時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

歴史

パレオマニア 大英博物館の所蔵品の起源を訪ねる旅



大英博物館に所蔵する美術品の起源を訪ねる旅。

このブログで紹介した福原義春さんの「本読む幸せ」で紹介されていたので読んでみた。

大英博物館は一度行ったことがあるだけだが、その時はざっと見ただけなので、ロゼッタストーンとかエジプトのミイラ、ギリシャの神殿や彫刻、フェニキアの壺などが記憶にある。

大英博物館の所蔵品は、GoogleのCultural InstituteのBritish Museumで博物館に展示されている状態で見ることができるので、リンクが見つけられたものは入れておいた。まるで大英博物館の館内を見学しているような気分になる。

この本は大英博物館が所蔵する美術品が出土した地域をめぐる旅行記で、次のような構成となっている。

ギリシャ編 エルギン・マーブルと呼ばれる当時オスマン・トルコの支配下だったギリシャからトルコ政府の許可のもとで英国に運び出したパルテノンなどの彫刻や、パルテノンのわきにあるエレクティオンの柱となっているカリアティドの像など。

Elgin_Marbles_east_pediment











出典:Wikipedia

エジプト編
棺を乗せた船の模型(クリックして表示される船の下にあるので、マウスで移動してほしい)。船大工の像などが紹介させている。

インド編
釈迦の生涯を描いた彫刻。仏像が紹介されている。

イラン編
古代ペルシャの鉢。牡牛に噛みつく獅子の図が紹介されている。

カナダ編
サンダーバードとトーテムポールが紹介されている。

イギリス/ケルト編
ケルトの青銅鏡リンドウ・マンが紹介されている。

カンボディア編
クメールの仏像。クメールの彫刻が紹介されている。

ヴェトナム編
ヴェトナム中部にあった海洋国家チャンパの獅子像。

イラク編
この本の表紙になっている「藪の中の牡山羊」ラピスラズリと金、貝殻でできている。すばらしい作品だ

Raminathicket2



























出典:Wikipedia

ラマッスーと呼ばれる人面有翼牡牛像

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出典:Wikipedia

トルコ編
銀の鋳物でできた牡牛の像。帳簿と碑文。

韓国編
新羅時代の石仏。王族の耳飾り。

メキシコ編
火の蛇。王と王妃を描く石板。

British_Museum_Mesoamerica_004





















出典:Wikipedia

オーストラリア編
アボリジニの絵画。アボリジニが儀式に使うチュリンガのスケッチ。

イギリス/ロンドン編
大英博物館のできた由来(ハンス・スローンという商才ある医師が収集した7万1千点もの物品、5万札の書物、版画、337巻におよび植物標本などを国に2万ポンドで譲渡したことが大英博物館設立のきっかけとなった)。

グーグルのCultural Instituteは、様々な国の博物館などをバーチャル見学できるようになっている。たとえば日本で検索すると、国立西洋美術館はじめ、大原美術館、山種美術館など日本国内のおもだった美術館、博物館、海外の日本関係のコレクションなどが表示される。

美術館は通常は一部しか展示しておらず、展示していない所蔵品のほうが多いが、これなら展示していない所蔵品までアーカイブしている。便利な時代になったものである。


参考になれば次クリックお願いします。


暗闘 スターリンとトルーマンの日本降伏を巡っての競争 日米露の資料から構成

暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏
著者:長谷川 毅
販売元:中央公論新社
発売日:2006-02
おすすめ度:5.0
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在米のロシア史研究家、長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の終戦史再考。終戦記念日が近づいているので紹介する。

大前研一の「ロシア・ショック」で取り上げられていた。

ロシア・ショックロシア・ショック
著者:大前 研一
販売元:講談社
発売日:2008-11-11
おすすめ度:4.5
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この本を読んで筆者の日本史の知識の欠如を実感させられた。

終戦秘話といえば、大宅壮一(実際のライターは当時文芸春秋社社員だった半藤一利氏)の「日本のいちばん長い日」や、終戦当時の内大臣の「木戸幸一日記」、終戦当時の内閣書記官長の迫水(さこみず)久常の「機関銃下の首相官邸」などが有名だ。

「日本のいちばん長い日」は映画にもなっている。このあらすじを別ブログで紹介しているので参照して欲しい

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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木戸幸一日記 上巻 (1)木戸幸一日記 上巻 (1)
著者:木戸 幸一
販売元:東京大学出版会
発売日:1966-01
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新版 機関銃下の首相官邸―2・26事件から終戦まで
著者:迫水 久常
販売元:恒文社
発売日:1986-02
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今まで終戦史は、日本の資料かアメリカの資料をベースに何冊もの本が書かれてきたが、この本は米国在住の日本人ロシア史専門家が、友人のロシア人歴史学者の協力も得て完成させており、日本、米国、ロシアの歴史的資料をすべて網羅しているという意味で画期的な歴史書だ。

この本の原著は"Racing the enemy"という題で、2005年に出版されている。日本版は著者自身の和訳で、著者の私見や、新しい資料、新しい解釈も加えてほとんど書き下ろしになっているという。

Racing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of JapanRacing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of Japan
著者:Tsuyoshi Hasegawa
販売元:Belknap Pr
発売日:2006-09-15
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約50ページの注を入れると全部で600ページもの大作だが、日本の無条件降伏に至る太平洋戦争末期の世界の政治情勢がわかって面白い。

この本では、3つの切り口から日本がポツダム宣言を受諾した事情を描いている。


1.トルーマンとスターリンの競争

一つは日本を敗戦に追い込むための、トルーマンスターリンの競争である。

1945年2月のヤルタ密約で、ソ連が対日戦に参戦することは決まっていたが、戦後の権益確保もあり、トルーマンとスターリンはどちらが早く日本を敗北に追い込む決定打を打つかで競争していた。

ヤルタ密約は、ドイツ降伏後2−3ヶ月の内に、ソ連が対日戦争に参戦する。その条件は、1.外蒙古の現状維持、2.日露戦争で失った南樺太、大連の優先権と旅順の租借権の回復、南満州鉄道のソ連の権益の回復、3.千島列島はソ連に引き渡されるというものだ。

元々ルーズベルトとスターリンの間の密約で、それにチャーチルが割って入ったが、他のイギリス政府の閣僚には秘密にされていたという。

ルーズベルトが1945年4月に死んで、副大統領のトルーマンが大統領となった。トルーマンといえば、"The buck stops here"(自分が最終責任を持つ)のモットーで有名だ。

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出典:Wikipedia

トルーマンは真珠湾の報復と、沖縄戦で1万人あまりの米兵が戦死したことを重く見て、これ以上米兵の損失を拡大しないために、原爆を使用することに全く躊躇せず、むしろ原爆の完成を心待ちにしていた。

1発では日本を降伏させるには不十分と考え、7月16日に完成したばかりの2発の原爆を広島と長崎に落とした。

原爆の当初のターゲットは、京都、新潟、広島、小倉、長崎の5ヶ所だった。

原爆を開発したマンハッタン計画の責任者のグローヴス少将は最後まで京都をターゲットに入れていたが、グローヴスの上司であるスティムソン陸軍長官は京都を破滅させたら日本人を未来永劫敵に回すことになると力説して、ターゲットからはずさせた。

2.日ソ関係

2つめは、日ソ関係だ。

日ソ中立条約を頼りにソ連に終戦の仲介をさせようとする日本の必死のアプローチをスターリンは手玉にとって、密かに対日参戦の準備をすすめていた。

1941年4月にモスクワを訪問していた松岡外務大臣を「あなたはアジア人である。私もアジア人である」とキスまでして持ち上げたスターリンは本当の役者である。

ポツダム宣言

ポツダム会議は1945年の7月にベルリン郊外のポツダムに英米ソの3首脳が集まり、第2次世界大戦後の処理と対日戦争の終結について話し合われた。

会議は7月17日から8月2日まで開催されたが、途中で英国の総選挙が行われ、選挙に敗北したチャーチルに代わり、アトリーが参加した。

ポツダム会議はスターリンが主催したが、ポツダム宣言にはスターリンは署名しなかった。

トルーマンとチャーチルは、スターリンの裏をかいて、スターリンがホストであるポツダムの名前を宣言につけているにもかかわらずスターリンの署名なしにポツダム宣言として発表するという侮辱的な行動を取ったのである。

トルーマンは原爆についてポツダムでスターリンに初めて明かしたので、スターリンにはポツダム宣言にサインできなかったこととダブルのショックだった。

これによりスターリンはソ連の参戦の前にアメリカが戦争を終わらせようとしている意図がはっきりしたと悟り、対日参戦の時期を繰り上げて、8月8日に日ソ中立条約の破棄を日本に宣言する。

ソ連の斡旋を頼みの綱にしてた日本は簡単に裏切られた。もっともソ連は1945年4月に日ソ中立条約は更新しないと通告してきていた。

7月26日の段階で、ソ連軍は150万の兵隊、5,400機の飛行機、3,400台の戦車を国境に配備しており、ソ連の参戦は予想されたことだった。

ソ連は終戦直前に参戦することで日本を降伏に追い込み、戦争を終結させた功労者として戦後の大きな分け前にありつこうとしたのだ。

日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾したが、スターリンは樺太、満州への侵攻をゆるめず、ポツダム宣言受諾後に千島、北海道侵攻を命令した。

スターリンの望みは、千島列島の領有とソ連も加わっての日本分割統治だったが、これはアメリカが阻止した。


3.日本政府内の和平派と継戦派の争い

第3のストーリーは日本政府内での和平派と継戦派の争いだ。

この本では、和平派と継戦派の争点は「国体の護持」だったという見解を出しているが、連合国側から国体護持の確約がなかったことが降伏を遅らせた。

アメリカ政府では元駐日大使のグルーなどの知日派が中心となって、立憲君主制を維持するという条件を認めて、早く戦争を終わらせようという動きがあったが、ルーズベルトに代わりトルーマンが大統領となってからは、グルーはトルーマンの信頼を勝ちとれなかった。

開戦直後から日本の暗号はアメリカ軍の海軍諜報局が開発したパープル暗号解読器によって解読されていた。この解読情報は「マジック」と呼ばれ、限定された関係者のみに配布されていた。

ところでパープル解読器のWikipediaの記事は、すごい詳細な内容で、暗号に関するプロが書いた記事だと思われる。是非見ていただきたい。

日本の外務省と在外公館との通信はすべて傍受されて、日本の動きは一挙手一投足までアメリカにつつ抜けだった。

広島に8月6日、長崎に8月9日に原爆が投下された。ソ連は8月8日に日ソ中立条約の破棄を通告し、8月9日には大軍が満州に攻め込んだ。関東軍はもはや抵抗する能力を失っていた。

こうして8月14日御前会議で、ポツダム宣言受諾の聖断が下りた。

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出典:Wikipedia

最後まで戦うべきだと主張する阿南惟幾(これちか)陸軍大臣を中心とする陸軍の抵抗を、原爆やソ連参戦という事態が起きたこともあり高木惣吉ら海軍中心の和平派が押し切った。

天皇の玉音放送が流れた8月15日に阿南陸相は自刃し、象徴的な幕切れとなった。

ちなみにWikipediaの玉音放送の記事の中で、玉音放送自体の音声も公開されているので、興味がある人は聞いてほしい。

8月15日には天皇の声を録音した玉音盤を奪おうと陸軍のクーデターが起こるが、玉音盤は確保され、放送は予定通り流された。

しかし千島列島では戦争は続いた。最も有名なのは、カムチャッカ半島に一番近い占守島の激戦で、8月21日になって休戦が成立した。

スターリンはマッカーサーと並ぶ連合国最高司令官にソ連人を送り込もうとしたが、これはアメリカに拒否され、結局北海道の領有はできなかった。


歴史にIFはないというが…

長谷川さんはいくつかのIFを仮説として検証している。

1.もしトルーマンが日本に立憲君主制を認める条項を承認したならば?

2.もしトルーマンが、立憲君主制を約束しないポツダム宣言に、スターリンの署名を求めたならば?

3.もしトルーマンがスターリンの署名を求め、ポツダム宣言に立憲君主制を約束していたならば?

4.もしバーンズ回答が日本の立憲君主制を認めるとする明確な項目を含んでいたら?

5.原爆が投下されず、またソ連が参戦しなかったならば、日本はオリンピック作戦が開始される予定になっていた11月1日までに降伏したであろうか?

6.日本は原爆の投下がなく、ソ連の参戦のみで、11月1日までに降伏したであろうか?

7.原爆の投下のみで、ソ連の参戦がなくても、日本は11月1日までに降伏したであろうか?


歴史にIFはないというが、それぞれの仮説が長谷川さんにより検証されていて面白い。


日、米、ソの3カ国の一級の資料を集めて書き上げた力作だ。500ページ余りと長いがダイナミックにストーリーが展開するので楽しめるおすすめの終戦史である。


参考になれば次クリック願う。


消えた潜水艦 イ52 深海の使者

原爆記念日や終戦記念日が近づいているので、「ノモンハンの夏」に続いて、戦争に関する本をいくつか紹介する。

消えた潜水艦イ52 (NHKスペシャル・セレクション)消えた潜水艦イ52 (NHKスペシャル・セレクション)
著者:新延 明
販売元:日本放送出版協会
発売日:1997-08
おすすめ度:5.0
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1997年3月2日に放送されたNHKスペシャル、消えた潜水艦イ52を本にまとめたもの。

吉村昭さんの「深海の使者」にも、イ52を含めた日本からの潜水艦による極秘任務が5回実施されたことを紹介されており、こちらも面白い。無事にドイツと日本の間を往復できたのは一隻だけだった。

深海の使者 (文春文庫)深海の使者 (文春文庫)
著者:吉村 昭
販売元:文藝春秋
発売日:1976-01
おすすめ度:5.0
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YouTubeにも収録されている。





日本が最高機密にしていた潜水艦のドイツ派遣が、アメリカの暗号解読によってアメリカに筒抜けになっていたという驚くべき事実が語られている。

アメリカ側は派遣時期から同乗している民間企業の技術者の名前や専門まですべて調べ上げていた。

そして潜水艦の動静を刻々と追って、ついに対潜水艦攻撃部隊の最新鋭兵器によってイ52は大西洋の底に葬られたのだ

まるで孫悟空がお釈迦様の手のひらで踊らされて、最後はひねりつぶされたような感じだ。米海軍の教育用テープにまとめられた沈没したときの音までインターネットで公開されている。遺族は複雑な心境だろう。

イ52は第2次世界大戦中の日独の軍事交易のために派遣された対独派遣潜水艦の5隻めで、最後の派遣鑑だ。

吉村昭さんの「深海の使者」では、大戦中の日独の潜水艦による軍事交易を取り上げていて、吉村さんの小説は生存者や関係者など約200人への取材に基づくもので、1973年(昭和48年)の発刊だ。

日本からの潜水艦には2トンもの金を積んでドイツに向かったものもあった。そのうちの一隻がイ52だ。

「深海の使者」ではイ52は昭和19年7月にフランスに入港する直前に消息を絶ったと書かれているが、実はイ52はドイツ潜水艦とのランデブーを終わった直後、昭和19年6月下旬にアメリカの雷撃機の最新式の音響探知(ホーミング)魚雷により撃沈されていた。

なぜイ52から到着間近という連絡があったと誤解したのか理由は不明だという。

吉村昭さんが取材していた当時は、アメリカ軍の秘密文書は公開されていなかったので、日本側の関係者はアメリカ側がイ52の動静をシンガポール出航から追っていたことは一切知らなかった。

しかしアメリカ軍は日本軍や外務省の暗号通信を解読していたので、ドイツ派遣潜水艦の派遣決定や、潜水艦の同行などをつぶさにつかんでいたのだ。

だから第3弾のイ34がシンガポールを出た直後英国潜水艦トーラスに待ち伏せされ撃沈された。

また第4弾のイ29はドイツからからレーダー、魚雷艇エンジン、Me262ジェット戦闘機、Me163ロケット戦闘機の設計図とドイツで学んだ日本人技術者を乗せてシンガポールまで帰着したが、日本に帰る途中のフィリピン沖で米国潜水艦3隻の待ち伏せ攻撃で撃沈されてしまう。

広い太平洋でタイミング良く3隻の潜水艦が一隻の潜水艦に出会って、一斉に攻撃するということなどありえない。待ち伏せされたのだ。

最後のイ52は昭和19年4月23日に金2トン、生ゴム、錫、タングステン、キニーネなどを積んでシンガポールを出航した直後、5月7日にはアメリカ側に出航を感知されている。

たぶんシンガポール近辺で日本軍艦の出入りを監視していたスパイの報告によるものと思われる。

イ52については、日本側にはほとんど資料は残っていない。しかし1990年頃に公開されたアメリカ軍のウルトラトップシークレットによると、アメリカ側はイ52の渡航目的、乗り込んだ日本側の技術者の専門と出身会社、積み荷、そして動静から沈没地点まですべてつかんでいたことがわかる。

NHKはアメリカ国立公文書館に残されたアメリカ軍の秘密文書を大量に入手し、その分析をすすめて、この番組を制作した。

もっともNHKがイ52に注目したのはアメリカのトレジャーハンター、ポール・ティドウェル氏の宝探しがきっけだ



ティドウェル氏は、公開されたアメリカ軍のウルトラトップシークレット情報約2000ページを読み込み、その資料をもとに、イ52が積んでいた金2トンを海底からサルベージしようとロシアの海洋調査船をやとって宝探しを続け、とうとう5,000メートルの深海に横たわるイ52の残骸を発見した

アメリカ軍はドイツ派遣命令が出た翌日の昭和19年1月25日の東京の海軍省からベルリン駐在の駐独海軍武官に宛てた電文を解読して、イ52がドイツに派遣される予定であることをすでにつかんでいた。

アメリカ軍は当時全世界に電波の傍受網をはりめぐらせて、複数の施設で傍受して発信元を特定し、傍受した暗号文はすべてハワイやワシントンの暗号解読施設に直ちに送られて解読された。

当初は暗号の解読に時間がかかっていたが、昭和19年にはほぼリアルタイムで暗号解読ができるようになり、通信が行われてから4−5日で英訳した報告書が作成されていたという。

日本の暗号は複数あったがほとんどが暗号書と乱数表を使ったもので、まず文章を暗号表をもとに数字に置き換え、それを今度は乱数表にかける。そして受け取った側に、どの乱数を使ったか、どの個所から乱数を使ったかを示す符号を巧妙に電文に隠すというやりかたを取っていた。

だから一旦解読できたら後は簡単に解読できたのだ。

潜水艦の訪独作戦に関する連絡は短波の無線通信によって交わされ、その情報は深夜に浮上するイ52にも伝えられた。

アメリカ側は無線を傍受してイ52を追跡し、6月23日にドイツ潜水艦U530と会合し、ドイツ側からレーダー逆探知機を受け取り装備することまで知っていた。

その直後イ52号を追跡していたアメリカ海軍の第22.2対潜部隊で、護衛空母ボーグを中心に、ジャンセンハバーフィールドなど5隻の駆逐艦で構成されたUボート攻撃のベテランチームがイ52を攻撃した。

このボーグを中心とするチームは、ドイツから寄贈され、日本に向かっていた2隻のUボートのうちの一隻のU−1224(ロー501と改名)を沈めたチームでもある。

アメリカ側は最新式レーダーと潜水艦の音を探知する音響探知機ソノブイを装備したアベンジャー雷撃機を発進させ、ランデブー直後のイ52をとらえ、スクリュー音を探知して自動追尾する最新式のマーク24魚雷で撃沈した。

ランデブー翌日24日の午前2時のことだ。



イ52号を撃沈したソノブイと音響追尾魚雷マーク24は実戦に投入されたばかりだったという。

NHKの放送ではイ52を撃沈したパイロットのゴードン中尉にインタビューし、イ52が魚雷攻撃で爆発して沈没する時の様子をソノブイがとらえた録音を番組で流している。

この録音テープはアメリカ海軍の対潜水艦飛行部隊の教材テープとして使われていたもので、潜水艦のスクリュー音、爆破音、飛行機のパイロットの会話、ブリキ缶を踏みつぶすような水圧で艦体がつぶれる音まで入っていて、最後に2度の爆発音で終わっている。

こんなテープが残っていることを知ったら遺族はどう思うだろう。圧倒的な技術力と生産力の差が招いた悲惨なイ52の最期だ。

このイ52の対独派遣については、非常に詳しいサイトがあるので興味のある人は参照してほしい。

以前読んだ柳田邦男氏の「零戦燃ゆ」にも、アメリカ軍のVT信管(信管に小型のレーダーを組み込み、電波が敵機に当たって反射すると爆発する仕組み)により飛躍的に対空射撃の命中精度を上げ、勝利に貢献したことが書いてあったが、それ以外にもレーダー、ソノブイ、ホーミング魚雷、ヘッジホッグといい、日本軍とアメリカ・イギリス軍の軍事技術の差は大きい。

零戦燃ゆ〈2〉 (文春文庫)零戦燃ゆ〈2〉 (文春文庫)
著者:柳田 邦男
販売元:文藝春秋
発売日:1993-06
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2009年4月11日追記:


護衛空母ボーグはリバティ船

畑村さんの「失敗学のすすめ」を読み直してみたら、イ52を沈めた護衛空母ボーグが戦時中アメリカが大量生産したリバティ船を航空母艦に改造した船だということがわかった。

失敗学のすすめ (講談社文庫)失敗学のすすめ (講談社文庫)
著者:畑村 洋太郎
販売元:講談社
発売日:2005-04-15
おすすめ度:4.5
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出展:Wikipedia


リバティ船とはそれまでのリベット接合に代えて鉄板を溶接して接合した急造の1万トン級の船で、全米18個所の造船所で戦争中に同じ形の船がなんと2,700隻も作られた。そのほかビクトリー船やT2タンカーなども合計1,000隻以上大量生産された。

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出展:Wikipedia

これらが大戦中の軍事物資の輸送に活躍し、アメリカを勝利に導いたのだ。リバティ船などの急造船のうち、なんと122隻がボーグの様な護衛空母に改造され、アメリカが戦時中につくった空母は151隻にも達した。

日本の全空母数の31隻に対して圧倒的な差である。

護衛空母のうち多くはイギリスにレンド・リース法により無償貸与され、イギリスの輸送船団護衛に威力を発揮した。

その後このリバティ船はなんと1,200隻の船体に何らかのダメージが生じ、230隻は沈没または使用不能となった。

冬の北大西洋で船体にダメージを受けるリバティ船が続出したので、理由を調査した結果、溶接鉄板の低温脆性のせいで沈没したことがわかった。これが畑村さんの「失敗学のすすめ」に書いてあったことだ。

それにしてもアメリカの圧倒的な生産能力に今更ながら感心する思いだ。

「消えた潜水艦イ52」で紹介されている武器の質の差とともに、これだけ圧倒的な物量の差があれば、とうてい日本には勝ち目はなかったことがわかる。


魚雷艇用高速回転エンジン

この本ではイ8が持ち帰ったベンツ製の魚雷艇用高速回転エンジンの話が取り上げられている。超高精度で加工された部品を見た三菱重工の技術者が、日本でのコピー生産は無理と断念した。

日本は外国の製品を輸入してコピー品をつくる「宝船」方式で兵器を生産してきたが、魚雷艇用のエンジンは大型鍛造クランクシャフトが日本で製造できないことと、1万分の1ミリの精度の加工精度は出さないことの2つで日本での製造は不可能だった。

大型船用のエンジンは製造できるが、100トン程度の小型船で70キロ以上の高速を出せるエンジンは軽量化と高速化回転が要求され、とても日本の技術では生産できなかったという。

日本とドイツの産業技術には大きな差があった。そしてそのドイツとアメリカ・イギリスのレーダーや音響兵器技術にも大きな差があった。

日本はレーダーや音響兵器の分野では世界のかやの外だった。

潜水艦で苦労してドイツに持ち込んだ日本自慢の酸素魚雷に、ドイツが見向きもしなかったことがよくわかる。

ドイツはアメリカと同様に音響魚雷を既に開発しており、イ52の積み荷の中には音響魚雷も入っていた。

もとから勝てる戦争ではなかったといえばそれまでだが、湾岸戦争でもイラクと米軍の圧倒的差が出たように、単に戦車とか軍艦とか潜水艦などのハードだけ作っても、搭載する武器の質や暗号解読などから得た情報を活用して戦略に活かすシステムの有無が大きな差になる。

現在の日本は世界トップレベルの加工技術を持っており、クランクシャフトなどはむしろGMなどビッグスリーはじめ全世界に輸出しているほどだが、戦前の日本の生産技術は欧米先進国とは大きな差があった。

昔筆者の友人から聞いた話だが、友人のおじいさんが三菱商事につとめており、戦前にチェコから機関銃を輸入して、バラバラに分解し、再度組み立てたら、すべてが元通り組み立てられたので驚いたという。

当時の日本の技術では加工精度が低かったので、部品をぴったり会わせるために、削って寸法を合わせていたのだ。

だからバラバラに分解して部品を混ぜてしまうと、それぞれちょっとずつ寸法が違ったので、元通りぴったり合わせることは不可能だったという。

NHKの番組では、イ52と運命をともにした三菱重工の蒲生さんというエンジニアにスポットを当てて、圧倒的な差があるにもかかわらず、なんとか欧米との差を縮めようと努力した当時の事情を紹介している。





この話はドラマとしてはおもしろいが、それにしてもアメリカ軍の徹底的な暗号活用と日米の軍事技術の差に驚かされる。

YouTubeに収録されているので、是非番組も見てほしい。"i-52"(アイ52)で検索すると数件表示されるはずだ。

たまたま図書館で見つけた本だが、大変おもしろかった。

是非図書館やアマゾンマーケットプレースで見つけて、一読されることをおすすめする。


参考になれば次クリックお願いします。




ノモンハンの夏 スターリンの術中にはまった日本 71年前の8月に起こった戦争

ノモンハンの夏 (文春文庫)ノモンハンの夏 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


今から71年前の8月。日本とソ連との間でおこった軍事衝突を描いた半藤一利さんの力作。いまやノモンハン事件という言葉を知る人も少なくなっているかもしれないが、歴史を振り返るには良い本なので紹介しておく。

第2次世界大戦直前の日本について、「日本軍のインテリジェンス」や、関榮次さんの「Mrs. Ferguson's Tea-Set」で紹介されていたので、当時の重大事件であるノモンハン事件について書いた定番とも言える1冊を読んでみた。

日本陸軍のインテリジェンス(情報活動)は、巨額の予算を使って優秀な人員も集め、IBM製の計算機も持っていた。その仮想敵国は米英でなく、ソ連だった。

ソ連の脅威は陸軍首脳を常に悩ませた。

その理由の一つが、ノモンハンでの関東軍のソ連軍に対する壊滅的な負け戦だ。

1939年5月(第一次)と7ー8月(第二次)ノモンハンでの負け戦の原因としてよく挙げられるのは次の点だ:

1.日露戦争時の戦術から進歩していない精神論中心の日本陸軍と、世界でトップクラスの戦車を持ち、戦術も20世紀型に進歩させているソ連軍の差 例えば第一次事件ではソ連戦車は火炎瓶攻撃に弱かったが、第二次では弱点をすぐに修正した

2.師団数で関東軍の11師団に対し、ソ連軍は30師団、戦車も200両に対し2,200両、航空機560機に対し2,500機という圧倒的な物量の差(実際に動員された戦車、航空機はそれぞれ500−600という説もある)

3.兵站の差。最寄り駅から750キロ離れているソ連軍に対し、日本軍は200キロだったが、ソ連には豊富な輸送力があり、距離の差は意味をなさなかった。むしろ日本軍には輸送手段のトラックが不足しており、歩兵は歩いて戦場までたどり着く始末で、武器・弾薬・食料・飲料が決定的に不足していた。

4.数だけでない兵器の質の差。たとえばソ連軍の短機関銃に対し、日本の三八式歩兵銃が中心兵器だった。日本の戦車は対戦車戦用の武器を持っていなかった等。

5.辻政信らの関東軍参謀が、東京の陸軍参謀本部の「侵されても侵さない。紛争には不拡大を堅守せよ」という不拡大方針を無視して、戦いを進めたこと


1939年は世界の運命の分かれ道

この本を読むと、よく挙げられる上記の点の他に、1939年当時の国際関係を反映し、スターリンがドイツと日本の両面作戦を避ける為に、一度日本を全力で叩いておく目的でノモンハン事件に臨んだことがよくわかる。

1939年当時の日本は、陸軍は同じ仮想敵国ソ連を持つドイツ(+イタリア)との軍事同盟を主張していたが、海軍は参戦義務のある軍事同盟を(ほとんど海軍力のない)ドイツと結ぶことは、全く勝算のない米英戦に巻き込まれるとして反対していた。

煮え切らない日本をなんとか引き込もうとして、ドイツのヒトラーはソ連と手を結ぶことを考える。

一方ソ連のスターリンは英仏と三国安全保障会議を申し出、ドイツと両天秤に掛ける。

そんな中で5月に関東軍とソ連・蒙古連合軍との間で、戦闘が勃発する。ソ連外相モロトフは、駐ソ大使東郷茂徳を呼び、これ以上の侵略行為は許さないと警告する。

同じく5月にドイツとイタリアは軍事同盟を結ぶ。スターリンは独伊の接近と、関東軍の好戦的活動に危機感を抱き、関東軍を完膚無きまでに叩いておくことを決意する。これがノモンハン事件の背景だ。


ソ連の術中にはまった関東軍

6月にスターリンは、腹心の部下ジューコフを満州国境に派遣し、戦車、飛行機を中心に大兵力増強を行い、着々と準備を整える。

日本にいるソ連のスパイゾルゲを使って、日本は対ソ連と本格戦争をする準備をしていないことがわかったことも、関東軍を痛撃する決意を固めた要因だ。

そんなこととはつゆ知らず、関東軍の辻と服部参謀は、ソ連軍を先制攻撃する「牛刀作戦」を計画、東京の参謀本部も不拡大方針を出していながら、一個師団程度であればと黙認してしまう。

まずは6月末に日本軍による空襲が行われた。

天皇はこの空襲を統帥権違反ととらえ、今後このようなことが再び起こらないようにと、厳重注意したが、陸軍はなにか隠しているのではないかと感じていた。

天皇の不安は的中し、7月1日から関東軍はソ連軍への攻撃を開始する。第2次ノモンハン事件の2ヶ月にわたる戦闘が開始された。

関東軍の主力戦車は八九式中戦車で、短砲身戦車砲はBT戦車を中心とするソ連の戦車には全く役に立たない。元々戦車対戦車の戦いは日本軍は想定していないのだ。


欧州の新情勢と時を同じくしたソ連軍の総攻撃

ノモンハンで戦闘が続いている間に、欧州では大きな動きがあった。

8月に入ってヒトラーはスターリンに不可侵条約を結ぶ用意があると伝え、8月23日に独ソ不可侵条約が締結される。

大島駐独大使に対して8月21日深夜に独ソ不可侵条約締結が伝えられ、日本にも伝達される。平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」という名文句で辞職する。

欧州の政治情勢が急展開する一方、ソ連軍は8月20日から総攻撃を開始する。

圧倒的に優勢なソ連軍により関東軍は壊滅的打撃を受け、8月29日には現地で撤退命令が出され、翌8月30日には戦闘終結の天皇命令が出される。

一方ソ連と結んだヒトラーは9月1日に電撃作戦でポーランドを占領すると、ソ連と一緒にポーランドを分割した。第2次世界大戦のはじまりだ。


第二十三師団の損耗率は実に76%

日本軍の損失は第六軍出動人員約59千人に対して、戦死・戦傷・戦病・行方不明合計約20千人。

第二十三師団については損耗率は76%だった。ガダルカナルでも損耗率は34%なので、日本軍の歴史の中で最悪の結果となっている。

ソ連蒙古軍も損耗は24千人。圧倒的な戦力を持ちながらソ連軍もこれだけの犠牲を出さなければならなかった。

司令官のジューコフはスターリンに報告する。

「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

現地で指揮した部隊長などは、自らの意思であるいは強要されて自決した人が多かったが、辻、服部のコンビはいったんは左遷されるものの、すぐに参謀本部作戦課に復帰する。

過去から学ばない人物の典型が日本を米英との戦争に追いやり、そして戦後も長らえ、辻にいたっては国会議員にまでなった。

半藤さんは戦後国会議員になった辻政信に会ったことがあるという。

「絶対悪」が支配した事実を書き残しておかねばならないという考え、この本を書いたと半藤さんは語る。「人はなにも過去から学ばない」と。


米英と組むという選択

1939年には日本には米英と組む選択肢もあった。天皇もそれを望んでいた。実際米英と組むか、独伊と組むかを政府、陸海軍で議論していた。

それが日独伊三国同盟に向かうのは、関榮次さんがMrs. Ferguson's Tea-Setで紹介したドイツによる日本への英軍秘密情報の提供も一つの要因だろう。

また独ソ不可侵条約ができれば、日独伊ソ四国同盟ができるかもしれないという希望的観測もあった。

ドイツのポーランドに続くフランス占領、ソ連侵攻など、第二次世界大戦初戦での勝利の勢いも要因の一つだろう。

他にも要因はあるが、それにしても1939−1940年の日本の日独伊三国同盟・そして開戦に至る政策決定は、あり得ない選択である。

これからもこの時期の日本を取り上げる作家は出てくると思う。後世の人間にはいくら調べても理解ができない話題ではある。


ノモンハン事件を詳しく知らなかった筆者には、この本を読んで新しい発見がいくつもあった。

「入学試験に出ない」という理由で、昭和以降の現代日本史を高校であまり教わっていない筆者の年代前後の人に、特におすすめの一冊である。


参考になれば次クリックお願いします。


ドナウの東 1989年の東欧革命まっただ中からのレポート

東欧革命1989―ソ連帝国の崩壊東欧革命1989―ソ連帝国の崩壊
著者:ヴィクター セベスチェン
販売元:白水社
発売日:2009-11
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「東欧革命1989」という本が最近出版されているが、もっとずっと前に日経新聞の当時のウィーン特派員山下啓一さん(現日経ヨーロッパ社長)が東欧革命についてレポートされているので紹介する。

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ドナウの東―内側から見た東欧革命
著者:山下 啓一
販売元:日本経済新聞社
発売日:1990-12
クチコミを見る


実は筆者は、以前英国に出張した時に山下啓一日経ヨーロッパ社長とご一緒したことがある。

山下さんはウィーン特派員時代に、各国で連鎖反応的に起こった東欧革命をレポートした本を書かれているので読んでみたものだ。


仕事と執筆活動を両立

山下さんは当時はウィーン・ワルシャワ特派員として、仕事を深夜までしてから、朝まで執筆したそうで、睡眠時間を切りつめてこの本を書いたと。さすがに体がもたず、その後は執筆活動は抑えているとのことだった。

やはり現役のビジネスマンが本を出すのは大変なことだと思う。

現在は絶版だが、アマゾンのマーケットプレースやオークションなどで手に入れることができるのは幸いだ。


1989年の東欧革命

時代は1989年から1990年。今から20年近く前のことである。

筆者は当時米国に駐在していたが、1989年6月の中国の天安門事件や、1989年11月9日(2001年のワールドトレードセンター攻撃の9.11に対してベルリンの壁崩壊は11.9と呼ばれる)のベルリンの壁崩壊前後に、東欧で共産党政権が倒れていった一連の政権交代をCNNで毎日見ていた記憶がある。

筆者は以前は鉄鋼原料を担当しており、1980年にウィーンと当時のユーゴスラビア、1992年からはアルバニア、スロバキアを毎年のように訪問していたので、この本を読んでなつかしく感じられた。


同時多発革命の謎 「ソ連の法則」

1989年の後半に集中してポーランド、チェコ、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア(独裁者チャウシェスク大統領夫妻は処刑された)の6ヶ国で連鎖的に政権交代が起きた理由は謎だ。

一説にはソ連のゴルバチョフ改革が東欧市民を目覚めさせ、近隣国の政変が波及したためだといわれているが、そうだとすれば、各国の政変にもう少し間が空いてもおかしくない。

山下さんはソ連、ユーゴスラビア、アルバニアでは革命が起こらず、ソ連の影響下にあった東欧6ヶ国だけに革命がおこった理由は「ソ連の法則」があったのではないかと推論する。

ソ連が経済力、軍事力、秘密警察の力で、改革派もコントロールしていたのではないかという議論だ。東欧の民主化はゴルバチョフ改革の方向に沿う活動だったので、ソ連も容認していたのが背景だ。

デモが厳しく規制されている体制下では、3万人を超える反政府主義者が立ち上がると、後は弾みがついて反政府運動が広がるという「3万人の法則」があると山下さんは語る。

しかし中国で革命が起こらず、東欧で革命が起こったことは、大衆の大規模デモだけではだめであり、なにか他の要因が必要である。

それゆえ各国の共産党政権とソ連が危機管理のために政変(書記長など指導者の交代)シナリオをあからじめ用意していたのではないかと山下さんは推論する。これが「危機管理の法則」だ。

ポーランドのヤルゼルスキー大統領などは、たしかに用意された政変シナリオと見えなくもないと筆者も思う。

最初の政変は共産党により用意されたものだったが、勢いがつきすぎて結果的に反政府運動を鎮めるどころか火に油を注ぐ結果となって、結局共産党は政権を失ったのではないかと山下さんは語る。

たしかにこう考えると6ヶ国で同時多発政権交代が起きた理由も納得できるところである。

今後紹介する関榮次さんの「ハンガリーの夜明けー1989年の民主革命」でも、この辺の事情が語られている。

共産党員も「愛国者」だったので、一党独裁を崩すと自分たちは政権を失うと分かっていながらも民主化を進めたのだと。


ドナウ川沿いの東欧各国

この本で山下さんはドナウ川の川下りの豪華客船モーツアルト号の黒海への旅に沿って各地の風景・風物と、政治体制の変化を国別に紹介しており、読み物としても面白い。

ちなみにモーツアルト号クルーズの旅行記をブログに書いておられる方がおられるので、紹介しておく。

1990年前後の東欧は景色はきれいで、物価も安かった。

筆者も1992年にスロバキアを訪問したときに、ホテルでは外貨はドイツマルクしか通用しなかったことと、レストランで3人でワインを飲んで食事したが、全部で35ドルだったことに驚かされた記憶がある。

1989年当時はヤミ為替レートがあって広場で売人が旅行者に声を掛けていたこと、あちこちでバナナを露天で売っていたこと、外貨持ち出し制限が厳しく空港で身体検査をしていたこと、東欧圏から西欧に数万人単位で大量逃亡が起きていたことなどの話が紹介されており、なつかしく思い出される。


東欧の最貧国アルバニア

筆者が毎年のように訪問していたアルバニアでは、ちょっと遅れて共産主義が崩壊し民主主義になったが、国としてはボロボロで、国民の約半分が巻き込まれたというネズミ講騒動で政府が崩壊してしまった。

最初にアルバニアに行った時は、首都ティラナに2軒しかない外国人用のホテルのレストランが夜9時頃で閉まってしまい、夕飯を食べ損ねて、持っていった機内食のパンを食べた経験がある。

同行した駐在員に言われて非常食として機内食の食べ残しのパンを持ち込んでいたのだ。

スイス航空でもらったアッペンツェラーというチーズも持ち込んだ。夏の間だったので、部屋の冷蔵庫に置いておいたが、部屋に帰ってみるとチーズは見事に溶けていた。

長い伝統のあるスイスチーズアッペンツェール【お買い物マラソン1215セール】
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部屋にコンセントが一つしかないので、ルームメーキング係が冷蔵庫のコンセントを抜いて、テレビを見ながら掃除して、中にチーズが入っているにもかからわず冷蔵庫のコンセントを抜いたままにしていたのだ。だいたい共産圏のサービスの質はこんなものだった。

どうでも良いことだが、食い物の恨みはおそろしいというか、筆者もこのことはいまだに覚えている。


東欧や旧ソ連のユダヤ人

この本ではユダヤ人の存在が「東欧社会の極めて微妙な要素となっている」とだけ記され、深く触れられていないが、東欧の反ユダヤ主義とか旧ソ連のユダヤ人(この本ではソ連のユダヤ人人口は約180万人と記されている)の動向に興味を抱いたので、今度図書館で調べてみようと思う。

ちなみに佐藤優氏「国家の罠」などの著書でイスラエルからロシアの情報を得ていたと語っている。旧共産圏のユダヤ人はかなりの力を持っていたはずだが、他の国民や体制側とどう折り合いをつけていて、現在どうなっているのか興味あるところだ。


旧ユーゴスラビア

筆者が訪問したことがある旧ユーゴスラビアやアルバニアもいずれ民主化は避けられないと山下さんは予想している。

ところで先日欧州に出張した時の取引先とのディナーの席で、何ヶ国に行ったことがあるかという話になった。

筆者は38ヶ国に行ったことがあると言うとみんな驚いていたが、ユーゴは1ヶ国じゃなくて分けてカウントしなければならないという話になり、それならクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエボが首都)、セルビア・モンテネグロ(ベオグラードが首都)、マケドニアの4ヶ国で、合計41ヶ国だというジョークとなった。

昔はユーゴスラビアは、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と言われたものだが、本当に6つの国と一つの自治州となってしまった。


1990年12月発刊の本なので、ゴルバチョフのノーベル賞受賞までで終わっており、1991年8月の政変後、ソ連が崩壊することなど、その後のソ連の動きは勿論書かれていない。

しかし、「保守化のパラドックス」という話で、ゴルバチョフ退任を予想していたり、ソ連の経済改革は多難で、コメコン解体、独ソ接近、東欧がマルク圏となると予想していたり、予想がぴったりあたっている。

(注:「保守化のパラドックス」=改革派として最年少のメンバーがトップとなって改革を進めるが、保守派を排斥して改革派を入れすぎて、そのうち改革派の中ではトップが最も保守的になってしまう傾向のこと)。

さすが日経新聞の特派員として各国の首脳とのインタビューなどを通じて一級の情報を得ていただけある。山下さんの慧眼には敬服する。

「ソ連の法則」、「3万人の法則」、「危機管理の法則」、「保守化のパラドックス」などの分析も大変参考になる。

やや古い本ではあるが、東欧の簡単な歴史から、風物、1989年の東欧革命の舞台裏などがよくわかり興味深い。ドナウ川の川下りもいつかは行ってみたいものだ。一つの川下りで、これだけ多くの国を訪問できるのも世界でドナウ川だけだろう。

是非近くの図書館などで探して、手にとって欲しい本である。


参考になれば次クリックお願いします。




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