朴槿恵〈パク・クネ〉の挑戦 - ムクゲの花が咲くとき
著者:李 相哲
中央公論新社(2012-11-08)
販売元:Amazon.co.jp
先日韓国初の女性大統領として就任した朴槿恵(パク・クネ)の生い立ちや政治信条などを紹介した本。
槿(ムクゲ)は韓国の国花
朴槿恵の槿(ムクゲ)は無窮花(ムグンファ)と呼ばれ、国歌(愛国歌)にも歌われている。韓国人にとってはムクゲは特別の花だ。
出典: Wikipedia
朴槿恵の父・故・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が3日かかって考えた名前だという。
朴槿恵は60歳。若く見えるが、その経歴はすさまじいものがある。
出典: Wikipedia
22歳の時(1974年)に、朴正煕大統領夫人の母・陸英修が在日朝鮮人の文世光に銃撃されて死亡。
その5年後の1979年に、朴正煕大統領も腹心の部下のKCIA部長の金戴圭に暗殺される。この時、朴正煕大統領はまだ61歳だった。
良くも悪くも朴正煕の娘
朴正煕大統領の手法は「開発的独裁」と呼ばれ、軍事クーデターを起こした1961年には一人当たり80ドルだった国民所得を、暗殺された1979年には1,620ドルにまで急成長させた「漢江の奇跡」の立役者として評価されている。
その一方で、クーデターを起こして政権を強奪した手法や、民主化を抑圧し、ベトナム戦争に韓国軍を派兵するなど、独裁者として権力をほしいままにした。米国のカーター政権の圧力をはねのけて、秘密裏に核開発を進めていたこともわかっている。
個人的には清廉潔白な人だったといわれ、韓国にM−16小銃を供給することになったマクドネル・ダグラス社からの賄賂の百万ドルの小切手を受け取らず、代わりに小銃を出してくれと言って突っ返したという逸話がある。
M−16小銃
出典:Wikipedia
この本の半分以上は故・朴正煕大統領の人物伝となっている。朴槿恵〈パク・クネ〉が紹介されるときは、朴正煕の長女と紹介されることが多いので、やむを得ないところかもしれない。
朴正煕の経歴
朴正煕の経歴を簡単に紹介しておく。朴正熙は1917年に貧しい農村に5男2女の末っ子として生まれ、師範学校を卒業して聞慶国民学校で教師をした後、1940年に満州に渡って、満州国軍軍官学校に入学した。
2年で主席で卒業して、日本の陸軍士官学校に編入。1944年に卒業した後は、満州国軍に配属され、終戦時には満州国軍中尉だった。一時日本名に改名したことがあり、高木正雄と名乗った。蒋介石のように日本陸軍に在籍したことはないが、酔うと日本の軍歌などを歌っていたという。
終戦後、韓国軍の中心的存在としてランクを高めていき、1961年5月16日の軍事クーデターの時は、第2軍副指揮官だった。(写真の右側のサングラス・ジャンバー姿が朴正煕)
出典:Wikipedia
クーデター後、朴正煕は国家再建最高会議議長に就任し、1963年に韓国大統領に就任した。1964年には中断していた日韓交渉を再開させた。
反対勢力を押し切るために1964年6月に戒厳令を発布、1965年6月に日韓基本条約を締結し、日本から無償3億ドル、有償2億ドル、融資3億ドルの援助を取り付ける。韓国の輸出額が年間1億ドルしかない時代だった。これが「漢口の奇跡」の原資となった。
竹島をめぐる日本と韓国の間の領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したと言われているが、真偽のほどは確認できていないようだ。
1972年に10月に国会を解散、政党・政治活動を禁止して、大学を閉鎖して全土に非常戒厳令を発布する政治改革を断行する国家非常事態宣言を発表した。10月維新と呼ばれる事態である。
1973年8月に、日本を訪問していた金大中がホテルから拉致されるという金大中事件が起こる。
10月維新時代に辛酸をなめた活動家や一般市民に、朴槿恵は謝罪している。2004年に金大中を訪ね謝罪した時は、金大中は「本当にうれしかった。世の中にこんなこともあるんだなと思った。朴正煕が生き返って私に握手をもとめているような気がした」と自伝で書いている。
金大中自伝(II)歴史を信じて――平和統一への道
著者:金 大中
岩波書店(2011-02-26)
販売元:Amazon.co.jp
1972年の10月維新の後、1974年に母親の陸英修が在日韓国人の文世光に銃撃されて死亡、1979年には父親の朴正煕が暗殺されたことは前述のとおりだ。
朴槿恵の政治活動
父親が暗殺された後、朴槿恵は政治からは遠ざかっていた。しかし、1997年に韓国経済が破綻し、IMFの管理下に置かれると、朴槿恵は国の危機を救うために政治家となることを決断し、1998年に国会議員となった。
ハンナラ党の主要メンバーとして積極的に活動し、一時ハンナラ党を離れたことはあるが、ほどなく復党した。2004年にはハンナラ党総裁となって、選挙を勝ち抜き、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
2006年の遊説中に男にカッターナイフで切りつけられ、右耳から顎に60針縫う傷を負わされた。傷口があと1センチ深かったら、頸動脈に達し、命を落としかねなかったという。
この時の心境を朴槿恵は次のように書いている。「手術台に横になった時、両親を思い出した。手術が行われている間、私の頭には、ずっと、銃創で苦痛に耐えている父と母の顔が浮かんでいた。…」
大統領候補に
2007年に大統領候補を李明博と争ったが1.5ポイント差で敗れ、李明博が大統領として就任する。李明博の「すべては夜明け前から始まる」などの著書を、別ブログでも紹介しているので、参照してほしい。
すべては夜明け前から始まる―大韓民国CEO実用主義の大統領李明博の心の軌跡
著者:李 和馥
理論社 (発売) 現文メディア (発行)(2008-02-15)
販売元:Amazon.co.jp
その後、李明博大統領と朴槿恵は、2009年に世宗市問題で対立することになる。世宗市はソウルの集中化を緩和するために、ソウルに代わる首都として韓国中部に新たに建設する都市で、首都移転計画を見直す李明博に、当初計画通りに建設すべしとして朴槿恵が迫ったのだ。
尊敬する政治家は父とサッチャー
「尊敬する政治家」を聞かれて、朴槿恵は、「父とサッチャー」と答えた。サッチャー自身も「人間として必要なことはすべて父から学んだ」と父アルフレッドを尊敬していたという。
朴槿恵は、両親が亡くなった後、大事なことを決めるときに、「父だったら、母だったらどうしただろう」と考える習慣ができたという。
朴槿恵への質問状インタビュー
この本の最後に、朴槿恵への質問状に対する彼女の回答が紹介されている。時間の関係で、インタビューができなかったために、質問状形式での受け答えとなったものだ。
現在の韓国の問題点と解決の方向性が示されているので、興味深い。参考になるものを紹介しておく。
★私は結婚はしておりませんが、「結魂」はしました。何度も公の場で言ったことがありますが、私はずっと前に、大韓民国と結婚(結魂)したのです。ですから、私は大韓民国にすべてをささげてきましたし、これからもそうするつもりです。私は一人でも、独身でもありません。亡くなった父も、きっとこの結婚は喜んでくれているでしょう。
★今、我が国の抱えているさまざまな問題のうち、至急解決しなければならない切実な課題の一つは、さまざまな勢力、社会各層、地域の間に生じている「対立」、「不信」、「不公正」を解決することです。それらの問題を解決して「大統合」を実現するのが何より大事です。
★そのために「国民幸福推進委員会」を作り、誰も疎外されたり、立ち遅れたりすることのないように、どの地域に住んでいようが、どの分野の仕事に従事していようが、みんなが自分の未来を夢見ることのできるような社会を目指します。
★今まで、我が国では、国家の経済成長が必ずしも一人ひとりの幸せに繋がっていませんでした。(中略)私は「国民みなが自分の能力を発揮できる国」にしようと思います。
★それを実現するために、我が国の強みでもある情報通信技術、科学技術を産業全般に応用して創業者を増やし、若い人たちに働きの場を提供するための政策を推進します。今後、製造業中心の伝統的な産業を高付加価値産業へと変貌させ、文化産業、ソフトウェア産業のような未来型産業を積極的に育成し、働き口を増やします。
★中小企業と大企業が共に成長し、正規雇用と非正規雇用との間に差別のない制度を整備する努力が必要です。そのために「経済民主化」を主張しています。(中略)「韓国型福祉制度」を作りたいのです。
★私は、不正腐敗の問題を非常に深刻に受け止めています。政治が存在するもっとも大きな理由、政治の使命は、国民の生活をよりよくすることにあります。つまり「民生」を第一に考えなければならないのです。ところが、我が国の政治は、国民の生活とは関係のない不正腐敗をはたらいて、逆に国民から批判される場合が多い。
★これについては本当に痛恨の思いを持っています。恥ずかしいことです。私はこれから、この国の誰であろうが、不正腐敗に関与した場合は、絶対容認しないでしょう。真の改革は私から、私の周辺から始めなければならないと思います。権力に関連のある不正腐敗問題については、「特別監察官制度」を作り、事前予防に努めます。
★北韓は、核兵器が典型的ですが、武力で相手を脅迫し、屈服させようとする計略が通用しないことを認識し、そうした考えを捨てなければなりません。そこで初めて、相互尊重、相互信頼の雰囲気が作られるでしょう。そのような雰囲気を作り出すため、私は韓半島信頼プロセスを推進しようと思っています。
★私と我が国民は2400万人の北韓同胞を決して忘れることはありませんし、実際、忘れてもいません。我々は同胞愛と人道的な立場に立っていつでも助ける準備ができています。
特に最後の質問の回答が大変参考になった。
この人は「自責」(他人の責任をあげつらう「他責」に対して、自分の責任をまず考える態度の人)の人だと思う。
やっかいな金正恩という隣人の取り扱いは大変だと思うが、日韓関係改善を含め、朴槿恵大統領の今後の活躍を大いに期待したい。
参考になれば次クリック願う。
著者:李 相哲
中央公論新社(2012-11-08)
販売元:Amazon.co.jp
先日韓国初の女性大統領として就任した朴槿恵(パク・クネ)の生い立ちや政治信条などを紹介した本。
槿(ムクゲ)は韓国の国花
朴槿恵の槿(ムクゲ)は無窮花(ムグンファ)と呼ばれ、国歌(愛国歌)にも歌われている。韓国人にとってはムクゲは特別の花だ。
出典: Wikipedia
朴槿恵の父・故・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が3日かかって考えた名前だという。
朴槿恵は60歳。若く見えるが、その経歴はすさまじいものがある。
出典: Wikipedia
22歳の時(1974年)に、朴正煕大統領夫人の母・陸英修が在日朝鮮人の文世光に銃撃されて死亡。
その5年後の1979年に、朴正煕大統領も腹心の部下のKCIA部長の金戴圭に暗殺される。この時、朴正煕大統領はまだ61歳だった。
良くも悪くも朴正煕の娘
朴正煕大統領の手法は「開発的独裁」と呼ばれ、軍事クーデターを起こした1961年には一人当たり80ドルだった国民所得を、暗殺された1979年には1,620ドルにまで急成長させた「漢江の奇跡」の立役者として評価されている。
その一方で、クーデターを起こして政権を強奪した手法や、民主化を抑圧し、ベトナム戦争に韓国軍を派兵するなど、独裁者として権力をほしいままにした。米国のカーター政権の圧力をはねのけて、秘密裏に核開発を進めていたこともわかっている。
個人的には清廉潔白な人だったといわれ、韓国にM−16小銃を供給することになったマクドネル・ダグラス社からの賄賂の百万ドルの小切手を受け取らず、代わりに小銃を出してくれと言って突っ返したという逸話がある。
M−16小銃
出典:Wikipedia
この本の半分以上は故・朴正煕大統領の人物伝となっている。朴槿恵〈パク・クネ〉が紹介されるときは、朴正煕の長女と紹介されることが多いので、やむを得ないところかもしれない。
朴正煕の経歴
朴正煕の経歴を簡単に紹介しておく。朴正熙は1917年に貧しい農村に5男2女の末っ子として生まれ、師範学校を卒業して聞慶国民学校で教師をした後、1940年に満州に渡って、満州国軍軍官学校に入学した。
2年で主席で卒業して、日本の陸軍士官学校に編入。1944年に卒業した後は、満州国軍に配属され、終戦時には満州国軍中尉だった。一時日本名に改名したことがあり、高木正雄と名乗った。蒋介石のように日本陸軍に在籍したことはないが、酔うと日本の軍歌などを歌っていたという。
終戦後、韓国軍の中心的存在としてランクを高めていき、1961年5月16日の軍事クーデターの時は、第2軍副指揮官だった。(写真の右側のサングラス・ジャンバー姿が朴正煕)
出典:Wikipedia
クーデター後、朴正煕は国家再建最高会議議長に就任し、1963年に韓国大統領に就任した。1964年には中断していた日韓交渉を再開させた。
反対勢力を押し切るために1964年6月に戒厳令を発布、1965年6月に日韓基本条約を締結し、日本から無償3億ドル、有償2億ドル、融資3億ドルの援助を取り付ける。韓国の輸出額が年間1億ドルしかない時代だった。これが「漢口の奇跡」の原資となった。
竹島をめぐる日本と韓国の間の領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したと言われているが、真偽のほどは確認できていないようだ。
1972年に10月に国会を解散、政党・政治活動を禁止して、大学を閉鎖して全土に非常戒厳令を発布する政治改革を断行する国家非常事態宣言を発表した。10月維新と呼ばれる事態である。
1973年8月に、日本を訪問していた金大中がホテルから拉致されるという金大中事件が起こる。
10月維新時代に辛酸をなめた活動家や一般市民に、朴槿恵は謝罪している。2004年に金大中を訪ね謝罪した時は、金大中は「本当にうれしかった。世の中にこんなこともあるんだなと思った。朴正煕が生き返って私に握手をもとめているような気がした」と自伝で書いている。
金大中自伝(II)歴史を信じて――平和統一への道
著者:金 大中
岩波書店(2011-02-26)
販売元:Amazon.co.jp
1972年の10月維新の後、1974年に母親の陸英修が在日韓国人の文世光に銃撃されて死亡、1979年には父親の朴正煕が暗殺されたことは前述のとおりだ。
朴槿恵の政治活動
父親が暗殺された後、朴槿恵は政治からは遠ざかっていた。しかし、1997年に韓国経済が破綻し、IMFの管理下に置かれると、朴槿恵は国の危機を救うために政治家となることを決断し、1998年に国会議員となった。
ハンナラ党の主要メンバーとして積極的に活動し、一時ハンナラ党を離れたことはあるが、ほどなく復党した。2004年にはハンナラ党総裁となって、選挙を勝ち抜き、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
2006年の遊説中に男にカッターナイフで切りつけられ、右耳から顎に60針縫う傷を負わされた。傷口があと1センチ深かったら、頸動脈に達し、命を落としかねなかったという。
この時の心境を朴槿恵は次のように書いている。「手術台に横になった時、両親を思い出した。手術が行われている間、私の頭には、ずっと、銃創で苦痛に耐えている父と母の顔が浮かんでいた。…」
大統領候補に
2007年に大統領候補を李明博と争ったが1.5ポイント差で敗れ、李明博が大統領として就任する。李明博の「すべては夜明け前から始まる」などの著書を、別ブログでも紹介しているので、参照してほしい。
すべては夜明け前から始まる―大韓民国CEO実用主義の大統領李明博の心の軌跡
著者:李 和馥
理論社 (発売) 現文メディア (発行)(2008-02-15)
販売元:Amazon.co.jp
その後、李明博大統領と朴槿恵は、2009年に世宗市問題で対立することになる。世宗市はソウルの集中化を緩和するために、ソウルに代わる首都として韓国中部に新たに建設する都市で、首都移転計画を見直す李明博に、当初計画通りに建設すべしとして朴槿恵が迫ったのだ。
尊敬する政治家は父とサッチャー
「尊敬する政治家」を聞かれて、朴槿恵は、「父とサッチャー」と答えた。サッチャー自身も「人間として必要なことはすべて父から学んだ」と父アルフレッドを尊敬していたという。
朴槿恵は、両親が亡くなった後、大事なことを決めるときに、「父だったら、母だったらどうしただろう」と考える習慣ができたという。
朴槿恵への質問状インタビュー
この本の最後に、朴槿恵への質問状に対する彼女の回答が紹介されている。時間の関係で、インタビューができなかったために、質問状形式での受け答えとなったものだ。
現在の韓国の問題点と解決の方向性が示されているので、興味深い。参考になるものを紹介しておく。
★私は結婚はしておりませんが、「結魂」はしました。何度も公の場で言ったことがありますが、私はずっと前に、大韓民国と結婚(結魂)したのです。ですから、私は大韓民国にすべてをささげてきましたし、これからもそうするつもりです。私は一人でも、独身でもありません。亡くなった父も、きっとこの結婚は喜んでくれているでしょう。
★今、我が国の抱えているさまざまな問題のうち、至急解決しなければならない切実な課題の一つは、さまざまな勢力、社会各層、地域の間に生じている「対立」、「不信」、「不公正」を解決することです。それらの問題を解決して「大統合」を実現するのが何より大事です。
★そのために「国民幸福推進委員会」を作り、誰も疎外されたり、立ち遅れたりすることのないように、どの地域に住んでいようが、どの分野の仕事に従事していようが、みんなが自分の未来を夢見ることのできるような社会を目指します。
★今まで、我が国では、国家の経済成長が必ずしも一人ひとりの幸せに繋がっていませんでした。(中略)私は「国民みなが自分の能力を発揮できる国」にしようと思います。
★それを実現するために、我が国の強みでもある情報通信技術、科学技術を産業全般に応用して創業者を増やし、若い人たちに働きの場を提供するための政策を推進します。今後、製造業中心の伝統的な産業を高付加価値産業へと変貌させ、文化産業、ソフトウェア産業のような未来型産業を積極的に育成し、働き口を増やします。
★中小企業と大企業が共に成長し、正規雇用と非正規雇用との間に差別のない制度を整備する努力が必要です。そのために「経済民主化」を主張しています。(中略)「韓国型福祉制度」を作りたいのです。
★私は、不正腐敗の問題を非常に深刻に受け止めています。政治が存在するもっとも大きな理由、政治の使命は、国民の生活をよりよくすることにあります。つまり「民生」を第一に考えなければならないのです。ところが、我が国の政治は、国民の生活とは関係のない不正腐敗をはたらいて、逆に国民から批判される場合が多い。
★これについては本当に痛恨の思いを持っています。恥ずかしいことです。私はこれから、この国の誰であろうが、不正腐敗に関与した場合は、絶対容認しないでしょう。真の改革は私から、私の周辺から始めなければならないと思います。権力に関連のある不正腐敗問題については、「特別監察官制度」を作り、事前予防に努めます。
★北韓は、核兵器が典型的ですが、武力で相手を脅迫し、屈服させようとする計略が通用しないことを認識し、そうした考えを捨てなければなりません。そこで初めて、相互尊重、相互信頼の雰囲気が作られるでしょう。そのような雰囲気を作り出すため、私は韓半島信頼プロセスを推進しようと思っています。
★私と我が国民は2400万人の北韓同胞を決して忘れることはありませんし、実際、忘れてもいません。我々は同胞愛と人道的な立場に立っていつでも助ける準備ができています。
特に最後の質問の回答が大変参考になった。
この人は「自責」(他人の責任をあげつらう「他責」に対して、自分の責任をまず考える態度の人)の人だと思う。
やっかいな金正恩という隣人の取り扱いは大変だと思うが、日韓関係改善を含め、朴槿恵大統領の今後の活躍を大いに期待したい。
参考になれば次クリック願う。