時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2012年09月

希望の祭典・オリンピック オリンピック成功の鍵はIOC委員の心をつかむこと

希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年
著者:原田 知津子
幻冬舎ルネッサンス(2012-07-18)
販売元:Amazon.co.jp
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IOC委員の世話役のコンパニオンやオリンピック選手団役員を40年間勤めた原田知津子さんの本。実は原田さんは、筆者の友人のお母さんだ。

原田さんはオリンピック選手団役員として1960年のスコーバレー・オリンピックからオリンピックに参加し、1964年の東京オリンピックでは、国際オリンピック委員会=IOC委員の世話をするコンパニオンのリーダーとして約40名のコンパニオンを統率した。1998年の長野オリンピックまで実に40年間もコンパニオンや選手団の世話役としてオリンピック開催に貢献された経歴を持つ。

オリンピック以外でも、グッドハウスキーピング教室を自宅で開催されており、数百人の生徒を教え、「快速家事」など5冊の本を書かれているスーパーレディだ。

ゆとりの3Sライフ (快速家事)ゆとりの3Sライフ (快速家事)
著者:原田 知津子
文化出版局(1991-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ちなみに原田さんのハウスキーピングクラスの教え子で、フルート奏者の山形由美さんが、ブログで原田さんのことを紹介しているので、参照して欲しい。


コンパニオン(アシスタント)の役割

国際オリンピック活動では、日本を訪れるIOC委員を心から歓迎し、多忙な日程のなかでも日本を理解し、日本に親近感を持ってもらうことが、将来のオリンピックの日本誘致やIOCにおける日本の発言力の強化につながる。

IOC委員や委員夫人にアテンドして日本滞在中の予定をスケジュール通りこなす一方、日本と日本文化の理解を深め、親しみを持ってもらうようにするのがコンパニオンの重要な役割だ。英語やフランス語などのバイリンガルであることは必要条件の一つで、あとは教養や人柄なども必要条件だ。

コンパニオン(現在はアシスタントと呼ぶ)はボランティアで、勤務条件は次のようなものだ。

1.報酬:無償
2.旅費:IOCメンバーと行動をともにした旅費は事務局が負担。それ以外は自費
3.宿泊:事務局が手配
4.食事:業務が食事時間にかかる場合は支給
5.被服:事務局が支給または貸与
6.期間:オリンピック開催期間、大体3週間程度
7.勤務地:空港出迎え→オリンピック会場移動→大会開催→閉会後空港見送り

東京オリンピックでは約40人、長野オリンピックの時は170人のコンパニオンが、IOC委員や委員夫人のアテンドにボランティアとして駆り出された。これらのコンパニオンは公募せず、すべて原田さん、元NHKアナウンサーの磯村尚徳夫人で、フランス語が堪能な磯村文子さんの二人の人脈で選んだという。

巨人軍の長嶋終身名誉監督の亡くなった奥さんの長嶋亜希子さんも、東京オリンピックの時からのコンパニオンの先輩として、長野オリンピックにもボランティアの助っ人として参加したという。

ちなみに長嶋亜希子さんは、「私のアメリカ家庭料理」という本を出している。亜希子さんは、ミネソタ州の聖テレサ大学というところを卒業している。米国中西部の料理が多いのかもしれないが、どんな米国料理を紹介しているのか興味があるので、一度こちらも読んでみる。

私のアメリカ 家庭料理私のアメリカ 家庭料理
著者:長島 亜希子
文化出版局(1991-04)
販売元:Amazon.co.jp
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原田さんの経歴

原田さんは1922年生まれ、お父さんの仕事の関係で11歳までカナダのトロントで過ごし、日本に帰国後、東洋英和女学院、聖心女子大学英文科を卒業してNHKに就職した。今年で90歳になるはずだが、文筆に年齢はまったく感じられない。原田さんがオリンピックのコンパニオンとして貢献された40年余りの経験とエピソードを淡々と、読みやすい文章で語っている。

原田さんの亡くなったご主人は原田敬策さんという元男爵で、西園寺公望の懐刀と言われた原田熊雄男爵の長男だ。原田熊雄は、吉田茂、近衛文麿、樺山愛輔などと一緒に「ヨハンセン・グループ」として、戦争の早期終結を模索した一人だ。

原田さんと夫になる原田敬策さんが知り合ったのは、1945年12月の友人のダンスパーティだったという。1947年3月に行われた結婚式の披露宴は日比谷の日本工業倶楽部で、ウェディングケーキとビュッフェ形式の食事、新郎の原田敬策さんのハワイアンバンドが演奏して、来客がダンスを踊り、それ以来、日本工業倶楽部はダンスパーティで有名になったという。終戦直後の食料危機を完全に超越している生活があったのだ。

原田敬策さんは、白洲次郎が設立した貿易庁に務めた後、三菱商事の前身の協和交易に入社し、それ以降三菱商事で勤務された。原田さん自身は結婚を機にNHKを退職し、その後は外務省の要請で英文同時速記者の資格を取って、パートタイムで国際会議の英文速記をやっていた。


竹田宮の依頼でオリンピック活動に参加

原田さんとオリンピックとのつきあいは、家族ぐるみで親しくしていたスポーツの宮・竹田宮恒徳(つねよし)王からの紹介で、JOC会長でIOC委員でもあった東龍太郎さん(後に東京都知事になる)に会い、1958年に東京で開催されたIOC総会にIOC委員や夫人にアテンドするコンパニオンを集めてくれないかという依頼を受ける。

原田さんはバイリンガルの良家の子女・夫人を20名ほど集めて協力した。この時のメンバーは山本権兵衛の孫の山本貴美子さん、重光葵元外相の娘・華子さん、道面味の素社長夫人、若杉元ニューヨーク総領事夫人、NHKのキャスターの磯村尚徳夫人の文子さんらだったという。

日本でのもてなしに感激したIOC委員たちが、翌年のミュンヘンIOC総会で、1964年の夏季オリンピック開催地を大差で東京に決定するという結果となった。

これがきっかけで、原田さんは日本オリンピック協会=JOCの依頼で、各地で行われるIOC総会やオリンピックなどの公式イベントにIOC委員のアテンド役やオリンピック選手団の正式な役員(シャペロン=世話係)として参加するようになった。


オリンピックに役員として参加

原田さんが最初にオリンピックに参加したのは、1960年のスコーバレー冬季オリンピックで、日本選手団の団長は、当時の日本スキー連盟会長で、種なしスイカの発明者の木原均さんだったという。スコーバレーオリンピックでは、ウォルト・ディズニーと近づきになれたのがうれしかったという。

その後インスブルック冬季オリンピックでもシャペロンとして参加、そして1964年の東京オリンピックではコンパニオンのリーダーとして大会の成功に貢献した。


ミスター・アマチュアリズム

原田さんがアテンドしたミスター・アマチュアリズム、当時のIOCブランデージ会長のエピソードも面白い。

ブランデージ会長は、開会式に天皇陛下に開会宣言をお願いするために、テープレコーダーを部屋に持ち込んで「謹んで(つつしんで)、天皇陛下に、開会宣言をお願い申し上げます」という日本語を必死になって覚えていた。

一切ショー的なものを嫌ったブランデージ会長は、開会式では浴衣姿の盆踊りや小学生のマス体操をショー的すぎるとして中止させたという。マス体操に参加する予定で、数か月前から練習していた原田さんの次男(筆者の友人)もこれにはがっかりしたという。

開会式、閉会式のショーが話題を集め、NBAのプロバスケットボール選手も参加する今のオリンピックとは全く別物の純粋アマチュアリズムの考え方だ。

東京オリンピックでは開会式でオリンピック賛歌を演奏し、これがそれ以降のオリンピックのならわしとなった。自衛隊のブルーインパルスが五輪の雲を描いたことも、それ以降のオリンピックでマネされるようになったという。




清川IOC委員の秘書役

東龍太郎氏の次のIOC委員の清川正二氏は、戦前のロスアンジェルスオリンピックの背泳の金メダリストで、IOC副会長と、競技大会へのIOC代表という要職をこなした。ブランデージ会長の後を継いだアイルランドのキラニン卿、その後のスペイン出身のサマランチ会長の信任が厚かったという。

清川さんはオリンピック開催中は、前日の競技報告書を2−3ページにまとめて、サマランチ会長はじめIOC委員に翌日届けるという仕事を毎日やっており、原田さんは秘書としてタイプとレター配布したという。


ロス五輪を黒字化したユベロスの手腕

1984年のロサンゼルスオリンピックでは、大会組織委員会のユベロス会長が極端なコスト削減策と、収益改善策を導入し、オリンピックとして初めて黒字になった大会となった。

建設費をかけずに既存の施設を改修して使い、選手村は夏の間空いているUCLAの大学寮を使った。巨額のテレビ放映料と、ボランティアの大量投入が黒字化のカギだった。ボランティアには制服が支給されたが、日当は昼食代の5ドルだけだったのには驚いたと原田さんは書いている。

そのほか、原田さんが参加したグルノーブル冬季オリンピック札幌冬季オリンピック、日本がボイコットしたモスクワオリンピックカルガリー冬季オリンピックソウルオリンピックなどのエピソードも興味深い。

原田さんが参加した最後のオリンピックは1998年の長野冬季オリンピックで、開会式で天皇陛下から「原田さん、東京オリンピックからずうっと、ですね」と声をかけられたときは恐縮したという。

原田さんの長年のオリンピックへの貢献に対して、IOCは原田さんと弟の平井俊一さんに2000年にオリンピックオーダー(五輪功労賞)を送った。


知っている人が出てきて親しみを感じる

実は筆者は山本権兵衛のひ孫の山本衛さんと、アルゼンチン駐在時代に知り合い、年賀状をやり取りしている。山本貴美子さんは山本衛さんの叔母さんだと思う。

東龍太郎さんは東大ボート部の出身だ。東一家は毎夏、西伊豆の東大戸田寮に来られていたので、寮委員の間では有名だった。

サッカー出身で元IOC委員の岡野俊一郎さんは、筆者が湘南高校のサッカー部に在籍していた時に、サッカーの指導で藤沢まで来られ、教えてもらったことがある。

サッカーのアクロバチックなプレーに、オーバーヘッドキックがあるが、岡野さんが体育館で手本を見せてくれたのには驚いた。湘南高校のサッカー部では誰もできなかったが、当時40歳くらいだった岡野さんはやすやすとこなしていた。



筆者の友人は原田さんの次男で、大阪オリンピック誘致事務局に出向していたことがある。オリンピック誘致のような活動では、筆者の友人は、お母さんの原田さんや叔父の平井さんの人脈が活用できたと思うので、まさに適材適所だったのではないかと思う。

この本を読むとIOC委員にアテンドしてお世話するとともに、日本の良さを知ってもらうコンパニオン活動の重要性がよくわかる。

個々のIOC委員との人と人のつながりが、日本のサポーターを増やし、それが結果として日本が東京、札幌、長野とオリンピックを3回開催することにつながったのだと思う。

前回、東京がオリンピック開催地に立候補したときに、石原都知事が将来のスタジアムを目の前に投影するバーチャルディスプレイゴーグルを視察団に見せて、日本の先進性と技術力を見せつけたと自慢していたが、筆者は何か違うのではないかと感じていた。

もちろん開催地決定はきれいごとばかりではない。政治的な思惑や、ソルトレークシティオリンピックで明らかになったように、過去には買収や過剰接待攻勢もあった。それでも原田さんの活動のように、ボランティアのコンパニオンが手分けしてIOC委員を心からもてなし、日本のサポーターとなってもらうというのが、本来あるべき姿だし、時間はかかるが、それが一番確実な道ではないかと思う。

いまどきそんな悠長なことはやれないのかもしれないが、もし東京が、あるいは日本のどこかの都市が本気でオリンピック誘致に乗り出すのであれば、少なくともIOCの有力委員には、原田さんたちのような人と人のアプローチが重要なのではないかと思う。

そんなことを考えさせられる本である。


参考になれば次クリックお願いします。





さらば財務省! 竹中改革の懐刀 異能の官僚 高橋洋一さんの内実レポート

さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別 (講談社プラスアルファ文庫)さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別 (講談社プラスアルファ文庫)
著者:高橋 洋一
講談社(2010-06-21)
販売元:Amazon.co.jp
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別ブログで榊原英資さんの「財務省」を紹介したので、榊原さんに反・財務省の反逆者として批判されている高橋洋一さんの財務省、官邸の内実レポートを紹介する。

財務省 (新潮新書)財務省 (新潮新書)
著者:榊原 英資
新潮社(2012-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
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高橋さんは東大の数学科出身で、自称「変人枠」で大蔵省に採用され、資金企画室長時代に異能を生かして、3ヶ月でALM(Asset Liability Management)システムを自力で構築して日銀からの攻勢を一蹴し、一時は大蔵省の「中興の祖」を呼ばれたという。
この作品で高橋さんは山本七平賞を受賞している。

高橋さんは「霞ヶ関埋蔵金」という特別会計に隠された国の資産の存在を公表したことでも有名だ。この本のサブタイトルにも「官僚すべてを敵にした男」と書いてある。

「さらば○○省!」というと同じ講談社で前例がある。筆者も読んだことがある「さらば外務省!」という本があるが、高橋さんは政府の政策決定に直接携わっていたので、外務省の天木さんの本とはかなり差がある。

さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さないさらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さない
著者:天木 直人
販売元:講談社
発売日:2003-10
おすすめ度:4.0
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この種の内実暴露本は、上記の天木さんの本を含めて後味が悪い本が多いが、高橋さんの本は個人攻撃という面は少なく、霞ヶ関の力学がわかって参考になる。

高橋さんは理系、しかも数学科出身なので、問題を論理的に解いていった。導いた答えを役所はどう思うかを考えずにいた点は、うかつだったと語る。財務省が高橋さんを協調性がないということで、攻撃するのは一面当たっているという。


歌って踊れるエコノミスト

高橋さんが小泉政権の時に政府に重用されていたのは、竹中平蔵さんの引きによるものだ。1982年に大蔵省財政金融研究所に勤務していた時に、日本開発銀行から竹中さんが出向してきており、高橋さんの上司だったという。

大蔵省は東大法学部卒が幅をきかしており、大蔵省の「植民地」の日本開発銀行出身で、一橋大学出身の竹中さんは、完全に格下扱いされていて相当フラストレーションが溜まっていたのではないだろうかと。

高橋さんは違っていたので、すぐにうち解けて、IMFからの出向外人とトリオで、六本木などのライブハウスで盛り上がっていたという。竹中さんは「歌って踊れるエコノミストになろう」と言っていたそうだ。

「英語と会計はよく勉強しておいた方がいいよ」というのは当時の竹中さんのアドバイスである。このブログでも竹中さんの「竹中式マトリクス勉強法」を紹介しているので、参照して欲しい。

竹中さんは映画「千と千尋」に出てくる妖怪カオナシだと高橋さんは評する。カオナシはあたりにあるものすべてを吸い込む。竹中さんも旺盛な吸収力と軽快なフットワークで様々な理論を取り入れ、まとめ上げるという。


「議論するときはみんな同期」

当時の大蔵省は、筋さえ通っていれば議論に上下の関係は持ち込まないという「議論するときはみんな同期」という文化があった。当たり前ではないかという気がするが、年功序列の役所だからこそ、こんなことをルールにしないと議論もできなかったのだろう。

東大法学部卒の役人は数字に弱く、知識や理論は知り合いの学者から仕入れた耳学問なので、上司にたてつく議論ができるほど理解していなかったという。高橋さんが異能を発揮できたわけだ。


日銀マンが答えられない大学入試センター試験問題

高橋さんがトピックとして紹介しているが、2008年度の大学入試センター試験で、次のような中央銀行の政策で最も適当なものを選ぶ問題が出たという。

1.デフレが進んでいる時に通貨供給量を減少させる
2.インフレが進んでいる時に預金準備率を引き下げる
3.不況時に市中銀行から国債を買い入れる
4.好況時に市中銀行に資金を貸す際の金利を引き下げる

正解は3.だが、これには日銀マンは答えられないだろうと。というのは日銀のやっているのは、1.で3.ではないからだ。

国債を買うことは、財務省への屈伏、敗北を意味するので、日銀のエリートとしての矜持がそれを許さないのだ。これは戦前の軍備拡張を日銀が国債買い上げで際限なく引き受け、戦後ハイバーインフレが起こった反省によるものだという。


幻に終わった日銀の大蔵省攻撃三部作

日銀は1998年までは大蔵省の下部機関だったので、日銀生え抜きからすれば、大蔵省に一矢報いたいという気持ちは強かった。

それで国庫金を預かる大蔵省のリスク管理の甘さを衝こうと、経済理論のエースだった深尾光洋さんを中心に3部作の論文を2−3年掛けてまとめ、大蔵省にぶつけようとしていた。

大蔵省出身の日銀理事から、不穏な動きが報告され、大蔵省はなんとかして撃退すべく、リスク管理の必要性を説いていた高橋さんにALM(Asset Liability Management)システム構築の命令が下った。

外注すれば数十億円、2−3年構築にかかるシステムだが、隠密にやれということで、高橋さんが2年前に作っていたシステムの原型を使って3ヶ月でシステムを稼働させた。

日銀が乗り込んできた時に、大蔵省はALMを使って「この数字は違いますね」で逆襲して20分で決着がつき、日銀の3年の努力のたまものの3部作は幻と消えたという。

「今までは竹槍を持ってB29と戦っていたようなものだ。高橋君の開発したシステムはパトリオットミサイルだ」と賞賛され、高橋さんは「大蔵省中興の祖」と呼ばれたという。


大蔵省の権限を手放す財投改革を立案

高橋さんは次に、大蔵省が郵貯や年金積立金など政府系金融機関から預託金として一手に預かっていた財投の改革を橋本内閣で実現した。

これで郵貯は長年の悲願であった大蔵省に頼らない自主運用が可能となり、郵貯関係者からは「郵貯100年の悲願を達成してくれた高橋さん」と感謝されたという。

しかし今まで国債しか運用したことのない郵貯が自主運用を任されると、国営ではやっていけず、経営責任の取れる民営化するしかないことは自明の理で、小泉さんが総理にならなくとも、郵政民営化は実現しただろうと。


プリンストン大学の客員研究員、帰国後「雷鳥」ポスト就任

財投の入り口の郵貯と、出口の特殊法人改革も同時に行い、それらが実現したときに、1998年からプリンストン大学に客員研究員として高橋さんは派遣された。現FRB議長のバーナンキ(Bernanke)プリンストン大学経済学部長やポール・クルーグマン教授アラン・ブラインダー教授、マイケル・ウッドフォード教授らと親しくなったという。

経済学の泰斗ばかりそろった教授陣は、日銀のゼロ金利解除政策は間違っていると非難していたが、彼らの見方が正しかったことは、デフレ不況解消の道筋すら立っていない現在の状態を見ればわかるという。

プリンストン滞在を1年延ばして貰い、高橋さんは2001年に帰国して、国土交通省の中の大蔵省の出島の特別調整課長を命じられる。国土交通省の予算を削る役割のポストだ。予算が高く飛ばないようにするポストなので「雷鳥」と呼ばれていたという。


秘密のアジトで竹中大臣の懐刀となる

高橋さんが帰国すると竹中さんが経済財政政策担当大臣になっていた。

竹中さんの部下は内閣府。有名な学者が参加する経済財政諮問会議をベースに議論をして政策を練り上げようと楽しみにしていた竹中さんは足をすくわれる。内閣府で竹中つぶしをもくろむ一派が委員を使って、議事をリークさせていたのだ。

御用学者の中には、日当や旅費を二重取りする人や、役人のつくったペーパーを読むだけの先生もいたという。

審議会をコントロールして都合の良い結論を出させるのは、官僚たちのテクニックで、たとえば役所は反対意見を持つメンバーが出られないような日にちに審議会を設定するのだという。また意に反する結論だと、延々と議論させて結論がでなかったと打ち切る。


郵政民営化準備室に

竹中さんの郵政民営化を手伝って欲しいという希望が通り、高橋さんは関東財務局理財部長から経済諮問会議特命室に引っ張られ、晴れて竹中さんのスタッフとなった。前経済財政政策担当大臣の大田弘子さんもメンバーだった。

いよいよ郵政民営化を実現するために郵政民営化準備室が各官庁から人を集めて発足した。高橋さんはこの準備室に前金融庁長官で、現日本郵政会社副社長の高木さんと参加した。

他の省庁から集まったメンバーは郵政反対か無関心だったが、竹中さんの政務秘書官だった経済産業省出身で現慶應大学教授の岸博幸さんが協力してくれたという。

4年近く官僚と戦い続けてきた竹中さんは、役人に関与させると骨抜きにされることを学習していた。だから役人を集めた郵政民営化準備室は実は「座敷牢」で、経済財政諮問会議では竹中チームでつくった民間議員提案を議論して、総理に提出しようというものだった。

諮問会議で唯一反対したのは、その後の麻生前総理の発言でもあるとおり、麻生太郎総務大臣だった。諮問会議の議論は、郵政を管轄する麻生総務大臣と竹中チームとの間で行われた。結局小泉さんが竹中案を100%採用して、竹中チームの勝利となったが、システム構築が間に合わないというクセ球が投げられた。

そこで高橋さんは郵政システムを担当するベンダーの80名のSEと対決して、一つ一つつぶし、機能をそぎ落として1年半で完成ということまでこぎ着けたという。

郵政民営化反対の官僚は、特殊会社経由の民営化を画策していた。これなら、政権が変われば法律を改正して、郵政民営化をやめることができる。高橋さんは、このことを竹中さんに進言し、民営化したら直ちに商法会社にすることを小泉総理が指示した。

そこで2005年8月の郵政民営化選挙の大勝を受けて郵政民営化が実現し、システムは2007年10月から稼働した。


郵政改革の次は政策金融機関改革

政府系の政策金融機関8機関の整理は財務省と経産省の逆鱗に触れた。ある財務省高官は「高橋は三回殺しても殺したりない」と言ったという。いままで財務省の事務次官の天下り先だった国際協力銀行と日本政策投資銀行を整理してしまったからだ。

中川昭一経済産業大臣と、谷垣禎一財務大臣が霞ヶ関の意向を代弁して、政府系金融機関は必要だという論陣を張ったが、小泉総理は内閣改造で反対派を退けた。しかし竹中さんの後任に与謝野馨さんを持ってきたことから、経済諮問会議は頓挫して、霞ヶ関派がコントロールする方向になった。

一方自民党の中川秀直政調会長が政策金融機関改革を支持してくれたので、財投改革案は自民党案として再浮上した。

小泉総理は元々大蔵族なので、飯島勲筆頭秘書官と財務省からの秘書官を使って財務省とのパイプを保って郵政民営化を進めた。他方霞ヶ関の改革は竹中さんにやらせた。巧みな二元コントロールだという。

竹中さんや中川秀直さんは「上げ潮派」で、経済成長率を上げることによって税収を増やし、歳出カットで財政再建を目指す。これに対する谷垣さんとか与謝野さんの「財政タカ派」はまず増税ありきで、財政さえ立ち直れば国民経済は多少がたついても良いという考えだ。

ふるさと納税も高橋さんが発案者の一人だという。ふるさと納税は、「税額控除方式による寄付」に他ならず、「家計が主計官」というのは中川秀直元幹事長の言葉だ。これに財務省は反発したという。


霞ヶ関埋蔵金

2007年秋中川秀直元幹事長が、「国民に還元すべき埋蔵金がある」と発言、これに谷垣、与謝野大臣が反論したが、これ以降自民党の最大派閥である清和政策研究会が埋蔵金を財政健全化に使うべきと主張し、3度目のパワーシフトが起きた。

2008年になって財務省はあっさり埋蔵金を認め、財政融資資金特別会計から10兆円を取り崩すと発表した。「モンテカルロシミュレーションしたら、リスクを減らしても大丈夫なことがわかった」と言ったという。

埋蔵金については塩川正十郎元財務相が、「母屋でがお粥で辛抱しているのに、離れではスキヤキを食べている」と発言して注目されている。

年金は破綻寸前だが、おおかたの特別会計で超過積立金があり、総額は50兆円を超えるという。最大のものは、財政融資資金特別会計で27兆円、次に外国為替資金特別会計が17兆円ある。これに続くのが国土交通省の道路特別会計の6兆円だ。

他に独立行政法人の整理で20兆円くらい整理益が出る可能性がある。2005年に初めてつくられた国のバランスシートは隠し資産を明るみに出す結果となったのだ。


日本は財政危機ではない

日本は834兆円もの債務を抱えており、これはGDPの160%にも上る危機的数字だという財務省の増税やむなしの論調があるが、834兆円はグロスの債務であり、これから政府が持つ莫大な金融資産を差し引くとネットの債務は300兆円まで減る。

この論法は財務省が米国の格付け会社に送った意見書にも述べられており、財務省の国内向けのアナウンスと海外向けのアナウンスとは全く異なっている。

高橋さんは名目成長率が上がれば、景気も良くなり、税収もアップする。改革で支出を減らし、財政再建は可能だと結論づける。世界の学者が驚くデフレの時に通貨供給量を減らすという日銀の愚かな金融政策が日本経済の名目成長率を引き下げ、現在の状態に追い込んでいるという。


猪瀬直樹さんに協力して道路公団債務超過のウソを暴く

高橋さんは、「日本国の研究」のデータチェックを手伝った時から猪瀬さんと知り合いで、道路公団の資産査定で協力した。

続・日本国の研究 (文春文庫)続・日本国の研究 (文春文庫)
著者:猪瀬 直樹
販売元:文藝春秋
発売日:2002-05
おすすめ度:4.0
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道路公団は民営化をやめさせるべく6兆円から7兆円の債務超過という情報を流していたが、これには将来の補助金と高速道路収入債権が入っておらず、この債権を入れると少なく見積もっても2−3兆円の資産超過となったという。


安倍内閣の官邸特命室に

高橋さんは安倍内閣の官邸特命室に任命され、公務員制度改革案を大田経済財政政策担当大臣の主管する経済財政諮問会議に提出した。安倍内閣のほとんどの大臣が各省庁を代表して反対する中で、新任の渡辺喜美行革担当大臣が高橋さんを呼び出して支持を表明したという。

官僚はマスコミに渡辺大臣と異なる方針をリークしたが、渡辺大臣は官僚を一喝したという。安倍総理も事務次官等会議を経ないで閣議に提案した。

これに対抗し、官僚は経済財政諮問会議委員で政府税調会長の本間正明教授のスキャンダルを報道し、議事を混乱させようとしたという。本間教授は竹中大臣の財政金融研究所時代からの友人だ。


消えた年金

社会保険庁の5000万件のでたらめなデータがあるのは以前から分かっていたという。高橋さんは1990年ころに、厚生年金基金の欠陥を指摘する論文を経済週刊誌に発表しようとしたら、厚生労働省が雑誌を傘下の厚生年金基金に購読させないと圧力を掛けてきたという。


小泉政権の中枢の竹中大臣の懐刀として構造改革に取り組んだ六年半は、コンテンツクリエーター冥利につきる年月だったという。

財務省には感謝していると高橋さんは語る。


高橋さんは昨年銭湯で腕時計などを盗んだとして、窃盗の現行犯で逮捕され、不起訴にはなっているが、スキャンダルを起こしている。冤罪という説もあるが、真相は不明だ。




人物的にはやや暗い感じがあるが、山本七平賞を受賞した作品だけに面白く、読んでためになる本である。


参考になれば次クリックお願いします。







エースの資格 江夏の何気ない一言が落合を三冠王にした

エースの資格 (PHP新書)エースの資格 (PHP新書)
著者:江夏 豊
PHP研究所(2012-02-15)
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江夏のピッチャー論。

以前別ブログで紹介した「江夏の超野球学」でも、いいピッチャーの条件はバッターの観察力だと語っていたが、この本でも江夏は持論を展開している。

江夏豊の超野球学―エースになるための条件江夏豊の超野球学―エースになるための条件
著者:江夏 豊
ベースボールマガジン社(2004-04)
販売元:Amazon.co.jp
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江夏の21球の背景

江夏は自分の投げる瞬間に「しまった」というケースがしばしばあったという。バッターを見た途端、タイミングがどんぴしゃり合ってしまって、「あっ」となる。これはコントロールミスとは違うものだ。

数多く打たれて、「もう打たれたくない」という強い思いから、「タイミングが合ってしまった」と思ったら、球を放す前にパーンと抜いたり、スライダーをかけたりできるようになった。キャッチャーはおろおろして、「何ですか、今のボールは?」と聞いてくるので、「ほっとけ。魔球じゃ」と言ったのだ。

これが伝説の「江夏の21球」が生まれた背景だろう。

「相手バッターを見る」技術を若いピッチャーにも知ってほしいという。


エース談義

澤村や斎藤祐樹、ダルビッシュ、杉内など最近の投手についての評価が面白い。

元巨人軍フロントの清武さんが、澤村と斎藤佑樹を巨人軍のBOS(Baseball Operating System)で比較して、差は歴然としていたと、別ブログで紹介した「巨魁」という本で語っていた

巨魁巨魁
著者:清武 英利
ワック(2012-03-16)
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江夏も澤村を巨人のエース候補に挙げ、斎藤佑樹は「エース候補」とは言い難いとしている。エースはだれでもなれるわけではないのだと。

澤村はストレートは150キロ超と速いが、勝負球はスライダー、フォークだ。

斎藤はバックスイングの小さいフォームで、器用ではあるが、器用という武器が裏目に出ているのではないかと。

日本ハムの投手コーチの吉井理人コーチも、斎藤を育てようとするあまり、口を出しすぎているのではないかと。本当に「いいコーチ」は「みずから教えない」のだと。まさに落合が「コーチング」の中で語っているのと同じことだ。

コーチング―言葉と信念の魔術コーチング―言葉と信念の魔術
著者:落合 博満
ダイヤモンド社(2001-09)
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最近の投手の中では、杉内とダルビッシュを高く評価している。

ダルビッシュはベースカバーをサボらずにやっているという。ダルビッシュの無失点イニングの記録が続いていた時は、ランナー2,3塁でも日本ハムの野手は前進守備をして、一点もやらない姿勢をみせていた。江夏は、ダルビッシュがチームのみんなに愛されていると感じたという。

ダルビッシュと対談した時も、「この男はほんとうに野球が好きなんだな。投げることが好きなんだな」と感じたという。


エースの特権

江夏が阪神に入団した時に、当時の阪神のエースの村山は、わざわざボールの縫い目を高くつくらせていた。それが「エースの特権」なのだと。縫い目が高い方が、指にひっかりやすく、フォークボールも落ちやすいからだ。当時は各球団が自分で自分仕様のボールを買っていたのだ。

それに対して江夏は縫い目が高いボールはマメができて痛くなるから嫌いなので、入団2年目にメーカーに頼んで10ダースほど試合球の縫い目をたたいて低くしてもらった。

村山は激怒したが、江夏は「自分の意志でやってもらっているんです」と答えたという。既に阪神の投手ローテーションは江夏を軸にまわりつつあり、強いことが言えたのだと。


考えて投げるタイプ 考えないタイプ

江夏は考えて投げるタイプだったので、考えないバッターはやりにくいという。その筆頭は長嶋さんだ。また、長嶋さんはずっと江夏のカーブをフォークと勘違いしていた。「いいフォークだねぇ」と言っていたという。江夏もキャッチャーの田淵も長嶋さんがフォークと思い込むのをそのままにしていたという。

ロッテの有藤にも2試合連続でホームランを打たれた後で聞いたら、やはり考えずに来たボールを打つタイプだったという。

ピッチャーで考えないタイプは少ないが、その筆頭が江川だという。

江川は天性だけで投げており、プロに入って最初の5年間は「怪物」だったが、最後の4年間は並のピッチャーとなり、9年で現役を引退した。文字通り持って生まれた素質だけでやっていたピッチャーだという。

清武さんの「巨魁」ではナベツネが江川を巨人の助監督にいれるべく画策して、それが清武以下の事務レベルの反発を招き、「清武の乱」が起きたことが描かれている。

江夏の言葉が本当なら、「考えない江川」をたとえ副監督でも指導者としてチームに入れるのは考えものかもしれない。


ピッチャーの筋力は投げてつける

ピッチャーの筋力は投げてつけるもので、トレーニングはあくまで補助的なものだという。これは以前筆者がトレーニングの権威、石井東大教授から聞いたことと一致する。

だから、外国人監督の100球制限をキャンプに持ち込むのは日本の事情に合わないと指摘する。キャンプでは投げて体をつくるのだと。


自分で自分をだます

松阪の故障以来、明暗が分かれている大リーグの松坂大輔と黒田博樹について江夏は語っている。

松阪は高校時代から非常に器用なピッチャーで、「変化球は遊びのなかで覚えた」というほどだった。江夏は器用なピッチャーは案外好不調の波があり、松坂は器用さがマイナスになっている典型だという。

松阪は30歳を過ぎて体力の限界を感じているところだろうから、右ヒジの手術から復帰したあとの転身を見守りたいと。

黒田は松坂より5歳年上だが、ボールに衰えは感じられない。35歳を過ぎて、本人は衰えを感じているだろうが、練習方法や工夫により、衰えが進む時間を遅らせているのだろうと。

江夏は「自分で自分をだますこともしているでしょう」という言い方をしている。「自分で自分をだます」というのは、たぶん江夏が長年活躍できた秘訣なのだろう。


抑え投手は自分をだませなくてはならない

抑え投手は、たとえブルペンで調子が悪くても、「調子がいいんだ」と自分をだますことが大事なのだ。登板が続くので「自分はマウンドに上がったら常にベストなのだ」と言い聞かせ、少々のことでは動揺しない精神状態をつくっていくものだ。

現役投手には手厳しい。藤川球児は投球術が一切ないのに成功できた珍しい例だと。一方、西武の牧田和久はつねに低めにほうれるので、注目しているという。

通算300セーブの岩瀬は、落合前監督の「作品」だ。全盛期を過ぎていて、スライダーは曲がりが大きすぎて、左バッターは振らない。それでも抑えで使われることのつらさを岩瀬は感じているのだろう。

抑えの岩瀬、荒木・井端の1・2番コンビは、落合の「作品」だから、最後まで落合は面倒をみてきた。その意味で、落合は選手思いの指揮官だったのだ。リードだけでメシが食える谷繁もその意味では落合の「作品」なのだろう。


カーブ談義

カーブ談義も面白い。江夏は高校時代カーブもほうれないでプロに入った。高校の野球部の監督に「カーブを教えてください」とお願いにいったら、「真っすぐでストライクもほうれんのに、なにがカーブじゃ!」と、ぶっ飛ばされたという。

高校2年の時に対戦して驚かされた鈴木啓示でも持ち球はカーブと直球だけだった。今の高校生ピッチャーがスライダーやフォーク、チェンジアップなど、各種の変化球を投げるのとは隔世の感がある。

プロに入っても江夏のカーブはあまり曲がらなかったが、王さんには効果的だったという。王さんは曲がるイメージで打ちに行くのだけど、曲がらないのでタイミングがあわなかったのだ。

江夏は堀内みたいなドロップに近いカーブをほうりたいと、練習したが、どうしても投げられない。そこで恥を忍んで試合前に堀内に聞きに行ったことがある。

そうしたら堀内は、笑いながら手を見せてくれた。堀内は子供のころ機械でケガをして、右手の人差し指が1センチほど短い。だからあの抜けるカーブを投げられるのだとわかって、江夏はあきらめたという。


カモのバッター カモれないバッター

バッターではじっと一球を待つバッターがやりにくいという。

一球一球追いかけてきたバッターを江夏はカモにしていた。1981年に江夏が日本ハムに移った時、落合はその年首位打者にはなったが、何でも追いかけるバッターだったので、江夏はカモにしていた。

ところが、翌1982年に落合は、じっと待つというタイプに変身していた。江夏はこいつ変わったなと思ったそうだが、案の定その年は打ち込まれ、落合ははじめて三冠王になった。

まともなヒットは少ないのだが、落合は思いっきり振ってきたので、当たりそこないでもヒットになった。

じーっと待って狙い球をフルスイング。ピッチャーにとっての絶対的な鉄則である「フルスイングさせてはいけない」を完全に破られたのだ。

これにはオチがある。

1981年のプレーオフの後、江夏は落合と偶然会って、落合が「麻雀がしたい」というので、連れて行った。

落合がリーチをかけてきて、江夏が待ちを指摘すると、「なんで江夏さん、待ちがわかるの?」と聞いてきたので、「そんなもん、野球とおんなじで、おまえの読みなんてすぐわかるわい」、「野球でもじっと待たれるほうがピッチャーは怖いんだぞ」と言ってしまった。

するとそれまでは一球一球追いかけてき落合が、翌年は図々しく待つバッターに変身して三冠王を取ったのだ。

たぶん落合は江夏の何気ない一言を参考にしたのだろう。その意味では、落合にとって「運命の麻雀」だったのではないかと。


江夏の気分転換はマージャン

面白い話を江夏は書いている。

気分転換には酒を飲むのが一番だろうが、江夏はアルコールがダメだという。女性と会って気分転換という人もいるかもしれないが、「女性は一瞬ですからね。そのあと疲れるだけですから、私はそれよりか麻雀」だと。

なるほどと思う。山本モナとスキャンダルを起こして巨人から出された日本ハムの二岡とか、やけどをする選手が多い中で、江夏の達観には感心する。


「バッターの裏をかく」時代は終わった

現代野球はバッターの待っているボールがわかったら、その近辺に投げることが主流になっているという。

以前の野球では、真っすぐを待っているときはカーブ、外角を待っているときは、インコースと「バッターの裏をかく」戦術だったが、現代野球は外を待っていると思ったら、外にほうってバットを振らせて凡打に打ち取る、カーブを待っていれば、鋭いカーブを投げて打ち取るという戦術だ。

だからバットの芯をすこしはずすために多くの球種が必要なのだ。


野村監督の「野球に革命を起こさんか?」発言

阪神から南海に移籍してきた江夏に対して、野村監督がリリーフ専門への転向をもちかけ「野球に革命を起こさんか?」と説得した話は有名だが、江夏は「革命」と言われても、どういう意味なのかわからなかったという。

リリーフ専門を受け入れても、調整方法はわからず、監督は、「好きなようにしろ、自分でつくれ」と言うだけで、江夏は苦しんだという。

野村監督からは「江夏、おまえは毎試合、登板のスタンバイをしておけ。終盤以降、自分たちがリードしているときには、いつでも出られるように。その代わり、ゲームの前半はすきにしてていい。ベンチに入らなくてもいいし、ロッカーで休んでいてもいいから」と言われていたが、このことを他の選手には野村監督は伝えていなかった。

だから事情を知らない選手たちは、「江夏はなにを勝手なことをしているんだ」と反発し、ベテランの広瀬叔功さんからはチームメートの前で、「ナニしとんのや!1回からベンチに入った方がいいぞ」と怒鳴られた。

江夏は悔しい思いをしたが、その場は「わかりました」と引き下がり、あとで広瀬さんには事情を説明したという。

ノムさんは別ブログで紹介した「野村ノート」の中で江夏を三大悪人の一人としているが、江夏は野村監督兼捕手との付き合い方が難しかったことを書いている。

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野村監督は他の選手に説明するなど配慮が利かない人だったと。

この辺がノムさんの限界なのだろう。ノムさんが長嶋さんや、亡くなった仰木さんのような人望がないのは、こういったところなのだと思う。


江夏が育てた選手

東京6大学リーグホームラン記録を持って田淵が阪神に入団してきたとき、キャッチングは落第だった。それでも兼任コーチだった村山さんは、鳴り物入りで入団してきた田淵を試合で使っていくと明言した。

田淵は、江夏の力のあるストレートを捕球する時にミットがわずかに動くので、ストライクのボールもボールと判定されることがあった。江夏は「しっかり捕れよ。球の力に負けるなよ」と、年上の田淵に文句を言った。

田淵は恥ずかしい思いをしながらも、鍛えなおし、後年「ユタカに言われて再度、手首を鍛えなおしたことが、その後のバッティングにプラスになった」と言っていたという。

江夏は日本ハム時代は大宮龍男というキャッチャー、広島時代は大野豊を育てた。江夏の場合は、プライベートのときも行動をともにして、暇があれば野球の話をして鍛え上げたという。


落合もそうだが、江夏も本当に野球が好きなのだと思う。そんな思いが伝わってくる本である。


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