時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

医療

あの日 小保方晴子さんの逆襲始まる しかし…

あの日
小保方 晴子
講談社
2016-01-29


STAP細胞騒動で、名前を知らない人はいなくなった小保方晴子さんの逆襲本。

Amazonのカスタマー・レビューでは賛否両論で、800以上ものカスタマー・レビューが投稿されている。

さらにそれぞれのカスタマー・レビューにも、時には数百のコメントが寄せられている(相当なコメントがアマゾンによって削除されているので、攻撃コメントだと思われる)。

中には科学誌への論文投稿に詳しい専門家や自殺した笹井副センター長の後輩と称する人も投稿している。

カスタマー・レビューだけを読んでも、この本の内容が大体わかるような分量だ。

小保方さんは、最近、婦人公論に登場している。この本を2016年1月に出版して、逆襲を始めたようだ。



また、STAP HOPE PAGEという英文サイトを立ち上げている。

このサイトは2016年3月に開設されて、4月に数件の追加がなされた後は、そのままとなっている。このタイミングで海外でのSTAP細胞研究のニュースがあって、サイトを開設したのではないかと思う。

STAP HOPE PAGE












出典: STAP HOPE PAGE

STAP HOPE PAGEにはSTAP研究の概要STAP細胞製作のプロトコルSTAP細胞検証実験の結果などが紹介されている。

この本を読んでの筆者の小保方さんに対する評価は、到底一流の研究者とは言えないレベルにあるということだ。

ケアレスミスが多すぎる。さらに、ミスをそのまま放置しているので、これは人をミスリードすることと結果的に同じだ。

筆者も仕事柄、多くの人の報告書をチェックする立場にある。

筆者自身も自分が書いた文章の読み返しはあまり好きではなかった。しかし、他人の報告書をチェックする立場になったら、どれだけ"Proofreading"(日本語の「校正」とは、ちょっとニュアンスが違うので、"Proofreading"という言葉を用いる。徹底的な読み返しのこと)が重要なのか、よくわかった。

スペルミス、タイプミスなどのケアレスミスが多いと、報告書の信用度を大きく棄損する。

報告書作成者が”Proofreading"をしていなければ、報告書の品質は保てず、そんな人が実施した調査や実験はミスがあるのではないかという印象を与える。

また、筆者の経験からいうと、読み返しの習慣は簡単なものなので、他の人に一度注意されたら、ほとんどの人が実行するようになり、次回からはミスは相当減る。

それでもミスが減少しないということは、本人がやる気がないということだと思う。

もともとSTAP細胞の真偽についての論争は、STAP細胞実験がなかなか再現できないというところから出たものではなく、小保方さんの過去の論文の発表資料の使い回しがあったり、早稲田大学での英文の博士論文の序論の部分の大半が、米国国立衛生研究所のサイトのES細胞に関する説明コピーだったということに端を発した。

これはネットのブロガーなどが見つけた不備で、STAP細胞の発表から1週間も経っていなかったので「クラウド査読」として話題になった。

製本して国会図書館に収められた博士論文が草稿段階のものだった。だから、相当な部分がコピペだった?

小保方さんだけの責任ではないかもしれないが、あり得ない言い訳だ。

この件に関しては、アマゾンのカスタマー・レビューで同じ意見を書いている人もあり、これまた賛否両論のコメントが寄せられている。


ともあれ、この本のあらすじを紹介する。

小保方さんは、高校受験に失敗し、大学はAO入試で入れる早稲田大学を選択した。早稲田では体育会のラクロス部で活躍し、理工学部の応用化学科に進学した。応用化学科に進学したのは、組織工学による再生医療に強い興味を持っていたからだ。

組織工学は、細胞と足場になる材料を用いて、生体外で移植可能な組織を作りだすものだ。

この分野が注目を集めるきっかけとなったのは、のちに小保方さんが留学するハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が人工的に作られたヒトの耳をマウスに移植した「バカンティ・マウス」を発表したからだった。

Vacanti_mouse








出典:Wikipedia英語版

組織工学を研究するために、早稲田大学が提携していた東京女子医大先端生命医科学研究所で、大和雅之教授の指導を受けて細胞シートを用いた再生医療技術を研究し、それが縁でハーバード大学に留学する。

ハーバード大学ノバカンティ研では、東京女子医大に比べると設備が揃っていなかったという。バカンティ教授は、麻酔学教室の教授であり、組織工学の第一人者ではあるが、ハーバード学内外で、あまり支援を受けていなかったようだ。

この本の最初の部分は、小保方さんが行った実験に関する技術的な説明で、脚注もないので、あまり一般読者を意識したものになっていない。

覚えておくべきなのは、もともと単一細胞の受精卵から細胞分裂を繰り返して体の各組織が形成されていくなかで、エピジェネティクスと呼ばれる、いわば鍵がかけられ、分化した細胞には多能性は失われるということだ。

そのエピジェネティクスを解除する方法が、iPS細胞では、4つの遺伝子で、STAP細胞は弱酸性の環境である。

STAP細胞の発表の際に、発表の司会を務めていた亡くなった笹井副センター長が、得意顔で「これでiPS細胞が時代遅れとなったとは、決して考えてほしくない」(正確な表現は思い出せないので、筆者の記憶)というようなコメントをしていたことを思い出す。

その時にマスコミに示され、あとで回収されたSTAP細胞とiPS細胞の間違った比較図は、いまだにネットで検索すると手に入る。

STAPiPS比較


















出典:インターネット検索

小保方さんは、バカンティ研所属の研究員として、理研の若山研で、バラバラのリンパ球にストレスを与え、Oct4陽性細胞に変化していくことを確かめる実験を行っていた。これが次のビデオにある実験の第一段階で、STAP細胞研究の発表の際に、公表されたスライドの緑に光る細胞だ。

その次の段階として、Oct4陽性細胞という多能性を示す細胞を使ってキメラマウスをつくる実験は、若山教授が担当していた。これはSTAP幹細胞への変化を立証するものだ。

最初は失敗の連続だったが、Oct4陽性細胞をマイクロナイフで切って小さくした細胞塊を初期胚に注入してキメラマウスができたという連絡があった。

しかし、これはゴッドハンドの若山教授しか成功していないもので、若山教授自身も「特殊な手技を使って作製しているから、僕がいなければなかなか再現がとれないよ。世界はなかなか追いついてこれないはず」と話していたという。

この作製方法は、結局小保方さんには明かされなかった。「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と言われたという。

キメラマウス作製のデータを作る際には、つじつまの合うデータを仮置きして、ストーリーにあわせたデータを作っていくという若山研での方法に従って行われた。

特許申請の手続きも開始され、若山教授は幹細胞株化は若山研の研究成果であり、特許配分も若山教授51%、小保方さん39%、バカンティ教授と部下の小島教授に5%ずつという特許配分を理研の特許部門に提案していた。

このころ、先輩研究員から、「若山先生の様子がおかしい」と言われたという(このあたりが伏線となる)。

小保方さんは、理研のユニットリーダーに応募して合格し、英語の論文をまとめるための指導教官として笹井芳樹副センター長が加わってきた。

STAP=Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotencyという名前を考えたのも笹井教授だ。

STAP論文は5ページくらいのアーティクルと3ページくらいのレターとして、ネイチャーに投稿していた。何度かのやりとりを経て、2013年12月にネイチャーからアクセプトの連絡があり、2014年1月28日に記者会見を開催した。



このときに使われた上記のiPS細胞との比較図に京大の山中教授が抗議して、理研はあとで配布資料を回収し、笹井教授は山中教授に謝罪している。

論文発表から1週間で、前述の通り、論文の写真の使いまわしの疑義があるという話が分子生物学会から理研に持ち込まれた。あとはご存知の通りの顛末だ。



この本で小保方さんは誰かがES細胞を混入させた可能性があるという状況証拠をいくつも上げて、その立場にいたのは研究室の責任者の若山教授ではないかと思わせるような発言を繰り返している。

さらに、若山教授は、論文撤回の際にも、他の著者たちに知らせずに単独で撤回理由書の修正を依頼していたという。

論文撤回の部分はともかく、誰かがES細胞を混入させたなどという証拠もない話を信じるほど世の中は甘くない。

若山教授もいい迷惑だと思う。

小保方さんは、NHKにも、また毎日新聞の須田桃子記者にも逆襲している。

「特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせられるものがあった。」

須田さんは、先日読んだ「捏造の科学者」という本を書いている。須田さんは小保方さんの早稲田大学理工学部の先輩だ。

捏造の科学者 STAP細胞事件
須田 桃子
文藝春秋
2015-01-07


一方、今年に入って、ドイツのハイデルベルグ大学の研究チームが、小保方さんの作成手順を一部変更する形で細胞に刺激を与える実験を行い、多能性を意味するAP染色要請細胞の割合が増加することを確認したとする論文を発表している。

STAP細胞が再現できる可能性も出てきた。

筆者も、STAP細胞が再現できることはありうると思う。しかし、問題は、それが酸に浸されて死にゆく細胞の最後の光なのか、それともその後STAP幹細胞となる細胞分裂の始まりなのかという点だ。

ドイツでもキメラマウスはできていない。

結局、STAP細胞は単なる捏造騒動に終わるのではないかと思う。

最後に、アマゾンのカスタマー・レビューで、小保方さんの文章力をほめるレビューが結構ある。しかし、筆者はこの本は小保方さんの話をゴーストライターがまとめたものだと思う。

あのメモ程度の文章力しかない人が書ける文章ではない。

obokatamemo















出典:”小保方メモ”ネット検索

この関係では「ビジネス書の9割はゴーストライター」という本のあらすじを紹介しているので、業界事情を参考にしてほしい。




これからも小保方さんは逆襲に転じるのだろうと思う。これは共同研究者同士のいわゆる「内ゲバ」に近い。STAP細胞というアイデアが実用化できない以上、無益な戦いに思えるのだが…。


参考になれば次クリックお願いします。



碧素・日本ぺニシリシン物語 戦時下の日本の抗生物質生産



以前紹介した畑村洋太郎さんの「技術大国幻想の終わり」に、畑村さんが学究の道に入るきっかけとなった本として紹介されていたので読んでみた。



この物語の中心人物、陸軍軍医少佐稲垣克彦は、東京大学医学部在学中に陸軍の依託学生となり、軍医任官後は、旧満州などの勤務を経て、昭和17年に陸軍軍医学校の教官となった。

稲垣軍医少佐は、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月に設立された総力戦研究所に在籍していたこともあり、その関係で、各省庁に知人がいた。総力戦研究所は、日本のトップ頭脳を集めた研究所で、第1期生35名が太平洋戦争が始まる前に、「総力戦机上演習」で日本必敗という結論を出し、時の東条英機首相が激怒して、一切極秘を厳命したという経緯がある。この話は、猪瀬直樹さんの本に詳しい。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
猪瀬 直樹
中央公論新社
2010-06-25


稲垣少佐は、米国から交換船で帰国した人が持ち帰った「フォーチュン」の記事で、当時治療薬として広く用いられていたサルファー剤(当時はドイツ語読みで「ズルフォン剤」と言われていた)が効かない病気にもペニシリンが奇跡的に効くと知った。

さらに情報を求めて、文部省の知己を訪問すると、ドイツから潜水艦で運ばれてきたばかりの医学雑誌を手渡された。この雑誌は英米のペニシリン研究に関するドイツの医学論文が掲載されていた。それにはカビから得られた抗菌性物質のペニシリンは、肺炎、膿胸、敗血症などを引き起こす肺炎双球菌、ブドウ球菌、連鎖球菌や、破傷風、ガス壊疽を起こすグラム陽性嫌気性細菌などの発育を阻止する力を持つと書かれていた。

ガス壊疽、破傷風、敗血症はいずれも軍陣医学にとって重要な感染症だ。

ドイツからの潜水艦による輸送については、このブログで紹介した「深海の使者」に詳しく紹介されている。この本では、様々な情報を総合して、ドイツの医学雑誌は、伊ー8号によって運ばれ、途中のシンガポールからは空輸されたのではないかという推測をしている。

深海の使者 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋
2011-03-10


ペニシリンはよく知られているとおり、英国のアレクサンダー・フレミングが、生育していたブドウ球菌のシャーレに青カビが発生していることを発見し、それから細菌を殺す効果のあるペニシリウムというカビを見つけたことから発明された。ペニシリンは最初の抗生物質だ。

アレクサンダー・フレミング(切手になっている)

Faroe_stamp_079_europe_(fleming)











出典:Wikipedia

当初、ペニシリンはカビから得られる量が少ないことから注目されていなかったが、オックスフォード大学のフローリーチェインがペニシリンに再注目し、米国のロックフェラー財団の支援を得て研究を続け、臨床試験で非常な効果があることがわかった。

第二次世界大戦がはじまると、傷病兵の治療用に大量のペニシリンが必要となったので、1943年の後半から米英で大量生産された。

実用化されたペニシリンQ176株は、米国の北部農業研究所があったイリノイ州ピオリアに住む主婦が、研究所がカビを探していることを新聞で読み、カビの生えたメロンを届け、このメロンから採取されたカビにX線を照射し、さらに紫外線を照射して生き残ったカビから生育されたものだ。

戦争が終わった1945年12月にフレミング、フローリー、チェインの3人はノーベル医学賞を受賞している。

稲垣少佐の文献研究とちょうどタイミングを同じくして、当時中立国だったアルゼンチンの朝日新聞ブエノスアイレス支局から、「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾い ズルホン剤を補ふペニシリン」という特派員報告が昭和19年1月27日の朝日新聞に掲載された。

これに衝撃を受けた陸軍省は、その日のうちに「ペニシリン類化学療法剤の研究」を昭和19年8月までにという期限付きで、陸軍医学校に命じた。

第1回ペニシリン会議が昭和19年2月1日に開催され、七三一部隊で有名な石井四郎軍医少将も出席して、積極的に質問していたという。石井中将(その後昇格)は戦後、戦犯とならず(米国に細菌戦の情報を提供したためといわれている)、米国に招かれ朝鮮戦争時に米国がひそかに行った細菌戦を指揮したという噂がある。

陸軍医学校では勤労奉仕の一高生を30名ほど受け入れ、一高生は翻訳などに取り組んだ。日本各地の大学、研究所、製薬メーカーではペニシリン培養用に最適な培地とカビを探すために、様々な努力をしていた。そのうちこんにゃくの培地に蛹の煮汁を加えたものが良好な成果を示したが、当時はこんにゃくは秘密兵器風船爆弾の糊に使われるために入手困難だった。

東北帝大では、試作ペニシリンのマウス実験に成功し、発見菌株は「ペニシリウム・ノターツム・クロヤ・コンドウ」株と名づけられ、次第に力価を高めていった。東北帝大では臨床試験も実施し、9月には新聞にも報道され、特効薬・ペニシリンを求める人が東北帝大に殺到したという。

当時のペニシリンは純度が低かったが、不思議とよく効いた。純度が低いため、体内にとどまっている時間が長かったので、よく効いたのではないかといわれている。

昭和19年10月にはドイツからペニシリン菌株と資料が中立国とシベリア鉄道経由届いたが、ドイツの研究は遅れており、日本の菌より力が弱かった。昭和19年の初めに、ヒトラーは自分の主治医をペニシリンの発見者として第一級鉄十字勲章を与えていた。しかし、この発表はねつ造であることが戦後発覚した。ヒトラーのあせりがうかがわれる。

日本のペニシリンの初期投与者には、南京に新日傀儡政権を樹立した後、日本に亡命していた汪兆銘がいる。汪兆銘は、名古屋帝大の附属病院に入院していた。骨髄腫だったので、ペニシリンの薬効はなく、昭和19年11月に死亡している。

この本では、東大医学部、東大農学部、伝染病研究所、東京女高師、海軍が依託した小林研究所(ライオン歯磨)、慈恵医大、慶応大学など、日本各地の研究機関で物資が乏しい中、一斉に研究が進められていた様子を描いている。

昭和19年11月には朝日新聞はじめ各紙が、「短期間に見事完成 世界一ペニシリン わが軍陣医学に凱歌」という題で大々的に研究成果を報じている。

しかし、物資不足に悩む日本では量産化できる工場はほとんどなかく、万有製薬、宇治化学、三共、帝国臓器などのメーカーが関心を示していたが、最終的に森永乳業の三島工場(当時は森永食糧工業の三島食品工場)で、試験生産が始まることになった。

牛乳からバターなどを取った残りのホエイを培地にして、森永ではペニシリンの生産が続けられ、陸軍病院や大学病院に送られた。当時の生産量の記録は残っていない。

戦時中のことでもあり、ペニシリンという名前は敵性語だということで、「碧素」という日本名がつけられた。この本では、昭和19年11月末にはB29による東京空襲が始まり、日本各地が爆撃を受ける中でのペニシリン生産と、負傷者に適用されたペニシリンの高い薬能を紹介している。

軍医学校も昭和20年5月に焼け落ち、疎開資料は東京帝大と山形県に送られた。東京帝大の寄託資料は、東大紛争の時に、学生が衛生学教室に乱入し、資料を焼いてしまった。もう一つの山形県に送られた資料は、戦後エーザイの創業者の内藤記念くすり資料館(岐阜県)に移され、日本のペニシリン研究資料として展示されている。

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出典:Wikipedia

この本の最後の方に、終戦直前の昭和20年7月に稲垣少佐が家族を疎開させていた沼津市近郊の志下(しげ)に行くために沼津駅から江梨行きの木炭バスを待っていた時のエピソードが載っている。稲垣少佐の軍服につけた軍医の胸章に気付いた客から、甥が敗血症で死にかかっており、どうしても碧素を手に入れたいという相談を受け、持っていたペニシリンを渡し、あとは森永の工場からもらうように伝えたという。

戦後30年経って、昭和50年に放送されたNHKのスポットライトという番組の「碧素誕生」という回に、稲垣さんが出演し、依頼を受けた大谷実雄さんと30年ぶりに再会し、ペニシリンで救われた川口隆次とも会っている。

ちなみに、この沼津駅発江梨行きのバスは今でも運行しており、筆者も西伊豆の戸田に行くときに利用している。山本コータローの「岬めぐり」のバスのような、海と山の間を走るバスだ。



戦後は「ペニシリンは儲かる」という話が広まり、昭和22年にペニシリン協会に加盟していた会社は80社を超え、製薬メーカーはもちろん、台糖、菓子メーカー、合繊メーカー(東洋レーヨン(東レ))まで種々雑多な業種が参入していた。

昭和21年1月にGHQは突然日本のペニシリンの販売を禁止した。そして5月に突然販売禁止が解除された。なんの理由も発表されなかったが、日本のペニシリンは世界の水準に達していないというのが理由だったという。

GHQは昭和21年8月にペニシリン研究の権威、テキサス大学のJ.W.フォスター教授を招いて、日本各地でペニシリン生産上の秘訣を公開講演し、日本各地の工場を積極的にまわって指導した。フォスターは「日本ペニシリンの恩人」と感謝されている。

日本のペニシリン生産は、昭和21年3万単位、1万1千本が、昭和22年10万単位、6万5千本、昭和23年には10万単位、25万6千本と加速度的に増加し、昭和23年からペニシリンが広く一般に使われるようになった。日本で広く使われたのが前述のピオリア市の主婦が届けてきたメロンから採集したQ176株だ。

昭和24年には国内需要を満たし、昭和25年には朝鮮戦争が起こったために、米軍が買い上げて、日本の薬品が外貨を獲得した最初となり、ペニシリン生産額はさらに増大した。

昭和10年の日本人の平均寿命は50歳で、明治20年ころからほとんど変わっていなかったが、ペニシリンが広く使われるようになった昭和23年から日本人の平均寿命は急に延びはじめ、昭和26年からはストレプトマイシンが使われるようになって日本人の結核による死亡者は激減し、昭和30年に65歳に達した。

今や様々な抗生物質が市場に出ている。

この本にも登場する稲垣さんの東大医学部の同窓で、東大伝染病研究所に勤務していた梅沢浜夫さんが書いている「抗生物質の話」も読んだので、今度あらすじを紹介する。

1962年の発刊だが、日本の抗生物質研究の第一人者が書いた本なので、抗生物質の基本がわかり参考になる。



筆者自身も5歳の時に骨髄炎にかかり、たしかアクロマイシンという抗生物質で完治した。左腕に手術跡があるが、今はなんともない。

そんな体験があるので、興味深く読めた。

古い本だが、大きな図書館なら置いているところがあると思うので(筆者も港区図書館から借りて読み、大変気に入ったのでアマゾンのマーケットプレースで買った)、最寄りの図書館をチェックしてみてほしい。


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iPS細胞が医療をここまで変える iPS細胞研究の最新情報

iPS細胞が医療をここまで変える (PHP新書)
京都大学iPS細胞研究所
PHP研究所
2016-07-16


2006年に発表されたiPS細胞の発見から10年経って、現在のiPS細胞研究の現状をまとめた本。

京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授が監修している。

iPS細胞の基本的なことについては、以前山中教授と益川教授の対談「『大発見』の思考法」のあらすじで紹介しているので、こちらを参照願いたい。

「大発見」の思考法 (文春新書)
山中 伸弥
文藝春秋
2011-01-19


iPS細胞は、細胞に3〜4の遺伝子を加えると、体のどんな細胞にも変化できる幹細胞となるというものだ。

iPS細胞はほぼ無限に増やせ、ほぼすべての細胞になることができる。

用途としては、本人の細胞から網膜や臓器など、いろいろな部位を拒否反応なしでつくる再生医療と、マウスなどの動物を使用せず、直接ヒトの細胞をつかって薬のテストや病気になるメカニズムを解明する病気や薬の研究だ。

これらの研究には従来ES細胞という受精卵を用いた細胞が使われてきたが、受精卵という将来人間に成長する可能性のある細胞を研究に使うことに倫理的な問題があり、米国のブッシュ政権はES細胞の研究に公的研究費の支給を禁止した。

iPS細胞は、ES細胞と同様の初期化された細胞でありながら、倫理問題がなく、しかも本人の細胞を使えるということで、画期的な発明である。

さて、最初のiPS細胞発見の発表から10年経って、この本では日本や世界の次のような研究機関でのiPS細胞研究や支援の現状をリポートしている。

日本
・京都大学CiRA(iPS細胞研究所、サイラ)
CiRA、理化学研究所、大阪大学、神戸市立医療センターの共同による加齢黄斑変性の患者に対する他人のiPS細胞からつくった網膜の細胞移植成功

米国:
UCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ分校)の山中教授が兼任しているグラッドストーン研究所
・スタンフォード大学
・カリフォルニア再生医療機構
・ニューヨーク幹細胞財団
・ハーバード幹細胞研究所

ヨーロッパ・アジア:
・カロリンスカ研究所(スウェーデン)
・ユーロ・ステム・セル
・ケンブリッジ大学
・シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)
韓国・CHAヘルスシステムズ

残念ながらここで特筆するような研究成果はなく、発見から10年たっても、基礎研究の段階のところが多い。

ただ、再生医療の分野では、数万あるといわれている細胞のHLA型のなかで、父からも母からも同じHLA型を受け継いだHLAホモ接合体の人の細胞を使ってiPS細胞をつくると、拒絶反応が少なく移植できるという話はグッドニュースだ。

再生医療では、次が5年以内に臨床応用が見込まれている。

・ドーパミン産出神経細胞(パーキンソン病治療)
・角膜
・血小板
・心筋
・軟骨
・神経幹細胞

筆者の亡くなった母もパーキンソン病を患っていた。

この本では、娘と息子が先天性糖尿病なので、糖尿病の治療法を研究している米国の学者など、医学の発展のために日夜努力している研究者が多く紹介されている。

時間はかかるだろうが、少しずつは進歩している。ぜひ早急に実用化につなげてほしいものである。


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卵を1日2個以上食べてもコレステロールは上がらない?

会社の診療所に行った時に、いつも「ロハス・メディカル」という月刊の院内情報小冊子を待ち時間などに目を通すが、その2015年7・8月号に「それって本当?タマゴを一日2個以上食べてもいい」という記事があった。

卵とコレステロール_ページ_1















卵とコレステロール_ページ_2














出典:「ロハス・メディカル」2015年7・8月号 P2〜5

なんと20世紀初めにウサギを使って、卵の白身や卵黄を食べさせたら、血管や内臓疾患が発生したという実験が、いままでタマゴを食べると血中のコレステロールが上がるという説の根拠だったという。

実はウサギは草食動物で、自分ではコレステロール生成ができない。卵黄などを食べさせたら悪影響が出るのは当然で、実験結果を雑食動物の人間に当てはめることは無理があった。

同じロハス・メディカルの2015年5月号にあるように、人間の血中のコレステロールのほとんどは体内で作られるので、食品中のコレステロールは関係ないことがわかったのだ。

本当にコレステロールを上げるのは、マーガリンなどに含まれるトランス脂肪酸ではないかという説が現在は支配的だという。

実はこの説は比較的最近出てきたもので、米国でも今年の2月に農務省と保健福祉省が、コレステロールの一日当たりの摂取量の上限を廃止する草案を発表したばかりだ。

筆者もコレステロールが上限値に近いので、いままで卵は食べるときでも、1日1個に制限していたが、これからはどうやらあまり気にする必要はなさそうだ。

大変役立った。

病院に行ったら、この「ロハス・メディカル」を待合室に置いているところも多いので、見つけたらぜひ一度目を通すことをおすすめする。


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生ませない社会 産科医療の実態



読書家の友人に勧められて読んでみた。

日本はいよいよ人口減少時代に入り、出生数も減少している。

日本_出生数と合計特殊出生率の推移














出典: Wikipedia Commons

出生数が減れば、産科の数もそれにしたがって減少するのは、やむを得ないところだが、日本の場合には出生数の減少以上に、産科の数の減少が激しい。

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出典:医療施設(動態)調査・病院報告の概況(全日本病院協会 医療行政情報)

たとえば1990年と2007年を比較すると、出生数は124万人から110万人に14万人、10%強減っている。一方、産婦人科数は一般病院では2、189から1,344に減少している。実に40%弱の減少だ。

ネットで検索してみたら、NTTコムリサーチが出している2007年の「産婦人科医が足りない!」というレポートが見つかったので、リンクで紹介しておく

このレポートによると、産科医の減少は出生数減少によるいわば需要減少を上回るペースで減少している、これは産科は夜間や休日でも対応が必要で、勤務がきついうえに、医療過誤で訴えられるリスクが高いからだ。

この本によると、ある大学病院の40代の産婦人科医の賃金は年間1,000万円程度で、アルバイトしたほうが高い給与が得られるという。

医療過誤保険の料率が高いため、若い医者は到底負担できないことも、産科医の高齢化が目立つ理由の一つだろう。

この本では、異常な産科医の労働条件が改善することが難しいなら、米国のように医療費を「ドクター・フィー」(直接報酬が医師に支払われるシステム)と病院に払うホスピタル・フィーに分ける制度にしなければ、インセンティブにつながらないという意見を紹介している。

この本では医療側の事情を紹介するとともに、産む側の女性の産前産後の休暇が取りづらい状況、職場でのマタニティ・ハラスメント、同僚の冷たい態度、夫の育休の取りづらさなど、この本のタイトル通り、日本がいまだに「生ませない社会」であることをレポートしている。

もちろん中には女性従業員が妊娠し、出産しても働き続けられるように、産前産後の休みと、育休を充実させ、保育面でも企業内保育所など、数々の便宜を提供している大会社もあるが、380万社あるといわれている日本の会社は、ほとんどが中小企業であることを考えれば、このような会社はごく一部と言わざるを得ない。

ちなみに企業内保育所は、そもそもラッシュアワーに子連れで会社まで来ることがきわめて困難なので、時差出勤とセットにしない限り、あまり意味がないと思う。

日本の出産では、帝王切開の比率が上がっている。

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出典:平成22年度我が国の保健統計 35ページ

高年齢出産が増えていることも、帝王切開の増加につながっているが、この本では「医師がうまいことを言って、帝王切開に持ち込む」という助産婦の発言を紹介している。

お産をやってくれる医師不足のためアルバイト医師を使っているが、アルバイト医師には残業させられないからとか、大病院では100人に一人でも異常が起こると、訴訟になるから経験を積めず、無難に帝王切開になってしまうといった病院側の理由なのだと。

帝王切開とならんで、会陰切開も不必要に増えているという。この本では、産科医師不足のため、看護師に施術させたという証言を紹介している。

筆者の長男は米国で生まれ、次男は日本で生まれた。

いずれも大学付属病院で生まれたが、米国の産婦人科の制度は、常日頃妊婦を診ている町の産婦人科が、いざ出産となると、大学病院の出産室を借りて赤ん坊を取り上げるというシステムで、医療設備の整った大学病院で出産するので、妊婦と家族の安心感は高い。

ただし、医療保険が普通分娩では大体出産後1泊程度しか認めないので、生まれるとすぐに退院となる。帝王切開の場合には5日ほど病院にいることになる。

会社の保険でカバーされたが、たしか一泊1、600ドル?程度で、ずいぶん高いと感じた記憶がある。

次男の場合は、妊娠中の診察も大学付属病院で診てもらったので、家から車で30分程度、家内が自分で車を運転していった。いよいよとなったら、タクシーで運び込んだ。

いずれも帝王切開で生まれた。長男の時は、当初は普通分娩で頑張ったが、なかなか生まれないので、心音が弱くなってきているとの医師の判断で、帝王切開に切り替えた。

筆者も消毒を受けて手術服に着替え、分娩室に入って家内の手を握って、励ましていたが、帝王切開となるので分娩室から出され、生まれた時に新生児を抱かせてもらった。

今は日本でも希望すれば、夫も分娩室に入って妻を励ますことができるのかもしれない。

次男のときは、日本で帝王切開だったので、生まれてすぐの処置が済んで新生児室に運ばれてくるのを待つばかりだった。

この本を読んで、昔のことが思い出される。


300ページ余りの本で、具体例をたくさん挙げている。

日本の産科医療にも、また妊婦の職場での処遇や産後の勤務待遇にも改善すべき点が多いことがよくわかる本である。


参考になれば次クリックお願いします。


山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた ノーベル賞受賞直後の自伝

山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた
著者:山中 伸弥
講談社(2012-10-11)
販売元:Amazon.co.jp
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山中教授のノーベル賞受賞決定直後に出版された本。本の帯には「唯一の自伝」となっている。出版社は実にタイミングの良い出版を考えるものだ。この本は現在売り上げランキングの50位前後にある。

出版とほぼ同じタイミングで図書館で予約して、さっそく読んでみた。

前回山中教授とノーベル物理学賞受賞者の益川教授の対談の「大発見の思考法」のあらすじを紹介した。「大発見の思考法」は、あらすじのタイトルに記したように”ノーベル賞受賞者の知性のジャムセッション”そのもので、大変面白かったが、この本も自伝ならではの発見がある。

「大発見の思考法」のあらすじでは、他に2冊の本も読んで、iPS細胞がどういうものなのかもふくめて詳しくあらすじを紹介しているので、参照して欲しい。

「大発見」の思考法 (文春新書)「大発見」の思考法 (文春新書)
著者:山中 伸弥
文藝春秋(2011-01-19)
販売元:Amazon.co.jp
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この本は「大発見の思考法」では触れていないiPS細胞研究上の様々な試み、決して順調ではなかった山中教授のいままでの研究生活、それと山中教授と一緒に研究してきた仲間などについて山中教授自身が書いている。

たぶん山中教授の話をライターがまとめたのだと思うが、英語の会話すら、こんな感じで大阪弁訳になっている。

「シンヤ、シンヤ」

「どないしたん?」

「あんたのマウスがいっぱい妊娠してんねん」

「そりゃ、妊娠くらいするやろ」

「いや、妊娠してんのはオスのマウスやねん」

これはマウスにコレステロールを下げる遺伝子の働きを強める操作をしたところ、その遺伝子ががん遺伝子で、マウスが肝臓がんになって肝臓が膨れ上がってしまったのだ。

第2部はフリーライターとのインタビューで、第1部が140ページ、第2部が50ページという構成だ。

いくつか印象に残った話を紹介しておく。

山中教授の生い立ちや、「人生塞翁が馬」というモットーを持つに至った、決して順調でない研究生活については「大発見の思考法」のあらすじを参照してほしい。


ノックアウトマウスに魅了(ノックアウト)される

山中さんはのノックアウトマウスの精度の高さに魅了されたという。

ノックアウトマウスは、25億の塩基対(2本のDNA結合)のうち、わずか1個の遺伝子だけつぶす技術だ。

文字数にたとえると、この本の1ページ当たりの文字数が600個なので、25億個だと416万ページ、つまり200ページの本が2万冊以上となる。それだけの本の中から、たった一か所を探し出して黒く塗りつぶしたのがノックアウトマウスなのだ。

iPS細胞発見も、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんと、後述の徳澤さんの貢献が大きい。


VWとプレゼン力

山中教授がしばしば口にするVWとは、フォルクス・ワーゲンではなく、山中教授の恩師のUCSFグラッドストーン研究所のロバート・メーリー所長の言葉だ。Vision & Work Hardだという。メーリー所長は「VWさえ実行すれば、君たちは必ず成功する。」と言っていたという。

VWと並んで、山中教授が強調するのは、プレゼン技術だ。アメリカ留学で身に着けたプレゼン力が、その後何度も山中教授を救った。

奈良先端大学で、上に教授のいない研究室主宰者としてはじめて独立したラボを持てることになったときも、VWにならって、ES細胞ができれば、どれだけ素晴らしいことができるかというビジョンをプレゼンに織り込んで、3人の大学院生を獲得したという。

それが現在も山中教授のもとで働く高橋和利講師、4つの遺伝子のうち一つのKlf4を見つけた徳澤佳美さんら3人だった。

高橋さんは、24個にまで絞った遺伝子から初期化に必要な遺伝子4個を特定するのに、大変功績があった。山中さんは、高橋さんのとりあえず24個いっぺんに入れて、一つ一つ減らしていくという発想に、「ほんまはこいつ賢いんちゃうか?」と思ったという。高橋さんはこの考え方をもとに、1年かけてきちんと実験し、4個の遺伝子を見つけた。


京都の作り方

この本ではiPS細胞の働きを説明するのに、「京都の作り方」という本があったと仮定して説明している。作業員に指示するときに、「京都の作り方」の一部だけコピーして渡すのか、全部コピーして、必要な場所にしおりを入れて渡すのかという問題だ。

どちらが正しいか論争があったが、山中教授が生まれた1962年にイギリスのジョン・ガードン教授がカエルの腸の細胞から、オタマジャクシを作ることに成功して、論争に決着をつけた。成体のカエルまでは成長できなかったが、ちゃんとオタマジャクシは作ることができたのだ。

これが山中教授が、「ガードン教授の研究がなければ、iPS細胞研究はなかった。ガードン教授と一緒にノーベル賞を受賞できることがなによりもうれしい」と語っている理由だ。


山中教授がPADを克服するのに役立った本

山中教授が、アメリカ留学から帰って来て、あまりの研究環境の違いに、うつのようになり、ベッドから起き上がれなくなったという話は、「大発見の発想法」で説明していたが、その状態を山中教授はPAD(Post America Depression)と呼んでいる。

そのPADを克服するのに役立った本として次の本を紹介している。

仕事は楽しいかね?仕事は楽しいかね?
著者:デイル ドーテン
きこ書房(2001-12)
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今度読んでみる。


CiRA(京都大学iPS細胞研究所)はオープンラボ

山中教授が所長を務めるCiRA(サイラ:京都大学iPS細胞研究所)は米国グラッドストーン研究所をモデルとして、オープンラボ形式になっている。

実験スペースは共用で、研究室に仕切りはなく、教授室もラボとは別に横に並んでいる。高性能の装置をみんなで使うという考え方だ。


最後にiPS細胞の一日も早い医療応用のための、iPS細胞研究基金への支援を呼びかけて、この本は終わっている。山中教授自身も大阪や京都のマラソン大会に出場し、基金への支援を呼びかけているという。

ノーベル賞受賞後の記者会見の「私は無名の研究者だった。国に支えていただかなければ、受賞はできなかった。日本という国が受賞した。」という発言にも感心した。「大発見の思考法」のあらすじでも書いたように、山中教授の謙虚さには敬服する。



この本でも一緒に研究にあたった高橋講師や徳澤さん、ノックアウトマウスをつくった技術員の一阪さんなどの同僚の名前と具体的な貢献を紹介して感謝しており、ノーベル賞を共同受賞したガードン博士はじめ先達や、競争相手のウィスコンシン大学チームなどの業績も紹介している。

なんて気配りができる研究者なんだ!

200ページ余りの本で、簡単に読める。「大発見の思考法」と一緒に読むことをおすすめする。


参考になれば次クリック願う。




世界で一番売れている薬 実は日本人が発見していた

世界で一番売れている薬世界で一番売れている薬
著者:山内 喜美子
小学館(2006-12-15)
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世界で一番売れている薬

世界で一番売れている薬をご存知だろうか?

それは「スタチン」と総称される高コレステロール治療薬だ。アメリカのファイザーやメルクなど主要な製薬メーカーが販売しており、欧米で7種類、日本で6種類のスタチンが販売されている。

なかでもファイザーの「アトルバスタチン」が、世界の医薬品売上ランキングのダントツトップを占めている。

そのスタチンは1973年に当時三共にいた日本人の研究者によって青カビから発見された。しかしスタチンは日本では商品化されず、アメリカのメルクが「ロバスタチン」としてはじめて商品化した。1987年のことだった。

この本では、日本人研究者がスタチンを初めて発見していながら、日本では商品化されなかったストーリーを描いている。


遠藤さんの経歴

スタチンの発見者・遠藤章さんは、1938年に秋田県の農村に生まれた。東北大学農学部の農芸化学科を卒業し、在学中に影響を受けた本の一つは、ペニシリンの発見者フレミングの伝記だったという。

フレミング博士―ペニシリンの発見 人類の恩人 (1954年)
著者:L.J.ルドヴィチ
法政大学出版局(1954)
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1957年に三共に入社した遠藤さんは、最初は研究所ではなくカビからつくった酵素を作っている田無工場に配属される。この時の研究で貴腐ワインをつくる薬剤を製品化し、その研究で1966年に農学博士となっている。

1966年からニューヨークのブロンクスにあるアインシュタイン医科大学にポスドクとして2年間留学して、高コレステロールで悩んでいるアメリカ人が多いことを知る。

留学時代には、ニューヨーク郊外にあるウッドローン墓地にある尊敬する野口英世の墓と、三共の創始者の高峰譲吉の墓を数回訪れたという。


コレステロール低下剤の開発

遠藤さんは帰国して三共の醗酵研究室に戻り、青カビからML−236Bと呼ばれるコレステロール低下剤を発見する。

ラットに使って、コレステロール低下が認められないので、一度は研究は打ち切られそうになるが、あきらめず研究をつづけ、ラットに効かなくてもイヌには効いたことで復活する。

1976年にはイギリスのビーチャム社(現グラクソ・スミスクライン社)が「コンパクチン」と名付けた抗生物質を発表した。遠藤さん達が発見したML−236Bと全く同一の物質だとわかったが、三共は1974年に特許出願していたので、三共の特許取得に問題はなく、三共は「メバスタチン」として臨床試験を開始した。

コレステロール研究の第一人者で後にノーベル医学書を受賞するテキサス大学のゴールドスタインブラウン教授から「メバスタチン」を使ってみたいという申し出はあったが、日本での臨床実験を優先した。


三共での開発の遅れ

ところが当の三共で社内の勢力争いが起き、中央研究所が開発したRWX−163で醗酵研究所のML−236Bを葬ろうと画策し、発見者の遠藤さんをML−236Bの担当から外すことになった。RWX−163はラットのコレステロール低下に効果があったという。

ML−236Bに注目した金沢大学と大阪大学の医師が、遠藤さんと遠藤さんの上司のみが知る秘密プロジェクトで、ML−236Bのヒトへの適用をはじめ、コレステロール低下が確認され、三共は重い腰を上げて、ML−236Bを開発商品として正式に認定した。


メルクのアプローチ

一方、アメリカのメルクは、コレステロールの研究者でNIHにいたロイ・バジェロスを研究所の所長として迎え入れ、コレステロール低下剤の開発に力を入れていた。

三共の特許公開後、メルクは1976年に秘密保持契約を結んでML−236Bの試薬提供を依頼してきた。しかし、その秘密保持契約には重大な欠陥があり、試薬をメルクが分析して、その知見を自社の開発に生かすというような事態となっても、秘密保持契約違反には当たらないという条項があった。

著者の山内さんは、秘密保持契約にいかにも重大な欠陥があったように書いているが、商社で鉄鋼原料やインターネットビジネスの営業を担当してきた筆者から見れば、一般的な条項だと思う。

以下の話にある通り、メルクが三共のお人よしにつけこんで、うまくこの条項を利用したというべきだろう。「生き馬の目を抜く」といわれるビジネス界ではありうることだ。


メルクの開発と特許戦略

三共は秘密保持契約の欠陥に気づいていたが、大きなリストと考えず、最初に5g、バジェロスが来日して追加要請があって1977年に100gサンプルを提供した。メルクは1978年に結果は良好だったとして、報告書のコピーを送ってきて、独占ライセンス交渉を要求した。

また、メルクはML−236Bと自社の製品を組み合わせた発明で、特許を申請すると三共に申し入れてきた。まさに秘密保持契約の欠陥を利用した行為で、三共にとっては「敵に塩を送る」結果となった。

メルクと提携して世界規模の開発を期待していた三共は、淡い期待を裏切られることとなる。ちなみにバジェロスはこれらの功績で、1985年にメルクのCEOに就任している。

遠藤さんは1978年に三共を退職し、東京農工大学助教授に転職した。研究活動を続けるためという理由だった。遠藤さん自身は否定するが、メルクの戦法に引っかかった三共の経営陣への幻滅もあったのではと著者の山内さんは推測する。

遠藤さんは東京農工大学で紅麹の研究から、1979年に偶然コレステロール合成阻止剤を見つけ、「モナコリンK」と名付ける。これにもメルクが試薬提供を求め、分析した結果、メルクが発明したMK803と同一物質だったと連絡してくる。

メルクは自社特許を成立させるべく米国の「先発明主義」を使って画策した。しかし論文を学術雑誌に投稿し、それが受理されるという「科学の世界の不文律」から、モナコリンの特許が認められ、メルクは三共から特許実施権を買うことになった。モナコリン雑誌掲載は1979年、メルクは1980年だったのだ。

金沢大学の医師が「ニューイングランド・ジャーナル」でML−236Bの効果を発表した論文が注目を集めたにもかかわらず、ML−236Bは国内で試験中に「イヌで副作用が生じた」という理由から開発中止となる。発がん性物質が発見されたのではというもっぱらの噂だった。


メルクが商品化一番乗り

メルクも三共の開発中止に驚かされたが、自社特許を使ってFDAに新薬申請を行い、1987年に「ロバスタチン」として商品化し、世界で最初に商品化されたスタチンを作り出した。

三共は結局メルクに遅れること2年、1989年に「メバロチン」として商品化した。ピーク時の1999年には輸出分とあわせると1,850億円の売り上げがあったという。


世界で一番売れている薬

その後さまざまな「スタチン」が製造され、現在では1997年に売り出された「アトルバスタチン」が「ロバスタチン」の3倍の強さを誇り、総コレステロールとLDLコレステロールを60%下げる薬として世界売上トップにある。スタチンを使っている人は世界で3千万人と推定され、市場規模は3兆円程度(2005年度)だという。

三共の特許は「メバロチン」の特許が、国内では2002年、米国では2006年に切れ、ジェネリックが出回っている。


「日本国際賞」受賞もむなしく感じる

遠藤さんは72歳のときに、2006年の「日本国際賞」を受賞している。「スタチン」の発見と開発に貢献したことが受賞理由である。「日本国際賞」はノーベル賞に匹敵するものを日本でもつくろうということで始まった制度で、授賞式には天皇皇后両陛下、内閣総理大臣と衆参両議院議長が臨席する。賞金は5,000万円だ。

日本人の研究者が発見したコレステロール低下剤が、結局は欧米製薬大手のヒット商品つくりに貢献したような結果となった。

発見者の遠藤さんが、東北大学農芸化学出身で、ピカピカの薬学研究者でなかったこと、三共での研究所間の主導権争い、日本の製薬メーカーの(ひと言で言って)力不足、欧米トップメーカーの製品開発力と車の両輪となっている特許戦略、日本に比べて圧倒的に早い欧米の新薬認定プロセス等々、複合的な要因で生じた差なのだろう。

ほとんど話題にならなかった「日本国際賞」受賞がむなしく思える。


iPS細胞実用化では特許の専門家も加えたチームを編成

以前紹介した「大発見の思考法」のとおり、京都大学の山中教授がヘッドとなっている京大iPS細胞研究所には製薬会社出身の国際特許専門のスタッフも含め、総勢で200名のスタッフがいる。

「大発見」の思考法 (文春新書)「大発見」の思考法 (文春新書)
著者:山中 伸弥
文藝春秋(2011-01-19)
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iPS細胞研究所は基礎研究、治療法が見つかっていない病気のメカニズム研究、iPS細胞を活用した創薬や再生医療などの臨床応用、倫理・安全基準研究、知的財産権管理、広報室も備えたiPS細胞を総合的に研究する世界初の施設だ。

たぶん三共の例の他にも、知財マネジメントと開発を両輪で運用しなかったために、せっかくの研究成果を海外の企業に横取りされてしまったケースは、日本企業には多いのではないかと思う。

そういった反省も含めての京都大学iPS細胞研究所の設立だと思う。その意味で、この本も事例研究として参考になると思う。


参考になれば次クリックお願いします。






外科医須磨久善 ベストセラー作家海堂尊さんが描くゴッドハンド

外科医 須磨久善 (講談社文庫)外科医 須磨久善 (講談社文庫)
著者:海堂 尊
講談社(2011-07-15)
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現役医師でベストセラー作家の海堂尊さんが描くゴッドハンド・天才心臓外科医須磨久善さんのノンフィクション。

海堂尊さんは、医師としての専門知識を利用して、「チーム・バチスタの栄光」で文壇デビュー、チーム・バチスタシリーズで数々のベストセラーを生み出している売れっ子作家だ。放射線医学総合研究所のAi(死亡時画像診断)情報研究推進室室長を務めている。

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)
著者:海堂 尊
宝島社(2007-11-10)
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海堂さんはAi情報研究推進室室長

海堂さんの本職では、「死因不明社会」という本を出しているので、こちらも読んでみた。日本では死因をきっちり調査しないで処理される死者が多く、Ai(死亡時画像診断)により死因を特定すべきだと力説している。

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)
著者:海堂 尊
講談社(2007-11-21)
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この本は「心臓外科医 須磨久善の旅」と、「解題 バラードを歌うように」の2部構成となっており、最後にテレビドラマ「外科医 須磨久善」で須磨役を演じた水谷豊さんが解説を書いている。

最初の「心臓外科医 須磨久善の旅」は須磨さん自身が語った心臓外科医としてのキャリアだ。順番は須磨さんのアレンジにより、最初が1992年の海外での初めての公開手術、次が1986年にアメリカ留学から帰って、留学で学んだ経験を活かして始めた胃の大網動脈を使った心臓バイパス術式の開発、3回目がモンテカルロでの経験からインスパイアされて葉山ハートセンターという病院をつくった話、そして最後がバチスタ手術とのかかわりあいだ。

YouTubeで須磨さんを特集した番組がアップされているので、こちらも紹介しておく。




「解題 バラードを歌うように」

第2部の「解題 バラードを歌うように」は海堂さんの「チーム・バチスタの栄光」の映画化の時に、医療監修を須磨さんが引き受けてくれた撮影現場のエピソードだ。

こちらがバツグンに面白い。ほとんどの人が、須磨さんはどういう人かある程度イメージしていると思うので、著者の海堂さんも書いている通り、最初に第2部を読んでから、第1部を読むことをお勧めする。それぞれの面白みが倍増すると思う。

映画では外科医の桐生恭一役をやった歌手で俳優の吉川晃司は、須磨さんに最初にあった時に、挑発されたのだという。

「あなたに本当の外科医を演じることができますか?」
反発を感じながら、吉川が問い返す。
「本物の外科医って、どうやって見分けるんですか?」
とっさにしては、うまい切り返しだ。それに対して須磨さんは。
「本物の外科医は背中で語る。それができなければ一流の外科医とは言えない」
このやりとりで吉川の闘争心に火が付いたという。

桐生役の吉川は、海堂さんが見学した時、外科結紮(けっさつ)の場面で、本物の外科医と見まがうほどの見事な技術を身につけていたという。

一度は糸が絡まって失敗したが、須磨さんが「吉川さん、結紮がロックのビートになっている。ここはもっとリラックス、バラードを歌うようにやってみてください」とアドバイスすると、一発オーケーでものにした。

映画のプロモートをした席での須磨さんの発言もふるっている。「映画は成功します。女性ならみんな、吉川さんみたいな外科医に見つめられながら手術を受けたら、麻酔なんて必要なくなっちゃうでしょうからね」

海堂さんは、須磨さんに聞いたことがあるという。

「一流になるためには、地獄を見ないとダメですね」と須磨さんが言う。
「一流って、どういう人なんですか?」
「一人前になるには地獄を見なければならない。だけどそれでは所詮二流です。一流になるには、地獄を知り、そのうえで地獄を忘れなくてはなりません。地獄に引きずられているようではまだまだ未熟ですね。」

超一流の心臓外科医は、アーティストでもあることが、実感できる須磨さんの言葉である。


須磨さんのキャリア

須磨さんは神戸出身で、甲南中学出身だ。灘中や甲陽学院は当時は坊主頭だったので、死んでも丸坊主になりたくなかったから、甲南中学に行ったという。中学2年の時に医者になろうと決めた。テレビの「ベン・ケーシー」を見ていた須磨さんは、ある日自分が外科医となった夢を見た。それが医者になろうと思ったきっかけだという。



日本人による最初の海外での公開手術は須磨さんの友人が助教授を務めるベルギーブラッセルのルーベン大学病院で行われた。当時須磨さんは三井記念病院の循環器外科の科長で、日に2−3人の手術を行い、世界中から講演の依頼を受け世界中を飛び回るという多忙な生活だった。

実は筆者は当時の須磨さんをたまたま知っている。というのは、岡山で内科医をやっている筆者の義兄が、須磨さんに心臓バイパス手術を三井記念病院でやってもらったからだ。

三井記念病院は東大医学部の系列のような病院だが、大阪医大出身の須磨さんはその中では異色の経歴で、当時から日本でトップクラスの心臓外科医とみなされており、だから医者の義兄も須磨さんがいる三井記念病院で手術をやってもらったわけだ。

日本にいる半年間は一日に何件か手術をこなすが、年の半分は海外にいると聞いたので、やはり超一流の外科医は、いわゆるハイフライヤーで、優雅な生活をしているのだなと感じた記憶がある。実は講演などで世界を飛び回っていたのだ。


バイパス手術に動脈を使う

須磨さんが米国のユタ大学に留学した当時は、心臓バイパス手術には、10年もすると閉塞してしまうが使い勝手が良い静脈をつかう時代だった。一部の医者が胸の内胸動脈を使おうとしていたが、まだ少数派だった。

動脈と静脈では血圧が10倍違う。静脈を動脈代わりにつかうと、血管内皮がすぐ痛んで、血管壁がボロボロになってしまうからだ。

それでも日本の動脈使用率は世界に抜きんでて高い。日本のバイパス手術が世界で最も注目されているのだと。

須磨さんが考え抜いた末に選んだのは、胃の大網動脈だった。しかし何例か手術の成功例を紹介して日本の学界で新しい術式を発表した時に、ノー・リアクションだったという。

須磨さんは日本でのコールドショルダーにらちがあかないと考え、米国心臓協会(AHA)で発表すると、それがNHKニュースに報道され、須磨さんは一躍ヒーローになる。

しかし須磨さんは、もし人工血管が実用化されれば、これらの体の別の部位の血管を使った手術は意義を失うだろうと冷静に語る。


バチカン病院で勤務

須磨さんは心臓外科の名医として日本の心臓外科のトップ三井記念病院から招かれて循環器外科科長に就任する。そして次はローマ・カトリック大学付属のジェメリ病院から客員教授として招かれ、三井記念病院に籍を置いたまま、ローマに赴任する。

ジェメリ病院はベッド数2,000。イタリア最大の私立大学病院で、ローマ法王はじめバチカンの要人が病気になったら、必ずここに入院する。ローマ法王の外遊の際には、ここの大学教授が同行するのが”バチカン病院”として知られるゆえんだ。

数年ローマで生活し、ローマ永住を考えていた須磨さんは1995年にバチスタ手術を知る。当時日本では脳死が認められていなかったので、心臓移植は不可能だった。日本がバチスタ手術を最も必要とする国だと須磨さんは考えた。


日本に帰国してバチスタ手術を執刀

帰国した理由は、「犬のせいでしょうか」だと。須磨さん夫妻は子供がなく、愛犬が病気になった時に、イタリア語で自分の思いを伝えられないことにフラストレーションを覚え、自分の病院での患者の対応も、コミュニケーション力ができないと、十分な医療が行えないことに気づいたのだという。

日本にはバチスタ手術とミッド・キャブ手術を持ち帰った。モナコ・ハートセンターというわずか38床ながら、年間7−800例の心臓外科手術を行う有名な施設を日本にもつくろうということで、徳洲会グループの徳田虎雄さんの支援を得て病院つくりをする。

1996年湘南鎌倉総合病院で、新しい病院建設プロジェクトを手掛けるほか、日本で初めてのバチスタ手術を行った。厚生省の健康保険の対象にもなっていない段階だったが、徳田会長が費用は病院が持つと支援したからこそ実現したバチスタ手術だった。

日本初のバチスタ手術には、イタリアでバチスタ手術を行ったイタリア人の親友・カラフィオーレ教授、アメリカで初めてバチスタ手術を行ったバッファロー大学のサレルノ教授、UCLAの心筋保護の世界ナンバーワン、バックバーグ教授の3人が助っ人で来日してくれた。

手術は成功したが、患者は肺炎を起こして12日後に亡くなった。精根尽きていた須磨さんに、亡くなった患者の妻から手紙が届く。元々何の希望もないなかで、この手術を受けることになり患者は元気になっており、少なくとも手術後は心臓は元気だった。患者に希望を与えるこの手術を辞めないでくれ。

海外でのバチスタ手術の成功率は6-7割で、現在バチスタ手術が生き残っているのは日本だけだという。須磨さんは、心臓を切り取るのではなく、悪い部分を切除して切りあわせるという栽縮する形に変え、成功率は90%を超えた。この術式は、いまは「SAVE手術」別名「スマ手術」と呼ばれている。


葉山ハートセンター設立

葉山ハートセンターは2000年からスタートした。初年度で400例の心臓手術を行い、平均一日2例の手術を行った。2001年NHKのプロジェクトXでバチスタ手術が紹介されたことも、追い風となった。



葉山ハートセンターが軌道にのったのち、2008年に須磨さんは心臓血管研究所に転職した。循環器内科のプロと心臓外科のコラボレーションを狙ったのだ。

須磨さんは現在日本冠動脈外科学会の会長をつとめる傍ら、手術もおこなっている。外科医はアスリートなので、チャレンジング・スピリットがなくなったら終わりだと語る。


本職が医者(元々は外科医)のベストセラー作家が書くと、こうまで面白い物語になるのかと感心する。最近、文庫本になって買いやすくなったので、是非おすすめしたい作品である。


参考になれば次クリックお願いします。






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