、なかなか大金を投じて石油を開発することが難しく、供給は減少していた。

そこで1800年代末に当時のアメリカの石油精製と販売の80%を押さえていたスタンダード石油のロックフェラーが、この値段で買うという「公示価格」を決めた。

公示価格が決まったことで石油の供給は増え、石油業界は拡大した。その後。1911年にアメリカの独占禁止法であるシャーマン法によりスタンダードオイルは34の会社に分割された。


アイデア商人だった鐵造

すでに既存顧客は機械油の仕入れ先が決まっていたので、鐵造は紡績工場のスピンドル(糸車)の軸受油に注目する。独自の調合で最適の軸受油を作り出し、大手紡績工場から大量受注した。

次は焼き玉エンジンをつかっていた漁船の燃料を、当時使われていた灯油から、税金がかからず安価な軽油に転換させて大成功した。

国岡商店は、門司の販売店で、対岸の山口県には売れなかった。そのため、門司側から伝馬船に軽油を積んで、海上で漁船に売るという方法で販売を拡大させた。

これが「海賊とよばれた男」という、この本のタイトルの由来だ。

鐵造はアイデア勝負で、日邦石油の販売店として販売を伸ばしたが、国内では自由な事業展開が難しいかった。そのためセブン・シスターズと呼ばれるメジャーが牛耳っていた朝鮮や満州、中国で事業展開した。

満州でも独自の配合で極寒の満州でも凍らない車軸油をつくって、メジャーに勝利した。

何事にも筋を通す鐵造は、国がつくった石油統制会社などにも反対していたため、石油業界の異端児と見られていた。

米国が日本向け石油の禁輸に踏み切ったことから、日本の石油流通は石油配給統制会社に一本化されてしまった。


初代「日章丸」

鐵造のユニークな点は、単に石油販売のみにあきたらず、自前のタンクを上海などで建設するとともに、自前のタンカーを持ったことだ。

1939年には自社タンカー「日章丸」が完成している。「日章丸」は戦時中徴用され、1944年にアメリカの艦載機の爆撃で沈没した。国岡は全部で3隻のタンカーを持っていたが、すべて戦争で沈没した。

以前、関榮次さんの「Mrs. Ferguson's Tea-set"のあらすじで紹介したとおり、戦時中の日本船舶の損失は大きく、船員の死亡率は43%と、陸軍軍人の20%、海軍軍人の16%をはるかに超えていた。「日章丸」も例外ではなかったのだ。

Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940
著者:Eiji Seki
Global Oriental(2007-02-28)
販売元:Amazon.co.jp


2代め「日章丸」

戦後まもなく、サンフランシスコ講和条約が締結された直後に、2代めの「日章丸」が播磨造船所で完成している。当時としては世界最大級の1万8千トンという大型タンカーだった。

2代めの「日章丸」は、当初、アメリカからの石油製品の輸入に使われ、アメリカ製のガソリンは「アポロ」の商標で人気を博した。

メジャーは日本の石油会社の多くを直接・間接に支配しており、政府からも言うことを聞かない会社として目をつけられていた国岡は、13対1のような戦いを強いられていた。その国岡の武器がタンカーだった。

1951年にイランがイギリスの国策会社アングロ・イラニアン石油の全施設を接収したところ、イギリスはイラン産の石油は自国のものだと主張し、イラン石油を輸送するタンカーを拿捕した。

そんな中で、「日章丸」は1953年4月にイギリスの警戒網を潜り抜けて、無事にイラン産ガソリンと軽油を日本に輸入した。これがイランが石油施設を国有化してから、最初の輸出となった。

その後、イギリスはアメリカと組んで、両国でイランの石油を抑えにかかり、1953年8月にCIAがわずか70万ドルのコストで、政権転覆させ、シャーを復帰させて親米国に転換させ、国岡の優先権は半年で終結した。

この本では、イランとの交渉では、イラン側がタンカーを購入するために、イランにある約3万トンのスクラップで代金を支払うと提案してきたことが紹介されている。

筆者自身は、イランから2,000トンのステンレススクラップを買い付けた経験がある。

1983年ころだと思うが、ちょうどイラン・イラク戦争の真っ最中だったので、国岡が石油を輸入したイラク国境に近いアバダン港は使えず、戦争の影響のないホルムズ海峡に近いバンダル・アッバス港から輸出したものだ。

コンテナーに積み込むフォークリフトがなく、人手で積み込んだので、船積みは3か月ほど遅れたが、品質の良いものだった。


3代め「日章丸」

1957年には中国の黒竜江省の大慶油田の石油生産が開始された。戦前、満州で大慶油田が発見されていれば、日本の運命は違ったものになっただろうと鐵造はやりきれない思いがしたという。

これを機に鐵造は、中東の原油をいかに安く仕入れるかが日本の将来を左右すると考え、世界最大級である13万トンの3代めの「日章丸」を発注する。

3代目の「日章丸」はあまり目立った活躍はなかった。

筆者の会社では、この「日章丸」が廃船となった時に解体船請負契約を結んで函館ドックで解体した。

当時は造船不況の時代で、新造船がなかったので、やむなく雇用調整金を使って石油ショック以来余剰気味だったタンカーを中心に解体したのだ。「日章丸」も1962年に竣工したが、わずか16年でスクラップになった。

タンカーは次第に大型化して、1978年には50万トンクラスのスーパータンカーまで誕生し、13万トンという「日章丸」が矮小化してしまったためだ。


ガルフとの提携

この本では筆者が合計9年間駐在していたピッツバーグにあったオイルメジャーの一社のガルフと国岡が提携したことが紹介されている。

1955年鐵造は70歳にして初めてアメリカを訪問した。サンフランシスコでバンクオブアメリカを訪問して、当時の国岡の資本金の18倍にあたる1千万ドルの巨額融資を取り付け、ニューヨークのあと、ピッツバーグを訪問した。

ピッツバーグには米国のモルガン、ロックフェラーに次ぐ第3位の財閥のメロン財閥系で、オイルメジャーの一社のガルフ・オイルの本社があったのだ。

ガルフは戦前からクウェートの石油開発に力を入れていたが、アジアには進出していなかったため、クウェート産原油の販売先に困っていたのだ。

この本では、鐵造がガルフの本社の広大な敷地と噴水付きの池や豪華な本社に驚いた様子が描かれているが、筆者にはピンとこない。ガルフの本社はピッツバーグの市内にあり、筆者の務めていたUSスチールのビルの斜め向かいが、ガルフ本社だったからだ。

この本で本社といっているのは、今やピッツバーグ大学の応用研究センターとなった、ピッツバーグ郊外にある旧ガルフの研究所のことかもしれない。


人間尊重の経営

鐵造はガルフに招待されたパーティで、「アメリカの民主主義はニセモノで、人間を信頼していない。国岡は『人間尊重』を第一に考え、社員を家族と考えて経営しているので、タイムレコーダーもなければ出勤簿もなく、定年も馘首のない」と演説すると、会場から盛大な拍手が起こったという。

出光興産のホームページでも「人間尊重の百年」という特設ページが設けられており、出光佐三の言葉や出光興産の歴史、出光史料館(門司)などが紹介されている。


石油精製業界に進出

この時に鐵造は石油精製業に進出するため、徳山での国岡最初の製油所の建設を米国のエンジニアリング会社と契約した。この本では通常3年かかる工期を10か月で完成させた話や、大型タンカーを受け入れるために徳山港の沖合2キロに海上バースを建設した話を紹介している。


民族系石油会社の雄として活躍

その後も、1960年には国岡はソ連原油をカスピ海の第2バクー油田から国際市況の半値で輸入した。

これは当時の池田勇人通産大臣から持ちかけられたものだという。当時の日本のほとんどの石油会社はメジャーと提携しており、民族系は国岡だけだったので、持ちかけられたものだ。

1963年には千葉県の姉ヶ崎に東洋最大級の製油所を建設した。

その年の冬は「三八寒波」と呼ばれる豪雪が降り、日本全国で灯油が足りなくなり、火力発電所の重油も不足する事態となった。

通産省は石油業法を通じて、生産調整させていたため、国岡は有り余る原油がありながら、製品をつくることができなかった。

石油連盟と通産省は石油製品の市況を支えるため生産調整を申し入れたが、国岡は行政指導に反発して石油連盟を脱退した。需要に応えるために石油製品を増産し、当時の通産大臣による勧告を出すとの脅しにも屈しなかった。


石油ショックとその後

鐵造の晩年には1973年に第4次中東戦争を機に石油ショックが起こり、原油の値段はそれまで1バレル4ドルを超えることがなかったのが、一気に12ドルにまで上昇し、狂乱物価を引き起こした。

鐵造は1981年(昭和56年)に95歳で亡くなっている。

出光興産は、長らく非公開会社だったが、2006年に東証一部に上場して公開会社となった。

この本では出光佐三が、最初は日田重太郎、次にいくつかの銀行の融資によって助けられ、事業を拡大していく様子がわかったが、たとえばウォルマートの創業者のサム・ウォルトンは、上場することによってウォルマートの成長が加速したことを自伝で書いている。

私のウォルマート商法 すべて小さく考えよ (講談社プラスアルファ文庫)私のウォルマート商法 すべて小さく考えよ (講談社プラスアルファ文庫)
著者:サム・ウォルトン
講談社(2002-11-20)
販売元:Amazon.co.jp


出光が公開会社だったら、民族系として存続できず、とっくの昔に外資系石油メジャーが株を買い占めたかもしれない。

株を公開しなくても、すぐれた経営者だから資金を調達できたのだろう。

それにしても、戦後ほとんどゼロで再出発して、わずか15年くらいで2か所の新鋭製油所を持つ一大石油会社となったことは、日本の高度成長の一例として驚嘆に値する。

出版社の講談社の人が勧める通り、大変面白く痛快なストーリーを満載した本である。ぜひ一読をお勧めする。


参考になれば次クリック願う。



朴槿恵の挑戦 韓国と「結魂」した新大統領に期待する

朴槿恵〈パク・クネ〉の挑戦 - ムクゲの花が咲くとき朴槿恵〈パク・クネ〉の挑戦 - ムクゲの花が咲くとき
著者:李 相哲
中央公論新社(2012-11-08)
販売元:Amazon.co.jp

先日韓国初の女性大統領として就任した朴槿恵(パク・クネ)の生い立ちや政治信条などを紹介した本。


槿(ムクゲ)は韓国の国花

朴槿恵の槿(ムクゲ)は無窮花(ムグンファ)と呼ばれ、国歌(愛国歌)にも歌われている。韓国人にとってはムクゲは特別の花だ。

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出典: Wikipedia



朴槿恵の父・故・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が3日かかって考えた名前だという。

朴槿恵は60歳。若く見えるが、その経歴はすさまじいものがある。

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出典: Wikipedia

22歳の時(1974年)に、朴正煕大統領夫人の母・陸英修が在日朝鮮人の文世光に銃撃されて死亡

その5年後の1979年に、朴正煕大統領も腹心の部下のKCIA部長の金戴圭に暗殺される。この時、朴正煕大統領はまだ61歳だった。


良くも悪くも朴正煕の娘

朴正煕大統領の手法は「開発的独裁」と呼ばれ、軍事クーデターを起こした1961年には一人当たり80ドルだった国民所得を、暗殺された1979年には1,620ドルにまで急成長させた「漢江の奇跡」の立役者として評価されている。

その一方で、クーデターを起こして政権を強奪した手法や、民主化を抑圧し、ベトナム戦争に韓国軍を派兵するなど、独裁者として権力をほしいままにした。米国のカーター政権の圧力をはねのけて、秘密裏に核開発を進めていたこともわかっている。

個人的には清廉潔白な人だったといわれ、韓国にM−16小銃を供給することになったマクドネル・ダグラス社からの賄賂の百万ドルの小切手を受け取らず、代わりに小銃を出してくれと言って突っ返したという逸話がある。

M−16小銃

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出典:Wikipedia

この本の半分以上は故・朴正煕大統領の人物伝となっている。朴槿恵〈パク・クネ〉が紹介されるときは、朴正煕の長女と紹介されることが多いので、やむを得ないところかもしれない。


朴正煕の経歴

朴正煕の経歴を簡単に紹介しておく。朴正熙は1917年に貧しい農村に5男2女の末っ子として生まれ、師範学校を卒業して聞慶国民学校で教師をした後、1940年に満州に渡って、満州国軍軍官学校に入学した。

2年で主席で卒業して、日本の陸軍士官学校に編入。1944年に卒業した後は、満州国軍に配属され、終戦時には満州国軍中尉だった。一時日本名に改名したことがあり、高木正雄と名乗った。蒋介石のように日本陸軍に在籍したことはないが、酔うと日本の軍歌などを歌っていたという。

終戦後、韓国軍の中心的存在としてランクを高めていき、1961年5月16日の軍事クーデターの時は、第2軍副指揮官だった。(写真の右側のサングラス・ジャンバー姿が朴正煕)

朴正煕クーデター





出典:Wikipedia

クーデター後、朴正煕は国家再建最高会議議長に就任し、1963年に韓国大統領に就任した。1964年には中断していた日韓交渉を再開させた。

反対勢力を押し切るために1964年6月に戒厳令を発布、1965年6月に日韓基本条約を締結し、日本から無償3億ドル、有償2億ドル、融資3億ドルの援助を取り付ける。韓国の輸出額が年間1億ドルしかない時代だった。これが「漢口の奇跡」の原資となった。

竹島をめぐる日本と韓国の間の領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したと言われているが、真偽のほどは確認できていないようだ。

1972年に10月に国会を解散、政党・政治活動を禁止して、大学を閉鎖して全土に非常戒厳令を発布する政治改革を断行する国家非常事態宣言を発表した。10月維新と呼ばれる事態である。

1973年8月に、日本を訪問していた金大中がホテルから拉致されるという金大中事件が起こる。

10月維新時代に辛酸をなめた活動家や一般市民に、朴槿恵は謝罪している。2004年に金大中を訪ね謝罪した時は、金大中は「本当にうれしかった。世の中にこんなこともあるんだなと思った。朴正煕が生き返って私に握手をもとめているような気がした」と自伝で書いている。

金大中自伝(II)歴史を信じて――平和統一への道金大中自伝(II)歴史を信じて――平和統一への道
著者:金 大中
岩波書店(2011-02-26)
販売元:Amazon.co.jp

1972年の10月維新の後、1974年に母親の陸英修が在日韓国人の文世光に銃撃されて死亡、1979年には父親の朴正煕が暗殺されたことは前述のとおりだ。


朴槿恵の政治活動

父親が暗殺された後、朴槿恵は政治からは遠ざかっていた。しかし、1997年に韓国経済が破綻し、IMFの管理下に置かれると、朴槿恵は国の危機を救うために政治家となることを決断し、1998年に国会議員となった。

ハンナラ党の主要メンバーとして積極的に活動し、一時ハンナラ党を離れたことはあるが、ほどなく復党した。2004年にはハンナラ党総裁となって、選挙を勝ち抜き、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。

2006年の遊説中に男にカッターナイフで切りつけられ、右耳から顎に60針縫う傷を負わされた。傷口があと1センチ深かったら、頸動脈に達し、命を落としかねなかったという。

この時の心境を朴槿恵は次のように書いている。「手術台に横になった時、両親を思い出した。手術が行われている間、私の頭には、ずっと、銃創で苦痛に耐えている父と母の顔が浮かんでいた。…」


大統領候補に

2007年に大統領候補を李明博と争ったが1.5ポイント差で敗れ、李明博が大統領として就任する。李明博の「すべては夜明け前から始まる」などの著書を、別ブログでも紹介しているので、参照してほしい。

すべては夜明け前から始まる―大韓民国CEO実用主義の大統領李明博の心の軌跡すべては夜明け前から始まる―大韓民国CEO実用主義の大統領李明博の心の軌跡
著者:李 和馥
理論社 (発売) 現文メディア (発行)(2008-02-15)
販売元:Amazon.co.jp

その後、李明博大統領と朴槿恵は、2009年に世宗市問題で対立することになる。世宗市はソウルの集中化を緩和するために、ソウルに代わる首都として韓国中部に新たに建設する都市で、首都移転計画を見直す李明博に、当初計画通りに建設すべしとして朴槿恵が迫ったのだ。


尊敬する政治家は父とサッチャー

「尊敬する政治家」を聞かれて、朴槿恵は、「父とサッチャー」と答えた。サッチャー自身も「人間として必要なことはすべて父から学んだ」と父アルフレッドを尊敬していたという。

朴槿恵は、両親が亡くなった後、大事なことを決めるときに、「父だったら、母だったらどうしただろう」と考える習慣ができたという。


朴槿恵への質問状インタビュー

この本の最後に、朴槿恵への質問状に対する彼女の回答が紹介されている。時間の関係で、インタビューができなかったために、質問状形式での受け答えとなったものだ。

現在の韓国の問題点と解決の方向性が示されているので、興味深い。参考になるものを紹介しておく。

★私は結婚はしておりませんが、「結魂」はしました。何度も公の場で言ったことがありますが、私はずっと前に、大韓民国と結婚(結魂)したのです。ですから、私は大韓民国にすべてをささげてきましたし、これからもそうするつもりです。私は一人でも、独身でもありません。亡くなった父も、きっとこの結婚は喜んでくれているでしょう。

★今、我が国の抱えているさまざまな問題のうち、至急解決しなければならない切実な課題の一つは、さまざまな勢力、社会各層、地域の間に生じている「対立」、「不信」、「不公正」を解決することです。それらの問題を解決して「大統合」を実現するのが何より大事です。

★そのために「国民幸福推進委員会」を作り、誰も疎外されたり、立ち遅れたりすることのないように、どの地域に住んでいようが、どの分野の仕事に従事していようが、みんなが自分の未来を夢見ることのできるような社会を目指します。

★今まで、我が国では、国家の経済成長が必ずしも一人ひとりの幸せに繋がっていませんでした。(中略)私は「国民みなが自分の能力を発揮できる国」にしようと思います。

★それを実現するために、我が国の強みでもある情報通信技術、科学技術を産業全般に応用して創業者を増やし、若い人たちに働きの場を提供するための政策を推進します。今後、製造業中心の伝統的な産業を高付加価値産業へと変貌させ、文化産業、ソフトウェア産業のような未来型産業を積極的に育成し、働き口を増やします。

★中小企業と大企業が共に成長し、正規雇用と非正規雇用との間に差別のない制度を整備する努力が必要です。そのために「経済民主化」を主張しています。(中略)「韓国型福祉制度」を作りたいのです。

★私は、不正腐敗の問題を非常に深刻に受け止めています。政治が存在するもっとも大きな理由、政治の使命は、国民の生活をよりよくすることにあります。つまり「民生」を第一に考えなければならないのです。ところが、我が国の政治は、国民の生活とは関係のない不正腐敗をはたらいて、逆に国民から批判される場合が多い。

★これについては本当に痛恨の思いを持っています。恥ずかしいことです。私はこれから、この国の誰であろうが、不正腐敗に関与した場合は、絶対容認しないでしょう。真の改革は私から、私の周辺から始めなければならないと思います。権力に関連のある不正腐敗問題については、「特別監察官制度」を作り、事前予防に努めます。

★北韓は、核兵器が典型的ですが、武力で相手を脅迫し、屈服させようとする計略が通用しないことを認識し、そうした考えを捨てなければなりません。そこで初めて、相互尊重、相互信頼の雰囲気が作られるでしょう。そのような雰囲気を作り出すため、私は韓半島信頼プロセスを推進しようと思っています。

★私と我が国民は2400万人の北韓同胞を決して忘れることはありませんし、実際、忘れてもいません。我々は同胞愛と人道的な立場に立っていつでも助ける準備ができています。

特に最後の質問の回答が大変参考になった。

この人は「自責」(他人の責任をあげつらう「他責」に対して、自分の責任をまず考える態度の人)の人だと思う。

やっかいな金正恩という隣人の取り扱いは大変だと思うが、日韓関係改善を含め、朴槿恵大統領の今後の活躍を大いに期待したい。


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個を動かす ローソン新浪社長のローソン改革10年

個を動かす  新浪剛史、ローソン作り直しの10年個を動かす 新浪剛史、ローソン作り直しの10年
著者:池田信太朗
日経BP社(2012-12-13)
販売元:Amazon.co.jp

ローソン新浪社長のローソン改革10年を描いた本。筆者のアルゼンチン駐在時代の友人の元三菱商事の人に紹介されて読んでみた。その友人は食品部門で新浪さんの先輩だった。

この本の著者の池田信太朗さんは、日経ビジネスデジタルの編集長で、現在は日経の香港支局の特派員だ。

新浪さんはマスコミに登場する機会も多い。安倍内閣が、経済再生のブレーンとして設置した産業競争力会議のメンバーにも選ばれている


日本型コンビニの生みの親はセブンの鈴木さん

コンビニ業界については、セブン・イレブンCEOの鈴木敏文さんの「商売の原点」、「商売の創造>」、「本当のようなウソを見抜く」のあらすじを、別ブログで紹介している。

鈴木敏文 商売の原点 (講談社+α文庫)鈴木敏文 商売の原点 (講談社+α文庫)
著者:緒方 知行
講談社(2006-04-21)
販売元:Amazon.co.jp

鈴木敏文 商売の創造 (講談社+α文庫)鈴木敏文 商売の創造 (講談社+α文庫)
講談社(2006-05-19)
販売元:Amazon.co.jp

鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」―セブン‐イレブン式脱常識の仕事術 (日経ビジネス人文庫)鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」―セブン‐イレブン式脱常識の仕事術 (日経ビジネス人文庫)
著者:勝見 明
日本経済新聞出版社(2008-07)
販売元:Amazon.co.jp



セブンとローソン

コンビニエンス業界ナンバーワンは依然としてセブンイレブンだ。セブンの売上高は3兆円弱、これに対してローソンは1.8兆円。セブンの一店舗の平均日販は62万円。これに対してローソンの平均日販はで、セブンを10万円ほど下回る。他のチェーン店も同様に、セブンとは10万円以上の差がある。

この本を読むまでは、セブンが効率的で、かつ顧客もセブンを好んでいると思っていた。しかし、よく考えると、セブンは47都道府県のうち、いまだに出店ゼロの県があり、都市圏に集中している。

一方、ローソンは47都道府県すべてに出店しており、田舎の店も多い。人口の多い都市に集中的に出店していれば、おのずと平均日販も上がる。だから、セブンの方が日販額が多いから、それをもって消費者がセブンの方を好んでいるということにはならない。

筆者は以前はセブンの方が格上と感じていたが、最近はローソンに行くようになった。

オサイフケータイのiD決済をいち早く取り入れたこと。品ぞろえ、欠品率(筆者の自宅の近くのセブンは土日の1時過ぎに行くと、サンドイッチやおにぎりに欠品が目立つ)、駐車場の利用しやすさなどからローソンの方が便利と感じている。

新浪さんが2002年にローソン社長に就任した当時は、セブンをベンチマークして研究していたが、やがてセブン追随はやめた。ローソンはセブンにはなれない。それが現実だと気がついだのだと。


新浪さんの経歴

新浪さんは横浜出身。マリノスや横浜FCのホームグラウンドの三ツ沢球技場のあるあたりで、高校は翠嵐高校。高校時代はバスケットボール部のキャプテンとして部活を熱心にやった。チームは関東大会3位まで行き、新浪さんは優秀選手として国体選手に選ばれたが、膝を壊して選手生命を断たれてしまう。

東大法学部受験に失敗して慶応大学の経済学部に入る。体育会の器械体操部のマネージャーとして裏方をやり、在学中にスタンフォード大学に交換留学生として留学する。三菱商事には1981年に入社した。

三菱商事では砂糖部に配属された。企業派遣留学生を目指すが、留学申請を出しても上司のOKが取れなかったり、2年続けて重役面接に落ちたりして、なかなか留学できなかった。

新浪さんは会社のOKが出る前に、自分で試験勉強して、勝手に入学試験を受け、会社のOKが出た直後にハーバードの合格通知が来たという。

言いだしたら聞かない新浪さんの性格がわかるエピソードだ。この本では新浪さんの子供のころの話も紹介されている。

ハーバードビジネススクールでは、楽天の三木谷さんや、マイクロソフトの樋口さんなどと同じころに学んだ。東大よりいい大学を卒業することで、東大に対するコンプレックスがなくなったようだと新浪さんの友人は語っている。


ハーバードMBAで経営に目覚める

MBAを取ることで、新浪さんは経営という仕事を明確に理解した。

MBAで学んだことを活かし、新浪さんは帰国後、給食会社を買収し、売上高100億円の規模にまで育てる。

その頃ダイエーの創業者中内功さんが主催する若手勉強会に出ていたところ、ローソン株の購入を持ちかけられる。

ダイエーと縁が深い丸紅との競合の上、上司の小島・現三菱商事会長の支援を得て、ローソン株を購入する。

ローソン株は2000年1月に三菱商事が購入後(単価7,400円/株)、ITバブルがはじけて株価が暴落し、三菱商事は巨額の含み損を抱えるようになる。

三菱商事でも一度に償却すると決算ができないほどの巨額の含み損だったので、評価損は出さない決算処理を続けていたことも思い出す。


まずはおにぎりで成功

2002年に新浪さんはローソン社長に就任して、まず「一番うまいおにぎりを作ろう」とローソン社内に呼びかけた。

玄人の商品部(仕入れ担当)を外して、素人ばかりの研究グループをつくり、価格は高いがうまいおにぎりを作り出した。これを「おにぎり屋」のブランドで売り出したところ、大ヒットした。

新潟のコシヒカリは冷めてもおいしいので、ブランド米のコシヒカリを使った。

サケは従来はフレークを使っていたのを、切り身とした。フレークを使っていた理由は、骨が入らないようにということだったので、人件費の安いタイで加工することで費用削減して1個160円前後で売り出した。

それまではおにぎり1個100円前後だったので、おにぎりとしては高額だったが、大ヒットした。

おにぎりの成功で、それまでは「いずれ三菱商事に帰る人」と見られていた新浪さんの求心力が高まり、ローソン改革が順調に進むことになった。

ちなみに3.11のあと、東北地方の店舗では「手作りおにぎり」を自分の店舗でつくって販売している。


セブンは中央集権。ローソンは支店・支社経営

セブンイレブンでは毎週開かれる(現在は隔週となっている)全国のOFC(Operation Field Counselor)を集めた会議が有名だ。上記の「商売の原点」と「商売の創造」は1,300回を超えるOFC会議の記録をまとめたものだ。

OFC会議の中心はCEOの鈴木さんだ。

全国のOFCからの情報を整理して本部方針を出し、OFCが全国に散らばって、会議で打ち出した方針を各店舗に伝え、新規商品の販売を進めるという中央集権的な運営だ。

これに対し、ローソンは7支社、76支店に権限を委譲しての経営だ。

さらにサブ・フランチャイザーを認めて、MO(マネジメント・オーナー)と呼ばれる複数店オーナーにサブライセンシングを認めている。

新浪さんは、「一緒に、オーナーの地位を高めようよ」と、オーナー福祉会理事長に言っていたという。

まさにセブンとは正反対の考え方だ。


フランチャイズロイヤルティー料率変更

コンビニチェーンのロイヤルティー料率は次の通りだった。

        店舗オーナーが土地・建物調達  チェーン本部が土地・建物調達
セブンイレブン   43%固定          56〜76%スライド制

ローソン      34%固定          50%、45%固定

ローソンの方が日販が低いので、上記のようなセブンより低い利率で出店者を集めなければならなかった。

チェーン本部が土地・不動産を調達する場合の料率を、セブンと同じスライド制に変更できたのは、2012年3月になってからだった。


ミステリーショッパー(MS)導入

ダイエーがローソンを経営していた時代に、ダイエーの余剰人員にローソン店長をやらせる自社店舗を700店も出していた。しかしこれらはほとんど赤字店だったので、新浪さんが社長に就任してすぐに整理した。

その代り、余った人材をMS(ミステリー・ショッパー)として、店のサービス品質向上の仕組みをつくった。

MSが客のふりをして店で購入して、様々な観点から店のサービスを評価する。MSの年間運営費は30億円にも上るというが、これでローソンのサービスは格段に向上した。


個客をとらえる

この本のタイトルが「個を動かす」となっているように、ローソンの戦略は「個」の創造力を磨き、「個客」の消費を捕捉し、「個店」の集合体を作り上げることだという。

その主要なツールが共通ポイントプログラムのPontaだ。

2010年3月にスタートしたPontaの会員売上比率は現状では50%弱にとどまるが、従来POSで男女年齢をレジ係が判断して登録していた時代は終わった。

Pontaを使えば、個人を特定でき、その人の購買履歴がわかるようになってきた。この本では、「ひるぜん焼そば」という新製品の購入者データを分析した例が紹介されている。

ローソンにおける「ビッグデータ」時代の幕開けだ。Pontaに会員登録するときは、住所や結婚・未婚データも登録する必要がある。一方、セブンのNanacoは住所も結婚未婚も不要だ。Ponta会員売上比率が上がれば、こういった属性データが生かせる場面が来るだろう。

LINEの企業アカウントを使って、Lチキのクーポンを配信したところ、クーポンの引換率は7%にも上ったという。ほかの媒体の場合、3%なので、圧倒的な動員力だ。

ローソンのLINEアカウントを登録しているユーザー数は412万人、ツイッターのフォロワーが21万人。

セブン、ファミマと比べてローソンのSNS展開の方が明らかに一日の長がある。

こういったデジタルマーケティングと組み合わせると、Pontaの販促機能がうまく活かせるだろう。

ちなみに、別ブログでは、世界最高といわれる英国TESCOの、ポイントカードを使った顧客管理を紹介している

Tesco顧客ロイヤルティ戦略Tesco顧客ロイヤルティ戦略
著者:C. ハンビィ
海文堂出版(2007-09)
販売元:Amazon.co.jp

コンビニで買うものは少ないので、マーケットシェア30%超の英国ナンバーワンスーパー・Tescoのように、高度な顧客分析はできないだろう。しかし、ローソンの場合、ケータイ対応することで、コンビニならではの効率的な販促が可能になると思う。

たぶん鍵は来店ポイントだろう。Pontaには来店ポイントはないと思うが、ローソンカードにはもともと来店ポイントがあった。ヤマダ電機のように、来店ポイントを払う代わりに販促メールを受け取ってもらうようにすれば、かなり有効な販促ができると思う。


改革を続けるローソン

ローソンではBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)を行い、本社業務の多くを、アクセンチュアが運営する大連のコールセンターに移植した。

大連の従業員は東京のコールセンターで、3週間ローソンの担当者からジョブトランスファーを受ける。

東京のコールセンター長は、自宅に中国人社員を招いてバーベキューパーティをやってケアしている。中国人に「あの人のメンツをつぶさないように、頑張ろう」と思わせたいのだという。

BPRは単にコールセンターだけではない。いままで三菱商事のグループ会社が独占していたパッケージ材や、物流についても、入札方式にして競争原理を働かすという。


ポスト新浪

ローソンの主要事業は次の3事業だ。

1.国内コンビニ事業
2.海外コンビニ事業
3.Eコマース、エンターテインメント等の事業(ローソンはHMVジャパンを買収している)

元ファーストリテーリング社長の玉塚元一さんがCVSグループCEO、元USENの加茂正治さんがエンタテインメント・ECグループCE、ほかにローソンの各地の支社長が次代のリーダー格だ。新浪さんが海外事業グループCEOを兼任している。

新浪さんは、自分の後任として3人を競争させている。

「僕はずっと、社長の顔色を見るんじゃなくて、『ミッション(使命)』で人が動く会社にならないと駄目だと思っていました。支社制、支店制を入れたのもそのためです。(中略)ミッション・オリエンテッドに会社を変えていくということです」と語っている。


ローソンの今後の発展

EC(eコマース)については、コンビニのマーチャンダイジングが、ネットというインフラに乗れば面白いと語る。

楽天などのモール事業者は販売者責任を負っていないので、マーチャンダイジングはできない(アマゾンは自分で仕入れているものもあるので、分野によってはできている)。

コンビニはその人にとって「新たな生活」ライフパターンをつくっているのもので、それを便利に届けることができる。ローソンに来てくれる顧客に、ECによりもっと豊富な賞品を紹介できれば、アマゾンに勝てるという。


新浪さんの働きぶり

この本の最後で、部下を徹底的に鍛える新浪さんの三菱商事時代の働きぶりが紹介されている。また、オーナーではない若手経営者仲間として、スクウェア・エニックス社長の和田洋一さん(野村証券出身)が、新浪さんのことを評している。

新浪さんは、「信じる」ことで物事を動かしていくタイプの経営者なのだと。

新浪さんは、落下傘でローソンに下りたち、最初はアセットの「本質」が何かということをじっくり見極めて、戦略をつくった。

社内をじっと見て「こいつらの価値って何だろうか」ということから戦略が成り立っている。それが新浪さんの経営の神髄だと、和田洋一さんは評している。


いままで知らなかった、セブンとは違うローソンの経営戦略がわかる。参考になる本である。


参考になれば次クリック願う。



国会議員の仕事 自民党・民主党の若手ホープの政治家のつくりかた

2012年12月18日追記:

総選挙の結果、民主党の津村啓介さんが小選挙区では落選したが、比例で当選した。小沢一郎について行って民主党→未来の党で立候補し、落選した友人もいるので、まずはおめでとうといいたい。

民主党でやれることは少ないと思うが、是々非々で民主党も自民党と協力して国政を動かしていってほしいものだ。


2012年12月14日初掲:
国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)
著者:林 芳正
中央公論新社(2011-03)
販売元:Amazon.co.jp

国会議員の仕事を、自民党の世襲政治家で参議院議員の林芳正さんと、民主党でサラリーマン家庭に育った元日銀マンの津村啓介さんが、それぞれの履歴や政治活動について語っている。

衆議院選挙は2012年12月16日投票だ。林さんは参議院議員なので、選挙には臨まないが、津村さんの民主党には逆風が吹いているので、厳しい選挙になると思う。是非切り抜けて4期目当選と果たしてほしいものだ。

「職業としての政治」というタイトルでは、もちろん筆者も学生時代に読んだマックス・ウェーバーの著書が有名だ。

職業としての政治 (岩波文庫)職業としての政治 (岩波文庫)
著者:マックス ヴェーバー
岩波書店(1980-03-17)
販売元:Amazon.co.jp

この本では、ウェーバーのようなアカデミックな立場でなく、政治家として活動しているお二人の実際の行動が具体例として紹介されていて興味深い。

この本では林さんと津村さんが、機ス餡餤聴になるまで、供ス餡餤聴の仕事と生活、掘ゾ泉政権から政権交代へ、検ダ権交代後の1年について、それぞれが書き、最後の后ァ嵜Χ箸箸靴討寮治」を語ろうで、林さん、津村さんが対談するという構成になっている。

親類に政治家がいる人は林さんのパターン(林さんはちなみに4代目)。まったく徒手空拳の人は、津村さんパターンが参考になると思う。

次に目次とキーワードを箇条書きで紹介しておく。大体の内容がわかると思う。

林芳正:

機ス餡餤聴になるまで
1.「政治家の家系」ではあるけれど
  政治には「無意識」だった 
  父親の「注文」(文兇任覆文気法
  商社マンになる 世界を見たことが転機に

2.決意と戸惑い
  「どうするか考えなさい」(三井物産を退社して父親のカバン持ちに)
  (ハーバード大学ケネディスクール卒業) 
  大蔵大臣政務秘書官 
  「チャンスをもらえる人間はそうはいない」(1995年の参議院選挙で初当選) 

供ス餡餤聴の仕事と生活
1.行政の仕組みを知る
  橋本対小泉
  (父と仲人の宮澤喜一さんが属する宏池会に入る)
  規制緩和で役所と対峙(「ここで先生とお話ししても、何も決まりませんから」と労働省の役人に言われる)
  財政金融委員会

2.大蔵政務次官・参議院副幹事長
  「ゼロ金利」をめぐる攻防(デフレの始まり) 
  宮沢喜一流の指導(次官を鍛える) 
  参議院の独自性を高める

3.小泉政権
  「加藤の乱」の現場 突如変わった「風」
  (小泉内閣支持率80%に急上昇) 
  外交防衛委員会委員長(FTA推進) 
  郵政解散 小泉政治の功罪
  (罪の方が大きい。)
  (『政策がわかっている人』ではない。消費税・集団的自衛権を先送りし、郵政民営化を優先した。)
  靖国参拝で中国・韓国との関係悪化)

掘ゾ泉政権から政権交代へ
1.安倍内閣
  「強力政権」のツケ 
  三期目の選挙

2.防衛大臣(2008年8月改造福田内閣)
  予算委員会の仕事 
  初入閣でまずやったこと(所管事項のレクを受ける)
  ”チーム”の大事さ(自衛官を入れて26万人の大所帯)
 「防衛大綱」見直しに着手(大臣の承認を得ない『専決』の見直し。普天間決着を逃す)

3.2度目の入閣と自民党の下野
  唐突な「大連立」だったが 
  首相の条件(角栄の原則:内政と外交の重要閣僚、党三役の少なくとも2つを経験した人間でなければ、総理の資格はない) 
  勝負の時を誤った(麻生内閣の1年弱) 
  経済財政政策特命大臣(2009年7月から1か月)

そして2009年8月に政権交代が起こる。次は過去の衆参両院の政党別人数の推移だ。

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出典:本書265ページ


検ダ権交代後の1年
1.政権交代は必然だった
  自民党下野の根本原因
  (「旧態依然」の自民党に国民が”NO”。 小選挙区制は日本になじまない

2.民主党政権の諸問題
  マニフェストはなぜ「破綻」したか
  (間違いだらけで、作り方がいい加減。パブリックコメントも経ていない) 
  乗数効果問答(「乗数効果」を知らない菅財務大臣)
  「政治主導」の弊害 軸なき民主党外交が残したもの(普天間迷走)
  「政策不況」はいつまで続く?
  (日米FTAを無視してなぜTPPか?)
  ”青い鳥”は果たしているか?

3.自民党は何をなすべきか
  野党になってできたこと 
  今の私の目標(2010年1月に自民党の綱領を作り直し)


津村啓介

機ス餡餤聴になるまで
1.サラリーマン家庭
  われら団塊ジュニア世代(出身は岡山県津山市)
  (麻布から東大法学部) 
  日本銀行(1994年ー2002年) 
  (日銀で直属上司の証券課長が『ノーパンしゃぶしゃ事件』で逮捕される)

2.政治家をめざす
  オックスフォード大学MBA留学で保守党クラブに入る 
  江田五月さんとの出会い 
  民主党の候補者公募制度(イギリスの制度をモデルに) 
  親の反対
  (お兄ちゃんの人生なんだから、お兄ちゃんの好きなようにさせてあげなさいよ)

3.若い力を国会へ
  「落下傘候補」 
  初めての街頭演説(1に毎日、2に堂々、3に短いフレーズ)
  党からのサポート 
  ポスター貼りのこだわり(馬淵澄夫議員に指導を受ける) 
  労働組合とのつきあい 
  (2003年選挙で小選挙区落選、比例区で当選)
 
供ス餡餤聴の仕事と生活
1.国会という場
  新人議員の失望
  (質問者も大臣も原稿棒読み 本会議は単なるセレモニー。法律は官僚によって作られ、国会の審理はアリバイつくり) 
  一期生の仕事は「次の選挙に勝つこと」
  (一気に9人の秘書を雇い、130万円/月の歳費はすべて人件費に充て、ボーナス550万円を生活費に。週に岡山・東京を2往復 小さな祭りや神事を優先してイベントにすべて顔を出す) 
  戦後初の「戒告」処分

次が津村さんの平均的な岡山での日程だという。たしかにいろいろなイベントに顔をだしまくっている。

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出典:本書124ページ

2.国会質問
  国会質問の作り方(福井日銀総裁に質問)
  国益とは何かー外務、安全保障委員会 
  超党派の課題ー天皇制の危機

3.政治とカネ
  国会議員個人の収支(歳費+文書通信交通滞在費 100万円/月) 
  政治資金ー収入(政党交付金 1,000万円/年、パーティ代+寄付) 
  政治資金―支出(公設秘書3人は国が負担、ほかに6名を私設秘書として雇う。事務所を4ヶ所 250万円/月) 
  議員宿舎(赤坂の3LDK 家賃10万円/月)と議員パス

4.東京と地元
  「金帰火来」 
  個人事業主としての側面(優秀な秘書に支えられている)
  民主党岡山県連代表としての運営(候補者選びの人事権を握る)

掘ゾ泉政権から政権交代へ
1.民主党の試練
  初の本格代表選挙から年金未納まで 
  岡田代表の挫折 「郵政選挙」の大敗北 
  若き前原代表の登場と挑戦 ニセメール事件の意味するもの

2.小沢代表のリーダーシップ
  小沢代表と大連立構想 
  衆参ねじれ国会 
  日銀総裁空席問題

3.政権交代ー2009年8月30日
  解散先送りと底をつく資金 
  小沢代表の辞任ー西松事件 
  全国初の「予備選挙」 
  臓器移植法をめぐるドラマ 
  熱気あふれる衆議院本会議場

検ダ権交代後の一年
1.政治主導の最前線
  最初の罠(任命直後から政治家をコントロールしようとする)
  秘書官人事がターニングポイント(日銀と内閣府から1名ずつ指名)
  官僚の記者会見を禁止 
  政務三役(大臣、副大臣、政務官)会議「準備会合」が主戦場
  (官僚との良い関係作り)

2.国家戦略室の理想と現実
  政治主導のシンボル 
  菅大臣の顔が見えない 
  突然の大臣交代 
  機能変更 
  政府・与党の一元化をめぐって

3.民主党の経済財政戦記
  史上最悪の失業率とデフレ宣言
  GDP統計の整備 
  景気「踊り場」論争の内側
  「日本銀行の独立性」を高めるために

4.科学・技術政策と日本の未来
  事業仕分けの衝撃 
  科学・技術の可能性 
  国会議員の仕事ー官僚との役割分担

后ァ嵜Χ箸箸靴討寮治」を語ろう
  本物の「政治主導」とは何か 
  日本は選挙が多すぎる 
  民主党は路線を明確化できるか 
  これからの日本経済をどうする 
  政治家の資質とは 
  総理大臣をめざす(林さんは3年後に総理をめざす。津村さんは17年後に総理をめざす)

そのほかに2点ほど参考になったポイントを紹介しておく。


小選挙区制と政党交付金制度が公募政治家を生んだ

津村さんは1994年の政治改革がなかったら政治家にはなれなかっただろうと語る。小選挙区制度と政党交付金制度が、公募世代の政治家を生んだのだ。

8年目で日銀を辞めたときの1,000万円が軍資金だった。民主党の公認候補への活動費が最初は50万円、そのあと100万円になり、そのうち30万円は個人の生活費として使えた。最終的に初めての選挙が終わった段階では、700万円貯金は残っていたという。自己資金300万円しか使わなかった計算になる。

選挙本番では1,500万円の公認料が支給された。これも政党交付金制度のおかげである。さらに民主党公認となれば、お金のかからない選挙ノウハウを熟知している労働組合が支援してくれ、党幹部の有名政治家が応援に来てくれる。


官僚との戦い

林さんは一年生議員の時に、派遣法の説明にきた労働省の役人に、「どうしてこんな規制をするのだ」と聞いたところ、役人は答える代りに、「ここで先生とお話ししても、何も決まりませんから」と言い放ったという。

猛勉強して商工委員会で追及したそうだが、規制緩和に関しては、役所と正面から向き合うので、役所が何をやっているのか熟知しないといけないという。

特に注意すべきなのは「…等」」という言葉だ。「…等」とあったら、必ず「この『等』は具体的には何?」と聞かなければならない。往々にして羅列されている事柄の何倍ものものが、「等」に隠されているのだと。

管直人元総理の「大臣」という本には、そのような「罠」がいくつも紹介されているという。

大臣 増補版 (岩波新書)大臣 増補版 (岩波新書)
著者:菅 直人
岩波書店(2009-12-18)
販売元:Amazon.co.jp


政治家の自伝はいくつか読んだが、これほど率直に自らの国会議員としての生活を描いた本は少ないと思う。所属政党は違うが、官僚統治と闘っていることでは同じ経験をしている。

副題の「職業としての政治」というタイトルは、この本の内容を正確にあらわしている。政治家に興味がある人には参考になると思う。彼ら二人を応援したくなる本である。


参考になれば次クリック願う。


山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた ノーベル賞受賞直後の自伝

山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた
著者:山中 伸弥
講談社(2012-10-11)
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山中教授のノーベル賞受賞決定直後に出版された本。本の帯には「唯一の自伝」となっている。出版社は実にタイミングの良い出版を考えるものだ。この本は現在売り上げランキングの50位前後にある。

出版とほぼ同じタイミングで図書館で予約して、さっそく読んでみた。

前回山中教授とノーベル物理学賞受賞者の益川教授の対談の「大発見の思考法」のあらすじを紹介した。「大発見の思考法」は、あらすじのタイトルに記したように”ノーベル賞受賞者の知性のジャムセッション”そのもので、大変面白かったが、この本も自伝ならではの発見がある。

「大発見の思考法」のあらすじでは、他に2冊の本も読んで、iPS細胞がどういうものなのかもふくめて詳しくあらすじを紹介しているので、参照して欲しい。

「大発見」の思考法 (文春新書)「大発見」の思考法 (文春新書)
著者:山中 伸弥
文藝春秋(2011-01-19)
販売元:Amazon.co.jp
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この本は「大発見の思考法」では触れていないiPS細胞研究上の様々な試み、決して順調ではなかった山中教授のいままでの研究生活、それと山中教授と一緒に研究してきた仲間などについて山中教授自身が書いている。

たぶん山中教授の話をライターがまとめたのだと思うが、英語の会話すら、こんな感じで大阪弁訳になっている。

「シンヤ、シンヤ」

「どないしたん?」

「あんたのマウスがいっぱい妊娠してんねん」

「そりゃ、妊娠くらいするやろ」

「いや、妊娠してんのはオスのマウスやねん」

これはマウスにコレステロールを下げる遺伝子の働きを強める操作をしたところ、その遺伝子ががん遺伝子で、マウスが肝臓がんになって肝臓が膨れ上がってしまったのだ。

第2部はフリーライターとのインタビューで、第1部が140ページ、第2部が50ページという構成だ。

いくつか印象に残った話を紹介しておく。

山中教授の生い立ちや、「人生塞翁が馬」というモットーを持つに至った、決して順調でない研究生活については「大発見の思考法」のあらすじを参照してほしい。


ノックアウトマウスに魅了(ノックアウト)される

山中さんはのノックアウトマウスの精度の高さに魅了されたという。

ノックアウトマウスは、25億の塩基対(2本のDNA結合)のうち、わずか1個の遺伝子だけつぶす技術だ。

文字数にたとえると、この本の1ページ当たりの文字数が600個なので、25億個だと416万ページ、つまり200ページの本が2万冊以上となる。それだけの本の中から、たった一か所を探し出して黒く塗りつぶしたのがノックアウトマウスなのだ。

iPS細胞発見も、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんと、後述の徳澤さんの貢献が大きい。


VWとプレゼン力

山中教授がしばしば口にするVWとは、フォルクス・ワーゲンではなく、山中教授の恩師のUCSFグラッドストーン研究所のロバート・メーリー所長の言葉だ。Vision & Work Hardだという。メーリー所長は「VWさえ実行すれば、君たちは必ず成功する。」と言っていたという。

VWと並んで、山中教授が強調するのは、プレゼン技術だ。アメリカ留学で身に着けたプレゼン力が、その後何度も山中教授を救った。

奈良先端大学で、上に教授のいない研究室主宰者としてはじめて独立したラボを持てることになったときも、VWにならって、ES細胞ができれば、どれだけ素晴らしいことができるかというビジョンをプレゼンに織り込んで、3人の大学院生を獲得したという。

それが現在も山中教授のもとで働く高橋和利講師、4つの遺伝子のうち一つのKlf4を見つけた徳澤佳美さんら3人だった。

高橋さんは、24個にまで絞った遺伝子から初期化に必要な遺伝子4個を特定するのに、大変功績があった。山中さんは、高橋さんのとりあえず24個いっぺんに入れて、一つ一つ減らしていくという発想に、「ほんまはこいつ賢いんちゃうか?」と思ったという。高橋さんはこの考え方をもとに、1年かけてきちんと実験し、4個の遺伝子を見つけた。


京都の作り方

この本ではiPS細胞の働きを説明するのに、「京都の作り方」という本があったと仮定して説明している。作業員に指示するときに、「京都の作り方」の一部だけコピーして渡すのか、全部コピーして、必要な場所にしおりを入れて渡すのかという問題だ。

どちらが正しいか論争があったが、山中教授が生まれた1962年にイギリスのジョン・ガードン教授がカエルの腸の細胞から、オタマジャクシを作ることに成功して、論争に決着をつけた。成体のカエルまでは成長できなかったが、ちゃんとオタマジャクシは作ることができたのだ。

これが山中教授が、「ガードン教授の研究がなければ、iPS細胞研究はなかった。ガードン教授と一緒にノーベル賞を受賞できることがなによりもうれしい」と語っている理由だ。


山中教授がPADを克服するのに役立った本

山中教授が、アメリカ留学から帰って来て、あまりの研究環境の違いに、うつのようになり、ベッドから起き上がれなくなったという話は、「大発見の発想法」で説明していたが、その状態を山中教授はPAD(Post America Depression)と呼んでいる。

そのPADを克服するのに役立った本として次の本を紹介している。

仕事は楽しいかね?仕事は楽しいかね?
著者:デイル ドーテン
きこ書房(2001-12)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

今度読んでみる。


CiRA(京都大学iPS細胞研究所)はオープンラボ

山中教授が所長を務めるCiRA(サイラ:京都大学iPS細胞研究所)は米国グラッドストーン研究所をモデルとして、オープンラボ形式になっている。

実験スペースは共用で、研究室に仕切りはなく、教授室もラボとは別に横に並んでいる。高性能の装置をみんなで使うという考え方だ。


最後にiPS細胞の一日も早い医療応用のための、iPS細胞研究基金への支援を呼びかけて、この本は終わっている。山中教授自身も大阪や京都のマラソン大会に出場し、基金への支援を呼びかけているという。

ノーベル賞受賞後の記者会見の「私は無名の研究者だった。国に支えていただかなければ、受賞はできなかった。日本という国が受賞した。」という発言にも感心した。「大発見の思考法」のあらすじでも書いたように、山中教授の謙虚さには敬服する。



この本でも一緒に研究にあたった高橋講師や徳澤さん、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんなどの同僚の名前と具体的な貢献を紹介して感謝しており、ノーベル賞を共同受賞したガードン博士はじめ先達や、競争相手のウィスコンシン大学チームなどの業績も紹介している。

なんて気配りができる研究者なんだ!

200ページ余りの本で、簡単に読める。「大発見の思考法」と一緒に読むことをおすすめする。


参考になれば次クリック願う。




希望の祭典・オリンピック オリンピック成功の鍵はIOC委員の心をつかむこと

希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年
著者:原田 知津子
幻冬舎ルネッサンス(2012-07-18)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

IOC委員の世話役のコンパニオンやオリンピック選手団役員を40年間勤めた原田知津子さんの本。実は原田さんは、筆者の友人のお母さんだ。

原田さんはオリンピック選手団役員として1960年のスコーバレー・オリンピックからオリンピックに参加し、1964年の東京オリンピックでは、国際オリンピック委員会=IOC委員の世話をするコンパニオンのリーダーとして約40名のコンパニオンを統率した。1998年の長野オリンピックまで実に40年間もコンパニオンや選手団の世話役としてオリンピック開催に貢献された経歴を持つ。

オリンピック以外でも、グッドハウスキーピング教室を自宅で開催されており、数百人の生徒を教え、「快速家事」など5冊の本を書かれているスーパーレディだ。

ゆとりの3Sライフ (快速家事)ゆとりの3Sライフ (快速家事)
著者:原田 知津子
文化出版局(1991-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

ちなみに原田さんのハウスキーピングクラスの教え子で、フルート奏者の山形由美さんが、ブログで原田さんのことを紹介しているので、参照して欲しい。


コンパニオン(アシスタント)の役割

国際オリンピック活動では、日本を訪れるIOC委員を心から歓迎し、多忙な日程のなかでも日本を理解し、日本に親近感を持ってもらうことが、将来のオリンピックの日本誘致やIOCにおける日本の発言力の強化につながる。

IOC委員や委員夫人にアテンドして日本滞在中の予定をスケジュール通りこなす一方、日本と日本文化の理解を深め、親しみを持ってもらうようにするのがコンパニオンの重要な役割だ。英語やフランス語などのバイリンガルであることは必要条件の一つで、あとは教養や人柄なども必要条件だ。

コンパニオン(現在はアシスタントと呼ぶ)はボランティアで、勤務条件は次のようなものだ。

1.報酬:無償
2.旅費:IOCメンバーと行動をともにした旅費は事務局が負担。それ以外は自費
3.宿泊:事務局が手配
4.食事:業務が食事時間にかかる場合は支給
5.被服:事務局が支給または貸与
6.期間:オリンピック開催期間、大体3週間程度
7.勤務地:空港出迎え→オリンピック会場移動→大会開催→閉会後空港見送り

東京オリンピックでは約40人、長野オリンピックの時は170人のコンパニオンが、IOC委員や委員夫人のアテンドにボランティアとして駆り出された。これらのコンパニオンは公募せず、すべて原田さん、元NHKアナウンサーの磯村尚徳夫人で、フランス語が堪能な磯村文子さんの二人の人脈で選んだという。

巨人軍の長嶋終身名誉監督の亡くなった奥さんの長嶋亜希子さんも、東京オリンピックの時からのコンパニオンの先輩として、長野オリンピックにもボランティアの助っ人として参加したという。

ちなみに長嶋亜希子さんは、「私のアメリカ家庭料理」という本を出している。亜希子さんは、ミネソタ州の聖テレサ大学というところを卒業している。米国中西部の料理が多いのかもしれないが、どんな米国料理を紹介しているのか興味があるので、一度こちらも読んでみる。

私のアメリカ 家庭料理私のアメリカ 家庭料理
著者:長島 亜希子
文化出版局(1991-04)
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原田さんの経歴

原田さんは1922年生まれ、お父さんの仕事の関係で11歳までカナダのトロントで過ごし、日本に帰国後、東洋英和女学院、聖心女子大学英文科を卒業してNHKに就職した。今年で90歳になるはずだが、文筆に年齢はまったく感じられない。原田さんがオリンピックのコンパニオンとして貢献された40年余りの経験とエピソードを淡々と、読みやすい文章で語っている。

原田さんの亡くなったご主人は原田敬策さんという元男爵で、西園寺公望の懐刀と言われた原田熊雄男爵の長男だ。原田熊雄は、吉田茂、近衛文麿、樺山愛輔などと一緒に「ヨハンセン・グループ」として、戦争の早期終結を模索した一人だ。

原田さんと夫になる原田敬策さんが知り合ったのは、1945年12月の友人のダンスパーティだったという。1947年3月に行われた結婚式の披露宴は日比谷の日本工業倶楽部で、ウェディングケーキとビュッフェ形式の食事、新郎の原田敬策さんのハワイアンバンドが演奏して、来客がダンスを踊り、それ以来、日本工業倶楽部はダンスパーティで有名になったという。終戦直後の食料危機を完全に超越している生活があったのだ。

原田敬策さんは、白洲次郎が設立した貿易庁に務めた後、三菱商事の前身の協和交易に入社し、それ以降三菱商事で勤務された。原田さん自身は結婚を機にNHKを退職し、その後は外務省の要請で英文同時速記者の資格を取って、パートタイムで国際会議の英文速記をやっていた。


竹田宮の依頼でオリンピック活動に参加

原田さんとオリンピックとのつきあいは、家族ぐるみで親しくしていたスポーツの宮・竹田宮恒徳(つねよし)王からの紹介で、JOC会長でIOC委員でもあった東龍太郎さん(後に東京都知事になる)に会い、1958年に東京で開催されたIOC総会にIOC委員や夫人にアテンドするコンパニオンを集めてくれないかという依頼を受ける。

原田さんはバイリンガルの良家の子女・夫人を20名ほど集めて協力した。この時のメンバーは山本権兵衛の孫の山本貴美子さん、重光葵元外相の娘・華子さん、道面味の素社長夫人、若杉元ニューヨーク総領事夫人、NHKのキャスターの磯村尚徳夫人の文子さんらだったという。

日本でのもてなしに感激したIOC委員たちが、翌年のミュンヘンIOC総会で、1964年の夏季オリンピック開催地を大差で東京に決定するという結果となった。

これがきっかけで、原田さんは日本オリンピック協会=JOCの依頼で、各地で行われるIOC総会やオリンピックなどの公式イベントにIOC委員のアテンド役やオリンピック選手団の正式な役員(シャペロン=世話係)として参加するようになった。


オリンピックに役員として参加

原田さんが最初にオリンピックに参加したのは、1960年のスコーバレー冬季オリンピックで、日本選手団の団長は、当時の日本スキー連盟会長で、種なしスイカの発明者の木原均さんだったという。スコーバレーオリンピックでは、ウォルト・ディズニーと近づきになれたのがうれしかったという。

その後インスブルック冬季オリンピックでもシャペロンとして参加、そして1964年の東京オリンピックではコンパニオンのリーダーとして大会の成功に貢献した。


ミスター・アマチュアリズム

原田さんがアテンドしたミスター・アマチュアリズム、当時のIOCブランデージ会長のエピソードも面白い。

ブランデージ会長は、開会式に天皇陛下に開会宣言をお願いするために、テープレコーダーを部屋に持ち込んで「謹んで(つつしんで)、天皇陛下に、開会宣言をお願い申し上げます」という日本語を必死になって覚えていた。

一切ショー的なものを嫌ったブランデージ会長は、開会式では浴衣姿の盆踊りや小学生のマス体操をショー的すぎるとして中止させたという。マス体操に参加する予定で、数か月前から練習していた原田さんの次男(筆者の友人)もこれにはがっかりしたという。

開会式、閉会式のショーが話題を集め、NBAのプロバスケットボール選手も参加する今のオリンピックとは全く別物の純粋アマチュアリズムの考え方だ。

東京オリンピックでは開会式でオリンピック賛歌を演奏し、これがそれ以降のオリンピックのならわしとなった。自衛隊のブルーインパルスが五輪の雲を描いたことも、それ以降のオリンピックでマネされるようになったという。




清川IOC委員の秘書役

東龍太郎氏の次のIOC委員の清川正二氏は、戦前のロスアンジェルスオリンピックの背泳の金メダリストで、IOC副会長と、競技大会へのIOC代表という要職をこなした。ブランデージ会長の後を継いだアイルランドのキラニン卿、その後のスペイン出身のサマランチ会長の信任が厚かったという。

清川さんはオリンピック開催中は、前日の競技報告書を2−3ページにまとめて、サマランチ会長はじめIOC委員に翌日届けるという仕事を毎日やっており、原田さんは秘書としてタイプとレター配布したという。


ロス五輪を黒字化したユベロスの手腕

1984年のロサンゼルスオリンピックでは、大会組織委員会のユベロス会長が極端なコスト削減策と、収益改善策を導入し、オリンピックとして初めて黒字になった大会となった。

建設費をかけずに既存の施設を改修して使い、選手村は夏の間空いているUCLAの大学寮を使った。巨額のテレビ放映料と、ボランティアの大量投入が黒字化のカギだった。ボランティアには制服が支給されたが、日当は昼食代の5ドルだけだったのには驚いたと原田さんは書いている。

そのほか、原田さんが参加したグルノーブル冬季オリンピック札幌冬季オリンピック、日本がボイコットしたモスクワオリンピックカルガリー冬季オリンピックソウルオリンピックなどのエピソードも興味深い。

原田さんが参加した最後のオリンピックは1998年の長野冬季オリンピックで、開会式で天皇陛下から「原田さん、東京オリンピックからずうっと、ですね」と声をかけられたときは恐縮したという。

原田さんの長年のオリンピックへの貢献に対して、IOCは原田さんと弟の平井俊一さんに2000年にオリンピックオーダー(五輪功労賞)を送った。


知っている人が出てきて親しみを感じる

実は筆者は山本権兵衛のひ孫の山本衛さんと、アルゼンチン駐在時代に知り合い、年賀状をやり取りしている。山本貴美子さんは山本衛さんの叔母さんだと思う。

東龍太郎さんは東大ボート部の出身だ。東一家は毎夏、西伊豆の東大戸田寮に来られていたので、寮委員の間では有名だった。

サッカー出身で元IOC委員の岡野俊一郎さんは、筆者が湘南高校のサッカー部に在籍していた時に、サッカーの指導で藤沢まで来られ、教えてもらったことがある。

サッカーのアクロバチックなプレーに、オーバーヘッドキックがあるが、岡野さんが体育館で手本を見せてくれたのには驚いた。湘南高校のサッカー部では誰もできなかったが、当時40歳くらいだった岡野さんはやすやすとこなしていた。



筆者の友人は原田さんの次男で、大阪オリンピック誘致事務局に出向していたことがある。オリンピック誘致のような活動では、筆者の友人は、お母さんの原田さんや叔父の平井さんの人脈が活用できたと思うので、まさに適材適所だったのではないかと思う。

この本を読むとIOC委員にアテンドしてお世話するとともに、日本の良さを知ってもらうコンパニオン活動の重要性がよくわかる。

個々のIOC委員との人と人のつながりが、日本のサポーターを増やし、それが結果として日本が東京、札幌、長野とオリンピックを3回開催することにつながったのだと思う。

前回、東京がオリンピック開催地に立候補したときに、石原都知事が将来のスタジアムを目の前に投影するバーチャルディスプレイゴーグルを視察団に見せて、日本の先進性と技術力を見せつけたと自慢していたが、筆者は何か違うのではないかと感じていた。

もちろん開催地決定はきれいごとばかりではない。政治的な思惑や、ソルトレークシティオリンピックで明らかになったように、過去には買収や過剰接待攻勢もあった。それでも原田さんの活動のように、ボランティアのコンパニオンが手分けしてIOC委員を心からもてなし、日本のサポーターとなってもらうというのが、本来あるべき姿だし、時間はかかるが、それが一番確実な道ではないかと思う。

いまどきそんな悠長なことはやれないのかもしれないが、もし東京が、あるいは日本のどこかの都市が本気でオリンピック誘致に乗り出すのであれば、少なくともIOCの有力委員には、原田さんたちのような人と人のアプローチが重要なのではないかと思う。

そんなことを考えさせられる本である。


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さらば財務省! 竹中改革の懐刀 異能の官僚 高橋洋一さんの内実レポート

さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別 (講談社プラスアルファ文庫)さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別 (講談社プラスアルファ文庫)
著者:高橋 洋一
講談社(2010-06-21)
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別ブログで榊原英資さんの「財務省」を紹介したので、榊原さんに反・財務省の反逆者として批判されている高橋洋一さんの財務省、官邸の内実レポートを紹介する。

財務省 (新潮新書)財務省 (新潮新書)
著者:榊原 英資
新潮社(2012-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
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高橋さんは東大の数学科出身で、自称「変人枠」で大蔵省に採用され、資金企画室長時代に異能を生かして、3ヶ月でALM(Asset Liability Management)システムを自力で構築して日銀からの攻勢を一蹴し、一時は大蔵省の「中興の祖」を呼ばれたという。
この作品で高橋さんは山本七平賞を受賞している。

高橋さんは「霞ヶ関埋蔵金」という特別会計に隠された国の資産の存在を公表したことでも有名だ。この本のサブタイトルにも「官僚すべてを敵にした男」と書いてある。

「さらば○○省!」というと同じ講談社で前例がある。筆者も読んだことがある「さらば外務省!」という本があるが、高橋さんは政府の政策決定に直接携わっていたので、外務省の天木さんの本とはかなり差がある。

さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さないさらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さない
著者:天木 直人
販売元:講談社
発売日:2003-10
おすすめ度:4.0
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この種の内実暴露本は、上記の天木さんの本を含めて後味が悪い本が多いが、高橋さんの本は個人攻撃という面は少なく、霞ヶ関の力学がわかって参考になる。

高橋さんは理系、しかも数学科出身なので、問題を論理的に解いていった。導いた答えを役所はどう思うかを考えずにいた点は、うかつだったと語る。財務省が高橋さんを協調性がないということで、攻撃するのは一面当たっているという。


歌って踊れるエコノミスト

高橋さんが小泉政権の時に政府に重用されていたのは、竹中平蔵さんの引きによるものだ。1982年に大蔵省財政金融研究所に勤務していた時に、日本開発銀行から竹中さんが出向してきており、高橋さんの上司だったという。

大蔵省は東大法学部卒が幅をきかしており、大蔵省の「植民地」の日本開発銀行出身で、一橋大学出身の竹中さんは、完全に格下扱いされていて相当フラストレーションが溜まっていたのではないだろうかと。

高橋さんは違っていたので、すぐにうち解けて、IMFからの出向外人とトリオで、六本木などのライブハウスで盛り上がっていたという。竹中さんは「歌って踊れるエコノミストになろう」と言っていたそうだ。

「英語と会計はよく勉強しておいた方がいいよ」というのは当時の竹中さんのアドバイスである。このブログでも竹中さんの「竹中式マトリクス勉強法」を紹介しているので、参照して欲しい。

竹中さんは映画「千と千尋」に出てくる妖怪カオナシだと高橋さんは評する。カオナシはあたりにあるものすべてを吸い込む。竹中さんも旺盛な吸収力と軽快なフットワークで様々な理論を取り入れ、まとめ上げるという。


「議論するときはみんな同期」

当時の大蔵省は、筋さえ通っていれば議論に上下の関係は持ち込まないという「議論するときはみんな同期」という文化があった。当たり前ではないかという気がするが、年功序列の役所だからこそ、こんなことをルールにしないと議論もできなかったのだろう。

東大法学部卒の役人は数字に弱く、知識や理論は知り合いの学者から仕入れた耳学問なので、上司にたてつく議論ができるほど理解していなかったという。高橋さんが異能を発揮できたわけだ。


日銀マンが答えられない大学入試センター試験問題

高橋さんがトピックとして紹介しているが、2008年度の大学入試センター試験で、次のような中央銀行の政策で最も適当なものを選ぶ問題が出たという。

1.デフレが進んでいる時に通貨供給量を減少させる
2.インフレが進んでいる時に預金準備率を引き下げる
3.不況時に市中銀行から国債を買い入れる
4.好況時に市中銀行に資金を貸す際の金利を引き下げる

正解は3.だが、これには日銀マンは答えられないだろうと。というのは日銀のやっているのは、1.で3.ではないからだ。

国債を買うことは、財務省への屈伏、敗北を意味するので、日銀のエリートとしての矜持がそれを許さないのだ。これは戦前の軍備拡張を日銀が国債買い上げで際限なく引き受け、戦後ハイバーインフレが起こった反省によるものだという。


幻に終わった日銀の大蔵省攻撃三部作

日銀は1998年までは大蔵省の下部機関だったので、日銀生え抜きからすれば、大蔵省に一矢報いたいという気持ちは強かった。

それで国庫金を預かる大蔵省のリスク管理の甘さを衝こうと、経済理論のエースだった深尾光洋さんを中心に3部作の論文を2−3年掛けてまとめ、大蔵省にぶつけようとしていた。

大蔵省出身の日銀理事から、不穏な動きが報告され、大蔵省はなんとかして撃退すべく、リスク管理の必要性を説いていた高橋さんにALM(Asset Liability Management)システム構築の命令が下った。

外注すれば数十億円、2−3年構築にかかるシステムだが、隠密にやれということで、高橋さんが2年前に作っていたシステムの原型を使って3ヶ月でシステムを稼働させた。

日銀が乗り込んできた時に、大蔵省はALMを使って「この数字は違いますね」で逆襲して20分で決着がつき、日銀の3年の努力のたまものの3部作は幻と消えたという。

「今までは竹槍を持ってB29と戦っていたようなものだ。高橋君の開発したシステムはパトリオットミサイルだ」と賞賛され、高橋さんは「大蔵省中興の祖」と呼ばれたという。


大蔵省の権限を手放す財投改革を立案

高橋さんは次に、大蔵省が郵貯や年金積立金など政府系金融機関から預託金として一手に預かっていた財投の改革を橋本内閣で実現した。

これで郵貯は長年の悲願であった大蔵省に頼らない自主運用が可能となり、郵貯関係者からは「郵貯100年の悲願を達成してくれた高橋さん」と感謝されたという。

しかし今まで国債しか運用したことのない郵貯が自主運用を任されると、国営ではやっていけず、経営責任の取れる民営化するしかないことは自明の理で、小泉さんが総理にならなくとも、郵政民営化は実現しただろうと。


プリンストン大学の客員研究員、帰国後「雷鳥」ポスト就任

財投の入り口の郵貯と、出口の特殊法人改革も同時に行い、それらが実現したときに、1998年からプリンストン大学に客員研究員として高橋さんは派遣された。現FRB議長のバーナンキ(Bernanke)プリンストン大学経済学部長やポール・クルーグマン教授アラン・ブラインダー教授、マイケル・ウッドフォード教授らと親しくなったという。

経済学の泰斗ばかりそろった教授陣は、日銀のゼロ金利解除政策は間違っていると非難していたが、彼らの見方が正しかったことは、デフレ不況解消の道筋すら立っていない現在の状態を見ればわかるという。

プリンストン滞在を1年延ばして貰い、高橋さんは2001年に帰国して、国土交通省の中の大蔵省の出島の特別調整課長を命じられる。国土交通省の予算を削る役割のポストだ。予算が高く飛ばないようにするポストなので「雷鳥」と呼ばれていたという。


秘密のアジトで竹中大臣の懐刀となる

高橋さんが帰国すると竹中さんが経済財政政策担当大臣になっていた。

竹中さんの部下は内閣府。有名な学者が参加する経済財政諮問会議をベースに議論をして政策を練り上げようと楽しみにしていた竹中さんは足をすくわれる。内閣府で竹中つぶしをもくろむ一派が委員を使って、議事をリークさせていたのだ。

御用学者の中には、日当や旅費を二重取りする人や、役人のつくったペーパーを読むだけの先生もいたという。

審議会をコントロールして都合の良い結論を出させるのは、官僚たちのテクニックで、たとえば役所は反対意見を持つメンバーが出られないような日にちに審議会を設定するのだという。また意に反する結論だと、延々と議論させて結論がでなかったと打ち切る。


郵政民営化準備室に

竹中さんの郵政民営化を手伝って欲しいという希望が通り、高橋さんは関東財務局理財部長から経済諮問会議特命室に引っ張られ、晴れて竹中さんのスタッフとなった。前経済財政政策担当大臣の大田弘子さんもメンバーだった。

いよいよ郵政民営化を実現するために郵政民営化準備室が各官庁から人を集めて発足した。高橋さんはこの準備室に前金融庁長官で、現日本郵政会社副社長の高木さんと参加した。

他の省庁から集まったメンバーは郵政反対か無関心だったが、竹中さんの政務秘書官だった経済産業省出身で現慶應大学教授の岸博幸さんが協力してくれたという。

4年近く官僚と戦い続けてきた竹中さんは、役人に関与させると骨抜きにされることを学習していた。だから役人を集めた郵政民営化準備室は実は「座敷牢」で、経済財政諮問会議では竹中チームでつくった民間議員提案を議論して、総理に提出しようというものだった。

諮問会議で唯一反対したのは、その後の麻生前総理の発言でもあるとおり、麻生太郎総務大臣だった。諮問会議の議論は、郵政を管轄する麻生総務大臣と竹中チームとの間で行われた。結局小泉さんが竹中案を100%採用して、竹中チームの勝利となったが、システム構築が間に合わないというクセ球が投げられた。

そこで高橋さんは郵政システムを担当するベンダーの80名のSEと対決して、一つ一つつぶし、機能をそぎ落として1年半で完成ということまでこぎ着けたという。

郵政民営化反対の官僚は、特殊会社経由の民営化を画策していた。これなら、政権が変われば法律を改正して、郵政民営化をやめることができる。高橋さんは、このことを竹中さんに進言し、民営化したら直ちに商法会社にすることを小泉総理が指示した。

そこで2005年8月の郵政民営化選挙の大勝を受けて郵政民営化が実現し、システムは2007年10月から稼働した。


郵政改革の次は政策金融機関改革

政府系の政策金融機関8機関の整理は財務省と経産省の逆鱗に触れた。ある財務省高官は「高橋は三回殺しても殺したりない」と言ったという。いままで財務省の事務次官の天下り先だった国際協力銀行と日本政策投資銀行を整理してしまったからだ。

中川昭一経済産業大臣と、谷垣禎一財務大臣が霞ヶ関の意向を代弁して、政府系金融機関は必要だという論陣を張ったが、小泉総理は内閣改造で反対派を退けた。しかし竹中さんの後任に与謝野馨さんを持ってきたことから、経済諮問会議は頓挫して、霞ヶ関派がコントロールする方向になった。

一方自民党の中川秀直政調会長が政策金融機関改革を支持してくれたので、財投改革案は自民党案として再浮上した。

小泉総理は元々大蔵族なので、飯島勲筆頭秘書官と財務省からの秘書官を使って財務省とのパイプを保って郵政民営化を進めた。他方霞ヶ関の改革は竹中さんにやらせた。巧みな二元コントロールだという。

竹中さんや中川秀直さんは「上げ潮派」で、経済成長率を上げることによって税収を増やし、歳出カットで財政再建を目指す。これに対する谷垣さんとか与謝野さんの「財政タカ派」はまず増税ありきで、財政さえ立ち直れば国民経済は多少がたついても良いという考えだ。

ふるさと納税も高橋さんが発案者の一人だという。ふるさと納税は、「税額控除方式による寄付」に他ならず、「家計が主計官」というのは中川秀直元幹事長の言葉だ。これに財務省は反発したという。


霞ヶ関埋蔵金

2007年秋中川秀直元幹事長が、「国民に還元すべき埋蔵金がある」と発言、これに谷垣、与謝野大臣が反論したが、これ以降自民党の最大派閥である清和政策研究会が埋蔵金を財政健全化に使うべきと主張し、3度目のパワーシフトが起きた。

2008年になって財務省はあっさり埋蔵金を認め、財政融資資金特別会計から10兆円を取り崩すと発表した。「モンテカルロシミュレーションしたら、リスクを減らしても大丈夫なことがわかった」と言ったという。

埋蔵金については塩川正十郎元財務相が、「母屋でがお粥で辛抱しているのに、離れではスキヤキを食べている」と発言して注目されている。

年金は破綻寸前だが、おおかたの特別会計で超過積立金があり、総額は50兆円を超えるという。最大のものは、財政融資資金特別会計で27兆円、次に外国為替資金特別会計が17兆円ある。これに続くのが国土交通省の道路特別会計の6兆円だ。

他に独立行政法人の整理で20兆円くらい整理益が出る可能性がある。2005年に初めてつくられた国のバランスシートは隠し資産を明るみに出す結果となったのだ。


日本は財政危機ではない

日本は834兆円もの債務を抱えており、これはGDPの160%にも上る危機的数字だという財務省の増税やむなしの論調があるが、834兆円はグロスの債務であり、これから政府が持つ莫大な金融資産を差し引くとネットの債務は300兆円まで減る。

この論法は財務省が米国の格付け会社に送った意見書にも述べられており、財務省の国内向けのアナウンスと海外向けのアナウンスとは全く異なっている。

高橋さんは名目成長率が上がれば、景気も良くなり、税収もアップする。改革で支出を減らし、財政再建は可能だと結論づける。世界の学者が驚くデフレの時に通貨供給量を減らすという日銀の愚かな金融政策が日本経済の名目成長率を引き下げ、現在の状態に追い込んでいるという。


猪瀬直樹さんに協力して道路公団債務超過のウソを暴く

高橋さんは、「日本国の研究」のデータチェックを手伝った時から猪瀬さんと知り合いで、道路公団の資産査定で協力した。

続・日本国の研究 (文春文庫)続・日本国の研究 (文春文庫)
著者:猪瀬 直樹
販売元:文藝春秋
発売日:2002-05
おすすめ度:4.0
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道路公団は民営化をやめさせるべく6兆円から7兆円の債務超過という情報を流していたが、これには将来の補助金と高速道路収入債権が入っておらず、この債権を入れると少なく見積もっても2−3兆円の資産超過となったという。


安倍内閣の官邸特命室に

高橋さんは安倍内閣の官邸特命室に任命され、公務員制度改革案を大田経済財政政策担当大臣の主管する経済財政諮問会議に提出した。安倍内閣のほとんどの大臣が各省庁を代表して反対する中で、新任の渡辺喜美行革担当大臣が高橋さんを呼び出して支持を表明したという。

官僚はマスコミに渡辺大臣と異なる方針をリークしたが、渡辺大臣は官僚を一喝したという。安倍総理も事務次官等会議を経ないで閣議に提案した。

これに対抗し、官僚は経済財政諮問会議委員で政府税調会長の本間正明教授のスキャンダルを報道し、議事を混乱させようとしたという。本間教授は竹中大臣の財政金融研究所時代からの友人だ。


消えた年金

社会保険庁の5000万件のでたらめなデータがあるのは以前から分かっていたという。高橋さんは1990年ころに、厚生年金基金の欠陥を指摘する論文を経済週刊誌に発表しようとしたら、厚生労働省が雑誌を傘下の厚生年金基金に購読させないと圧力を掛けてきたという。


小泉政権の中枢の竹中大臣の懐刀として構造改革に取り組んだ六年半は、コンテンツクリエーター冥利につきる年月だったという。

財務省には感謝していると高橋さんは語る。


高橋さんは昨年銭湯で腕時計などを盗んだとして、窃盗の現行犯で逮捕され、不起訴にはなっているが、スキャンダルを起こしている。冤罪という説もあるが、真相は不明だ。




人物的にはやや暗い感じがあるが、山本七平賞を受賞した作品だけに面白く、読んでためになる本である。


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外科医須磨久善 ベストセラー作家海堂尊さんが描くゴッドハンド

外科医 須磨久善 (講談社文庫)外科医 須磨久善 (講談社文庫)
著者:海堂 尊
講談社(2011-07-15)
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現役医師でベストセラー作家の海堂尊さんが描くゴッドハンド・天才心臓外科医須磨久善さんのノンフィクション。

海堂尊さんは、医師としての専門知識を利用して、「チーム・バチスタの栄光」で文壇デビュー、チーム・バチスタシリーズで数々のベストセラーを生み出している売れっ子作家だ。放射線医学総合研究所のAi(死亡時画像診断)情報研究推進室室長を務めている。

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)
著者:海堂 尊
宝島社(2007-11-10)
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海堂さんはAi情報研究推進室室長

海堂さんの本職では、「死因不明社会」という本を出しているので、こちらも読んでみた。日本では死因をきっちり調査しないで処理される死者が多く、Ai(死亡時画像診断)により死因を特定すべきだと力説している。

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)
著者:海堂 尊
講談社(2007-11-21)
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この本は「心臓外科医 須磨久善の旅」と、「解題 バラードを歌うように」の2部構成となっており、最後にテレビドラマ「外科医 須磨久善」で須磨役を演じた水谷豊さんが解説を書いている。

最初の「心臓外科医 須磨久善の旅」は須磨さん自身が語った心臓外科医としてのキャリアだ。順番は須磨さんのアレンジにより、最初が1992年の海外での初めての公開手術、次が1986年にアメリカ留学から帰って、留学で学んだ経験を活かして始めた胃の大網動脈を使った心臓バイパス術式の開発、3回目がモンテカルロでの経験からインスパイアされて葉山ハートセンターという病院をつくった話、そして最後がバチスタ手術とのかかわりあいだ。

YouTubeで須磨さんを特集した番組がアップされているので、こちらも紹介しておく。




「解題 バラードを歌うように」

第2部の「解題 バラードを歌うように」は海堂さんの「チーム・バチスタの栄光」の映画化の時に、医療監修を須磨さんが引き受けてくれた撮影現場のエピソードだ。

こちらがバツグンに面白い。ほとんどの人が、須磨さんはどういう人かある程度イメージしていると思うので、著者の海堂さんも書いている通り、最初に第2部を読んでから、第1部を読むことをお勧めする。それぞれの面白みが倍増すると思う。

映画では外科医の桐生恭一役をやった歌手で俳優の吉川晃司は、須磨さんに最初にあった時に、挑発されたのだという。

「あなたに本当の外科医を演じることができますか?」
反発を感じながら、吉川が問い返す。
「本物の外科医って、どうやって見分けるんですか?」
とっさにしては、うまい切り返しだ。それに対して須磨さんは。
「本物の外科医は背中で語る。それができなければ一流の外科医とは言えない」
このやりとりで吉川の闘争心に火が付いたという。

桐生役の吉川は、海堂さんが見学した時、外科結紮(けっさつ)の場面で、本物の外科医と見まがうほどの見事な技術を身につけていたという。

一度は糸が絡まって失敗したが、須磨さんが「吉川さん、結紮がロックのビートになっている。ここはもっとリラックス、バラードを歌うようにやってみてください」とアドバイスすると、一発オーケーでものにした。

映画のプロモートをした席での須磨さんの発言もふるっている。「映画は成功します。女性ならみんな、吉川さんみたいな外科医に見つめられながら手術を受けたら、麻酔なんて必要なくなっちゃうでしょうからね」

海堂さんは、須磨さんに聞いたことがあるという。

「一流になるためには、地獄を見ないとダメですね」と須磨さんが言う。
「一流って、どういう人なんですか?」
「一人前になるには地獄を見なければならない。だけどそれでは所詮二流です。一流になるには、地獄を知り、そのうえで地獄を忘れなくてはなりません。地獄に引きずられているようではまだまだ未熟ですね。」

超一流の心臓外科医は、アーティストでもあることが、実感できる須磨さんの言葉である。


須磨さんのキャリア

須磨さんは神戸出身で、甲南中学出身だ。灘中や甲陽学院は当時は坊主頭だったので、死んでも丸坊主になりたくなかったから、甲南中学に行ったという。中学2年の時に医者になろうと決めた。テレビの「ベン・ケーシー」を見ていた須磨さんは、ある日自分が外科医となった夢を見た。それが医者になろうと思ったきっかけだという。



日本人による最初の海外での公開手術は須磨さんの友人が助教授を務めるベルギーブラッセルのルーベン大学病院で行われた。当時須磨さんは三井記念病院の循環器外科の科長で、日に2−3人の手術を行い、世界中から講演の依頼を受け世界中を飛び回るという多忙な生活だった。

実は筆者は当時の須磨さんをたまたま知っている。というのは、岡山で内科医をやっている筆者の義兄が、須磨さんに心臓バイパス手術を三井記念病院でやってもらったからだ。

三井記念病院は東大医学部の系列のような病院だが、大阪医大出身の須磨さんはその中では異色の経歴で、当時から日本でトップクラスの心臓外科医とみなされており、だから医者の義兄も須磨さんがいる三井記念病院で手術をやってもらったわけだ。

日本にいる半年間は一日に何件か手術をこなすが、年の半分は海外にいると聞いたので、やはり超一流の外科医は、いわゆるハイフライヤーで、優雅な生活をしているのだなと感じた記憶がある。実は講演などで世界を飛び回っていたのだ。


バイパス手術に動脈を使う

須磨さんが米国のユタ大学に留学した当時は、心臓バイパス手術には、10年もすると閉塞してしまうが使い勝手が良い静脈をつかう時代だった。一部の医者が胸の内胸動脈を使おうとしていたが、まだ少数派だった。

動脈と静脈では血圧が10倍違う。静脈を動脈代わりにつかうと、血管内皮がすぐ痛んで、血管壁がボロボロになってしまうからだ。

それでも日本の動脈使用率は世界に抜きんでて高い。日本のバイパス手術が世界で最も注目されているのだと。

須磨さんが考え抜いた末に選んだのは、胃の大網動脈だった。しかし何例か手術の成功例を紹介して日本の学界で新しい術式を発表した時に、ノー・リアクションだったという。

須磨さんは日本でのコールドショルダーにらちがあかないと考え、米国心臓協会(AHA)で発表すると、それがNHKニュースに報道され、須磨さんは一躍ヒーローになる。

しかし須磨さんは、もし人工血管が実用化されれば、これらの体の別の部位の血管を使った手術は意義を失うだろうと冷静に語る。


バチカン病院で勤務

須磨さんは心臓外科の名医として日本の心臓外科のトップ三井記念病院から招かれて循環器外科科長に就任する。そして次はローマ・カトリック大学付属のジェメリ病院から客員教授として招かれ、三井記念病院に籍を置いたまま、ローマに赴任する。

ジェメリ病院はベッド数2,000。イタリア最大の私立大学病院で、ローマ法王はじめバチカンの要人が病気になったら、必ずここに入院する。ローマ法王の外遊の際には、ここの大学教授が同行するのが”バチカン病院”として知られるゆえんだ。

数年ローマで生活し、ローマ永住を考えていた須磨さんは1995年にバチスタ手術を知る。当時日本では脳死が認められていなかったので、心臓移植は不可能だった。日本がバチスタ手術を最も必要とする国だと須磨さんは考えた。


日本に帰国してバチスタ手術を執刀

帰国した理由は、「犬のせいでしょうか」だと。須磨さん夫妻は子供がなく、愛犬が病気になった時に、イタリア語で自分の思いを伝えられないことにフラストレーションを覚え、自分の病院での患者の対応も、コミュニケーション力ができないと、十分な医療が行えないことに気づいたのだという。

日本にはバチスタ手術とミッド・キャブ手術を持ち帰った。モナコ・ハートセンターというわずか38床ながら、年間7−800例の心臓外科手術を行う有名な施設を日本にもつくろうということで、徳洲会グループの徳田虎雄さんの支援を得て病院つくりをする。

1996年湘南鎌倉総合病院で、新しい病院建設プロジェクトを手掛けるほか、日本で初めてのバチスタ手術を行った。厚生省の健康保険の対象にもなっていない段階だったが、徳田会長が費用は病院が持つと支援したからこそ実現したバチスタ手術だった。

日本初のバチスタ手術には、イタリアでバチスタ手術を行ったイタリア人の親友・カラフィオーレ教授、アメリカで初めてバチスタ手術を行ったバッファロー大学のサレルノ教授、UCLAの心筋保護の世界ナンバーワン、バックバーグ教授の3人が助っ人で来日してくれた。

手術は成功したが、患者は肺炎を起こして12日後に亡くなった。精根尽きていた須磨さんに、亡くなった患者の妻から手紙が届く。元々何の希望もないなかで、この手術を受けることになり患者は元気になっており、少なくとも手術後は心臓は元気だった。患者に希望を与えるこの手術を辞めないでくれ。

海外でのバチスタ手術の成功率は6-7割で、現在バチスタ手術が生き残っているのは日本だけだという。須磨さんは、心臓を切り取るのではなく、悪い部分を切除して切りあわせるという栽縮する形に変え、成功率は90%を超えた。この術式は、いまは「SAVE手術」別名「スマ手術」と呼ばれている。


葉山ハートセンター設立

葉山ハートセンターは2000年からスタートした。初年度で400例の心臓手術を行い、平均一日2例の手術を行った。2001年NHKのプロジェクトXでバチスタ手術が紹介されたことも、追い風となった。



葉山ハートセンターが軌道にのったのち、2008年に須磨さんは心臓血管研究所に転職した。循環器内科のプロと心臓外科のコラボレーションを狙ったのだ。

須磨さんは現在日本冠動脈外科学会の会長をつとめる傍ら、手術もおこなっている。外科医はアスリートなので、チャレンジング・スピリットがなくなったら終わりだと語る。


本職が医者(元々は外科医)のベストセラー作家が書くと、こうまで面白い物語になるのかと感心する。最近、文庫本になって買いやすくなったので、是非おすすめしたい作品である。


参考になれば次クリックお願いします。






刑務所なう。 ホリエモンの獄中記半年分

刑務所なう。刑務所なう。
著者:堀江 貴文
文藝春秋(2012-03-15)
販売元:Amazon.co.jp
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ホリエモンの獄中日記。

別ブログの初期ではホリエモンの本を何冊か紹介したが、その後ライブドア事件と有罪判決が起こり、ホリエモンは忘れ去られつつあった。別ブログでもホリエモンカテゴリーは整理しようかと思っていたところだ。

2011年4月にホリエモンの実刑(懲役2年6ヶ月)が最高裁で確定し、2011年6月20日に東京拘置所に収監され、6月27日に長野刑務所(A級犯:初犯から懲役8年までの囚人)に移送された。

この本では6月20日から12月31日までの毎日3食の食事献立と、毎日の生活、新聞、ラジオ、映画、本などの感想を書いている。

ホリエモンは、獄中からもブログ(六本木で働いていた元社長のブログ)やツイッターメルマガを書いており、この本はそれらの投稿や獄中記を集めたものだ。

同じ東京拘置所経験者の佐藤優さんは「週刊東洋経済」の「知の技法・出世の作法」という連載で、ホリエモンのことを”自らの未来の夢を描き、それを実現するために実力をつけて、努力によって夢を実現するタイプの人=「工作人」の典型”と呼んでいるが、その意味ではこの獄中からの情報発信もユニークだ。

ホリエモンの住んでいる部屋の様子は、この本の表紙の反対側に載っている。

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出典:本書表表紙見返し

上の絵にはテレビがあるが、実際には長野刑務所に移ってから、しばらくしてテレビが入ったのだという。東京拘置所の畳はプラスティックの人造畳だが、長野刑務所の畳は天然畳で、気分が全然違うという。

普通は雑居房より、独居房の方が良いのではないかと思うが、ホリエモンは最初のうちは早く他人と話せる雑居房に移りたいと、一時はうつ状態のようになったという。

しかしこの本の最後の12月末になったら、最初に言われた「共同室より単独室の方が良いですよ。いずれ慣れますから。」という意味がわかってきたという。

佐藤優さんの「国家の罠」には、独居房にいてうつ状態になったという話はなかった。

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
著者:佐藤 優
新潮社(2007-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ホリエモンの精神状態がよくわからないところだ。

この本のところどころにホリエモンの刑務所生活を示すこんなマンガが載っている。

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出典:本書222〜223ページ

長野刑務所は全国でもトップ3に入るメシのうまい刑務所だそうだ。ただ独居房には暖房がないので、住環境としては北海道の刑務所の方が、冬は暖房があるので、快適だろうということだ。

毎日400円程度で、よくこれだけ工夫して献立を作っていると思わせる苦心の献立が毎日並び、元日などは記念食のようなものもでる。

このあたりは東京拘置所での食生活をレポートしていた佐藤優さんの本に通じるところがある。

結局ほぼ半年で体重は95.7KGから72.4KGに23キロも減り、だいぶスマートになったはずだ。

シャバでは、贅沢な暮らしをしてたぶん毎日飲み歩いていたホリエモンなので、禁酒と、いわばプロテインダイエット(おかずは食べるが麦飯の量は減らす)、適度な運動を続けると、これだけ体重が落ちるという実験レポートのようだ。

食べたいと思っていた念願のカップ麺(カップそば)が12月31日に年越しそばとして出てきて、これを食べたら胃が小さくなっていて全部食べられなかった話がでてくる。麦飯の量を減らして胃を小さくしたのが、ダイエット成功の最大の要因だと思う。

全部で500ページほどある本の中身については、詳しく紹介しない。

ところどころ出てくる、AKBのプロデューサーの秋元康さんが大王製紙の井川会長と同じくらいカジノにハマっているとか、鈴木亜美がフライデーされた相手も知っているとか、ネタバラシのたぐいの話や、宇宙開発が半分くらいの「時事ネタ評論」を除いては、あまり印象に残る話はない。

さすがに刑務所に収監されていれば、当然のことながら情報量は激減する。やむを得ないところだろう。

本屋でパラパラ立ち読みするか、図書館で借りて読むことをおすすめする。


参考になれば次クリックお願いします。




政治家の殺し方 前横浜市長・中田宏さんの暴露本 ノンフィクション小説のようだ

政治家の殺し方政治家の殺し方
著者:中田 宏
幻冬舎(2011-10-26)
販売元:Amazon.co.jp
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前横浜市長・中田宏さんの暴露本。この本を読むと横浜市に巣くっている様々な闇・おもて勢力の実態がわかる。

ブログを書き始める前なので、あらすじは紹介していないが、中田さんの本は何冊か読んだことがある。特に「偏差値38からの挑戦」というサブタイトルがついている「なせば成る」は面白かった。

なせば成る (講談社プラスアルファ文庫)なせば成る (講談社プラスアルファ文庫)
著者:中田 宏
講談社(2005-11-25)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

突然の市長辞任の理由

中田さんが横浜市長選挙に出馬しないと表明したので、このブログでも著書を何冊か紹介している元ダイエー会長の林文子さんを民主党がかついで、林さんが横浜市長になったのは、ちょうど前回の衆議院選挙が行われた2009年夏だった。

筆者は中田さんが衆議院選に出馬するので、市長を辞めたものとばかり思っていたが、実は市議会の有力者達とつながる闇勢力から「ハレンチ市長」として、ありもしないでっちあげスキャンダルで攻撃されていたという。

そして自民・公明・民主がオール与党として談合している市議会勢力に、次の市長選挙を牛耳られないように、衆議院総選挙と横浜市長選挙を同一日にするためにあのタイミングで市長を辞めたのだという。


中田市長追い落とし作戦

2007年11月から7週間にわたって「週刊現代」の見出しに「私の中に指入れ合コン」とか、「口封じ恫喝肉声テープ」、「公金横領疑惑」などと事実無根の記事を書かれ、挙句の果てには「中田の愛人」と称する女性までテレビに登場するというスキャンダルを起こされていたという。

中田さんが市長をやめて後、週刊現代を発行する講談社を名誉棄損で訴え、2010年10月には全面勝訴を勝ち取っている。また”フィアンセ”と称する女性から慰謝料を求められた裁判でも、付き合った事実すらないとして全面勝訴した。

スキャンダルの疑いは晴れたが、政治には闇の世界があることを知ってほしいためにこの本を書いたのだという。


ノンフィクション小説のように面白い

中田さんは横浜市出身で、神奈川県立霧が丘高等学校を卒業し、2浪して青山学院大学に入り、松下政経塾を経て28歳で衆議院議員となり、2002年に37歳で横浜市長に当選する。当時は史上最年少の政令指定都市の市長だった。

筆者は神奈川県藤沢市出身だ。しかし友人から横浜スタジアムをめぐる利権について聞いたことはあったが、同じ県にある横浜市の政界がこれだけ腐敗しており、公務員も既得権を守るのに汲々としているとはこの本を読むまで全く知らなかった。

この本は中田さんの横浜市の闇勢力との抗争ドキュメンタリーで、ノンフィクション小説のように面白い。あまり詳しく紹介すると、読んだときに興ざめなので、簡単に紹介しておく。

★中田さん追い落としのねつ造スキャンダルは2007年11月の「週刊現代」から始まった。根も葉もない上記のような内容だ。

★2008年12月には中田の愛人と名乗る元ホステスの女性が全国ニュースに登場、3000万円の慰謝料を請求して裁判を起こした。しかし、幸いなことに、家族のきずなは保てたという。この女性は裁判には一度も出廷しなかった。金をもらって訴えたに過ぎないのだ。

★中田さんを恨んでいたのは、まずは指名競争入札で仲間同士で仕事を融通しあっていた建設業界だ。一般競争入札にしたので、競争がきびしくなったからだ。

★公務員組合も恨んでいた。公務員の定数を1000人当たり8人から5人まで減らし、各種手当も減らした。退職時昇給という最後の一日だけ昇給して、それが退職金のベースを高くするというお手盛りも辞めさせた。

★暴力団もからむ風俗業界も恨んでいた。京浜急行の日ノ出町駅から黄金町駅の間に違法売春風俗店が250店もあったのを、県知事、神奈川県警本部長、警察庁長官の協力を得て撲滅した。

★さらにAという市会議員が中田さんの政敵だったという。横浜市に住んでいる人は、Aというのが誰なのかわかるのだと思う。

★選挙の開票を翌日開票とすると1億3千万円もコストが下がるので、それを実施したら、朝刊しかない地元新聞は大反対したという。地元新聞も自社の利益優先で、県のコスト削減など二の次だったのだ。

★横浜市の公務員の待遇うは信じられないほど優遇されている。
希望しなければ10年間異動なしで、しかも毎年昇給するという「渡り」を辞めさせ、3年で強制配転としたので、公務員組合から敵視された。そのほかにも一律だった管理職のボーナスを上下100万円の差をつけたとか、鎌倉市などの隣の市に行くだけでもらえる出張手当も辞めさせた。

★おどろくことに、市職員からは実名で「おまえはバカだ」、「死ね」メールまで部署名・氏名入りで送られてきたという。公務員であれば、たとえ態度が悪くても懲戒免職などされないことを知っているからだ。

昔の長野県の田中康夫知事名刺折り曲げ事件を思い出させる公務員の暴挙である。

★定期を1か月定期から半年定期にしたら職員から規則違反と言われた。いままで差額をネコババしていたので、既得権と思っている職員がいたのだ。なんのことはない、ほかの自治体も同じで、横浜市が先陣を切って半年定期化したのだと。


こんな具合に、信じられない地方政治の実態が語られている。簡単に読める面白い読み物である。


参考になれば次クリックお願いします。




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