時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

戦史

虜人日記 フィリピン戦線で生き残った技術者軍属の貴重な日記と敗因考察

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
著者:小松 真一
筑摩書房(2004-11-11)
販売元:Amazon.co.jp
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太平洋戦争中フィリピンのブタノール工場建設のために徴用されたアルコール製造技術者軍属の日記。

今度紹介する山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」に詳しく引用されていたので読んでみた。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
著者:山本 七平
角川グループパブリッシング(2004-03-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ブタノールはガソリンの代わりの燃料として航空機や自動車に使えるので、日本軍はフィリピンの酒精(エチルアルコール)工場を改造して、ブタノールを生産することを計画していた。

次がフィリピンの地図だ。

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出典:Wikipedia

台東製糖酒精工場長だった小松真一さんは、フィリピンで砂糖からブタノール生産のために軍属として派遣され、終戦後はネグロス島で捕虜になった。

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出典:本書 表紙裏

この日記は、フィリピンの捕虜収容所に収容されていたときに、戦時中のこととや捕虜生活のことを手作りのノートに挿絵入りで記録し、骨壺に入れて内地に持ち帰ったものだ。

紙は米軍のタイプ用紙を、収容所のベッドのカンバスをほぐした糸で綴じている。絵は鉛筆のスケッチに、マーキュロやアデブリンなどの医薬品をマッチの軸木に脱脂綿をまいた筆で彩色しているという。大変貴重な記録だ。

全部で9冊のノートと挿絵が写真入りで紹介されている。

虜人日記1











出典:本書表紙裏

巻末に文を寄せている未亡人と息子さんによると、この日記は戦後ずっと銀行の金庫に眠ったままだったが、小松さんが亡くなられた後、遺族が知人に配るために私家版として出版したものだという。

それを月刊「現代」の編集長が読んで、これは同じフィリピン戦線で戦い、戦後捕虜となった山本七平氏に強いインパクトを与えるに違いないとひらめき、山本氏に見せたという。

山本氏は「虜人日記」を題材に雑誌「野生時代」に「虜人日記との対話」というシリーズで連載し、それが山本氏の死後13年経って、上記の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」として出版されたのだ。

「戦争と軍隊に密接してその渦中にありながら、冷静な批判的な目で、しかも少しもジャーナリスティックにならず、すべてを淡々と簡潔、的確に記している。これが、本書のもつ最高の価値であり、おそらく唯一無二の記録であると思われる所以(ゆえん)である。」と山本氏は評している。


「バアーシー海峡」問題は現在でも最大の問題

「捕虜人日記」を詳しく解説した山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」のあらすじもいずれ紹介するので、「敗因21カ条」については詳しくは紹介しないが、上記の山本七平の紹介文にあるように、非常に冷静に、客観的に書いてることは、さすが科学者と思わせるものがある。

特に中国の台頭で、現在でも安全保障上の大きなリスクとなってきているシー・レーンの確保を日本ができなかったことを、最大の敗因として挙げている。

その部分は「15.バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」という言葉で表されている。バシー海峡とは台湾とフィリピンの間の海峡のことだ。そして山本七平氏も、「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」と賛同している。

もちろん21項目挙げられている敗因の一つ一つが合わさって日本の敗戦となったわけだが、旧日本軍の致命傷は海上輸送の安全が確保できなかったことだと思う。

インドネシアで終戦を迎えた筆者の亡くなった父は、昭和18年に召集されたが、台湾沖で、同僚の輸送船が撃沈され、多くの兵隊が亡くなったと言っていた。駆潜艇がじゃんじゃか爆雷を落としたが、結局敵潜水艦は逃げてしまったと。

インドネシアに着いても、その後の新兵を乗せた輸送船がことごとく撃沈され、終戦まで初年兵のままだったと語っていた。

運が悪ければ、父も海の藻屑になり、筆者も生まれていなかったわけだ。だから小松さんの書いていることは、筆者には他人事とは思えない切迫感がある。

敗戦直前には日本国内の海運も投下機雷で壊滅状態になるのだが、海上輸送の安全確保ができなかったことは、米潜水艦対策の不徹底によるものだ。

それの反省なのか、自衛隊は対潜水艦戦闘能力が飛び抜けて高い。

しかし、日本が誇る100機ほどの対潜哨戒機P3Cも、定価3万8千ドル(300万円)といわれるスティンガーミサイルと同等品を大量に配備して、漁船を改造した工作船やジャンクボートなどから発射すれば、ほとんど撃ち落とされてしまうだろう。

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出典: 以下別注ないかぎりWikipedia

P3Cは軍艦相手なら対艦ミサイルがあるが、漁船のような工作船では防ぎようがないだろう。

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そんな事態になったら、太平洋戦争の時とおなじ「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」が起こることは目に見えている。

「米軍基地のない沖縄(日本)」、「新しい世界観」や「米国離れ」を説く評論家は多い。しかし、この先人の遺言たる「バアーシー海峡」問題を、日本の軍事力でどう解決しようとするのだろう?

あきらかに東シナ海の覇権を狙う中国は、今や大気圏外から急降下して米軍空母を直撃する新型ミサイルを開発し、これに対する防御策はないという。

それはそうだろう。弾道ミサイルなら弾道を計算して、同じ弾道で逆からミサイルを打てば迎撃できる。しかし上から超高速で落ちてくるミサイルは弾道という考え方は当てはまらない。弾道に合わせるということをしないと、線でなく点で迎撃することになり、これは事実上超高速落下物体では不可能となる。

この本は決して太平洋戦争の時のフィリピン戦線での体験記だけではない。この本が指摘する「敗因21カ条」のうち、いくつかはそのまま現在の日本に当てはまる警鐘である。

閑話休題。小松さんの日記に戻る。

小松さんは、フィリピンに昭和19年2月に飛行機で着任、早速各地の酒精工場を精力的に視察する。

マニラはジャズが流れ、夜はネオンサインが明るく、男女ともにケバケバした服装で、当時は「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽」と言われていたという。

砂糖からブタノールを製造するには、莫大な石炭と副原料としてのタンパク質が必要だ。タンパク源としてはコプラが利用できるが、フィリピンには石炭がなく、資材難の中をようやく完成させた工場も、石炭がないので運転の見通しが立たないという状況だった。

結局昭和19年7月にフィリピンのブタノール生産計画は中止となり、小松さんは、やることがなくなったが、民間から採用した人は最低1年間は南方にいなければならないとして、軍に足止めを食う。

仕方がないので、小松さんはフィリピンの酒精工場の生産アップに尽力することとなり、レイテ島やセブ島各地の酒精工場を訪問し、戦火のなかにもかかわらず生産量をアップさせた。

最後にネグロス島の酒精工場の増産任務を受け、ネグロス島に赴任する。

この日記には内地からネグロス島に届いたばかりの最新鋭の四式戦闘機が、米軍の空襲で地上で焼かれた挿絵が載せられている。

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小松さんが「コンソリ」と呼ぶB-24爆撃機が大編隊で毎日のようにネグロス島を爆撃しており、工場の生産を上げるのもままならない状態だったが、生産をなんとか拡大し、一部ではウィスキーをつくって、部隊の兵士に喜ばれる。

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そのうち米軍がミンドロ島、ルソン島に上陸し、昭和20年3月にネグロス島にも上陸したので、せっかく生産している酒精工場に爆薬をしかけて爆破し、軍隊と一緒に山に待避する。それから半年ネグロス島の山での待避行が続く。

米軍は事前に砲撃して戦車で攻め込むという戦法で、いくつかの陣地がすぐに陥落した。戦車用の地雷も地雷探知機で掘り出してしまうから効果なかったという。

ネグロスの日本軍2万4千のうち、戦闘部隊は2千人のみで、他は輸送や飛行場設営などの非戦闘部隊ばかりだったという。しかし戦闘部隊がどんどん戦死するので、非戦闘部隊からも補充されていった。

武器は貧弱で高射砲が3門あるだけで、あとは重・軽機関銃と迫撃砲、飛行機からはずした機関砲などで、2,000人につき旧式の三八歩兵銃が70丁という情けないものだったという。

一発撃てば、五〇発のお返しがあり、とても手が出せない状態だったという。

小松さんは食用野草の調査を始め、部隊に食用野草の講習会を開催して喜ばれ、後には現地物資利用講習としてカエル、トカゲ、バッタ、燕、ヤマイモ、バナナの芯などの食用にできるものの講義をおこなう。

自活のために芋の栽培も行ったので、そこを希望盆地と名付けた。米軍は日本軍に追われた時に、さらに奥地に自活体制を整え、様々な農産物の畑とりっぱな無線通信設備が残されていたという。

そのうち日本軍の部隊同志で追いはぎ行為が発生し、日本軍同士も警戒しなければならなくなった。ミンダナオ島、ルソン島では人肉食も起こったという。

日本軍兵士は、空襲や砲撃、そして餓死でどんどん倒れていき、死体があちこちに放置され、使える物は何でも取られ、裸に近い死体ばかりだったと。ネグロス島ではマラリア感染は少なかったのが幸いだったが、アメーバー赤痢で衰弱して死ぬ者も多かったという。

8月18日に兵団から「終戦になったらしい」という事が正式に伝えられたが、皆おどろかなかったという。米軍に軍使を送って交渉し、山を下りて9月1日に捕虜収容所に収容された。2万4千人のうち、八千人が戦死、八千人が餓えと病気で死亡し、八千人が生き残った。

米軍の軍用携帯食料Kレイションを食べ、久々に文化の味をあじわったという。米軍がみやげにするといって刀や拳銃をほしがるので、くれてやったと。

捕虜収容所では当初カリフォルニア米とコンビーフの缶詰を配給されたが、人員が増えるので、量が減らされ、栄養失調で死者もでた。持ち物を住民の食料と交換したりして生き延びたという。

収容所長が交代し、日本人を憎んでいた軍人が収容所長になったことも影響していたという。

そのうちネグロスからレイテ島の収容所に移送され、食事や居住待遇も良くなり、長らくつきまとわれたシラミも駆除できた。

11月からは兵隊達が帰国しはじめたが、将校の順番は不明だった。捕虜は米軍の兵舎掃除や建築作業をやらされたが、食事は良かった。

黒人は親切だったという。また米軍は将校と兵隊の区別はなく、将校でも自分の荷物は自分で持っていくが、日本の将校は当番兵に担がせる。

朝鮮人、台湾人は早く帰国したが、彼らの不満は彼らに対する差別待遇であり、感謝されたことは、日本の教育者だったという。

盗みは日本人の間では不道徳だが、米軍から盗んでくるのは美徳とされたという。米軍も捕虜は盗みをするものと寛大に見ていたという。小松さんには方々から酒の密造の相談が寄せられたという。

そのうち演芸会や講演会が開かれ、新聞も10日に一回の割合で出されたという。弾やケースを使って飛行機などの工芸品を作る人もいた。小松さんは掲示板で、何でも相談室のようなことを担当していた。

暴力団がのさばりだして手が付けられなかったが、そのうち全員集合させられ別の場所に送られた。

次に小松さんたちはルソン島の収容所に送られる。カランバン収容所で、ここで山下大将は戦犯として処刑された。最後の言葉は「自分は神に対し、恥ずるところなし」というものだったという。ちなみに収容所はキャンプではなく、ストッケードと呼んでいる。営巣(違反を犯した兵隊を閉じこめておくための場所)のことだ。

本間中将は最後まで米軍を呪って、「今にお前達もこういう目に会う」といい残して銃殺されたという。

小松さんは昭和21年12月に日本に帰国した。帰国が決まってから、もう明治精糖の社員ではないので、事業を始めるアイデアをこの日記に書いている。

なかなか面白いアイデアで、今日でも、これらが実現できたら大変な事業になると思う。

1.家畜飼料製造会社 空中窒素を硫安として固定し、これを酵母に消化させ、タンパク質(人造肉)として飼料化する。

2.海に無尽蔵といわれるプランクトンを集めて家畜の飼料とする。プランクトン採集法は現在研究中だと。

3.マングローブの研究。マングローブは海水から真水を吸収して生きている。この組織の研究をしたら、海水から燃料なしで真水が取れる。

4.シロアリの研究。シロアリの体内のバクテリアは木材繊維を分解して糖化している。工業でやると高圧と酸が必要だが、バクテリアはどちらも不要である。


この日記の中では師団長などの高級軍人では良く書かれている人は稀だが、ネグロス警備隊長の山口大佐は兵をかわいがり、フィリピン人のゲリラも捕まえて東洋人の生きる道を説き、どんな大物でも逃がしてやったという。

バカな「閣下」の命令には決して服さず、敬礼もしなかったと。戦犯取り調べでも自分自身が責任を負い、他に迷惑がかからないようにと言うので、裁判官も検事も人格に打たれ、何とか罪にならないように努力しているという話を紹介している。

小松さんは、国家主義を脱却して、国際主義的高度な文化・道徳を持った人間になっていかねばならない。これが大東亜戦争によって得た唯一の収穫だと思っていると記している。

最後に山本七兵の「『虜人日記』の持つ意味とは」という文が載っている。

小塩節教授のエッセー「ミュンヘンの裏町で」を読むと、ダッハウ収容所では囚人一人につき掛かる費用と、囚人から没収して国庫収益となる資産、金歯及び強制労働による生産、死体から取れる脂代と肥料代まで計算してあって、国にとってプラス(黒字)は2,000マルクと計算した書類があるという。

ドイツは正確に記録を残した。一方日本は記録をすべて棄却した。そんな中で、この「虜人日記」は、「現場にいた人間の現場で書いた記録」という意味で重要であり、他にない資料であると山本氏は評している。

戦争中、戦後の捕虜収容所での生活が挿絵入りで描かれていて、興味深い。

収容所の話というと、歴史家会田雄次さんの「アーロン収容所」が有名だが、「アーロン収容所」とはかなり異なる。やはり豊かな戦勝国米国の捕虜の取り扱いの方が、戦争で疲弊した英国の捕虜の取り扱いより、よほどましだったようだ。

ジャワから帰還した筆者の父は、戦後もオランダ軍の要請で武装解除せず、オランダ人を憎むインドネシア人からオランダ人を守ってやっていたのだと言っていた。

捕虜生活まで「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽?」だったようだ。

重い作品だが、読み出すと一気に読める。表現が不謹慎かもしれないが、「面白い」作品だ。そして日本の安全保障についても考えさせられる先人の忠言である。


参考になれば次クリック願う。




ザ・コールデスト・ウィンター朝鮮戦争 ハルバースタムの遺作

+++今回のあらすじは長いです+++

北朝鮮が韓国のヨンピョン島を突如砲撃した。まさに1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発の時のように、何の前触れもなく一方的に砲撃をしてきた。

朝鮮戦争がいまだに終戦しておらず、休戦状態にあることを思い知らされる。前回の李明博大統領の伝記の次は、朝鮮戦争を取り上げたハルバースタムの遺作を紹介する。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
販売元:文藝春秋
発売日:2009-10-14
おすすめ度:4.0
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アメリカのジャーナリスト ディヴィド・ハルバースタムの遺作。2007年にこの本を書き上げて、ゲラに手を入れた翌週、ハルバースタムは交通事故で亡くなった。

ハルバースタムの作品は今まで余り読んでいなかったが、会社の友人に勧められて「ザ・コールデスト・ウィンター」、ベトナム戦争を取り上げた「ベスト・アンド・ブライテスト」などを読んだ。

「ザ・コールデスト・ウィンター」は、2009年10月に日本語訳が出版されている。

朝鮮戦争を取り上げた作品に「忘れられた戦争"The Forgotten War"」という本があるが、第2次世界大戦とベトナム戦争に挟まれた朝鮮戦争は、まさに忘れられた戦争という言葉が的を射ているとハルバースタムも評している。

The Forgotten War: America in Korea, 1950-1953The Forgotten War: America in Korea, 1950-1953
著者:Clay Blair
Naval Inst Pr(2003-03-31)
販売元:Amazon.co.jp
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筆者の世代は戦後史は試験に出ない(たぶん歴史の評価が定まっていないので、試験に出せない?)ということで、高校の世界史の授業では教科書自習だったので、戦後史については本で学ぶことが多い。

北朝鮮が韓国のヨンピョン島を砲撃したことから朝鮮半島の情勢が緊迫化しており、北朝鮮の指導者も金正日から金正恩(キムジョンウン)に交代することが決定した現状、アメリカ、北朝鮮、韓国、そしてソ連の代理の中国がまともに戦った朝鮮戦争のことを知っておくのも意義があると思う。

朝鮮戦争は1950年6月25日、北朝鮮の精鋭7個師団(約10万人)が3週間で朝鮮半島全土を制圧するもくろみで、韓国に侵入して始まった。

北朝鮮の指導者金日成は、1949年10月の国共内戦での中国共産党の勝利の後は、自分が朝鮮を統一するのだと言って、ソ連のスターリンの支援を受け、中国の国共内戦を人民解放軍と一緒に戦った北朝鮮軍がソ連の武器を使って十分に準備をしての行動だった。

北朝鮮軍は3週間で朝鮮半島を制圧する予定だった

当時の国務長官のディーン・アチソンのミスで、アメリカの当時の防共ラインは日本海に引かれており、韓国には小規模な軍事顧問団しか置いておらず、侵略に対する備えを欠いていた。だから歴戦の勇者の北朝鮮軍は首都ソウルを含む韓国を蹂躙し、8月には韓国軍と米軍顧問団は南の釜山周辺に押し込められ、日本海に追い落とされるのも時間の問題となっていた。

当時はソ連と中国は緊密で、スターリンと毛沢東は朝鮮支援について話しあい、アメリカは参戦しないだろうが、日本が出てきたら中国が参戦するとシナリオを想定した上での金日成の軍事的冒険だった。

このとき北朝鮮軍の先頭で活躍したのが150両のソ連軍のT34/85戦車だ。

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出典:Wikipedia(以下別注ない限りWikipedia)

米軍の持っていた60MMバズーカ砲はT-34に対抗できなかったので、急遽90MMバズーカ砲が大量投入された。ちょうど両方のバズーカが写っている写真がWikipediaに載っていた。90MMに比べると60MMはまるでおもちゃのようだ。

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朝鮮戦争は「歴史から見捨てられた戦争」、「20世紀最悪の胸くそ悪い小戦争」などと呼ばれるが、険しい地形と朝鮮の冬の凍てつく寒さは米軍将兵を悩ませたという。

当時のトルーマン大統領は、北朝鮮が侵略してきた4日後に記者会見で、「戦争ではない。もっとも事実上そういうことにはなるが」と歯切れの悪い表現をし、「国連のもとでの警察行動」と呼んでも良いと答えた。

第二次世界大戦で勝利した米軍は、戦後5年間で定員も装備も足りない軍隊に成り下がり、おまけに朝鮮の険しい地形は工業力の象徴である戦車に頼る軍隊には最悪だったという。

当時の韓国の大統領はハーバードで学位を、プリンストンで博士号を取得して、アメリカに35年間生活してロビーストとして活動していた李承晩だった。

現在でも朝鮮戦争は休戦が成立したままで、依然として戦争は正式には終結していない。停戦までの米軍の死者は3万3千人、10万人以上が負傷した。韓国側の損害は死者41万人、負傷者43万人、北朝鮮・中国の死者は推定で150万人と言われている。

マッカーサーの甘い見込み

マッカーサーは朝鮮戦争勃発当時は日本を民主的な社会につくりかえるのに熱心で、朝鮮には関心を持っていなかった。ちょうど日本を訪問していたアリソンとダレスに、自分の功績を自信満々に説明した。朝鮮戦争も威力偵察に過ぎないだろうと軽くあしらっていた「朝鮮でパニックを起こすいわれはない」。

しかし部下より先にアリソンから大規模な戦闘になっていることを知らされると、翌日はひどく落胆し、今度は「朝鮮全土が失われた」と言っていたという。

マッカーサーはすでに70歳で、パーキンソン病に罹って、集中力の持続時間が限られ、手が震えていたという。

不意を衝かれた米軍(後に国連軍となる)・韓国軍は、圧倒的な武力の北朝鮮軍にすぐに釜山周辺まで押し込まれたが、現地司令官ジョニー・ウォーカーの獅子奮迅の指揮で、なんとか2ヶ月持ちこたえた。

米軍は大砲、迫撃砲がなかったので、バズーカ砲とクワッド50という装甲車に載せた4連マシンガンが有効な武器だったという。

この間マッカーサーは7月に台湾の蒋介石を訪問した。蒋介石を朝鮮戦争に招き入れるかどうか検討していたからだが、トルーマンはマッカーサーの独走をカンカンになって怒ったという。マッカーサーは台湾を「不沈空母」と呼んでいた。


9月の仁川上陸作戦が大成功

マッカーサーがほぼ独断で決めた9月15日の仁川上陸作戦で背後を衝かれて北朝鮮軍は敗走した。毛沢東は仁川上陸を予想していて、軍事参謀を金日成の元に送り注意を喚起したが、金は聞き流したという。

9月15日は仁川がなんと9.6メートルという最大潮位になる日で、これなら上陸用舟艇を長い危険な砂浜でなく岸壁に直接乗り付けられる。この日を逃すと1ヶ月後まで待たなければならないというぎりぎりのタイミングだった。「マッカーサーの生涯に軍事的に天才だったといっていい日が1日あった」と言われるゆえんだ。

国連軍・韓国軍はソウルを回復、10月には38度線を北上して平壌を陥落させた。「いまやマッカーサーを止めることはできない」とメディアは書き、アチソン国務長官はマッカーサーを「仁川の魔法使い」と呼んだ。

10月16日のウェーキ島でのトルーマンとの会見では、中国は駐中国インド大使経由、参戦すると警告を発していたが、マッカーサーは中国軍は決して参戦しないと請け合っていた。もし参戦してもひどい目にあわせてやると。マッカーサーはトルーマンに対して敬礼しなかったが、トルーマンは問題にしない様子だったという。

ワシントン上層部は平壌附近から攻め上がらず、中国軍の参入を招かない腹だったが、マッカーサーはワシントンの制限を無視して、10月末にはついに中国国境の鴨緑江まで攻め上がった。マッカーサーが従うのは、自らの命令だけであると信じられていたのだ。


クリスマスまでには戦争は終わる

得意の絶頂にあるマッカーサーはクリスマスまでに戦争は終わると公言し、朝鮮向けの武器弾薬をハワイに送り返す準備をしていた。

マッカーサーは自分は東洋人の心理を読むエクスパートだと自認していたが、マッカーサーには日本軍の意図と能力を読み違え、第二次世界大戦緒戦でフィリピンから逃げ出した前科があった。

金日成は南朝鮮から敗退するとすぐにソ連軍の支援を求めた。スターリンは初めから戦闘部隊は出さないと決めていたが、中国なら出すかもしれないと答えた。毛沢東は悩んだ末に金日成の援助要請に応じた。

前年12月に中国を統一してモスクワを初めて訪れた毛沢東はモスクワで冷遇された。会食も拒否され、やっとのことでスターリンに会ったが、軍事援助はわずかで、領土問題について譲歩を迫られた。「虎の口から肉を取るようなものだった」という。

これは筆者の推測だが、ソ連への憎悪から毛沢東は北朝鮮を自分の配下に引き入れるチャンスだと思ったのだろう。毛沢東はまずは12個師団(20万人)の大軍を義勇軍として朝鮮半島に派遣した。補給を船に頼らなければならない国連軍に対して、中国なら地の利があるというのが判断理由の一つだった。

スターリンは当初ソ連空軍の支援を約束していたが、結局空軍支援は鴨緑江以北にとどめ、主戦場の鴨緑江以南は支援区域から外した。毛沢東が朝鮮への友愛からではなく、自国の利害から介入したこと、そして中国がいずれ台湾を攻撃する場合には、ソ連の空軍と海軍に依存する他ないことをスターリンは知っていた。

毛沢東は激怒したが、ソ連の上空支援がなくとも参戦を決定した。軍の統制も子ども並みの金日成を「冒険主義者」と中国は軽蔑しきっており、金日成は戦争の責任者ではなくなった。


10月末には中国義勇軍が参戦

そして鴨緑江対岸に集結していた中国軍の大軍は、国連軍と韓国軍の補給線が伸びきるまで待って10月末に一挙に鴨緑江を超えて攻め込んだ。

当初、マッカーサー司令部G-2情報局のウィロビーは、鴨緑江に中国軍が集結しているという情報を取り合わなかった。マッカーサー信奉者のウィロビーは、マッカーサーの言葉を信じて中国軍が参戦するとは予想していなかったのだ。

この本では中国軍との戦闘に参加したアメリカ兵の実話を多く載せており、広がりと臨場感がある読み物になっている。ソ連製武器と、以前蒋介石に送ったアメリカの武器で中国軍に攻撃され、味方がどんどん倒れていく最前線の戦いが生々しく200ページ余りにわたって詳細に描かれている。

この実話の部分がハルバースタムが、休戦から55年も経ってから朝鮮戦争のことを書いた理由だ。様々な人から貴重な体験談を聞いたので、「書かねば死ねない」のだと。

しかしマッカーサー司令部のウィロビーはアメリカ軍の苦戦を信じなかった。そればかりか11月6日に朝鮮戦争は平壌北で敵の奇襲攻撃を撃退し、事実上終結したと声明を発表した。

マッカーサーは生涯を通じてアジアと関わったにもかかわらず、アジア人を知らず、軍司令官として「汝の敵を知れ」という基本中の基本も学んでいなかった。日本との戦いは工業国同志の戦いで、日本の産業基盤が限界となったのに対して、中国は最も工業化が遅れた国で、自分の弱点を理解してそれに応じた戦術を編み出していた。

日本では絶対的な権力を握っていたマッカーサーのとりまきNo. 1のウィロビーも酷評されている。ウィロビーはスペインのフランコ総統のファンで、従軍中にフランコの伝記を書いており、マッカーサーからは「愛すべきファシスト」と呼ばれていたという。

最前線の第8騎兵連隊の報道官は「カスター将軍を見舞った悲劇と同じだ」と語っていたという。

「勝利のワインが酢になり、マッカーサーは『空からの援護もなく、戦車もなく、大砲もほとんどなく、近代的通信設備も兵站基地もない中国人洗濯屋』にまんまと出し抜かれた」のだ。


12月初めには「鉄のおっぱい」リッジウェイ将軍が着任

12月初めにはマッカーサーの軍隊は全面退却していた。12月末にはマット・リッジウェイが第8軍の司令官としてワシントンの統合参謀本部から着任した。リッジウェイは頑固で、ユーモアがなく、攻撃的だったが、冷徹な現実主義者だった。

リッジウェイはノルマンディー上陸作戦時の空挺部隊指揮官であり、一時ウェストポイントの教官だったことから、軍に教え子が多くいた。マッカーサー同様神話の重要性を知っており、彼のあだ名は「鉄のおっぱい」(old iron tits)というものだった。いつも胸に二つの手榴弾をぶら下げていたからだ。マット・リッジウェイはつねに戦う姿勢にあるということだ。

着任前の12月26日に東京のマッカーサーに挨拶に行ったリッジウェーは、マッカーサーから「第8軍は君に任せる。いちばんよいと思うやり方でやってくれ」と言われた。この言葉でいままで東京がすべて動かしていたが、これからはリッジウェイが指揮をとることがはっきりした。

マッカーサーは面談の1時間半をすべて持論に費やしたという。マッカーサーは共産中国と全面戦争をやりたがっていた。「中国は南部が開けっ放しの状態だ」。

朝鮮では一泊もしたことのないというマッカーサーに対して、徹底した現場主義者のリッジウェイは小型機で戦場を飛び回り、地図に敵軍の旗があるのは48時間以内に接触した場合のみに限った。偵察、敵を知るのが最重要なことを現場に徹底された。


マッカーサーの米国政府批判

マッカーサーは政府批判を始めた。マッカーサーが中国軍を緊急追跡し、満州内の基地を爆撃しようとしたにもかかわらず、ワシントンが許さなかった。「歴史に前例のない莫大な軍事的ハンディキャップ」を負わされたと主張したのだ。

トルーマンは激怒した。事実上終わったと思っていた戦争が拡大したばかりか、その司令官が政府にとって巨大な敵となって敗北の責任を政府におおいかぶせてきたのだ。トルーマンは「核兵器の使用も含めてすべての兵器の使用は司令官が責任を持つ」と失言してしまい批判をあびる。

毛沢東もマッカーサーのように成功に酔っていた。現場指揮官の彭徳懐は冬が来るのに補給も途絶えがちで、ズック靴の中国兵では朝鮮の厳しい冬は戦えないので、春まで攻勢を待つことを訴える。しかしソ連と金日成の圧力もあり、毛沢東は共産主義の勝利を世界に知らしめるために追撃を命令する。

リッジウェイはソウル放棄を決断したので、中国軍は1月にはソウルを再占領した。ソウルから退却して体勢を立て直した国連軍は、韓国のちょうど真ん中付近の原州附近の双子トンネルや砥平里(チピョンニ)などで空軍の支援も受けて中国軍を迎撃した。

国連軍が多大な犠牲を出し、後に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と呼ばれることになるこの激戦の模様が、この本では克明に記されている。

当時の米軍は人種差別をしており、黒人は黒人だけの部隊編成をしていた。トルーマンやリッジウェーは人種差別を撤廃しようとしていたが、第10軍司令官でマッカーサー側近のネド・アーモンドは、黒人を蔑視しており、「灰やゴミ」と一緒だと言って、白人部隊に3人ずつ黒人兵を配置した部下の指揮官を罰した。

アーモンドは中国人を「洗濯屋」と呼んで蔑視しており、中国軍について研究することを一切しなかったので、部隊間の情報交換はなかった。それがためアーモンドが立案した「ラウンドアップ作戦」で、多大な犠牲を被ることになった。国連軍を包囲していた中国軍は道の先頭のトラックを攻撃し、立ち往生した国連軍トラック120台と多くの大砲を手に入れた。

2月には中国軍はさらに進撃し、原州に近づくが、それを察知した偵察機からの情報で、迎え撃つ国連軍の130MM砲数門、155MM砲30門、105MM砲100門という大量の大砲の餌食となり、空からはナパーム弾の直撃を受けた。

中国軍は上から下への命令は伝わるが、中間レベルの指揮官が権限も通信能力も持っていなかったので、戦況に応じて調整するということができなかった。これは軍曹など下士官の創意が評価され、戦闘の展開に応じて調整していくという米軍と対照的な違いだった。

また中国軍は3日続けて戦うと補給の問題が生じた。これらの弱点と、空からのナパーム弾攻撃で、国連軍は中国軍を撃退していった。

リッジウェーは長距離砲と空軍力を中心とした戦略で、圧倒的多数の中国軍との「人口問題」を解決しようとしていたのだ。中国軍の重火器は空軍力でたたき、「肉挽き機」のように戦うのだと。

朝鮮の中部回廊地区だけで中国軍の死傷者は20万人にも達した。これが戦闘の転機となり、中国軍の進撃はストップした。

F86セイバー戦闘機が共産軍のミグ15との空中戦で優位に立ったのはこのときだ。



マッカーサー解任

リッジウェイの成功で、マッカーサーのプライドが傷ついた。リッジウェイの作戦を、ひいては攻める「アコーデオン戦争」と呼び、依然として中国との全面戦争を主張し、トルーマン政権攻撃をエスカレートさせた。

戦線を北緯38度線まで押し戻せれば、共産主義を食い止めたということで、国連軍の勝利だと主張するリッジウェイに対し、マッカーサーは自分なら同じ戦力で、中国軍を鴨緑江の向こう側に押し返せると明言し、東京駐在の各国の外交官に伝えていることが、外交通信傍受でわかった。

これは明らかな軍の文民統制に対する違反であるとトルーマンは判断し、4月11日にマッカーサーを解任した。マッカーサー自身への通告の前にラジオが放送するという不手際だった。

タイム誌は「これほど不人気な人物がこれほど人気のある人物を解任したのははじめてだ」と書いた。リチャード・ニクソンはマッカーサーの即時復職を要求した。日本では25万人がマッカーサーを見送るために街頭に列を成し、ニューヨークでは700万人がパレードに繰り出したという。

「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」マッカーサーの上院での退任演説での有名な言葉だ。しかし上院聴聞会は3日間続き、マッカーサーは中国軍は参戦しないと確信していたことを認め、ヨーロッパのことは発言を回避するなど、日に日に小さくなっていった。油断から判断を間違えた司令官というイメージが定着していった。


戦線の膠着と和平交渉

朝鮮での戦争は1951年春中国が30万人の兵力を投入し、大攻勢を掛けたが、成果を上げられなかった。1951年7月和平交渉が開城、次に板門店で始まったが、交渉は遅々として進まなかった。

1952年の大統領選挙でアイゼンハワーが勝利し、翌1953年3月にスターリンが死ぬと、戦闘は続いていたが、アメリカと中国は解決策を探り1953年7月27日に休戦合意が成立した。

その後金日成は、朝鮮戦争をまるで一人で戦ったような話をでっち上げ、平壌の朝鮮戦争記念館を訪れた中国人は、その展示を見て激怒するという。金日成は核兵器を開発することと、息子を後継者にすることを目標とし、国内の工業生産も国民の飢え死にも気にしなかった。金日成は死に、金正日が後を継ぎ、そして金正恩がその路線を継ぐことになる。


登場人物の描写

金日成の経歴が紹介されている。金日成は朝鮮生まれだが、両親と共に満州に移住し、抗日運動に属した後、ソ連で赤軍将校となりスターリンのあやつり人形として1945年10月に平壌で朝鮮デビューした。スターリン死後もスターリン主義者であり続け、統治を確実なものにするための個人崇拝の必要を悟ったことなどが紹介されている。

マッカーサーの記述も面白い。

アイゼンハワーはマッカーサーの副官としてワシントンとマニラで一緒に勤務していたので、マッカーサーの手の内を知り尽くしていた。アイクは「わたしはワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と答えていたという。

マッカーサーより「上級」なのは神しかおらず、生涯「自分より劣る人間がつくったルールは自分には適用されないという前提で」行動したという。「マッカーサーは語る。だが聞かない」。

タイム誌のオーナー、ヘンリー・ルースはチャイナロビーと結びついており、蒋介石をタイム誌の表紙にたびたび載せる一方、マッカーサーを賛美しており、マッカーサーも蒋介石に次ぐ7回タイムの表紙に登場したという。

マッカーサーは1918年に最年少で将軍になっており、それから30年間も将軍として君臨して、とりまきにお追従を言われ続けた。マッカーサーは毎日人に会う前に演技の練習をしていたという。

念入りにリハーサルを行っていながら、あたかも即興のようにみせ、天性の独白役者で、演技には寸分の狂いもなかったとハルバースタムは評している。この本ではマッカーサーの父親や、マッカーサーをマザコンにした母ピンキー・マッカーサーのことも説明していて面白い。

マッカーサーが母親に相談なく最初の結婚をしたときに、母は結婚式に出席せず、寝込んでしまい、結局、最初の結婚は長続きしなかったという。マッカーサーの二番目の妻のジーンは母親が選んだ相手で、自宅ではマッカーサーのことを1"Sir, Boss"と呼んでいたという。

マッカーサーはフランクリン・ルーズベルトを嫌っており、ルーズベルトが病気で死去したときには、「ルーズベルトは死んだか。うそが自分に役立つときは真実は決して話さない男だった」とコメントしたという。もっとも、ルーズベルトも「マッカーサーは使うべきで、信頼すべきでない」とコメントしていたという。

マッカーサーは1944年、1948年の大統領選挙に共和党の大統領候補として出馬しているが、いずれも惨敗している。

トルーマンとの関係も悪かった。トルーマンはマッカーサーのことを「あのプリマドンナの高級将校」と呼び、マッカーサーはトルーマンほど大統領としての適性を欠く者はいないと考えていた。大学も出ておらず「あのホワイトハウスのユダヤ人」と言っていたという。

1949年秋にアメリカの原爆独占は終わり、ソ連が原爆を開発した。

それまで親米だった蒋介石の中華民国が毛沢東の中国共産党に敗退し、1949年1月には蒋介石が台湾に移り、4月に南京が陥落し、国共内戦にけりがついた。

中国に於ける米国軍事顧問団の代表だったジョセフ・スティルウェル将軍は、1942年の段階で、蒋介石は全く役に立たず、能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないとレポートしていたが、ルーズベルトは蒋介石に圧力を掛けすぎて日本との単独講和に走らせないようにとの配慮から放っておいた。

その結果「アメリカ人に訓練され、アメリカ製装備で武装したほぼすべての師団が、一発も発砲しないで共産軍に降伏して」中国は共産化し、米国では「誰が中国を失ったのか?」と政治問題化した。

この辺の事情はバーバラ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」に詳しい。こちらも今度あらすじを紹介する。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
販売元:Amazon.co.jp
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恥ずかしながら、朝鮮戦争については断片的にしか知らなかったので、この本は大変参考になった。

北朝鮮は朝鮮戦争をしかけた金日成の時から「冒険主義者」である。今度のヨンピョン島砲撃も冒険主義者的な動きだと思う。アメリカ・韓国軍と正面切って戦争をやるだけの軍事力も根性もないと思うが、全く危険な隣人である。

緊迫する朝鮮情勢を考える上で、朝鮮戦争のことを知ることは有意義だと思う。一度手にとってみることをおすすめする。


参考になれば次クリック願う。

日本海軍の戦略発想 ”マベリック”海軍参謀の敗戦分析と反省記

+++今回のあらすじは長いです+++


今回は元海軍参謀の敗戦分析を紹介する。日本海軍の敗因はいくつもあると思うが、この本は系統立てて説明していて、大変参考になる。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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最後の海軍大学卒業生で、終戦の時に連合艦隊砲術参謀中佐だった千早正隆さんが昭和22年に書いた日本海軍の反省記の改訂版。プレジデント社で1982年に発売され、1995年に文庫本になっている。

読んだのは中公文庫版だが、2008年12月に、プレジデント社から再発売されている。たぶん日本海軍の戦略の失敗の現代的意味を問い直そうということだろう。

千早さんは戦後GHQの戦史室調査員となり、このブログでも紹介した「ミッドウェーの奇跡」などを書いたGHQ戦史室長ゴードン・プランゲ博士の調査に協力した。

この本は英訳されて、多くの英語の戦史研究に引用されている。


千早さんはいわば”マベリック”

映画トップガンを見た人は覚えているだろうか?トム・クルーズが演じる主人公のコードネームが”マベリック”だ。マベリックとは、異端者、へそまがりという意味で、千早さん自身も自らの性格をそう評している。



たとえば千早さんはアメリカ人の戦争観を知るためにシンガポールで押収した「風とともに去りぬ」を見たいと、海軍大学時代に言いだしたが、さすがにこれは認められなかったという。

次にクレマンソーを研究したいと言い出して、クレマンソー研究家の酒井陸軍中将を招いて講演をしてもらったら、酒井中将は大東亜戦争出直し論を2時間論じたという。

クレマンソーといえば、「皇族たちの真実」で終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王が、フランス留学時代に親交のあった元首相のクレマンソーに警告されたという話を思い出す。

「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」

まさにクレマンソーの警告した通りの展開になったわけだ。


海軍大学卒業に際して放校になりかける

海軍大学卒業に際して、教授連に対して、ほとんど造反ともいえるマベリックぶりを見せた。

千早さんたち学生に意見を求められたので、千早さんは海軍大学の教育方針を独善的で各科バラバラであると評した。

科学的に戦争そのものを分析して、日米戦の対策はどうあるべきかという大命題の下に、あらゆる科目を統合して研究すべきで、艦隊の運動の研究などはその一部にすぎないと書いた。

「現在の戦況の苦境もつまるところ、研究に不真面目であったためである。深く戒む(いましむ)るところがなければならない」と要約したら、翌日学生全員が集められ、主任教官より名前を挙げて譴責されたという。

処分の話も出たが、同期生全員がかばってくれたのと、校長が代わったので処分なしで終わったという。


参謀としてもマベリック

参謀としても並み居る海軍大学出身参謀たちと対立して、ビアク島防衛の重要性を強調し、「ビアク気違い」と呼ばれたりしたという。

ちなみにビアク島には1万人の兵力が駐留し、米軍の攻撃までに十分陣地を構築する時間がなかったにもかかわらず、善戦して米軍を手こずらせたのでマッカーサーは激怒し、指揮官を子分のバターンボーイズの一人のアイケルバーガー中将に代えている。

マッカーサーが厚木飛行場に乗り込んできた時に、ぴったり寄り添っているのがアイケルバーガー中将だ。

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出典:以下特記ないかぎりWikipedia


千早さんの経歴

千早さんは昭和2年の海兵第58期生。昭和5年に海兵を卒業後、すぐに艦隊勤務となり、駆逐艦、巡洋艦などの現場を経験し、砲術学校での学習を経て巡洋艦・戦艦の対空砲の分隊長となった。

千早さんの書いた艦隊防空のレポートは、海軍省の昭和16年の最優秀作品に選ばれたという。

千早さんは戦艦大和の艤装作業に立ち会い、大和は1トン爆弾の直撃にも堪えるように全体を装甲200ミリの鉄板で覆っているのに、巡洋艦から転用した副砲塔の装甲は30ミリしかないことを指摘したという。

戦争が始まると戦艦比叡に乗艦し、昭和17年11月の第3次ソロモン海戦で比叡が夜間探照灯砲撃で集中攻撃を受けた際に千早さんも両手の親指を負傷するが、奇跡的に指はつながり、内地で病院生活を送った。

比叡は切手にもなったので、筆者も亡くなった叔父に貰って、この満州国建国記念の切手を今でも持っている。

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昭和18年7月から海軍大学校に学び翌19年3月に普通2年のところを8ヶ月で繰り上げ卒業し、艦隊参謀、連合艦隊作戦参謀として勤務し終戦を迎える。


千早さんがこの本を書いた理由

千早さんがこの本を書いた理由は、戦後多くの日本人、アメリカ人に次のような質問をされ続け、千早さん自身もその理由を解き明かしたかったからだと。

1.日本で米国のことを一番知っていたのは、日本海軍ではなかったか、その海軍がなぜ米国と戦争することになったのか。

2.アメリカンフットボールで同じ手を使って連敗するのは下の下といわれるが、日本海軍はなぜ同じ手を繰り返してその都度叩きのめされたのか。


米軍の攻撃で最も驚いた点

千早さんが連合艦隊参謀として勤務していて、米軍の攻撃で最も驚いたのは次の点であると。

1.B29による本土爆撃。超航空を飛ぶB29には対空砲も届かず、迎撃戦闘機も有効でなかった。

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2.B29による瀬戸内海への機雷敷設。これは「飢餓作戦」と呼ばれたものだ。使用された機雷は日本海軍が見たこともなかった磁気式、水圧式に度数式を組み合わせた新型のもので、特に低周波音響機雷には有効な掃海手段はなかったので、瀬戸内海はほとんど通行不可能となった。

まさに日本の首を真綿で絞めたのと同じ結果となった。

3.原子爆弾。連合艦隊作戦参謀だった千早さんでも原子爆弾の概念すら持っていなかった。慚愧(ざんき)に堪えないという。


この本の目次

目次を読めば大体この本の内容がわかると思うので、紹介しておく。

第1部 日本海軍の対米戦争に関する判断

 1. 日本海軍の仮想的は米国海軍

 2. 日米戦争に関する研究

 3. 戦術面のみに目が奪われた

 4. 不備だらけの日本海軍の戦務(戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のこと)

 5. 大局を忘れた日本海軍の戦備

 6. 陸海軍協同の不完全

 7. 戦争についての各種判断の誤り

第2部 戦争はかく実証した

 1. ハワイ海戦の戦訓

 2. 日本海軍の小手先芸

 3. 小手先芸の限界

 4. あと1ヶ月あったなら(ガダルカナルも敵に簡単に奪われることもなかったろう)

 5. 馬鹿の一つ覚え

 6. 偵察、索敵の軽視

 7. 追撃戦の宿命
    追撃戦で最後まで徹底的にやった戦例が乏しいのは、徹底性を欠く国民性にあると千早さんはいう。

 8. 慢心と増長の悲劇
    ミッドウェー海戦が典型例である。作戦の根本思想、敵空母出現の可能性の未検討、索敵の不備など、暗号が解読されている以外にも慢心と増長は多い。

 9. 美辞麗句が多くなった作戦命令

10. 用法を誤った潜水艦戦と時代遅れの対潜作戦
    日本の船腹量は約1千万トンだったが、戦争で喪失した船腹量は800万トン、このうち潜水艦の攻撃によるものが全体の57%、航空機が31%、触雷が7%、敵の砲撃はわずか2万トンにすぎない。

    B29と潜水艦の前に日本の戦力は崩壊したといえる。

11. 補給戦に敗れた
    ニューギニア戦線では14万人が補給もなく投入され、実に13万人が死亡したが、戦死はわずか3%で、残りは餓死、戦病死だった。

12. 誤った作戦で犠牲になった設営隊
    昭和19年、暗号が解読されていると千早さんは疑い、わざわざ「長官の名前の画数を足した日」というような指令をだしたが、島の防衛隊からの返信に「では○○日のことか?」と打ち返してきて頭を抱えてしまったという。結局敵に待ち伏せされたという。

13. 軽視した情報、防諜のとがめ

14. 甘かった人事管理

第3部 総まとめ

 1. 後手、後手となった作戦計画

 2. 完敗に終わった「あ」号作戦「捷」号作戦
 3. 水上部隊の悲惨な最期 戦艦大和が片道の燃料で向かったという話は実は誤りで、実際には簿外の在庫を呉の機関参謀がかきあつめ、往復に必要な燃料を積んで死出のはなむけとしたのだと。これでほとんどの艦船を沈められて、燃料もなく日本海軍は静かに死を待った。

 4. マクロ的な考え方と総合性の欠如

 5. 物量の差だけではなかった

 6. 教育に根本の問題があった

いくつか参考になった点を紹介しておく。


日本海軍の仮想的は明治以来米国海軍

明治40年、日露戦争の2年後に決定された「帝国国防方針」では日本の仮想敵は陸軍はソ連、海軍は米国とされた。

米国は日本海軍が兵力を増強するための目標敵であったが、実際に昭和12年南京攻略時に日本の爆撃機が間違って米国の砲艦バネー号を撃沈した時には、米国に陳謝するとともに多額の賠償金を支払った。あくまで仮想敵であって、本当に米国と戦線を開くことなど考えてもいなかったのだ。

ところが三国同盟に猛反対していた米内海軍大臣が昭和15年に及川海軍大臣に交代すると、海軍は簡単に三国同盟に賛同し、一挙に対米戦が現実味を帯びてくる。

昭和14年9月の第2次世界大戦勃発以降、対米関係は悪化の一途をたどった。ナチスの傀儡のヴィシー政権の承認を強引に得た昭和16年7月の南仏印進駐が引き金となって、米国が在米資産凍結、石油全面禁輸を発表し、海軍は対米戦の準備を開始した。

いわゆる月月火水木金金の猛訓練だが、この時も大口径砲の戦艦で敵を迎え撃つ艦隊決戦が戦略の中心で、潜水艦の船団攻撃や船団の対潜護衛の演習は皆無だったという。


太平洋戦争開戦時の連合艦隊の戦力

太平洋戦争が始まった時の連合艦隊の戦力は次の通りだ。これは戦艦と潜水艦こそ米国の6割を切っていたが、航空母艦と重巡洋艦では米国と肩を並べる兵力で、これにくわえて大和、武蔵の巨大戦艦2隻が加わった。

戦艦   10隻
航空母艦  9隻
重巡洋艦 18隻
軽巡洋艦 18隻
駆逐艦  90隻
潜水艦  55隻
潜水母艦  3隻
水上機母艦 2隻
合計   133万トン(基準排水量)

対米戦のために長年兵力を整備した結果だった。日本海軍は米軍に比肩しうる戦力を持っていたことがわかる。

ちなみに今度あらすじを紹介する佐藤晃さんの「太平洋に消えた勝機」という非常に面白い本の巻末に、「日米主要艦の戦力推移」という表が載っているので、紹介しておく。

太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)
著者:佐藤 晃
販売元:光文社
発売日:2003-01
おすすめ度:4.5
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日米主要艦推移







出典:本書230ページ

この表を見ると、日本は戦争の後半でほとんどの艦船が撃沈されているのに対して、アメリカは真珠湾で戦艦2隻、1942年に空母が4隻沈没した他は、1942年以降戦艦の喪失ゼロ、1943年以降は主要艦船の喪失ゼロという状態が続いていたことがわかる。

日本側の一方的敗北だったことがよくわかる表である。昭和19年のマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」を言われ、日本艦船を米軍が面白いように葬ったが、かくも一方的な敗北だと本当に「バカの一つ覚え」と言わざるを得ない。

実はこの表は正規空母までで、米国が圧倒的な産業力を注力して大量に製造した1万トン級のリバティー船と8,000トン級の護衛空母や軽空母が含まれていない。

リバティ船は戦後構造的欠陥が判明したが、溶接を使わず、鉄板をリベット接合して、わずか42日で完成し、戦時中実に531隻が建造された。

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護衛空母100隻以上が建造され、ドイツ潜水艦の脅威を封じ込めるのに成果を上げた。

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日露戦争以来の大鑑巨砲主義の旧弊が支配した海軍

日本の大鑑巨砲主義という伝統は崩せず、開戦時の10名の艦隊長官のうち、4名が鉄砲屋(砲術出身)、4名が水雷屋、1名が航海屋、1名が航空屋だった。

唯一井上成実(しげよし)第4艦隊長官が昭和16年1月に「航空兵力の充実、海上護衛兵力の大増強、南方島嶼(とうしょ)の守備の強化」という正鵠を得た「新軍備計画論」を訴えたが、大鑑巨砲主義の主流派から無視される結果となった。


馬鹿の一つ覚えの艦隊決戦でのアウトレンジ戦法

日本の戦法は敵の射程距離外から砲撃して敵を撃滅するというアウトレンジ戦法で、これがため世界最大の46センチ主砲を持つ大和・武蔵を建造したものだ。

この巨大戦艦はパナマ運河を通行できないため、アメリカのように大西洋と太平洋両方に面している国は機動力が生かせないので、アメリカは同じサイズの戦艦をつくれないと見られていた。

そうすると大和・武蔵の46センチ砲はアメリカ戦艦の40センチ砲よりも射程距離が長く、それがためアウトレンジ戦法で勝利できるというシナリオだった。

しかしアウトレンジ戦法が度が過ぎて、射程距離を縮めて命中確率を上げようという積極性に欠け、レーダー測敵機もないので、遠距離から射撃しても非常に悪い命中率にとどまっていた。

たしか大和の大砲は小田原から撃って、東京に届くという話を聞いたことがある。射程距離は最大42キロだという。しかし、現実問題そんなに離れていては光学照準機では到底ねらえない。

戦争中の艦隊決戦の例では、昭和17年のジャワ沖海戦では、日本の重巡洋艦は敵の15センチ砲にまさる20センチ砲を持っていたので、アウトレンジ戦法で砲撃したが、数百発の20センチ砲弾のうち1発が敵に命中しただけだった。

次に戦艦2隻が36センチ砲を打ち込んだが、300発撃って一発も命中しなかった。

アッツ島ではまたもアウトレンジ戦法で、900発撃って5発しか命中しなかった。

昭和19年のレイテ沖海戦では、栗田艦隊の戦艦大和と長門が最初で最後の砲撃を敵艦隊に浴びせるが、大和は約100発、長門は45発撃ち、金剛、榛名がそれぞれ100発づつ撃ったにもかかわらず、敵駆逐艦を1隻沈め、1隻を大破させただけだった。

アメリカ側はレーダー測敵器があるので、照準は正確だったようだ。これが前記の表の圧倒的な日米の艦艇損失の差になるのだ。


不備だらけの日本海軍の戦務

戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のことである。

燃料は海軍は当初の2年分の燃料は備蓄して戦争に臨んだと言われているが、実際には開戦時の備蓄は600万トンだった。

必要な燃料量を年280万トンと見込んで戦争に突入したが、実際には年500万トン近くを消費し、南方などからの石油供給も海上輸送路を攻撃されて満足にできなかった。昭和17年後半以降は常に燃料に苦しめられることとなった。

燃料備蓄量以外にも、日本艦船は日本近海の艦隊決戦を想定して建造されているので、航続距離に問題があったという。

さらに問題なのは弾薬で、開戦時に艦艇に定数通りの量を配給したら、弾薬庫には25ミリ機銃弾がなくなり、その後も弾薬の不足は解消されなかった。

日本海軍の対空砲の弾薬定数は高角砲200発(約10分)、機銃1,500発(約10分)のみで、撃ち尽くしても補充は受けられなかった。

これも艦隊決戦で大砲には一門の大砲が発射する弾数に限度があるので(大口径砲では120発。それ以上だと大砲が焼き付いてしまう)、それと同じ考えを対空火器まで適用したことが問題だった。

この点では相当期日にわたる会戦を単位に弾薬を準備していた日本陸軍の方がましだったと千早さんは語る。


日本は潜水艦による近代戦を理解しなかった

日本の潜水艦戦略には通商破壊戦の考え方はなく、艦隊決戦のみを想定していた。それでも対潜水艦対策は皆無だった。

「享楽的で質実剛健に乏しい米人は、困苦欠乏をもっとも必要とする潜水艦の乗員には適しない。従って、米国潜水艦はあまり恐れる必要はないだろう」とたかをくくっていたという。

有名な米国海軍のフロスト中佐は逆に「潜水艦は米人の使用に好適の艦種である。なんとなれば、米人は敏活、果断、独創に富み、潜水艦の乗員に最適な性質を具備している。われわれ米国海軍軍人は、潜水艦戦において、世界いずれの海軍軍人も凌駕することができる」と語っているという。

まさに日本の見方と正反対だが、これが結果的に真実となった。前述の「日米主要艦の戦力推移表」でも、米国潜水艦に沈められた空母や戦艦が多いことがわかる。

排水量わずか2,000トン程度の潜水艦が、3−5万トンの戦艦や航空母艦を葬り去るのである。実に効率のよい戦いである。

ノックス米海軍長官は「日本は近代戦を理解しないか、あるいはまた近代戦に参加する資格がないか、いずれかである」と語っていたという。


海軍大学の画一的で時代遅れの教育

千早さんは昭和18年7月に海軍大学に入学し、9ヶ月で繰り上げ卒業している。卒業したときはギルバート、マーシャル諸島は敵手に落ち、ラバウルも秋風落莫の状態だったという。

明治につくられ、最終改訂が昭和9年の最高機密「海戦要務令」が絶対規範として生きていた。

これは艦隊決戦主義で、航空部隊も潜水艦部隊もそれを支援するという域を出ていなかった。もちろん通商破壊もなく、対潜水艦作戦もない。いかに日本海軍の用兵者の考えが硬直的だったかがわかる。

海軍大学の戦略、戦術の研究は机上演習に終始し、日米海軍の決戦を想定した自己満足のものだった。

決戦が起こるのか、決戦が起きたら戦争は終わるのか、負けたらどうなるのかといった問題はまじめに研究されなかった。

おまけに机上演習ではゼロ戦は1機でヘルキャット10機に相当するなどという、ありえない前提が演習統監により出されていたという。

千早さんは海軍大学で教育を受けた画一的なエリートが参謀なり司令官なりになって戦争を指導したことが、日本海軍の敗因であると推論している。

アメリカ軍は日本軍の敗因は、チームワークの欠如にあったと分析しているという。マクロ的かつ長期的な総合性と計画性を欠く日本人特有の結果に基づくのではないかと。

たしかにたまたま真珠湾で大勝利してしまったがゆえに、徹底性を欠く一般的な日本人の性格、オペレーションリサーチマインドというか、科学的な彼我の戦術の分析の欠如が、敗戦につながったことは否めないと思う。

いろいろな戦記もののタネ本ともなっている本で、昭和22年に最初の原稿が完成し、まだ戦争の記憶が生々しいなかで書かれたこの本は、冷静な分析と反省に満ちている。

プレジデント社から2008年末再度発売されたことでもあり、是非一度手にとって見て欲しい本である。


参考になれば次クリック願う。




日本軍のインテリジェンス 論文としても一級で、かつ面白い

第2次世界大戦史の一部として、防衛省防衛研究所教官のインテリジェンス=諜報活動の本を紹介する。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
著者:小谷 賢
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:4.5
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イギリス政治外交史とインテリジェンス研究が専門の防衛省防衛研究所戦史部教官小谷賢さんの旧日本軍のインテリジェンスに関する研究。

関榮次さんのMr. Ferguson's Tea-setを読んでインテリジェンスについて興味を持ったので、読んでみた。

Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940
著者:Eiji Seki
販売元:Global Oriental
発売日:2007-02-28
クチコミを見る


出典などを記した註だけでも460もあり、研究論文としても一級のものだと思うが、内容的にも一般にはあまり知られていない事実を明らかにしており、非常に面白い。

ウィキペディアでも防衛研究所は詳しく紹介されている。

旧日本軍に関する情報は終戦の時に、大半が焼き捨てられているので、直接の資料が少なく、関係者の回想録とかインタビューなどが中心だ。日露戦争や第1次世界大戦の時までの資料はそろっているが、太平洋戦争の資料となると極端に限られていると言われている。

社会の関心が低いことも資料が散逸している根本原因の一つだ。

しかし小谷さんはそんな話をインテリジェンス研究の泰斗ケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリュー教授にしたら、次の様にしかられたという。

「けしからん!資料が少ないからといって言い訳などしてはならない。イギリスのインテリジェンス研究にしても、一昔前まではほとんど公開されている史料などなあったが、それでも私はやってきた。それに史料が少ないのはインテリジェンス研究に限ったことではない。例えば中世史の研究を見たまえ。史料が少ないという理由で歴史が記されなかったことがあるかね。あなたの言っていることは研究者の怠慢に過ぎない。」

小谷さんはこの言葉に反省するのみならず感銘を受け、防衛研究所勤務という恵まれたポジションを利用して、旧日本軍のインテリジェンス研究に精を出すことになる。

このクリストファー・アンドリュー教授は、「インフォメーションとインテリジェンスを厳密に分けるのは英語に特有である」と語っており、アングロサクソン特有の情報に対する鋭敏なセンスが現れている。

事実英国ではベスト・アンド・ブライテスト(最優秀)な学生が、インテリジェンスコミュニティにリクルートされているという。

それに対して日本は、最近でこそ佐藤優さんの登場で、インテリジェンスに関心が高まっているが、一般的には関心は低く、特に戦前のインテリジェンスの包括的な考察はなされていない。

歴史を振り返ることは重要で、これが小谷さんが旧日本軍のインテリジェンスを研究する理由だ。


進んでいた旧日本軍の情報収集

太平洋戦争の敗因の一つに日本軍の暗号が米軍に解読されていたことがしばしば挙げられる。たとえばミッドウェー海戦や、山本五十六元帥機の撃墜だ。

しかし小谷さんは、日本陸軍も同様に連合国側の暗号を解読していたと指摘する。問題は情報部が得た情報はセクショナリズムから作戦部に生かされず、さらに陸軍が暗号を解読していたことを1945年まで海軍は知らなかったというありさまだ。

旧陸軍の中央特情部の人員は1945年には1,000名を超え、数学、語学専門の学生を集め、IBM製の統計機を用いていたという。陸軍の機密費の年間の予算は1945年には現在の価値で3,200億円にも増加していた。

ところが旧陸軍の関心は仮想敵国のソ連、中国情報活動であり、ガダルカナル島で敗北した1943年から対米情報活動に注力するようになった。

米軍の最も高度なスプリット暗号も、旧陸軍は解読に成功していたが、時既に遅かった。

対ソ連ではスパイ活動を積極的に行っていたが、対米では人的情報は限られており、新聞などの公開情報が中心で、量的にも不足していた。

ちなみに対米情報活動に当たっていたのが、娘の名前マリコを開戦の暗号としたことで知られる外務省の寺崎英成一等書記官である。

マリコ (1980年)マリコ (1980年)
著者:柳田 邦男
販売元:新潮社
発売日:1980-07
おすすめ度:5.0
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防諜の不徹底

陸軍に比べると海軍の情報活動は規模的にも小さく、しかも防諜活動は積極的でなく、情報漏洩が重大な敗因の一つとなっていた。

すでに開戦直後の1942年1月にオーストラリア沖で撃沈された伊号124号潜水艦から暗号が連合国側にわたったのではないかという不安がありながら、なんの対策を講じることもなく、これがミッドウェー海戦の敗北や山本五十六元帥機撃墜につながった。

さらに1944年には海軍飛行艇がフィリピンのセブ島で遭難し、防水の書類ケースに収められた海軍の暗号書と対米作戦計画が米軍にわたった。

米軍は潜水艦でオーストラリアに運び複写した後に、飛行艇の不時着した付近に書類を戻し、日本側に発見させるという手の込んだ諜報作戦を行っている。

海軍は海軍高官が虜囚の辱めを受けたのではないかという調査に終始し、暗号が敵にわたった可能性については配慮されず、米軍の思うつぼにはまった。


陸海軍に於ける情報部の軽視

陸海軍では伝統的に作戦部に最優秀の人材が配置され、情報部の人材は劣るという意識が強かった。さらに石原完爾少将が参謀本部第一作戦部長となった1937年頃からは、作戦部が情報部を無視して自らの情報源と判断で作戦を進めるようになる。

自らの目的にあった情報収集、分析をしてしまうので、客観的な状況把握ができなくなり、太平洋戦争中に問題が続出する。

たとえば1944年の台湾沖航空戦による空母19隻撃破という戦果誤認が(実際には撃沈した空母はゼロ)、レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅的な打撃を受けることになる。

搭乗員が未熟で正確な戦果確認ができなかったので、撃破したはずの空母がすべて健在だったのである。


当初の海軍の対米分析は正しかった

開戦直前の日本海軍の陣容は、戦艦10隻、空母10隻、巡洋艦28隻、駆逐艦112隻、潜水艦65隻、(合計98万トン)、航空機3,300機というものだった。

これに対して日本側が算出した米国海軍の戦力は戦艦17隻、空母10隻、巡洋艦37隻、駆逐艦172隻、潜水艦111隻(合計140万トン)、航空機5,500機となり、日本海軍は約7割の戦力を有していた。

7割ならランチェスター法則により、日本海軍は米海軍と互角に戦えると試算していた。

しかし彼我の生産能力の差で、1943年には日本の戦力は5割程度になると予想され、1944年には航空機の差は日本の1万5千機に対し、米国10万機と圧倒的な差となるので、戦争を仕掛けるなら1941年で、最初の1年間は互角に戦えるが、それ以降は見通しがつかないものであった。


3国同盟にいたる情勢判断

1940年夏のドイツによるフランス降伏に次ぎ、イギリスの陥落も時間の問題の様に思われて、「バスに乗り遅れるな」という南進論の元、日本は三国同盟締結に向かう。

しかし、その重大局面で、情報部は呼ばれておらず、ドイツの英本土侵攻は困難という在英武官や、ストックホルム武官、海軍情報部の主張は、親独派の大島浩駐独大使らの意見にかき消されてしまう。

当時の外務大臣松岡洋右は、日英同盟時代からの縁で近日感のあったチャーチルが戦争は不利益をもたらすという親書を出してきたにもかかわらず、無視して、ソ連も入れた4国同盟というありえない野望を抱き、3国同盟を結ぶ。

チャーチルの警告とは次のような内容だ:

「ドイツが制空権を奪えない状態で、ドイツのイギリス本土侵攻はありえない。イギリス空軍は1941年の終わりにはドイツ空軍を凌駕する。また年間9,000万トンもの鉄を生産している米英両国に対して、年産700万トンの日本がどうやって戦うのでしょう?」

今更ながらに当たり前の議論である。



総力戦研究所

さらに驚くのが太平洋戦争のシミュレーションを戦争直前に行った総力戦研究所のレポートだ。

総力戦研究所とは1941年に陸海軍や官庁から当時の若手官僚35名を集め、日本が直面するであろう総力戦について研究するために内閣直属の組織として設置された研究所である。

その図上演習の結果は、日本は当初2年間は戦えるが、4年後には国力を使い果たし、最後にはソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵入し、日本が敗北するという見事な予想であった。

これを近衛内閣の政府関係者列席の元に披露した際には、東条英機陸相は「日露戦争でも勝てるとは思わなかったが勝った。机上の空論と言わないとしても、意外裡の要素を考慮したものでない」と切り捨てている。

このような戦力分析に基づく冷静な判断でなく、主観的判断とアメリカは他民族国家なので、いざ戦争になると世論が分かれる等の思いこみで、戦争に走った当時の日本の指導者の愚かさが浮き彫りになる。


日本軍のインテリジェンスの問題点

小谷さんは次が日本軍のインテリジェンスの問題点であると指摘する。

1.情報部の立場の弱さ
2.情報集約機関の不在
3.近視眼的な情報運用
4.リクアイアメント(根本戦略)の不在
5.防諜の不徹底

この本全体を通じて、上記の問題点がわかりやすく説明されている。

知識としても、たとえばウルトラ情報(英国によるドイツエニグマ暗号の解読成功。これがため第2次世界大戦の終結が2年は早まったといわれているほど重要な出来事だ)とか参考になる。

論文としても一級であり、読み物としても面白い。おすすめできる旧日本軍のインテリジェンス研究だ。


参考になれば次クリック願う。






ミッドウェーの奇跡 元GHQ戦史室長がまとめた中立的戦史

8月15日が過ぎた。今度は、戦史とその教訓を振り返る本をいくつか紹介する。

ミッドウェーの奇跡〈上〉ミッドウェーの奇跡〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-02
おすすめ度:5.0
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ミッドウェー海戦といってもあまりピンと来ない人もいるかもしれないので、あらすじとともにYouTubeの映像もいくつか紹介しておく。

原書房という知らない出版社だし、装丁もパッとしないので、あまり期待しないで読んでみたが、実は著者のゴードン・プランゲ博士はGHQの戦史室長として昭和26年まで日本に滞在し、旧軍人を中心に200人もの人を自宅に招いて何度もインタビューし、それをもとに3つの作品を残した人だった。

プランゲ博士の収集したプランゲ文庫は、ワシントンDC郊外のメリーランド大学に保管されており、1945年から1949年の日本のほとんど全ての印刷物を集め、中にはGHQの検閲で発禁になったものも含まれる貴重なコレクションとなっている。


ブレンゲ博士の3部作

プランゲ博士の残した3つの作品で最も有名なものは、日米合作映画「トラ・トラ・トラ」の原作となった「トラ・トラ・トラ」だ。



トラトラトラ〈新装版〉トラトラトラ〈新装版〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:並木書房
発売日:2001-06-01
おすすめ度:4.5
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もう一つは日本経由でドイツの情報がソ連に流れていたゾルゲ事件を取り上げた「ゾルゲ・東京を狙え」。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-04
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そして今回の「ミッドウェーの奇跡」だ。


翻訳者の千早さんも戦史専門家

翻訳者の千早正隆さんは、終戦時の連合艦隊参謀で元海軍中佐、プランゲ博士が戦史室長を務めていた時にGHQ戦史室に勤め、資料収集に協力した。

千早さん自身も「日本海軍の戦略発想」という本で、敗戦原因について語っており、昨年末に新装版が発売されている。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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この本では、真珠湾攻撃に成功し、マレー沖海戦で英国艦隊に打撃を与え、セイロン沖海戦にも勝利して、米海軍に対し物量的にも優っていた日本海軍が、なぜアリューシャン列島攻撃ミッドウェー作戦という意味の無かった作戦を行い、敗れたのかを当時の日米関係者へのインタビューも含めて中立的に描いている。

「ミッドウェー」という映画も作られている。




ミッドウェー海戦の本

ミッドウェー海戦はまさに太平洋戦争の転換点となったので、敗戦の理由は過去からいろいろ取り上げられ、様々な本が出版されている。


「運命の5分間」

真珠湾攻撃総隊長として戦果を挙げた淵田美津雄氏(戦後は宣教師となった)と大本営参謀の奥宮正武氏の「ミッドウェー」。

ミッドウェー (学研M文庫)ミッドウェー (学研M文庫)
著者:淵田 美津雄
販売元:学習研究社
発売日:2008-07-08
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ミッドウェー海戦では、日本軍空母が地上攻撃の爆弾から艦隊攻撃の魚雷に爆装転換していた「運命の5分間」に太陽を背にした米国急降下爆撃機が突如現れ、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」に直撃弾を食らわせ、それが準備中の爆弾・魚雷に引火して大爆発を起こした。

それが直接の敗因で、あと5分あれば全機発艦して被害は免れていたというものだ。この「運命の5分間」についてはNHKがまとめたビデオで紹介されている。



これに対して「ミッドウェー海戦史に重大なウソを発見した」という澤地久枝さんは、「滄海よ眠れ」という全6巻のミッドウェー戦記を書いて「運命の5分間」に疑問を投げかけている。

滄海よ眠れ 1―ミッドウェー海戦の生と死
著者:澤地 久枝
販売元:毎日新聞社
発売日:1984-09
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澤地久枝さんの「記録ミッドウェー海戦」

澤地久枝さんは、集めた資料を一冊の本にして「記録ミッドウェー海戦」という本も出版している。

記録ミッドウェー海戦
著者:澤地 久枝
販売元:文藝春秋
発売日:1986-05
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実は筆者の亡くなった父からミッドウェー海戦で、いとこが空母の機関員として必死の操艦の末戦死したと、子どもの頃聞いたことがある。

この「記録ミッドウェー海戦」を調べてみると、たしかに「加賀」の機関員として「須山正一」という人が戦死している。筆者のおじさん(父の弟)から貰った昭和16年の戸籍謄本があるので確認してみたら、たしかにこの人は父のいとこで間違いない。

慰霊碑で親戚の名前を見つけた思いだ。19歳5ヶ月で戦死している。さぞかし家族は悲しんだだろうと思う。筆者もあたらめてショックを受けた。


ミッドウェー敗戦の根本原因

山本五十六大将は、ミッドウェー海戦後、部下に「敗戦は私の責任だ」と語ったそうだ。プランゲ博士もミッドウェー海戦の敗戦の真の責任者は山本五十六だと述べながらも、驕慢が海軍のみならず全国民に蔓延していたことを強調している。

「日本をこのように征服、驕慢、傲慢に駆り立てた歓喜に溺れた雰囲気の背景を見ることなくしては、ミッドウェーの史的ドラマの真相を理解することはできない。

「彼らが自信から生まれた幸福感にひたった過程を見ることなくしては、彼らが真珠湾で見せた綿密な作戦計画、徹底した訓練、細心な機密保持が、わずか6ヶ月足らずの間にどうして消え失せたのかを、知ることはできないであろう。」


ミッドウェー海戦の評価

この本でプランゲ博士はアメリカの海軍大学で教えている204SMEC方式という作戦評価方式で、日本軍のミッドウェー作戦を評価している。いかに成功の可能性が少なかったかがよくわかる。

1.目的
ミッドウェー島を攻撃し占領するのか、ニミッツの太平洋艦隊を撃滅するのか。プランゲ博士は日本の計画は最初から「双頭の怪物」だったという。そもそもアリューシャンとミッドウェーの両方をなぜ攻略しなければならないかったのか目的が不明だ。

2.攻勢
計画を成功率の高いものにするためには、"IF"に対する備えがなければならない。もしアメリカが察知していたら?もしアメリカが早く発見したら?もし第1航空艦隊が大損害を受けたら?日本は全く対策を立てていなかった。

もしリスクをきちんと考えていたら、敵がまだ発見出来なかった段階で空母4隻を一個所に集中させるような艦隊配置は取っていなかっただろう。

プランゲ博士が指摘する日本海軍のリスク認識欠如、慢心を示す一例が服装だ。空母の乗員の多くは半ズボン半袖で、防火効果がある長袖、長ズボンの戦闘服を着させていなかった。これがためやけどで命を失った乗員も多い。

3.交戦点における優勢
日本はこの時点では物量でアメリカを上回っていたのに、兵力を分散して集中効果を失った。アメリカ軍がほとんどいないアリューシャンを同時に攻めたり、戦艦を空母から300海里後方に配備したり、用兵を誤った。防御の弱い空母の代わりに戦艦を先頭に立てていたら、空母全部がやられることもなかっただろう。

4.奇襲
アメリカは日本海軍のJN25暗号を解読していた。日本側の通信の中で頻繁に出てくる"AF"がミッドウェーだということも知っていた。日本は潜水艦による策敵も飛行艇による哨戒も不十分だった。

ミッドウェー海戦前の暗合解読についてのNHKの番組がYouTubeに掲載されている。



5.機密保持
日本海軍は真珠湾の時のような機密保持の注意や綿密さは完全に消え失せた。ニミッツは事前に日本側の戦力をほぼ完全につかんでいた。

日本の空母にはレーダーが装備されていなかった。レーダーの試作機は戦艦伊勢と日向に装備されたが、この2戦艦はアリューシャンに向かっていた。レーダーが空母に装備されていたら、4空母が一度に沈められるということもなったろう。

6.単純性
山本長官は戦艦主義と航空主義の調整をつけられなかった。

戦艦は40センチ以上の主砲を持ち、陸上のいかなる要塞砲にも圧倒的に勝っているのに、ミッドウェー砲撃を主張する部下に、「君は海軍大学校の戦史の講義で、海軍艦艇は陸上兵力と戦うなということを習っただろう」と言ったという。

宇垣はさらに辛辣だったという「艦隊の砲力で陸上の要塞を攻撃することが、いかに愚かなことであるかは、十分に知っているはずではないか」

ミッドウェー島のどこに要塞があるというのだ。

彼我の戦力の徹底的な分析なしに、日露戦争の時の旅順攻撃の後遺症の「艦砲は要塞砲に敵し難い」という原則を忘れたのかと叱責する始末だった。

戦艦の艦砲射撃と航空攻勢を融合したのはニミッツだった。

7.行動性、機動性
山本長官は南雲部隊の空母4隻は失ったが、依然として4隻の空母、110機の航空戦力を持っていた。

アメリカ空母3隻のうち2隻が沈没あるいは大破だったので、日本は依然として強力な戦力を持っていた。それにもかかわらず、山本長官は空母を沈められ、艦載機の多くを失って、どうしたらよいかわからなくなくなって日本に逃げ帰った。

プランゲ博士は、山本長官はケンカ好きのテリアに追われて、しっぽを巻いて逃げ帰るセントバーナード犬のように大部隊を率いて本国に逃走したのだと評している。

8.戦力の最善活用
山本長官はあらゆる艦船を出撃させ、貴重な燃料を浪費した。さらにミッドウェー基地の空襲に使用した航空戦力は過大で、まだ見えないアメリカ機動部隊の反撃に備えるべきだった。

9.協同、統一指揮
山本長官は旗艦を連れて行ったばかりに、この重要な法則に違反することになった。無線封止を保つ必要から戦艦大和からは山本長官は指揮できなかったのだ。これに対してニミッツは真珠湾にいた。


血のつながった親戚が亡くなっているので、敵機がいつ現れないとも限らない戦場で、爆弾を積んだ飛行機をすべての空母の航空甲板上に並べていた日本海軍のリスク意識の欠如に憤りを感じるが、たしかにプランゲ博士が指摘しているように、当時は日本全体が戦勝に酔っており自らを失って慢心の極にあったことが根本原因だろう。

昭和天皇が「昭和天皇独白録」で、敗戦の第一の原因として挙げている通りだ。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」


ミッドウェー海戦は様々な教訓を残している。知識経営論の野中郁次郎教授も参加している日本軍の戦略の失敗を研究した「失敗の本質」は1984年発刊だが、いまだによく売れており、アマゾンでも540位のベストセラーだ。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
著者:戸部 良一
販売元:中央公論社
発売日:1991-08
おすすめ度:4.5
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あなたの親戚にも戦争で命を落とした人がいるはずだ。失敗から学ぶことが我々の使命だし、今なお学ぶべきことは多い。機会があれば、上記で紹介した本のどれかを読んで自分の参考にして欲しい。


参考になれば次クリック願う。



真珠湾の真実 ルーズベルトの対独参戦シナリオに組み込まれた日本

戦史の第3弾は、真珠湾攻撃についてのルーズベルト陰謀説を裏付ける本を紹介する。

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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ルーズベルト大統領は、事前に真珠湾攻撃を知っていたにもかかわらず、あえて日本に奇襲攻撃を仕掛けさせたというルーズベルト陰謀説の根拠を、1995年に発見された内部メモや暗合解読文などを丹念に調べ検証した本。

最近デイヴィッド ハルバースタムのベトナム戦争へ介入したケネディージョンソン政権前後の話を取り上げた「ベストアンドブライテスト」を読んだが、ジョンソンのベトナム介入強化は大統領側近がトンキン湾事件をでっち上げ(?)、世論操作した結果だし、ニクソンのウォーターゲート事件は大統領が直接手を下した犯罪だ。

大統領やその側近だけで陰謀を企てるというのは、アメリカ政府の常套手段だったとも言えるのではないかと思う。

たとえばジョージ・W・ブッシュ大統領のイラク侵攻もテキサスを中心とする石油利権とのつながりが噂されており、この大統領陰謀説は単に映画やフィクションの世界ではなく、本当の話が多い。

だからこの本で取り上げられている真珠湾陰謀説も、ルーズベルトは予期していたという点は、真実であった可能性は高いのではないかと感じている。

もともと別ブログで紹介した田母神さんの本に引用されていたので読んでみたのがきっかけだ。

この本は渡部昇一さんや、中西輝政さん、櫻井よし子さんなどの多くの本に引用されているが、真珠湾攻撃をアメリカが予期していたことを、「情報の自由法」により明らかにされた多くの暗号電報解読文で立証しているのみならず、なぜルーズベルトが日本の奇襲攻撃を現場の指揮官に知らせなかったのかという疑問まで解明している点で画期的な作品だ。

英語版は次の通りだ。英語版Wikipediaにも要約が載っている。

Day Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl HarborDay Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor
著者:Robert Stinnett
販売元:Free Press
発売日:2001-05-08
おすすめ度:3.0
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日本の一部で受け入れられたような「決定版」的な扱いを米国で受けているのかどうかわからないが、米国でもそこそこ売れているようだ。


10年間の調査の成果

著者のロバート・スティネット氏は、第2次世界大戦中はブッシュ・シニア元大統領と一緒に海軍に従軍した元軍人(従軍カメラマン?)だ。戦後はオークランド・トリビューンの記者(カメラマン)として働き、退社後10年以上掛けて資料を調べ上げこの本を1999年に出版した。

田母神さんの本のあらすじで根拠不足と書いたが、歴史上の史実を立証しようとするのであれば、これくらい資料を揃えなければならないという見本の様な本だ。

脚注の多さは半端ではない。600近い原注に加えて訳注も数十あり、日独伊三国同盟を奇貨として「裏口からの参戦」を説いた1940年10月の米国海軍情報部極東課長のA.マッカラム少佐の「戦争挑発行動8項目覚書」の原文表紙と和訳、数々の日本側暗号電報の英訳が紹介されている。


日本の暗号はすべて打ち破られていた

この本ではPHPT(Pearl Harbor Part、1941年から1946年までの間にアメリカが行った公式調査)、PHLO(上下院合同真珠湾攻撃調査委員会、1945年から1946年までに実施された調査)、無線監視局USの文書、カーター大統領が1979年に公開した太平洋戦争中の日本海軍電報の解読文書約30万点を調査し、当時無線傍受局に勤務していた人へのインタビューなども実施して、膨大な資料を元に書かれている。

アメリカが日本の暗号解読に成功していたことは、東京裁判の証拠としても採用され今や公知の事実だ。その暗合解読作業を実際に行っていたのが、米軍が太平洋のあちこちに配置していた”見事な配置”と呼ばれる無線傍受網だ。

見事な配置

見事な配置






出典:本文134−135ページ

米国は1940年10月前後に日本の外交暗号のパープル(97式印字機)と、日本海軍の5桁数字暗号を特別の解読機を導入して打ち破っていた。

日本領事館を盗聴したり、商船に乗っていた海軍通信士官から暗号書を買い取ったり、あらゆる手段を使って米国は日本の暗号解読に成功したのだ。

パープル暗号が解読されているという情報がドイツから寄せられ、1941年5月に当時の松岡外相が、駐独大使の大島少将に詳細をドイツから聞き出すように頼んでいる暗号電報も、米国に解読されているのはジョークを越えて、お寒い限りだ。

実際ルーズベルトはヒトラーのロシア侵攻計画を、駐独大島大使の日本へのパープル電報の暗号解読で侵攻1週間前の1941年6月14日に知ったという。ドイツが気にする訳だ。

日本海軍の5桁数字暗号の解読情報は、今でも秘密扱いで公開されていないという。

ちなみに「日本軍のインテリジェンス」という防衛省防衛研究所戦史部教官小谷賢さんの書いた本のあらすじに、日本軍の諜報能力についてまとめてあるので、参照して欲しい。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
著者:小谷 賢
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:4.5
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この本の3つの論点

なにせ脚注と解説まで入れると500ページを越えるボリュームの本なので、整理すると次の3つが論点だ。

1.ルーズベルトは米国民が反対していた欧州での戦争に”裏口から”参戦するために、日本に戦争を仕掛けさせた。つまり日本はルーズベルトにはめられたのか?

この本の主題の一つは、1940年10月7日に上奏された海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐の作成した覚書だ。著者のスティネット氏は、1995年に無線監視局USのアーサー・マッカラム少佐の個人名義ファイルの中から、この覚書を見つけたという。

マッカラムメモ

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出典: Wikipedia

マッカラム少佐は、宣教師の両親のもとに1898年に長崎で生まれ、少年時代を日本のいくつかの町で過ごした。日本語が喋れたので米国の海軍兵学校を卒業すると駐日アメリカ大使館付海軍武官として来日した。昭和天皇の皇太子時代に米国大使館のパーティでチャールストンを教えたこともあるという逸話のある知日派だ。

このメモが書かれた当時のことを補足しておくと、ドイツは1939年9月にポーランドを電撃占領し、第2次世界大戦が始まった。その後"Twilight war"と呼ばれる小康状態の後、ドイツは1940年5月にフランスに侵攻・占領し、英国はダンケルクから撤退して戦力を温存した。

その直後からバトルオブブリテンでドイツが英国侵略の前段階として航空戦を挑み、英国が新兵器レーダーと英国空軍の大車輪の活躍で、1940年10月頃にはドイツ空軍の英国侵攻をほぼ撃退したところだった。

ソ連とドイツは独ソ不可侵条約を結んでいたので、ヨーロッパでは英国のみがドイツと戦っているような状態で、チャーチルの名著「The Second World War」第2巻は、"Alone"というタイトルが付けられているほどだ。

第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)
著者:ウィンストン・S. チャーチル
販売元:河出書房新社
発売日:2001-07
おすすめ度:4.5
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ドイツの戦勝を見た松岡洋右などの日本の親ドイツ派は、「バスに乗り遅れるな」のかけ声の下、それまで欧州戦争には中立の立場を取っていたにもかかわらず、日独伊三国同盟を結び、海軍などが反対したにもかかわらず急速に枢軸陣営に加わっていった。

一方ルーズベルトは英国を助けるために、「隣の家が火事になったら、無償で消防用ホースを貸すでしょう?」という国民に対する説明のもとに、英国への武器無償貸与を1939年開始しており、マッカラムメモの後の1941年3月には「レンドリース法」を制定し、英国に武器を無償で大量供与した。

ルーズベルトは既にユダヤ人の殺害を始めていたナチスドイツがヨーロッパを支配することは重大な脅威と感じ、今や英国だけとなった反ドイツ勢力を支援していたが、米国内の共和党を中心とする戦争反対勢力は強かった。

第2次世界大戦が始まる1年前の1938年11月に「水晶の夜」事件が起こり、ナチスがドイツ国内のユダヤ人商店・工場やシナゴーグを襲うという事件が起きており、この事件はスピルバーグの「シンドラーのリスト」にも描かれている。



当時の米国民の8割以上は、欧州の戦争に参戦することに反対しており、ルーズベルトも「息子さんを欧州の戦争には生かせない」と公約して1939年の大統領選挙に勝利したことから、たとえヨーロッパをドイツが占領し、英国が風前の灯火となっていた状況でも米国の参戦を、表だって国民に受け入れさせることはできなかった。

マッカラムメモでは、日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から戦争を仕掛けてくるように挑発すべきだと考え、蒋介石政権への援助や、ABCD包囲網での石油禁輸、全面的貿易禁止など8項目の行動計画を提案している。

ルーズベルトがマッカラムメモを読んだことは確実で、もっけの幸いにマッカラムメモにある8項目を順次実施し、日本を挑発し、日本に最初に攻撃させることで、厭戦気分がある米国民を日本とドイツに対する戦争に巻き込む”裏口から参戦する”計画を練って、実行に移したというのがスティネット氏の見解だ。

これで日米交渉では米国側は妥協を一切示さず、結果的に日本を開戦に追い込んだ理由がわかる。


余談となるが、以前紹介した多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」で紹介されていた話を思い出した。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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開戦当時の外務次官だった西春彦さんの「回想の日本外交」に、1941年後半の日米交渉で日本は大幅な譲歩案である甲案を出したのに、アメリカが全く乗ってこなかったのは、暗号解読電文の誤・曲訳が原因の一つだったことが、東京裁判の証拠調べの時にわかり、その晩は眠れなかったと書いている。

ちなみに東京裁判の時にはブレークニー弁護人がこの誤訳を題材にして大弁論を展開したが、結局判決では誤って英訳していある電文をそのまま判決理由に載せた。唯一パール判事は、少数意見でこのことを詳細に取り上げて鋭く論評したという。

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
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しかし実際にはルーズベルトは日本を挑発して裏口からの参戦を決めていたことが真相かもしれない。

元皇族竹田恒泰さんの「語られなかった皇族たちの真実」に、東久邇稔彦親王の自伝「やんちゃ孤独」で東久邇宮が元フランス首相クレマンソーから聞いた話が紹介されている。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」


アメリカの戦略はその意味ではクレマンソーの予言通りだったと言えると思う。

閑話休題。


2.真珠湾攻撃は事前に察知されていたのではないか?

日本が対米開戦を決意し、択捉島の単冠湾(ヒトカップ湾)に機動部隊を集結させ、それからハワイに向かって移動していたことは、暗号が解読され米国側に事前に察知されていた。

この本の解説で中西輝政さんも驚いたと書いているが、ヒトカップベイという暗合解読文が原文で紹介されている。

暗号電報解読文の一例

hitokappu bay






出典:本文96−97ページ

さらに開戦を命じた1941年12月2日のニイタカヤマノボレの日本語電報原文と暗号解読された英文も掲載されている。

ニイタカヤマノボレ電文と暗合解読文

Niitakayama cable






出典:本文380−381ページ

"Top Secret-Ultra"に格付けされたこの電報は、打電されたのと同じ日の12月2日に解読されており、"Climb Niitakayama"とは"Attack on Dec. 8"のことだと断言しているのが印象的である。

この暗号解読情報は、1979年にカーター大統領の情報公開に基づいて公開された1941年7月から1945年秋までの30万通にものぼる日本の電報の解読情報の一つだ。

日本側は厳しい無線管制を敷いていて、アメリカ側は事前に察知できなかったとされているが、実際には艦隊への通信が行われており、それが傍受されて機動部隊の動きは米国に捉えられていた。

この本では日本艦隊が実際には頻繁に電報を打っていたことが数々の暗号解読電報から明らかにされており、少なくとも129通の電報が証拠としてあげられている。もっとも”おしゃべり”だったのが、南雲司令官からの電報60通で、司令官みずから無線管制を破っていたことがわかる。

またハワイの日本領事館で森村正こと、吉川猛夫海軍少尉は、日本のスパイとして真珠湾の艦船の停泊情報を調べ日本に送っていた。森村の行動を米海軍は監視はしたが、泳がせていた。これも真珠湾が攻撃される可能性が高いことを事前に知っていたという証拠の一つだ。


3.暗合解読により日本の攻撃は察知されていたのに、なぜ現地の司令官には何も知らされていなかったのか?

これがルーズベルト陰謀説の最大の謎だ。

上記のように”ニイカタヤマノボレ”の電報は、すでに12月2日に解読されており、これが現地の司令官に伝わらなかったのは、意図があってのことだと思わざるをえない。

スティネット氏は、マッカラムメモの筋書き通りに日本を挑発して先制攻撃を仕掛けさせるために、現地のハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には1941年11月27日に「合衆国は、日本が先に明らかな戦争行為に訴えることを望んでいる」という事前の大統領命令が出されていたことを指摘する。

両将軍は真珠湾攻撃を事前に察知できなかった責任を問われて、降格されているが、実は両将軍とも事前の大統領指令を忠実に履行し、日本側の出方を待っていたのだ。1995年と2000年には両将軍の遺族から名誉回復の訴えが出されている。

スティネット氏が直接インタビューした当時HYPO(真珠湾無線監視局)に勤めていたホーマー・キスナー元通信上等兵の証言によると、彼が毎日HYPOに届けていた書類の中には、無線方位測定による発信源データ(RDF)報告書が含まれており、10月まではキンメル将軍とホワイトハウス向けの両方に入っていたのに、1941年11月からキンメル将軍宛には入っていない。

このことを知らされたキスナー氏は、”誰が抜き取ったんだ?”と仰天した。

キスナー氏が完全な報告をHYPOに届けてから、しばらくたって誰かがRDF記録を抜き取った。1993年に国立公文書館真珠湾課長の専門官は、HYPOからキンメル大将宛の通信概要日報のうち、1941年11月と12月分65通以上に手が加えられているのを確認した。

1945年の議会公聴会前に提出された時には、既にページの下半分が切り取られていたという。

日本機動部隊の無線封止神話はここから始まったとスティネット氏は語る。

誰かが操作したことは間違いないようだ。

チャーチルもコベントリー市へのドイツ軍の空襲計画を事前に知りながら、予防措置を出動させれば、英国がドイツの暗号を解読していることがドイツに知れることを恐れ、コベントリー市民にはなんの警告も出さずに、多くの生命を犠牲にしたという。

ヒトラーというより大きな悪に立ち向かうためには、必要な犠牲だったとスティネット氏は語る。苦痛に満ちていたがルーズベルトの決定は、枢軸国に対して連合国を最終勝利に導くために戦略的に計算しつくされたものだったのだと。


蛇足ながら、スティネット氏は、日本軍の戦略性の無さも指摘している。

真珠湾に停泊していた旧式戦艦や艦船などを攻撃せずに、真珠湾に大量に備蓄されていた500万バレルの船舶用石油タンクとか修理ドック、高圧送電線網などの米海軍のロジスティックス設備を徹底的に攻撃していたら、米軍の反撃は数ヶ月は遅れたのではないかと。

チャーチルの「第2次世界大戦」でも書かれていたが、英国の船舶損失の90%は大西洋で、太平洋での損失はわずか5%程度だ。日本の潜水艦はドイツのUボートのような商船の攻撃はほとんど行っていないので、撃沈トン数も低い。

Wikipediaによると、Uボートは1,131隻が建造され、敗戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈したという。ほとんど戦闘艦船は撃沈していないのだ。Uボート自身の損失は743隻だという。

武士道精神なのかもしれないが、日本の潜水艦は武装艦船ばかりねらって非武装の商船はほとんど攻撃していないのだ。

相手の息の根を止めるにはなにをすべきか、相手が困るのはなにかという発想が欠けている。兵站思考のなさ。それが日本軍の最大の欠点であり、すでに真珠湾攻撃の時から、その弱点は露呈していたのだ。


後日談

1999年の執筆や2000年の追補時点でも米国海軍の暗号解読情報は未だ公開されていない。この異常とも思える秘密主義は、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたという疑惑を遠ざけるためだと著者のスティネット氏は語る。

いまだに開戦時の情報は公開されていないものがあり、すべては状況証拠ではあるが、この本を読むとルーズベルトが日本に先制攻撃を仕掛けさせることによって、米国民の8割が戦争に反対していたアメリカ世論を一挙に変える賭けに出たと思わざるを得ない。

メキシコとの戦いの時、「アラモを忘れるなーRemember Alamo"」のスローガンが米国民を一つにした故事にならい、"Remember Pearl Harbor"のスローガンのもとに、米国民が一致団結したのはまさにルーズベルトが望んだ通りの結果だったろう。

また米国の日独伊との戦争への参戦は、同盟国のイギリスのチャーチルも中国の蒋介石も望んだ結果なので、その意味でもルーズベルトはマッカラム計画に従って進めやすかったのだろうと思う。


本件に関する筆者の個人的見解

以下は筆者の個人的見解だが、ルーズベルトが日本をけしかけて、裏口からでも対独参戦したかった理由の一つは、ドイツの核開発疑惑ではないかと思う。

アインシュタインがルーズベルトにレターを送って、ドイツの原爆開発の可能性について警告したのは、1939年8月のことだ。

ルーズベルト宛のアインシュタインのレター

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出典:Leo Szilard Online

その後1941年には英国からMAUDレポートと呼ばれる原子爆弾の製造は可能という報告もあり、ルーズベルトはウラン資源を持ち、核分裂研究で世界のトップだったナチスドイツが原爆を持てばアメリカのみならず人類の重大な脅威になると感じていたのは間違いない。

MAUDレポート

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出典:Wikipedia

だからルーズベルトが米国民の8割を越える反対にもかかわらず、欧州の戦争に参戦したがっていた背景には、ドイツが原爆を世界に先駆けて開発して、世界を支配するのではないかという恐れがあったように筆者には思える。

この裏付けにも思えるが、ルーズベルトはアメリカの原爆開発計画を勧める科学者ヴァネヴァー・ブッシュの1941年11月のレターを、日本が真珠湾攻撃を仕掛けてくるまで手元にそのままキープしていた。

そして日本の真珠湾攻撃を受けて、アメリカが第2次世界大戦に参戦した直後の1942年1月に、自筆メモで原爆開発計画にOKを与えているのだ。

「このメモを金庫にしまっておけ」と原爆開発計画を承認するルーズベルトの手書きメモ

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出典:The Manhattan Project

これが1942年にスタートしたマンハッタン計画のさきがけだ。

マンハッタン計画の中心人物Groves将軍と科学者オッペンハイマー博士

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出典: Wikipedia


掲載されている数百の暗号解読文だけでも著者のスティネット氏が導き出したルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという仮説は正しいと思う。

まだ公開されていない暗合解読文などの資料が将来公開されれば、現在は状況証拠の寄せ集めに過ぎないスティネット仮説も実証される時が来るのではないかと思う。

もっともルーズベルト陰謀説が正しいからといって、それで歴史が変わる訳ではないし、スティネット氏が語るようにルーズベルトの評価が落ちる訳でもない。開戦を決断したのは、昭和天皇と東條英機他の当時の日本の指導者だという事実に変わりはないのだ。

田母神さんのように、日本はルーズベルトにはめられて戦争に引き込まれた被害者だと胸をはって主張するのは無理があると思う。マッカーサーの言うように日本は自己防衛の為に戦争をしたにせよ、戦争を始めたのは日本なのだ。

資料からの引用が多く読みにくいが、日本人として一度は目を通しておくべき資料だと思う。一読に値する本だ。


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