時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2014年12月

靖国神社 集団的自衛権行使容認が靖国問題を解決する?

靖国神社 (幻冬舎新書)
島田 裕巳
幻冬舎
2014-07-30


「葬式は、要らない」など、ヒット作を出している宗教学者の島田裕巳(ひろみ)さんの本。

今まで小林よしのりの「靖国論」などを読んで、靖国神社のことを理解した様に思っていたが、全然基本的なことを理解していなかったことがよくわかった。



ちなみに小林よしのりは「保守も知らない靖国神社」という新書を出しているので、次に読んでみる。

保守も知らない靖国神社 (ベスト新書)
小林 よしのり
ベストセラーズ
2014-07-09


靖国神社は日本の内戦の官軍側の死者を弔うために建立され、賊軍は一切祀られていない。もともと賊軍を差別するために建立された神社だった。

その後、尊王攘夷で明治になる前に死亡した坂本竜馬など維新殉難者たちも靖国神社に合祀されたが、たとえば西郷隆盛などの反明治政府勢力は、合祀されていない。

一般的に合祀とは、すでに神社で祀られている祭神を別の神社でも祀ることをいうが、靖国神社の場合には、靖国神社のみで祭神となる場合でも合祀と呼ぶ。

靖国神社は東京招魂社として設立され、別格官幣社として神社の社格を整えたが、もともとは神官がいなかった。その後、陸軍省と海軍省の管理となって、神官を置くようになった。

明治時代のなかばまでは官軍の戦死者を祀る神社だったが、日清戦争、日露戦争を経て、対外戦争で亡くなった戦死者と戦病死者、亡くなった軍属を祀るようになって、ご祭神の数は一挙に増えた。

戊辰戦争以来の合祀者は1万5千人ほどだたが、日清戦争の戦死者・戦病死者だけで1万3千人にも上った。

日清戦争以前は、戦病死者は合祀されていなかったが、日清戦争の死者の86%は戦病死者だったので、合祀基準も改められ、戦死者と戦病死者ということになった。

日露戦争でも8万8千人が合祀され、全部で10万人を超える戦没者が靖国神社に合祀された。

現在では太平洋戦争の戦死者・戦没者を含めて全部で246万人以上が合祀されている。

陸軍と海軍の管理下にあった靖国神社は、戦後すぐに最大の存続の危機を迎えた。

しかし、昭和20年11月にGHQ支配下で開かれた臨時大招魂祭にGHQの民間情報局のダイク准将他が参観に訪れ、神社神道は欧米の宗教とは異なり、煽動的なものではないことがわかったため、国家管理から民間の一宗教法人になったものの、神社として存続できた。

GHQ支配下では合祀は一時期禁止されていたが、昭和24年から合祀が許され、独立回復後の大量合祀を含めて、靖国神社には満州事変の戦没者1万7千名、日中戦争の戦没者19万1千人、太平洋戦争の戦没者213万4千人が合祀されている。

靖国神社の戦後の合祀は実質的に国が主導したもので、実務を担当したのは厚生省引揚援護局の職員となった元軍人たちだった。遺族年金がもらえるかどうかも、合祀されるかどうかで決まった。

太平洋戦争では民間人も多数死亡した。民間人は原則として合祀されないが、沖縄県の民間人戦没者、阿波丸沈没の遭難者、対馬丸沈没の遭難者などは合祀されている。

戦犯の合祀は靖国神社の総代会でも議論が続けられ、昭和34年春の例大祭にBC級戦犯353名が、ひっそりと合祀された。

戦犯の合祀は関係者のみで進めたので、問題化していなかった。そこで厚生省の援護局(引揚援護局が昭和36年に改組)は昭和41年にA級戦犯7名の刑死者と5名の獄死者を祭神名簿を靖国神社に送っている。

靖国神社では総代会にかけて討議し、昭和44年の総代会でいったん合祀決定されたが、その後昭和45年に保留とされた。当時の宮司(ぐうじ)の元皇族の筑波藤麿が合祀を保留にしていたのだ。

筑波宮司が昭和53年に死亡し、代わって宮司になったのが第6代宮司松平永芳(ながよし)宮司だ。

松平は元海軍少佐で、戦後は陸上自衛隊に入り、一等陸佐で退官した。松平は東京裁判を否定しなければ、日本精神の復興はできないと考え、推薦者の元最高裁長官石田和外(かずと)にもそう語っていたという。

松平宮司は就任した昭和53年7月に就任すると、さっそく10月にA級戦犯14名の合祀を決め、御所に形の上での上奏を行った。

A級戦犯14名は次の通りだ。

絞首刑7名
1.東條英機
2.広田弘毅
3.土肥原賢二
4.板垣征四郎
5.木村兵太郎
6.松井石根
7.武藤章

判決前または刑期中に病死7名
1.平沼騏一郎
2.小磯国昭
3.松岡洋右
4.東郷茂徳
5.永野修身
6.梅津美治郎
7.白鳥敏夫

当時の侍従長の徳川義寛は、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたという。松平宮司は確信犯だったのだ。

平成18年に日経新聞がスクープした元宮内庁長官の「富田メモ」の昭和63年4月28日の記述でも、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を持っていたことが知られている。

富田メモはその信憑性をめぐる議論がだされたが、その後平成19年に、卜部亮吾・元侍従の日記の昭和63年4月28日にも同旨の昭和天皇発言が記録されていることがわかり、徳川義寛侍従長も同様のことを語っているので、信憑性は高い。

冨田メモ
















出典:いわゆる冨田メモ疑惑サイト

靖国神社の存在は憲法の政教分離に反するという意見が以前からあり、これに対して政府は「靖国神社法案
」を昭和44年以来、何度も国会に提出したが、そのたびに廃案となった。そこで昭和53年に政府は「内閣総理大臣等の靖国神社参拝についての政府統一見解」を発表した。

これは私人としての参拝は問題にはならないというものだ。

この辺の政府答弁の推移は、官邸の「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の第2回議事録の資料としてまとめられている。

中曽根元首相は、昭和60年8月9日に「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」の有識者による報告書が出ているので、報告書が出た直後の8月15日に靖国神社を公式参拝し、前日に藤波官房長官が翌日総理が靖国神社を参拝することを発表している。

この時に中国から「東條英機ら戦犯が合祀されている靖国神社への首相の公式参拝は、中日両国人民を含むアジア人民の感情を傷つけよう」という非難が初めて出された。

中国のほかにも、韓国、香港、シンガポール、ベトナム、ソ連から批難が出され、そのこともあって、中曽根元首相は正式な参拝の礼儀をしなかった。中曽根元首相は、その後は首相在任中に靖国神社を参拝することはなかった。

次に首相の立場にある者が靖国神社に参拝するのは、11年後の平成8年の橋本龍太郎となった。

昭和天皇陛下も昭和50年に天皇親拝の後、亡くなるまで靖国神社に親拝することはなかった。

この本で初めて存在を知ったのが靖国神社の中にある鎮霊社だ。島田さんは、この本の最初と最後にこの鎮霊社参拝を紹介している。

20081004104902b





















出典:ぞえぞえねっと

安倍首相は平成25年の靖国参拝時にあわせて参拝し、「また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されていない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。」と語っている。平成26年4月のオバマ大統領来日の際にも共同記者会見で言及している。

鎮霊社は筑波藤麿宮司の時代に筑波宮司の強い意向で建てられたものだ。

筑波宮司は「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員として昭和38年に欧米諸外国を訪問し、ローマ法王、ロシア正教大主教、カンタベリー大主教や国連のウ・タント事務総長らと面会した。この体験から日本の英霊を祀るだけでなく、世界の英霊を祀らなければ世界平和は実現しないと考えるようになったという。

安倍首相としては、「靖国問題」に解決の糸口を見つけようとして、鎮霊社参拝を思いついたのだろうが、マスコミも国民全体もさしたる関心を示さず、空振りに終わった。

この本の「おわりに」で、島田さんは「集団的自衛権行使容認の閣議決定が行われた日(平成26年7月1日)に」、として集団的自衛権の行使により死亡した自衛官が靖国神社に祀られるかどうかで、「靖国問題」の性格が根本から変わっていくことを示唆している。

日本が外国での戦闘に参加すること自体が、近隣諸国からは軍国主義の復活と受け取られる事態であり、もはや「靖国」は問題にされないのではないかと。

「『靖国問題』が騒がれていた時の方が、私たちははるかに平和で安全な社会に生きていると言えるのかもしれないのである。」と結んでいる。

欲を言えば、歴代首相経験者で首相在任中の靖国参拝歴に加えて、首相になる前と首相を退任してから後も靖国神社に参拝しているのか調べて欲しかったが、これについては、また他の本を探すことにする。

読みやすく、大変よくまとまった「靖国問題」の本である。


参考になれば次クリックお願いします。


天地明察 やはり本屋大賞受賞作は面白い

天地明察(上) (角川文庫)
冲方 丁
角川書店(角川グループパブリッシング)
2012-05-18


2010年の本屋大賞を受賞した、江戸時代の改暦(暦を800年もの間使われてきた中国の唐でつくられた宣明暦から日本独自の貞享暦に変えた)を題材にした作品だ。作者は冲方 丁(うぶかたとう)さん。

明察とは正解のことだ。

本屋大賞受賞作は、このブログでも何冊か取り上げている。この作品も含めて、大変面白い作品ばかりだ。

2014年 「村上海賊の娘」
2013年 「海賊と呼ばれた男」
2012年 「舟を編む」
2011年 「謎解きはディナーのあとで」
2010年 「天地明察」

岡田准一主演で映画にもなっているので、こちらも見てみた。原作から一部ドラマタイズした部分があるが、物語の重要な構成物の一つの神社に貼られた絵馬に書かれた算術の問題がどういうものかわかり、江戸時代の算術の計算方法や当時の天体観測のやり方がわかって大変参考になる。今ならレンタルビデオで2泊100円で借りられるので、こちらもおすすめだ。

天地明察 [DVD]
岡田准一
角川書店
2013-02-22


マンガにもなっている。



江戸時代の将軍の前で「御前碁」を打つ碁打ち衆として登城を許された4家(安井、本因坊、林、井上)出身の安井算哲、後の渋川春海の物語だ。

安井算哲は、碁打ち衆ながら、算術と天文にも興味を持ち、算術塾の村瀬塾にも出入りするうちに、稀代の天才和算学者・関孝和の存在を知る。

算哲は、関に向けて絵馬で算術問題を出すが、関は不明な記号を書きつけて、解答しなかった。実は、問題が間違っていたのだ。

算哲は日本全国で北極星を観測して各地の緯度を図る「北極出地」観測隊に組み入れられ、2年間の間日本全国を旅する。その間に、誤問の恥をそそぐため、関孝和向けに算術の設問を考えて、再度挑戦する。

江戸帰還後、算哲は天文の知識と算術の知識を駆使して、800年間使われてきた宣明暦を変える一大プロジェクトのリーダーとして改暦作業を始める。

最初に選んだのは授時暦だ。

日本の暦は天皇が決めるので、朝廷対策として宣明暦、元の時代に編み出された授時暦、明の時代に授時暦を修正した大統暦の3暦勝負を始めるが、…。

好事魔多し。最後の最後で授時暦は部分日食を外してしまう。

失意の算哲は関孝和の研究成果も使って、3暦勝負の敗因を研究し、今度は…。

というようなストーリーだ。映画では宮崎あおいが演じる算術塾の村瀬の親類の娘・えんが小説に花を添える。

まるでノンフィクションかと思わせるように、江戸幕府の大老、老中などの要人、算哲を支援する会津藩藩主、水戸光圀、北極出地の観測隊上司、最強の碁打ち衆・本因坊道策などの登場人物が小説に深みを与えている。

大変面白い本だった。「本屋大賞の本は必ず読もう」という気にさせる本である。


参考になれば次クリックお願いします。


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