時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2016年10月

碧素・日本ぺニシリシン物語 戦時下の日本の抗生物質生産



以前紹介した畑村洋太郎さんの「技術大国幻想の終わり」に、畑村さんが学究の道に入るきっかけとなった本として紹介されていたので読んでみた。



この物語の中心人物、陸軍軍医少佐稲垣克彦は、東京大学医学部在学中に陸軍の依託学生となり、軍医任官後は、旧満州などの勤務を経て、昭和17年に陸軍軍医学校の教官となった。

稲垣軍医少佐は、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月に設立された総力戦研究所に在籍していたこともあり、その関係で、各省庁に知人がいた。総力戦研究所は、日本のトップ頭脳を集めた研究所で、第1期生35名が太平洋戦争が始まる前に、「総力戦机上演習」で日本必敗という結論を出し、時の東条英機首相が激怒して、一切極秘を厳命したという経緯がある。この話は、猪瀬直樹さんの本に詳しい。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
猪瀬 直樹
中央公論新社
2010-06-25


稲垣少佐は、米国から交換船で帰国した人が持ち帰った「フォーチュン」の記事で、当時治療薬として広く用いられていたサルファー剤(当時はドイツ語読みで「ズルフォン剤」と言われていた)が効かない病気にもペニシリンが奇跡的に効くと知った。

さらに情報を求めて、文部省の知己を訪問すると、ドイツから潜水艦で運ばれてきたばかりの医学雑誌を手渡された。この雑誌は英米のペニシリン研究に関するドイツの医学論文が掲載されていた。それにはカビから得られた抗菌性物質のペニシリンは、肺炎、膿胸、敗血症などを引き起こす肺炎双球菌、ブドウ球菌、連鎖球菌や、破傷風、ガス壊疽を起こすグラム陽性嫌気性細菌などの発育を阻止する力を持つと書かれていた。

ガス壊疽、破傷風、敗血症はいずれも軍陣医学にとって重要な感染症だ。

ドイツからの潜水艦による輸送については、このブログで紹介した「深海の使者」に詳しく紹介されている。この本では、様々な情報を総合して、ドイツの医学雑誌は、伊ー8号によって運ばれ、途中のシンガポールからは空輸されたのではないかという推測をしている。

深海の使者 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋
2011-03-10


ペニシリンはよく知られているとおり、英国のアレクサンダー・フレミングが、生育していたブドウ球菌のシャーレに青カビが発生していることを発見し、それから細菌を殺す効果のあるペニシリウムというカビを見つけたことから発明された。ペニシリンは最初の抗生物質だ。

アレクサンダー・フレミング(切手になっている)

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出典:Wikipedia

当初、ペニシリンはカビから得られる量が少ないことから注目されていなかったが、オックスフォード大学のフローリーチェインがペニシリンに再注目し、米国のロックフェラー財団の支援を得て研究を続け、臨床試験で非常な効果があることがわかった。

第二次世界大戦がはじまると、傷病兵の治療用に大量のペニシリンが必要となったので、1943年の後半から米英で大量生産された。

実用化されたペニシリンQ176株は、米国の北部農業研究所があったイリノイ州ピオリアに住む主婦が、研究所がカビを探していることを新聞で読み、カビの生えたメロンを届け、このメロンから採取されたカビにX線を照射し、さらに紫外線を照射して生き残ったカビから生育されたものだ。

戦争が終わった1945年12月にフレミング、フローリー、チェインの3人はノーベル医学賞を受賞している。

稲垣少佐の文献研究とちょうどタイミングを同じくして、当時中立国だったアルゼンチンの朝日新聞ブエノスアイレス支局から、「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾い ズルホン剤を補ふペニシリン」という特派員報告が昭和19年1月27日の朝日新聞に掲載された。

これに衝撃を受けた陸軍省は、その日のうちに「ペニシリン類化学療法剤の研究」を昭和19年8月までにという期限付きで、陸軍医学校に命じた。

第1回ペニシリン会議が昭和19年2月1日に開催され、七三一部隊で有名な石井四郎軍医少将も出席して、積極的に質問していたという。石井中将(その後昇格)は戦後、戦犯とならず(米国に細菌戦の情報を提供したためといわれている)、米国に招かれ朝鮮戦争時に米国がひそかに行った細菌戦を指揮したという噂がある。

陸軍医学校では勤労奉仕の一高生を30名ほど受け入れ、一高生は翻訳などに取り組んだ。日本各地の大学、研究所、製薬メーカーではペニシリン培養用に最適な培地とカビを探すために、様々な努力をしていた。そのうちこんにゃくの培地に蛹の煮汁を加えたものが良好な成果を示したが、当時はこんにゃくは秘密兵器風船爆弾の糊に使われるために入手困難だった。

東北帝大では、試作ペニシリンのマウス実験に成功し、発見菌株は「ペニシリウム・ノターツム・クロヤ・コンドウ」株と名づけられ、次第に力価を高めていった。東北帝大では臨床試験も実施し、9月には新聞にも報道され、特効薬・ペニシリンを求める人が東北帝大に殺到したという。

当時のペニシリンは純度が低かったが、不思議とよく効いた。純度が低いため、体内にとどまっている時間が長かったので、よく効いたのではないかといわれている。

昭和19年10月にはドイツからペニシリン菌株と資料が中立国とシベリア鉄道経由届いたが、ドイツの研究は遅れており、日本の菌より力が弱かった。昭和19年の初めに、ヒトラーは自分の主治医をペニシリンの発見者として第一級鉄十字勲章を与えていた。しかし、この発表はねつ造であることが戦後発覚した。ヒトラーのあせりがうかがわれる。

日本のペニシリンの初期投与者には、南京に新日傀儡政権を樹立した後、日本に亡命していた汪兆銘がいる。汪兆銘は、名古屋帝大の附属病院に入院していた。骨髄腫だったので、ペニシリンの薬効はなく、昭和19年11月に死亡している。

この本では、東大医学部、東大農学部、伝染病研究所、東京女高師、海軍が依託した小林研究所(ライオン歯磨)、慈恵医大、慶応大学など、日本各地の研究機関で物資が乏しい中、一斉に研究が進められていた様子を描いている。

昭和19年11月には朝日新聞はじめ各紙が、「短期間に見事完成 世界一ペニシリン わが軍陣医学に凱歌」という題で大々的に研究成果を報じている。

しかし、物資不足に悩む日本では量産化できる工場はほとんどなかく、万有製薬、宇治化学、三共、帝国臓器などのメーカーが関心を示していたが、最終的に森永乳業の三島工場(当時は森永食糧工業の三島食品工場)で、試験生産が始まることになった。

牛乳からバターなどを取った残りのホエイを培地にして、森永ではペニシリンの生産が続けられ、陸軍病院や大学病院に送られた。当時の生産量の記録は残っていない。

戦時中のことでもあり、ペニシリンという名前は敵性語だということで、「碧素」という日本名がつけられた。この本では、昭和19年11月末にはB29による東京空襲が始まり、日本各地が爆撃を受ける中でのペニシリン生産と、負傷者に適用されたペニシリンの高い薬能を紹介している。

軍医学校も昭和20年5月に焼け落ち、疎開資料は東京帝大と山形県に送られた。東京帝大の寄託資料は、東大紛争の時に、学生が衛生学教室に乱入し、資料を焼いてしまった。もう一つの山形県に送られた資料は、戦後エーザイの創業者の内藤記念くすり資料館(岐阜県)に移され、日本のペニシリン研究資料として展示されている。

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出典:Wikipedia

この本の最後の方に、終戦直前の昭和20年7月に稲垣少佐が家族を疎開させていた沼津市近郊の志下(しげ)に行くために沼津駅から江梨行きの木炭バスを待っていた時のエピソードが載っている。稲垣少佐の軍服につけた軍医の胸章に気付いた客から、甥が敗血症で死にかかっており、どうしても碧素を手に入れたいという相談を受け、持っていたペニシリンを渡し、あとは森永の工場からもらうように伝えたという。

戦後30年経って、昭和50年に放送されたNHKのスポットライトという番組の「碧素誕生」という回に、稲垣さんが出演し、依頼を受けた大谷実雄さんと30年ぶりに再会し、ペニシリンで救われた川口隆次とも会っている。

ちなみに、この沼津駅発江梨行きのバスは今でも運行しており、筆者も西伊豆の戸田に行くときに利用している。山本コータローの「岬めぐり」のバスのような、海と山の間を走るバスだ。



戦後は「ペニシリンは儲かる」という話が広まり、昭和22年にペニシリン協会に加盟していた会社は80社を超え、製薬メーカーはもちろん、台糖、菓子メーカー、合繊メーカー(東洋レーヨン(東レ))まで種々雑多な業種が参入していた。

昭和21年1月にGHQは突然日本のペニシリンの販売を禁止した。そして5月に突然販売禁止が解除された。なんの理由も発表されなかったが、日本のペニシリンは世界の水準に達していないというのが理由だったという。

GHQは昭和21年8月にペニシリン研究の権威、テキサス大学のJ.W.フォスター教授を招いて、日本各地でペニシリン生産上の秘訣を公開講演し、日本各地の工場を積極的にまわって指導した。フォスターは「日本ペニシリンの恩人」と感謝されている。

日本のペニシリン生産は、昭和21年3万単位、1万1千本が、昭和22年10万単位、6万5千本、昭和23年には10万単位、25万6千本と加速度的に増加し、昭和23年からペニシリンが広く一般に使われるようになった。日本で広く使われたのが前述のピオリア市の主婦が届けてきたメロンから採集したQ176株だ。

昭和24年には国内需要を満たし、昭和25年には朝鮮戦争が起こったために、米軍が買い上げて、日本の薬品が外貨を獲得した最初となり、ペニシリン生産額はさらに増大した。

昭和10年の日本人の平均寿命は50歳で、明治20年ころからほとんど変わっていなかったが、ペニシリンが広く使われるようになった昭和23年から日本人の平均寿命は急に延びはじめ、昭和26年からはストレプトマイシンが使われるようになって日本人の結核による死亡者は激減し、昭和30年に65歳に達した。

今や様々な抗生物質が市場に出ている。

この本にも登場する稲垣さんの東大医学部の同窓で、東大伝染病研究所に勤務していた梅沢浜夫さんが書いている「抗生物質の話」も読んだので、今度あらすじを紹介する。

1962年の発刊だが、日本の抗生物質研究の第一人者が書いた本なので、抗生物質の基本がわかり参考になる。



筆者自身も5歳の時に骨髄炎にかかり、たしかアクロマイシンという抗生物質で完治した。左腕に手術跡があるが、今はなんともない。

そんな体験があるので、興味深く読めた。

古い本だが、大きな図書館なら置いているところがあると思うので(筆者も港区図書館から借りて読み、大変気に入ったのでアマゾンのマーケットプレースで買った)、最寄りの図書館をチェックしてみてほしい。


参考になれば次クリックお願いします。



iPS細胞が医療をここまで変える iPS細胞研究の最新情報

iPS細胞が医療をここまで変える (PHP新書)
京都大学iPS細胞研究所
PHP研究所
2016-07-16


2006年に発表されたiPS細胞の発見から10年経って、現在のiPS細胞研究の現状をまとめた本。

京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授が監修している。

iPS細胞の基本的なことについては、以前山中教授と益川教授の対談「『大発見』の思考法」のあらすじで紹介しているので、こちらを参照願いたい。

「大発見」の思考法 (文春新書)
山中 伸弥
文藝春秋
2011-01-19


iPS細胞は、細胞に3〜4の遺伝子を加えると、体のどんな細胞にも変化できる幹細胞となるというものだ。

iPS細胞はほぼ無限に増やせ、ほぼすべての細胞になることができる。

用途としては、本人の細胞から網膜や臓器など、いろいろな部位を拒否反応なしでつくる再生医療と、マウスなどの動物を使用せず、直接ヒトの細胞をつかって薬のテストや病気になるメカニズムを解明する病気や薬の研究だ。

これらの研究には従来ES細胞という受精卵を用いた細胞が使われてきたが、受精卵という将来人間に成長する可能性のある細胞を研究に使うことに倫理的な問題があり、米国のブッシュ政権はES細胞の研究に公的研究費の支給を禁止した。

iPS細胞は、ES細胞と同様の初期化された細胞でありながら、倫理問題がなく、しかも本人の細胞を使えるということで、画期的な発明である。

さて、最初のiPS細胞発見の発表から10年経って、この本では日本や世界の次のような研究機関でのiPS細胞研究や支援の現状をリポートしている。

日本
・京都大学CiRA(iPS細胞研究所、サイラ)
CiRA、理化学研究所、大阪大学、神戸市立医療センターの共同による加齢黄斑変性の患者に対する他人のiPS細胞からつくった網膜の細胞移植成功

米国:
UCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ分校)の山中教授が兼任しているグラッドストーン研究所
・スタンフォード大学
・カリフォルニア再生医療機構
・ニューヨーク幹細胞財団
・ハーバード幹細胞研究所

ヨーロッパ・アジア:
・カロリンスカ研究所(スウェーデン)
・ユーロ・ステム・セル
・ケンブリッジ大学
・シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)
韓国・CHAヘルスシステムズ

残念ながらここで特筆するような研究成果はなく、発見から10年たっても、基礎研究の段階のところが多い。

ただ、再生医療の分野では、数万あるといわれている細胞のHLA型のなかで、父からも母からも同じHLA型を受け継いだHLAホモ接合体の人の細胞を使ってiPS細胞をつくると、拒絶反応が少なく移植できるという話はグッドニュースだ。

再生医療では、次が5年以内に臨床応用が見込まれている。

・ドーパミン産出神経細胞(パーキンソン病治療)
・角膜
・血小板
・心筋
・軟骨
・神経幹細胞

筆者の亡くなった母もパーキンソン病を患っていた。

この本では、娘と息子が先天性糖尿病なので、糖尿病の治療法を研究している米国の学者など、医学の発展のために日夜努力している研究者が多く紹介されている。

時間はかかるだろうが、少しずつは進歩している。ぜひ早急に実用化につなげてほしいものである。


参考になれば次クリックお願いします。



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