今回はまたオバマ政権にも影響力を持つルービン元財務長官の自伝だ。ルービン氏、サマーズNEC(国家経済会議)議長、グリーンスパン前FRB議長のトライアングルで、クリントン政権が数々の通貨危機を乗り越え、1999年度には国家財政の黒字化を達成したことは特筆すべき業績である。

ルービン回顧録ルービン回顧録
著者:ロバート・ルービン
販売元:日本経済新聞社
発売日:2005-07-26
おすすめ度:4.5
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ゴールドマン・サックスの共同会長を務めた後、クリントン政権入りして財務長官を務め、クリントン大統領から米国初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン以来最高の財務長官と評されたロバート・ルービン氏の回顧録。

ルービン氏はこのブログでも紹介したサンディ・ワイル前シティグループ会長にリクルートされ、現在はシティグループの会長をつとめている。

アラン・グリーンスパン前FRB議長の回顧録を読んで、クリントン政権のルービン財務長官、サマーズ財務次官と強力なタッグを組んで米国のみならず世界の経済をリードしていたことがわかったので読んでみた。

全編を通してルービン氏の根っからの民主党びいきと、クリントン大統領への尊敬の念が溢れている。クリントンはたぐいまれな聞き手であると賞賛している。


日本に対しては手厳しい

メキシコ、タイ、インドネシア、韓国、ロシア、ブラジルなどの経済危機を財務長官として切り抜け、在任中に30年ぶりに財政黒字化を達成したことが、名財務長官といわれるゆえんだが、みずからの手柄としておごることなく、当事者として淡々と語っている。

ただ日本に対してはあまり良く書いていない。

そもそも日本の経済停滞が1997年から1998年までの一連のアジア経済危機の遠因となったという。

G7で圧力をかけたが、日本の橋本首相はもはや回復は目前だというばかりで、結局景気回復が遅れアジアの経済不安を増大させたという。

橋本首相に代表される日本政府の態度は、ゴールドマンサックス時代によく経験していたトレーダーが含み損の回復を祈る態度に似ていたと語っている。

それに対して中国の江沢民主席と朱鎔基首相はルービン氏の呼びかけに対して人民元の切り下げはしないと確約し、約束を守ったという。

中国のリーダー達は手強く、独立心が強く、圧力に屈しない。中国は日本よりも建設的な役割を果たしていると見なされることに満足していたとルービン氏は語る。

21世紀中に中国は恐るべき一大勢力となるはずであり、友好関係を築けば米国にも有益だろうと。

まさに「ジャパンパッシング」を代表している。民主党のオバマ氏がもし大統領になると、ルービン氏の影響力が増すと噂されているだけに、そうなると「ジャパンナッシング」につながることは間違いないだろう。


ルービン氏の経歴

ルービン氏は1938年ニューヨーク生まれ。父親は弁護士で、祖父は民主党の強力な支援者という家系だった。9歳の時に一家はマイアミビーチに転居し、ルービン氏はマイアミビーチの高校からハーバード大学に入学する。

ハーバードでは名門私立高校からのエリートに圧倒されるが、4年後の卒業の時は最優等でファイ・ベータ・カッパの会員資格を取得した。

筆者は米国に合計9年間駐在していたが、このファイ・ベータ・カッパの様なフラタニティ・ソロリティの活動については、誰かの履歴書で見たことがある以外は全く知識がなかった。Wikipediaの解説を引用したので、興味ある方は是非一読をおすすめする。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに1年間留学後、イェール大学のロースクールを卒業。奥さんのジュディとはイェール大学大学院在学中に知り合った。ジュディはフランス文学とクラッシックのボイスレッスンを学んでいたのだ。結婚後すぐに子どもが誕生する。

イェール大学卒業後、ニューヨークの弁護士事務所で2年間働いた後、1966年にゴールドマン・サックスに入社し、裁定取引の部門に配属される。

当時のゴールドマンサックスの伝説のトレーダーのグスタフ・レビーに鍛え上げられる。目の前にいる誰かに、嘘いつわりなく自分の関心を100%向けられる人。それはレビーとクリントンだったという。

ゴールドマン・サックスでは裁定取引やオプション取引をさらに進めて、デリバティブ取引を収益の大きな柱に育て上げた。大変な功績である。

1986年にはオプション取引でゴールドマン・サックスが1億ドルという大きな損失を被ったが、債券部門を崩壊から救った功績で1987年に同僚のスティーブ・フリードマンとともに共同会長に就任した。

ゴールドマン・サックスの共同会長に就任後、従来からの民主党への支援を積極化させ、マイケル・デュカキス候補の資金集めや、1992年の大統領選挙への民主党候補セレクションにかかわった。このときの候補の一人がオバマ氏が今回副大統領候補に指名したジョセフ・バイデン氏である。

選挙支援顧問団の一員としてクリントンの経済政策策定に協力し、大統領に当選したクリントンから政権入りの打診を受けるが、議会対策、マスコミ対策、政治的駆け引きなどの点で経験がないので、まずはそのときに創設されたNEC(National Economic Council)の初代委員長に1993年に就任した。

正式に政権を委譲受ける前からアーカンソー州のリトルロックにクリントン政権の主要メンバーと経済の専門家が集まって政策を議論していた。

財政赤字削減についてはグリーンスパン議長も一部参加して議論が進められた。このときにガソリン税引き上げも織り込まれた。

クリントンとグリーンスパンは初対面だったが、サックス以外に共通点があったと、それぞれの回顧録にこの時のことを書いている(グリーンスパン議長はジュリアード音楽学院で学んだ後、一時プロのバンドでサックスを吹いていた)。


財務長官就任直後にメキシコ経済危機

クリントン政権後最初の中間選挙で民主党は共和党に決定的な敗北を喫し、40年間ではじめて上下両院でマジョリティを失った。その後1995年1月にロイド・ベンツェンが財務長官を辞任し、ルービン氏が後任の財務長官に就任する。

グリーンスパン氏の回顧録にも語られていたが、ルービン氏が財務長官に就任した1995年1月にメキシコ政府はデフォルトを宣言する瀬戸際となり、経済危機に陥った。

メキシコは60億ドルの外貨準備しかなく、それを上回る短期債務の返済期限が迫っていた。

この時にクリントンは「それこそ、国民が私たちをここに送り込んだことなのだ。」と語り、世論調査では国民の支持が18%と低かったにもかかわらず、NAFTA反対論者の多い上院下院議員を説得した。

最終的には議会の承認が不要な外貨準備の一部の為替安定基金(ESF)を使って米国分200億ドルを資金提供し、IMF 100億ドル、カナダ等その他100億ドルを加えて、合計400億ドルの救援パッケージを準備した。

フラット化する世界」の著者のトム・フリードマンは、ニューヨークタイムズのコラムで、「クリントン政権が決定した外交政策の中で、最も人気がなく、最も理解されていないが、最も重要なものである」と高く評価したという。

メキシコペソがその後下落する局面もあったが、メキシコ危機は7ヶ月で終了し、1996年からはメキシコはプラス成長となった。そして米国はこの金融支援で14億ドルの金利収益を得たのである。


財務長官の役割

米国財務長官の役割は米国の財政・為替政策を通して、米国経済の安定的成長を確実なものとすることだ。

ドルは世界の基軸通貨となっているので、発行されているドル紙幣の7割は米国外で使用されている。米国経済が安定的に成長すれば結果として世界経済も安定的に成長するので、米国政府では外交政策を司る国務長官と並んで重要なポストだ。

政治家が就任したり、最近ではビジネス界から転身する例も多い。ルービン氏の前任は民主党の大統領候補にもなったロイド・ベンツェン上院議員で、現在の財務長官のポールソン氏はルービン氏と同じくゴールドマン・サックス出身だ。

財務省は傘下にIRS(内国歳入庁)、関税局、証券印刷局、シークレットサービス、専売局などを持ち、国際局、国内金融局、税制局、経済政策局などの巨大な政策決定部門をかかえる職員16万人の巨大組織だ。

インフレ率、失業率、ドルレート、生産性、貿易収支などの経済指標のいずれかが悪化すると、責任は財務長官にあるとされるのだ。それでいて、長官の権力は制約されており、16万人のうち100人程度の部下の人事権しかなく、それも制限されているという。

政策の決定権は実はホワイトハウスが持っており、長官はいわば二足のわらじを履く。政権メンバーながら、省を代表してホワイトハウスのスタッフに根回しをしなければならないのだ。いわば「分裂病」状態であると。


議会対応

議会対応はゴールドマン・サックス時代に経験した顧客戦術を活用したという。議会対応に長けていたのはグリーンスパン議長であるとルービン氏は語る。

グリーンスパン議長は、質問を受けると、たとえ的はずれな質問でも相手に敬意を表する。たとえば「地球が平らであるとは面白いお考えですな」というような感じでコメントする。

そして「質問を言い換えてもよろしいでしょうか?」と言いながら、全く違う質問を自らに問い、相手を煙に巻くようなニュアンスで答えるので、質問者はもっともらしい顔をしてうなずくか、よくわからないと認めるしかなくなる。

その上で、「ご質問の答えになっているでしょうか?」と尋ねる。すると議員は「はい」と答えるのだという。


為替相場と株式相場

財務長官の一言が為替相場に大きな影響を与えるので、ルービン氏は発言には気を遣っていたという。

具体例として出てくるのが「強いドルは国益にかなう(A strong dollar is in our interest)」という言葉から「強いドルを維持すれば国益につながる(I believe it's in our interest to maintain a strong dollar)」と微妙に言い方を変えたことだ。

翻訳だと何がなんだかわかなかったので、英語原文を読んで初めて理解できた。翻訳でも「と思う」という一言を付け加えれば、意味が通ったのではないかと思う。

いつも「強いドルは国益にかなう(A strong dollar is in our interest)」と言い続けていたこともあって1998年6月には円は146円にまで下落した。

そこで、日本円の下落には到底耐えられないとFRBのグリーンスパン議長、サマーズ財務次官他と協議を行い、介入を実施した。すると円は136円まで反発し、その後も円安には戻らなかったという。

財務長官の責務として株式市場の動きにも眼を向けていた。グリーンスパン議長は「根拠なき熱狂(irrational exuberance)」という名言を残したが、ルービン氏は「株式市場は変動するものだ」と株式市場についての発言は差し控えていた。

唯一の例外は1997年10月27日の株価暴落で、この日はグリーンスパン議長も招いて相談し、「ここ数年、アメリカ経済の基礎的要因は非常に安定しており、現在も強固である」と発表した。

グリーンスパン議長とは個人的にも親しくなり、サマーズ財務次官も交えて毎週朝食会をおこなって議論していたという。

アメリカ経済が長期安定的に成長している理由は生産性が向上したからであることを見抜いたのは、グリーンスパン議長が最初だったという。


相次ぐ経済危機と「火消し長官」

ルービン氏はクリントン政権の二期目の半ば、1998年中に財務長官を辞任して、後任にサマーズ次官を推すつもりだったが、辞任が1999年7月に延びたのは、1997年7月のタイバーツ危機に始まる韓国、インドネシアのアジア経済危機、そして次のロシア、ブラジル経済危機、LTCM破綻などが続いたためだったという。

ルービン氏は就任直後にメキシコ経済危機を手がけた経験があるが、アジア経済危機は世界金融市場に与える影響の大きさからいって比較にならないという。

アメリカがIMFと強調して軍事同盟国の韓国の経済危機を救った舞台裏も描かれていて面白いが、経済危機の韓国から日本の銀行は融資を引きはがしたと、またも日本が酷評されている。

1998年8月のロシアのデフォルト宣言の日に、クリントン大統領はモニカ・ルインスキーとの不倫疑惑を認め、テレビで謝罪演説するという政治的混乱があったが、多くの核兵器を持つロシアが経済破綻すると核兵器のイランなどへの流出も起こりかねないとして、アメリカはIMFとロシア救済に乗り出す。

このときに破綻したのがノーベル賞受賞者2人をチームに入れていたLTCMだ。

ルービン氏は、アジア・世界経済危機の時に、貸手側のモラルハザード(ハイリスク・ハイリターンの投機を行った富裕層・金融機関を助けるのか?という議論)が必ず話題に出たが、世界経済の成長のためにいずれの時もアメリカは支援を主導したと語る。

1999年に入るとロシアとブラジルを除き、韓国などアジア各国は経済成長に戻った。

ほとぼりがさめると韓国の蔵相は予想より金利が0.25%高くなるとして、協調融資を断る発言をしたので、ルービン氏はキレたという。

後に共和党政権で財務長官となったポール・オニール氏は、ルービン氏のアジア経済危機支援を「火消し長官」として批判していたが、結局2001年のトルコ、アルゼンチン、ブラジルの経済危機にはIMFと一緒に支援した。

ルービン氏は「火消し長官」とオニール氏から揶揄されたときに、「いざとなったら手を貸すに決まっている」とつぶやいたものだが、それが的中したと語る。


クリントン政権でやり残したこと

ルービン氏がクリントン政権で達成したかったができなかったことの第一は、ヒラリー大統領夫人が中心となって取り組んだ抜本的な医療制度改革だという。

ヒラリーは世間でのイメージとは裏腹に、反対意見や議論に流されやすかったという。暗にミスキャストだと言いたい様だ。


シティグループ会長に就任

1999年7月にルービン氏は辞任し、外交問題評議会やいくつかの慈善団体に関わった後、サンディ・ワイル氏に誘われてシティグループ経営執行委員会会長に就任する。

ルービン氏の退社時にはゴールドマン・サックスは6,000人の社員を抱え、大所帯だと思ったが、シティグループは102ヶ国に拠点があり、社員は18万人の世界最大の巨大金融機関だ。

ルービン氏はシティグループに入社して、他の二人の共同会長であるサンディ・ワイルとジョン・リードの確執を眼にする。

決定的だったのはリードが推進するインターネット活用策のeシティ計画についての意見の相違だ。結局三人を除く取締役会が議論して、サンディ・ワイルを単独CEOにして決着がついた。

ルービン氏は財務長官退任後、フォードの取締役も引き受け、ファイアストンタイヤの欠陥問題やナッサーCEOの解任を経験する。


2000年のインターネットバブル崩壊

ルービン氏はウォーレン・バフェット氏と30年以上のつきあいだが、バフェット氏はインターネットバブルの時に、市場が過大評価されていると判断していた数少ない人物の一人だったという。

2000年1月に象徴的な出来事があったという。

あるインターネット企業のCEOがルービン氏を訪問してきて、既存金融サービスシステムを一掃する画期的な技術を開発したので、自分の会社と提携しなければシティグループは生き残れないだろうと言ってきた。たいして利益もない会社がピークでは時価総額は200億ドル(2兆円)を超えていたという。

ルービン氏がシステムのことはわからないので、システム部門と話してくれと言うと、CEOは困惑して、「システム部門の人間では話にならない。社員が路頭に迷ってもいいんですか?」と言い出した。実に驚くべき会談だったという。

結局何とかシステム部門の人間と会わせたが、めぼしい話はなく、後にその企業の株価は急落した。

2000年初めに1、527だったS&P500指数は2002年秋には777まで落ち込み、NASDAQに至ってはピークの5、049から、1、114へ8割近く下落した。

筆者もこの時米国に駐在していてインターネットバブルを経験した。

某インターネット企業の株式を1999年12月のIPO時に43ドルで手に入れたが、1ヶ月で300ドルを超え、2000年3月に一部売却したときは平均200ドルを超えていた。しかしその後半年で10ドル台に下落した。まさにローラーコースターだ。

ルービン氏は長期的な業績よりも、短期的な見通しと4半期ごとの利益を重視する現在の株式市場の傾向は気がかりであるが、長期だけ見ていてもいけないと忠告する。


「財政大論争」

2001年のブッシュ減税ではルービン氏は「財政大論争」と呼ばれる反対意見の急先鋒だった。

サプライサイド経済学の理論は、財政引き締めと減税が経済成長を支え、結果的に政府の歳入は増加するというもので、これが1980年代の、レーガノミクスの論拠となった。

レーガンの経済政策は「ブードゥー・エコノミクス」と批判されたが、絶大な人気に支えられドラスティックなレーガン減税が実施された。

筆者も当時米国に駐在していたので、最高50%を超えていた所得税率が一挙に15%と27%(記憶が正しければ)に単純化されたのには驚いた記憶がある。

共和党の減税とスターウォーズ計画に代表される軍事力強化の財政支出拡大が1980年代の巨額の政府赤字につながり、レーガン政権8年間とブッシュ政権4年間で1992年には財政赤字はGDPの4.7%にまで拡大した。

それゆえクリントン大統領は財政再建を第一目標にかかげ、財政支出引き締めとガソリン増税などによる歳入改善に取り組んだ。

90年代末に株式市場が高騰したこともあり、1998年からは30年ぶりに財政黒字を達成した。これはクリントンの経済政策の成果であり、ルービン財務長官の花道を飾った。

ブッシュ政権となっても議会予算局(CBO)は向こう10年で政府の財政黒字は5兆6千億ドルになるとの予想を維持していたことから、ブッシュ大統領は公約通り減税を発表した。

グリーンスパン議長は2001年1月に”大幅な”減税はやるべきでないと語ったが、それは結果的にブッシュ減税に賛同したと見なされた。

グリーンスパン議長の議会証言の前に、ルービン氏がグリーンスパン氏に電話して、ブッシュ減税をやめさせるような発言を求めたことは、グリーンスパン議長の回顧録でも記されている。

ルービン氏は2001年2月にニューヨークタイムズに大規模な減税は政策ミスであり、ベビーブーマーの退職に備え財政黒字を維持するべきだという論文を発表したが勝ち目はなく、ブッシュ大統領は選挙公約通り2001年6月に減税に踏み切った。

筆者も減税のドルチェックを受け取った。思ったよりも大きな金額なので、驚いた記憶がある。

そうすると株式市場は2000年に大幅下落していたこともあり、減税から数ヶ月後に財政赤字となった。

CBOの予想が全く間違っていたのだ。

加えて2001年9月11日にはテロが起きて、アメリカ経済の成長は鈍化し、財政赤字は拡大する一方となった。


財務長官を退任しても影響力は絶大

9月11日のテロ攻撃の後に、ルービン氏はGEの前CEOのジャック・ウェルチから電話を受け、ウォレン・バフェットとジャック・ウェルチと一緒にテレビの人気番組60ミニッツに出演し、閉鎖されていた株式相場を早期に安定化させる発言を行った。

ルービン氏は財務長官を退任しても、大きな影響力を持ち続けている。クリントン氏が言うようにハミルトン以来最高の財務長官かどうかはわからないが、たしかに幾多の修羅場をくぐり抜け、財政黒字を達成した功績は高く評価されるべきだろう。

ルービン氏は最後に国際共存時代について語り、「可能な限り最善の答えを追求する旅」は果てしなく続くと結んでいる。

確率論者のルービン氏らしいエンディングである。


近々紹介するグリーンスパン議長の回顧録は自らが書いたもので、英文も格調高い。それに比べるとジャーナリストに書かせたルービン氏の回顧録は、平板で面白みに欠けるが、ゴールドマン・サックス時代にデリバティブ取引を拡大させた功績も、財務長官としての功績も抜きんでたものがある。

世界経済危機の「火消し長官」による舞台の裏側がわかる、ややとっつきにくいが、じっくり読むと味がわかるおすすめの本である。


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