時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2012年08月

舟を編む 辞書編纂をテーマとしたベストセラー小説

舟を編む舟を編む
著者:三浦 しをん
光文社(2011-09-17)
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三浦しをんさんのベストセラー小説。

家内が町田図書館で借りていたので読んでみた。現在町田図書館でリクエスト人気ナンバーワンの本だ。36冊蔵書があるが、800件弱のリクエストが寄せられているので、普通だと半年以上待たなければならない。

三浦しをんさんは、町田市に10年ほど住んでいたこともあり、町田を題材にした「まほろ駅…」シリーズなどの三浦さんの作品は、常に図書館のリクエスト上位にある。

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)
著者:三浦 しをん
文藝春秋(2009-01-09)
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この本は250ページの本だが、1日で一気に読めてしまう。

本の帯が何種類かあるようで、アマゾンの表紙の絵も良いが、次の帯が一番登場人物がよくわかると思う。

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・右上から順に女性料理人の林香具矢(かぐや)。馬締(まじめ)が住む下宿の大家の孫娘だ。

・辞書編纂一筋で出版社を勤め上げ、定年後は嘱託社員となって同じ仕事を続ける荒木公平。

・営業部では変人扱いされていたが、辞書編集部に引き抜かれて天性の言葉に対する感覚を活かして新規の大辞書「大渡海(だいとかい)」編纂に取り組む馬締(まじめ)光也。

・左上が辞書監修者として常に用例採集カードを持ち歩き、辞書の用例として使う小説の初版本を捜し歩く松本教授。

・そして後半の主人公で、長年かけた「大渡海」が日の目を見る前に辞書編集部に異動してきた岸部みどり。

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・裏表紙の帯には辞書編集に取り組む馬締と、辞書編集部から営業部に異動した後もたびたび登場するチャラ男の西岡の絵が載っている。

小説のあらすじは詳しく紹介すると本を読んだときに興ざめなので、いつもどおり紹介しない。

ただ、250年近く続いているブリタニカ百科事典が印刷版を止め、電子版のみになってしまう時代なので、「大渡海」もいつ編纂中止に追い込まれるのかヒヤヒラしながら読んだとだけ書いておく。

三浦さんの小説は実にテンポが良い。

キャラクター設定も面白いので、いずれ映画化されるときには、誰が馬締になるのか想像するのも楽しい。ネットで調べたら、向井理(おさむ)という声がある。向井が身長182センチもあるとは知らなかったが、馬締も長身でやせ形という設定なので、たしかに適役かもしれない。

ちょっとした場面でも楽しめる。

たとえば、編集部の面々が松本教授と一緒に香具矢の務める料理屋「梅の実」に行く場面(アマゾンの表紙の帯の場面)では:

「馬締はいつにも増して、香具矢と目を合わせようとしない。そのくせ、器を受け取る際にちょっとでも指先が触れようものなら、盛大に赤面する。

香具矢はいままでよりも頻繁に、「みっちゃん」と呼びかける。そのくせ、贔屓だと取られてはならじと意識するあまりか、馬締のお通しだけ明らかに量が少ない。

なんなんだ。おまえら中学生か。なにがしたいんだ。

西岡の苛立ちは最高潮に達する。…」

辞書編纂の場面で、某大学教授の「西行」に関する原稿を西岡の依頼で馬締が編集してしまう場面も面白い。

某大学教授の原稿は、個人的思い入れ過多の文章だった。

「西行(1118〜1190)平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した歌人にして僧侶。出家前の名は佐藤義清(のりきよ)。鳥羽上皇に仕えた北面の武士だったが、二十三歳の時に思うところあって、泣いてすがる我が子を振りきり出家した。

以後、諸国を旅し、多くの歌を詠む。「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」は、現在にいたるまで人口に膾炙(かいしゃ)した歌である。

注:きさらぎの望月のころ=2月の満月の頃
  人口に膾炙=人々の評判になって広く知れ渡ること。

日本人であればだれしも、西行が描出したこの情景に感銘を受け、自分もそうありたいと願うことだろう。自然と心情を巧みに詠み、無常観に裏打ちされた独自の歌風を築いた。河内の弘川寺で没。」

これを馬締は次のように修正する。

「西行(1118〜1190)平安末・鎌倉初期の歌人、僧。俗名は佐藤義清(のりきよ)。北面の武士として鳥羽上皇に仕えるも、二十三歳で出家。

以後、諸国を旅し、自然と心情を詠んで独自の歌風を築いた。「新古今和歌集」には九十四首と最多歌数を採録。家集に「山家集」など。河内の弘川寺で没。」

しかし、馬締は、これだけでは辞書として不足だという。西行=不死身(西行が富士見をしている姿が好んで絵に描かれたことから、富士見から不死身となった)とか、西行=タニシ、西行桜西行掛け=西行背負い西行被き(かずき)などにふれる必要性についても議論をかわす。

そして西岡の意見を容れて、馬締は次のように付け足す。

「(西行が諸国を遍歴したことから)遍歴する人、流れもの」

いかにも辞書編集部でありそうなやりとりだ。ちょうど最近「西行物語」という本を読んだところだったので、興味深かった。

[新訳]西行物語[新訳]西行物語
著者:宮下 隆二
PHP研究所(2008-11-28)
販売元:Amazon.co.jp
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辞書編纂についても結構勉強になる。たとえば字体だ。辞書で使う漢字は「正字」(=「康煕字典」に基づいた正規の字体)をもって旨とするという。ただし「常用漢字表」と「人名用漢字別表」に載っている感じは「新字体」で表示するという。

たとえば「揃える」だ。

「揃える」のつくりの「前」の字が、「正字」だと、点々が右下がりのななめの点々になっており、横平行ではない。

これが活字としては正統な字体だという。

いままで全く気がつかなかった。

辞書の紙質についての製紙メーカーとのやりとりも面白い。辞書の紙は、薄くても裏が透けて見えず、指に吸い付くようにページがめくれるのがいい。紙同士がくっついて、複数のページがめくれるようなことがないような「ぬめり感」が重要だという。

これこそが辞書に使用される紙が目指すべき境地だと。

この本は岩波書店の辞書編集部と小学館の国語辞典編集、王子特殊紙株式会社の協力を得ているという。なるほどと納得できるやりとりだ。

筆者が中学に入って最初に買った辞書は三省堂の「広辞林」だった。実はみんなが言っていた「広辞苑」を買おうと思っていたのだが、名前が似ているので間違えたのだ。

その「広辞林」も昭和58年の第6版を最後に絶版となっている。その代りなのか、三省堂は「大辞林」という辞書を出している。

広辞林広辞林
三省堂(1983-01)
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大辞林 第三版大辞林 第三版
三省堂(2006-10-27)
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しかし「大辞林」もマーケットシェアという意味では、「広辞苑」に大きく差をつけられている。クイズなどでも、「広辞苑に載っている4文字熟語のなかで…」などという風に、「広辞苑」は良く使われている。

広辞苑 第六版 (普通版)広辞苑 第六版 (普通版)
著者:新村 出
岩波書店(2008-01-11)
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実は筆者の家では、古い広辞苑があったが、先日ついに処分した。大体ネットで検索すれば事足りるので、辞書を引く機会は本当に少なくなっている。

いつ辞書編纂が中止となるのか?そんな不安を覚えながらも、楽しく読めて、参考になる小説である。


参考になれば次クリックお願いします。





世界で一番売れている薬 実は日本人が発見していた

世界で一番売れている薬世界で一番売れている薬
著者:山内 喜美子
小学館(2006-12-15)
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世界で一番売れている薬

世界で一番売れている薬をご存知だろうか?

それは「スタチン」と総称される高コレステロール治療薬だ。アメリカのファイザーやメルクなど主要な製薬メーカーが販売しており、欧米で7種類、日本で6種類のスタチンが販売されている。

なかでもファイザーの「アトルバスタチン」が、世界の医薬品売上ランキングのダントツトップを占めている。

そのスタチンは1973年に当時三共にいた日本人の研究者によって青カビから発見された。しかしスタチンは日本では商品化されず、アメリカのメルクが「ロバスタチン」としてはじめて商品化した。1987年のことだった。

この本では、日本人研究者がスタチンを初めて発見していながら、日本では商品化されなかったストーリーを描いている。


遠藤さんの経歴

スタチンの発見者・遠藤章さんは、1938年に秋田県の農村に生まれた。東北大学農学部の農芸化学科を卒業し、在学中に影響を受けた本の一つは、ペニシリンの発見者フレミングの伝記だったという。

フレミング博士―ペニシリンの発見 人類の恩人 (1954年)
著者:L.J.ルドヴィチ
法政大学出版局(1954)
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1957年に三共に入社した遠藤さんは、最初は研究所ではなくカビからつくった酵素を作っている田無工場に配属される。この時の研究で貴腐ワインをつくる薬剤を製品化し、その研究で1966年に農学博士となっている。

1966年からニューヨークのブロンクスにあるアインシュタイン医科大学にポスドクとして2年間留学して、高コレステロールで悩んでいるアメリカ人が多いことを知る。

留学時代には、ニューヨーク郊外にあるウッドローン墓地にある尊敬する野口英世の墓と、三共の創始者の高峰譲吉の墓を数回訪れたという。


コレステロール低下剤の開発

遠藤さんは帰国して三共の醗酵研究室に戻り、青カビからML−236Bと呼ばれるコレステロール低下剤を発見する。

ラットに使って、コレステロール低下が認められないので、一度は研究は打ち切られそうになるが、あきらめず研究をつづけ、ラットに効かなくてもイヌには効いたことで復活する。

1976年にはイギリスのビーチャム社(現グラクソ・スミスクライン社)が「コンパクチン」と名付けた抗生物質を発表した。遠藤さん達が発見したML−236Bと全く同一の物質だとわかったが、三共は1974年に特許出願していたので、三共の特許取得に問題はなく、三共は「メバスタチン」として臨床試験を開始した。

コレステロール研究の第一人者で後にノーベル医学書を受賞するテキサス大学のゴールドスタインブラウン教授から「メバスタチン」を使ってみたいという申し出はあったが、日本での臨床実験を優先した。


三共での開発の遅れ

ところが当の三共で社内の勢力争いが起き、中央研究所が開発したRWX−163で醗酵研究所のML−236Bを葬ろうと画策し、発見者の遠藤さんをML−236Bの担当から外すことになった。RWX−163はラットのコレステロール低下に効果があったという。

ML−236Bに注目した金沢大学と大阪大学の医師が、遠藤さんと遠藤さんの上司のみが知る秘密プロジェクトで、ML−236Bのヒトへの適用をはじめ、コレステロール低下が確認され、三共は重い腰を上げて、ML−236Bを開発商品として正式に認定した。


メルクのアプローチ

一方、アメリカのメルクは、コレステロールの研究者でNIHにいたロイ・バジェロスを研究所の所長として迎え入れ、コレステロール低下剤の開発に力を入れていた。

三共の特許公開後、メルクは1976年に秘密保持契約を結んでML−236Bの試薬提供を依頼してきた。しかし、その秘密保持契約には重大な欠陥があり、試薬をメルクが分析して、その知見を自社の開発に生かすというような事態となっても、秘密保持契約違反には当たらないという条項があった。

著者の山内さんは、秘密保持契約にいかにも重大な欠陥があったように書いているが、商社で鉄鋼原料やインターネットビジネスの営業を担当してきた筆者から見れば、一般的な条項だと思う。

以下の話にある通り、メルクが三共のお人よしにつけこんで、うまくこの条項を利用したというべきだろう。「生き馬の目を抜く」といわれるビジネス界ではありうることだ。


メルクの開発と特許戦略

三共は秘密保持契約の欠陥に気づいていたが、大きなリストと考えず、最初に5g、バジェロスが来日して追加要請があって1977年に100gサンプルを提供した。メルクは1978年に結果は良好だったとして、報告書のコピーを送ってきて、独占ライセンス交渉を要求した。

また、メルクはML−236Bと自社の製品を組み合わせた発明で、特許を申請すると三共に申し入れてきた。まさに秘密保持契約の欠陥を利用した行為で、三共にとっては「敵に塩を送る」結果となった。

メルクと提携して世界規模の開発を期待していた三共は、淡い期待を裏切られることとなる。ちなみにバジェロスはこれらの功績で、1985年にメルクのCEOに就任している。

遠藤さんは1978年に三共を退職し、東京農工大学助教授に転職した。研究活動を続けるためという理由だった。遠藤さん自身は否定するが、メルクの戦法に引っかかった三共の経営陣への幻滅もあったのではと著者の山内さんは推測する。

遠藤さんは東京農工大学で紅麹の研究から、1979年に偶然コレステロール合成阻止剤を見つけ、「モナコリンK」と名付ける。これにもメルクが試薬提供を求め、分析した結果、メルクが発明したMK803と同一物質だったと連絡してくる。

メルクは自社特許を成立させるべく米国の「先発明主義」を使って画策した。しかし論文を学術雑誌に投稿し、それが受理されるという「科学の世界の不文律」から、モナコリンの特許が認められ、メルクは三共から特許実施権を買うことになった。モナコリン雑誌掲載は1979年、メルクは1980年だったのだ。

金沢大学の医師が「ニューイングランド・ジャーナル」でML−236Bの効果を発表した論文が注目を集めたにもかかわらず、ML−236Bは国内で試験中に「イヌで副作用が生じた」という理由から開発中止となる。発がん性物質が発見されたのではというもっぱらの噂だった。


メルクが商品化一番乗り

メルクも三共の開発中止に驚かされたが、自社特許を使ってFDAに新薬申請を行い、1987年に「ロバスタチン」として商品化し、世界で最初に商品化されたスタチンを作り出した。

三共は結局メルクに遅れること2年、1989年に「メバロチン」として商品化した。ピーク時の1999年には輸出分とあわせると1,850億円の売り上げがあったという。


世界で一番売れている薬

その後さまざまな「スタチン」が製造され、現在では1997年に売り出された「アトルバスタチン」が「ロバスタチン」の3倍の強さを誇り、総コレステロールとLDLコレステロールを60%下げる薬として世界売上トップにある。スタチンを使っている人は世界で3千万人と推定され、市場規模は3兆円程度(2005年度)だという。

三共の特許は「メバロチン」の特許が、国内では2002年、米国では2006年に切れ、ジェネリックが出回っている。


「日本国際賞」受賞もむなしく感じる

遠藤さんは72歳のときに、2006年の「日本国際賞」を受賞している。「スタチン」の発見と開発に貢献したことが受賞理由である。「日本国際賞」はノーベル賞に匹敵するものを日本でもつくろうということで始まった制度で、授賞式には天皇皇后両陛下、内閣総理大臣と衆参両議院議長が臨席する。賞金は5,000万円だ。

日本人の研究者が発見したコレステロール低下剤が、結局は欧米製薬大手のヒット商品つくりに貢献したような結果となった。

発見者の遠藤さんが、東北大学農芸化学出身で、ピカピカの薬学研究者でなかったこと、三共での研究所間の主導権争い、日本の製薬メーカーの(ひと言で言って)力不足、欧米トップメーカーの製品開発力と車の両輪となっている特許戦略、日本に比べて圧倒的に早い欧米の新薬認定プロセス等々、複合的な要因で生じた差なのだろう。

ほとんど話題にならなかった「日本国際賞」受賞がむなしく思える。


iPS細胞実用化では特許の専門家も加えたチームを編成

以前紹介した「大発見の思考法」のとおり、京都大学の山中教授がヘッドとなっている京大iPS細胞研究所には製薬会社出身の国際特許専門のスタッフも含め、総勢で200名のスタッフがいる。

「大発見」の思考法 (文春新書)「大発見」の思考法 (文春新書)
著者:山中 伸弥
文藝春秋(2011-01-19)
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iPS細胞研究所は基礎研究、治療法が見つかっていない病気のメカニズム研究、iPS細胞を活用した創薬や再生医療などの臨床応用、倫理・安全基準研究、知的財産権管理、広報室も備えたiPS細胞を総合的に研究する世界初の施設だ。

たぶん三共の例の他にも、知財マネジメントと開発を両輪で運用しなかったために、せっかくの研究成果を海外の企業に横取りされてしまったケースは、日本企業には多いのではないかと思う。

そういった反省も含めての京都大学iPS細胞研究所の設立だと思う。その意味で、この本も事例研究として参考になると思う。


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外科医須磨久善 ベストセラー作家海堂尊さんが描くゴッドハンド

外科医 須磨久善 (講談社文庫)外科医 須磨久善 (講談社文庫)
著者:海堂 尊
講談社(2011-07-15)
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現役医師でベストセラー作家の海堂尊さんが描くゴッドハンド・天才心臓外科医須磨久善さんのノンフィクション。

海堂尊さんは、医師としての専門知識を利用して、「チーム・バチスタの栄光」で文壇デビュー、チーム・バチスタシリーズで数々のベストセラーを生み出している売れっ子作家だ。放射線医学総合研究所のAi(死亡時画像診断)情報研究推進室室長を務めている。

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)
著者:海堂 尊
宝島社(2007-11-10)
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海堂さんはAi情報研究推進室室長

海堂さんの本職では、「死因不明社会」という本を出しているので、こちらも読んでみた。日本では死因をきっちり調査しないで処理される死者が多く、Ai(死亡時画像診断)により死因を特定すべきだと力説している。

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)
著者:海堂 尊
講談社(2007-11-21)
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この本は「心臓外科医 須磨久善の旅」と、「解題 バラードを歌うように」の2部構成となっており、最後にテレビドラマ「外科医 須磨久善」で須磨役を演じた水谷豊さんが解説を書いている。

最初の「心臓外科医 須磨久善の旅」は須磨さん自身が語った心臓外科医としてのキャリアだ。順番は須磨さんのアレンジにより、最初が1992年の海外での初めての公開手術、次が1986年にアメリカ留学から帰って、留学で学んだ経験を活かして始めた胃の大網動脈を使った心臓バイパス術式の開発、3回目がモンテカルロでの経験からインスパイアされて葉山ハートセンターという病院をつくった話、そして最後がバチスタ手術とのかかわりあいだ。

YouTubeで須磨さんを特集した番組がアップされているので、こちらも紹介しておく。




「解題 バラードを歌うように」

第2部の「解題 バラードを歌うように」は海堂さんの「チーム・バチスタの栄光」の映画化の時に、医療監修を須磨さんが引き受けてくれた撮影現場のエピソードだ。

こちらがバツグンに面白い。ほとんどの人が、須磨さんはどういう人かある程度イメージしていると思うので、著者の海堂さんも書いている通り、最初に第2部を読んでから、第1部を読むことをお勧めする。それぞれの面白みが倍増すると思う。

映画では外科医の桐生恭一役をやった歌手で俳優の吉川晃司は、須磨さんに最初にあった時に、挑発されたのだという。

「あなたに本当の外科医を演じることができますか?」
反発を感じながら、吉川が問い返す。
「本物の外科医って、どうやって見分けるんですか?」
とっさにしては、うまい切り返しだ。それに対して須磨さんは。
「本物の外科医は背中で語る。それができなければ一流の外科医とは言えない」
このやりとりで吉川の闘争心に火が付いたという。

桐生役の吉川は、海堂さんが見学した時、外科結紮(けっさつ)の場面で、本物の外科医と見まがうほどの見事な技術を身につけていたという。

一度は糸が絡まって失敗したが、須磨さんが「吉川さん、結紮がロックのビートになっている。ここはもっとリラックス、バラードを歌うようにやってみてください」とアドバイスすると、一発オーケーでものにした。

映画のプロモートをした席での須磨さんの発言もふるっている。「映画は成功します。女性ならみんな、吉川さんみたいな外科医に見つめられながら手術を受けたら、麻酔なんて必要なくなっちゃうでしょうからね」

海堂さんは、須磨さんに聞いたことがあるという。

「一流になるためには、地獄を見ないとダメですね」と須磨さんが言う。
「一流って、どういう人なんですか?」
「一人前になるには地獄を見なければならない。だけどそれでは所詮二流です。一流になるには、地獄を知り、そのうえで地獄を忘れなくてはなりません。地獄に引きずられているようではまだまだ未熟ですね。」

超一流の心臓外科医は、アーティストでもあることが、実感できる須磨さんの言葉である。


須磨さんのキャリア

須磨さんは神戸出身で、甲南中学出身だ。灘中や甲陽学院は当時は坊主頭だったので、死んでも丸坊主になりたくなかったから、甲南中学に行ったという。中学2年の時に医者になろうと決めた。テレビの「ベン・ケーシー」を見ていた須磨さんは、ある日自分が外科医となった夢を見た。それが医者になろうと思ったきっかけだという。



日本人による最初の海外での公開手術は須磨さんの友人が助教授を務めるベルギーブラッセルのルーベン大学病院で行われた。当時須磨さんは三井記念病院の循環器外科の科長で、日に2−3人の手術を行い、世界中から講演の依頼を受け世界中を飛び回るという多忙な生活だった。

実は筆者は当時の須磨さんをたまたま知っている。というのは、岡山で内科医をやっている筆者の義兄が、須磨さんに心臓バイパス手術を三井記念病院でやってもらったからだ。

三井記念病院は東大医学部の系列のような病院だが、大阪医大出身の須磨さんはその中では異色の経歴で、当時から日本でトップクラスの心臓外科医とみなされており、だから医者の義兄も須磨さんがいる三井記念病院で手術をやってもらったわけだ。

日本にいる半年間は一日に何件か手術をこなすが、年の半分は海外にいると聞いたので、やはり超一流の外科医は、いわゆるハイフライヤーで、優雅な生活をしているのだなと感じた記憶がある。実は講演などで世界を飛び回っていたのだ。


バイパス手術に動脈を使う

須磨さんが米国のユタ大学に留学した当時は、心臓バイパス手術には、10年もすると閉塞してしまうが使い勝手が良い静脈をつかう時代だった。一部の医者が胸の内胸動脈を使おうとしていたが、まだ少数派だった。

動脈と静脈では血圧が10倍違う。静脈を動脈代わりにつかうと、血管内皮がすぐ痛んで、血管壁がボロボロになってしまうからだ。

それでも日本の動脈使用率は世界に抜きんでて高い。日本のバイパス手術が世界で最も注目されているのだと。

須磨さんが考え抜いた末に選んだのは、胃の大網動脈だった。しかし何例か手術の成功例を紹介して日本の学界で新しい術式を発表した時に、ノー・リアクションだったという。

須磨さんは日本でのコールドショルダーにらちがあかないと考え、米国心臓協会(AHA)で発表すると、それがNHKニュースに報道され、須磨さんは一躍ヒーローになる。

しかし須磨さんは、もし人工血管が実用化されれば、これらの体の別の部位の血管を使った手術は意義を失うだろうと冷静に語る。


バチカン病院で勤務

須磨さんは心臓外科の名医として日本の心臓外科のトップ三井記念病院から招かれて循環器外科科長に就任する。そして次はローマ・カトリック大学付属のジェメリ病院から客員教授として招かれ、三井記念病院に籍を置いたまま、ローマに赴任する。

ジェメリ病院はベッド数2,000。イタリア最大の私立大学病院で、ローマ法王はじめバチカンの要人が病気になったら、必ずここに入院する。ローマ法王の外遊の際には、ここの大学教授が同行するのが”バチカン病院”として知られるゆえんだ。

数年ローマで生活し、ローマ永住を考えていた須磨さんは1995年にバチスタ手術を知る。当時日本では脳死が認められていなかったので、心臓移植は不可能だった。日本がバチスタ手術を最も必要とする国だと須磨さんは考えた。


日本に帰国してバチスタ手術を執刀

帰国した理由は、「犬のせいでしょうか」だと。須磨さん夫妻は子供がなく、愛犬が病気になった時に、イタリア語で自分の思いを伝えられないことにフラストレーションを覚え、自分の病院での患者の対応も、コミュニケーション力ができないと、十分な医療が行えないことに気づいたのだという。

日本にはバチスタ手術とミッド・キャブ手術を持ち帰った。モナコ・ハートセンターというわずか38床ながら、年間7−800例の心臓外科手術を行う有名な施設を日本にもつくろうということで、徳洲会グループの徳田虎雄さんの支援を得て病院つくりをする。

1996年湘南鎌倉総合病院で、新しい病院建設プロジェクトを手掛けるほか、日本で初めてのバチスタ手術を行った。厚生省の健康保険の対象にもなっていない段階だったが、徳田会長が費用は病院が持つと支援したからこそ実現したバチスタ手術だった。

日本初のバチスタ手術には、イタリアでバチスタ手術を行ったイタリア人の親友・カラフィオーレ教授、アメリカで初めてバチスタ手術を行ったバッファロー大学のサレルノ教授、UCLAの心筋保護の世界ナンバーワン、バックバーグ教授の3人が助っ人で来日してくれた。

手術は成功したが、患者は肺炎を起こして12日後に亡くなった。精根尽きていた須磨さんに、亡くなった患者の妻から手紙が届く。元々何の希望もないなかで、この手術を受けることになり患者は元気になっており、少なくとも手術後は心臓は元気だった。患者に希望を与えるこの手術を辞めないでくれ。

海外でのバチスタ手術の成功率は6-7割で、現在バチスタ手術が生き残っているのは日本だけだという。須磨さんは、心臓を切り取るのではなく、悪い部分を切除して切りあわせるという栽縮する形に変え、成功率は90%を超えた。この術式は、いまは「SAVE手術」別名「スマ手術」と呼ばれている。


葉山ハートセンター設立

葉山ハートセンターは2000年からスタートした。初年度で400例の心臓手術を行い、平均一日2例の手術を行った。2001年NHKのプロジェクトXでバチスタ手術が紹介されたことも、追い風となった。



葉山ハートセンターが軌道にのったのち、2008年に須磨さんは心臓血管研究所に転職した。循環器内科のプロと心臓外科のコラボレーションを狙ったのだ。

須磨さんは現在日本冠動脈外科学会の会長をつとめる傍ら、手術もおこなっている。外科医はアスリートなので、チャレンジング・スピリットがなくなったら終わりだと語る。


本職が医者(元々は外科医)のベストセラー作家が書くと、こうまで面白い物語になるのかと感心する。最近、文庫本になって買いやすくなったので、是非おすすめしたい作品である。


参考になれば次クリックお願いします。






プロ野球重大事件 ノムさんの暴露本

プロ野球重大事件    誰も知らない”あの真相” (角川oneテーマ21)プロ野球重大事件 誰も知らない”あの真相” (角川oneテーマ21)
著者:野村 克也
角川書店(角川グループパブリッシング)(2012-02-10)
販売元:Amazon.co.jp
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野村克也楽天名誉監督のぶちまけ話。

巨人軍の元GM清武さんが、ナベツネとケンカして辞めて以来、清武さんがメディアに各種情報をリークしていると巨人軍関係者から非難されている。今日も清武さんが巨人軍などに名誉棄損で1千万円の損害賠償訴訟を起こしたと発表している。

清武の乱は、巨人軍のお家騒動ととらえられているが、本質にはプロ野球のあり方についての大きな問題をはらんでいるとノムさんは語る。


オーナーとは何者なのか?

清武の乱、落合の解任、ナベツネが難色を示し、楽天が反対して難産だった横浜DeNAの誕生。これらはすべて「オーナーとは何者なのか?」という問題を提起したのだと。

落合は、就任一年目でリーグ優勝し、8年間でリーグ優勝4回、日本一1回、一度もAクラスから転落したことがないという実績を上げた。しかし、推定3億7千万円という高い年俸と、好成績ゆえに選手の年俸上昇により球団は黒字になったことがないというお家の事情から、シーズン中に落合の解任は発表された。

優勝でもされたらクビを切りにくくなるからという理由だろう。

後任監督が立浪でなく、70歳の高木守道というのも財政事情のためだということを物語っている。

DeNAベイスターズ誕生の際にも、巨人のナベツネが「モバゲー」を球団名につけることに反対し、楽天の三木谷会長は、DeNAの経営の健全性がないことを理由にTBSによる球団売却に執拗に反対した。

ノムさんは、三木谷さんが反対したのは、2005年にTBS株の買収に失敗したことと、DeNAの創業者との間に個人的にいざこざがあったことが原因になっているらしいと語る。

ちなみにDeNAの中畑監督についてノムさんは、現代野球に不可欠の理論性、緻密さ、データの活用といった要素からは(あくまでイメージだが)最も遠いところにいると評している。

たしかにそうかもしれないが、DeNAは知名度を上げ、マスコミから注目されるために、中畑監督を欲しがっていたのであり、別に成績を上げようなどとは思っていないと思う。

筆者は今年、横浜ファンを引退したから冷静に言えるのだが、その意味では中畑監督は正解だと思う。


野球は文化的公共財

どのオーナーも加藤良三コミッショナーの「野球は文化的公共財である」という重みを全く理解していない。オーナーは監督の最大の敵なのだと。

楽天の三木谷会長や、島田オーナーは、「成績が悪ければ解雇される。成績が向上すれば続投する」という球界の不文律を無視して、楽天監督4年目に2位にまで引き上げたノムさんを解雇した。ノムさんはよっぽど頭にきたようだ。三木谷さんも島田さんも球場に足を運ぶことはほとんどなかったという。

ちなみに三木谷さんもこの本を読んだのかもしれないが、急に楽天のオーナー復帰を発表している

そんなノムさんが絶賛するのが、ソフトバンクの孫さんだ。楽天がクライマックスシリーズに進出したときに、面識もないソフトバンクの孫さんから激励のメッセージをもらったという。

「真の人格者とは、こういうものなのか」と孫オーナーのもとで監督を務めることができた王貞治をうらやましく思ったという。

昨年ソフトバンクが日本一になった時には、ホークスの選手は孫オーナーを胴上げし、孫さんはビールかけにも嬉々として参加した。

ノムさんはヤクルト監督就任の際にも、オーナーのサポートがあったことを語っている。


暴露話あれこれ

杉内が巨人に移籍した原因は、ソフトバンクの編成を取り仕切っている小林至取締役の心無いひと言が原因だったという。「きみがFAになっても、必要とする球団はない」。

小林取締役は東大野球部出身のプロ選手だが、プロでは一軍登板を果たせず、引退後は渡米としてMBAを取り、スポーツビジネスに携わった。その後、ソフトバンクの取締役に就任し、杉内事件の責任を取り、編成部からはずれた。

暴露の第一弾は、長嶋と杉浦に当時の南海球団は、月額2万円の小遣いを卒業まで支給していたことだ。南海には立大の先輩の大沢啓二さんがいて、長嶋と杉浦に「おまえらも南海に来い」、「わかりました」という具合だったという。

大卒の初任給が1万5千円の時代の2万円なので、ちょっとした金だったが、南海は長嶋の契約金からいままで払っていた小遣いを減額すると申し渡して、当時1,800万円という巨額の契約金を提示した巨人に長嶋をさらわれた。

契約金の前渡しとは思っていなかった長嶋はいっぺんで南海に幻滅したらしい。長嶋は大沢さんに土下座して謝ったという。


巨人と試合する時は、敵は10人

「巨人と試合する時は、敵は10人だと思え」といろいろな人に言われたが、1961年の日本シリーズで、セリーグ出身の円城寺審判が、スタンカのストライクをボールと判定、「ふつうならストライクだが、風があったので沈んだ。それでボールだ」と。

これでスタンカは気落ちして、結局南海は日本シリーズで敗退した。ノムさんは「円城寺 あれがボールか 秋の空」という川柳をつくったという。

スタンカは、さよならヒットを浴びたとき、本塁のバックアップに入るとみせかけて、円城寺主審に体当たり、ほかの選手やコーチも暴行を加えたという。

日本初のスコアラーは、鶴岡監督時代の南海の尾張スコアラーだという。元新聞記者の人で、7色の鉛筆をつかって、敵と味方の特徴をメモにしていったという。後に西武の根本さんに乞われて広岡監督のもとでデータ野球に貢献したという。


サッチーの武勇伝

ノムさんが1977年に南海の監督を解任されたのは、女性問題、つまりサッチーのためだという。前妻との離婚調停中に、サッチーと同棲していたことが問題視され、南海のオーナーと後援会長のトップ会談が行われて決まった。

後援会長の比叡山の僧侶からは、トップ会談の前に「野球を取るか、女を取るか、ここで決断せい」と言われて、「女を取ります」と即答して席を立ったという。

車で待っていたサッチーが話を聞いて、寺に乗り込み、「野村を守るのが後援会長たるあんたの立場でしょ!野球ができなくなるとはどういうことよ!」と坊さんに向かって啖呵をきったら、剣幕におののいた坊さんは受話器を取り上げて「警察を呼ぶぞ」と言ったという。

ノムさんは坊さんに幻滅するとともに、サッチーに「この女はただものではないな」とあらためて思ったのだと。

今はTBSの関口博のサンデーモーニングに出ている張本さんは、今はご意見番みたいにいわれているが、「張本くらいチームを私物化した選手もいないだろう」とこき下ろしている。

ツーアウト・ランナー一塁で、ランナーに「走るな。じっとしとれ」と言って、ランナーを走らさずにヒットが出やすくさせたという。バッティングにしか興味がなく、肩も弱く、フライは追いかけるふりをするけど、本気で球を追うことはしないというありさまだったと。

そのほか、球界のケチの話。長嶋一茂、息子カツノリの話なども面白い。この本はアマゾンのなか見!検索に対応しているので、ここをクリックして、目次を見て、どんな内容なのかチェックしてほしい。

ノムさんは、もう監督はやらないつもりのようだ。他人の迷惑も考えず、言いたい放題だ。読者としては楽しめる本である。


参考になれば次クリックお願いします。




刑務所なう。 ホリエモンの獄中記半年分

刑務所なう。刑務所なう。
著者:堀江 貴文
文藝春秋(2012-03-15)
販売元:Amazon.co.jp
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ホリエモンの獄中日記。

別ブログの初期ではホリエモンの本を何冊か紹介したが、その後ライブドア事件と有罪判決が起こり、ホリエモンは忘れ去られつつあった。別ブログでもホリエモンカテゴリーは整理しようかと思っていたところだ。

2011年4月にホリエモンの実刑(懲役2年6ヶ月)が最高裁で確定し、2011年6月20日に東京拘置所に収監され、6月27日に長野刑務所(A級犯:初犯から懲役8年までの囚人)に移送された。

この本では6月20日から12月31日までの毎日3食の食事献立と、毎日の生活、新聞、ラジオ、映画、本などの感想を書いている。

ホリエモンは、獄中からもブログ(六本木で働いていた元社長のブログ)やツイッターメルマガを書いており、この本はそれらの投稿や獄中記を集めたものだ。

同じ東京拘置所経験者の佐藤優さんは「週刊東洋経済」の「知の技法・出世の作法」という連載で、ホリエモンのことを”自らの未来の夢を描き、それを実現するために実力をつけて、努力によって夢を実現するタイプの人=「工作人」の典型”と呼んでいるが、その意味ではこの獄中からの情報発信もユニークだ。

ホリエモンの住んでいる部屋の様子は、この本の表紙の反対側に載っている。

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出典:本書表表紙見返し

上の絵にはテレビがあるが、実際には長野刑務所に移ってから、しばらくしてテレビが入ったのだという。東京拘置所の畳はプラスティックの人造畳だが、長野刑務所の畳は天然畳で、気分が全然違うという。

普通は雑居房より、独居房の方が良いのではないかと思うが、ホリエモンは最初のうちは早く他人と話せる雑居房に移りたいと、一時はうつ状態のようになったという。

しかしこの本の最後の12月末になったら、最初に言われた「共同室より単独室の方が良いですよ。いずれ慣れますから。」という意味がわかってきたという。

佐藤優さんの「国家の罠」には、独居房にいてうつ状態になったという話はなかった。

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)
著者:佐藤 優
新潮社(2007-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ホリエモンの精神状態がよくわからないところだ。

この本のところどころにホリエモンの刑務所生活を示すこんなマンガが載っている。

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出典:本書222〜223ページ

長野刑務所は全国でもトップ3に入るメシのうまい刑務所だそうだ。ただ独居房には暖房がないので、住環境としては北海道の刑務所の方が、冬は暖房があるので、快適だろうということだ。

毎日400円程度で、よくこれだけ工夫して献立を作っていると思わせる苦心の献立が毎日並び、元日などは記念食のようなものもでる。

このあたりは東京拘置所での食生活をレポートしていた佐藤優さんの本に通じるところがある。

結局ほぼ半年で体重は95.7KGから72.4KGに23キロも減り、だいぶスマートになったはずだ。

シャバでは、贅沢な暮らしをしてたぶん毎日飲み歩いていたホリエモンなので、禁酒と、いわばプロテインダイエット(おかずは食べるが麦飯の量は減らす)、適度な運動を続けると、これだけ体重が落ちるという実験レポートのようだ。

食べたいと思っていた念願のカップ麺(カップそば)が12月31日に年越しそばとして出てきて、これを食べたら胃が小さくなっていて全部食べられなかった話がでてくる。麦飯の量を減らして胃を小さくしたのが、ダイエット成功の最大の要因だと思う。

全部で500ページほどある本の中身については、詳しく紹介しない。

ところどころ出てくる、AKBのプロデューサーの秋元康さんが大王製紙の井川会長と同じくらいカジノにハマっているとか、鈴木亜美がフライデーされた相手も知っているとか、ネタバラシのたぐいの話や、宇宙開発が半分くらいの「時事ネタ評論」を除いては、あまり印象に残る話はない。

さすがに刑務所に収監されていれば、当然のことながら情報量は激減する。やむを得ないところだろう。

本屋でパラパラ立ち読みするか、図書館で借りて読むことをおすすめする。


参考になれば次クリックお願いします。




10年後に食える仕事 食えない仕事 「フラット化する世界」の日本版

10年後に食える仕事、食えない仕事10年後に食える仕事、食えない仕事
著者:渡邉 正裕
東洋経済新報社(2012-02-03)
販売元:Amazon.co.jp
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日経新聞の記者、IBMコンサルタントを経て、インターネットニュースMyNewsJapan.comを立ち上げた渡邉正裕さんの本。渡邉さんは1972年生まれ、慶應SFC出身だ。ブログもある

この本は東洋経済新報から出しているので、「週刊東洋経済」でも特集されている。

週刊 東洋経済 2011年 8/27号 [雑誌]週刊 東洋経済 2011年 8/27号 [雑誌]
東洋経済新報社(2011-08-22)
販売元:Amazon.co.jp
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図書館で借りて読んだ。図書館の蔵書3冊に対して予約が70件と、依然として人気のようだ。

内容は、このブログで紹介したトム・フリードマンの「フラット化する世界」を日本にあてはめたものだ。

フラット化する世界〔普及版〕上フラット化する世界〔普及版〕上
著者:トーマス・フリードマン
日本経済新聞出版社(2010-07-21)
販売元:Amazon.co.jp
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この本の最初にグローバル化時代の職業マトリクスが載っている。

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出典:本書4ページ

縦軸がスキルタイプ(技能集約的か知識集約的か)、横軸が日本人メリットで、それぞれの説明は次の通りだ。
1.重力の世界    : グローバルな最低賃金に収斂していく職業
2.無国籍ジャングル : 能力さえあれば世界のトップと競える職業
3.ジャパンプレミアム: 日本人でないとこなすことが難しい職業
4.グローカル    : 日本人の強みを生かしつつ、さらに付加価値をつけた職業

1.の重力の世界は、このブログで紹介した「ブルー・オーシャン戦略」の用語でいうと「レッド・オーシャン」で、赤がついている。世界最低賃金国との血みどろの競争を余儀なくされる職業だ。3.と4.は競争の少ない「ブルー・オーシャン」なので、青がついている。

具体的には次のような職業となる。

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出典: 本書57ページ

この本には「エリア判定チャート」がついているので、質問のYES/NOをたどっていくと、自分の仕事がどのカテゴリーか判定できるようになっている。

それぞれの領域の仕事の現状の割合は次の通りだ。全体の7割以上が重力の世界。世界に打って出られる無国籍ジャングルは3%、グローカルは5.5%と少ない。

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出典: 本書195ページ

読んだときに興ざめなので、詳しくは紹介しないが、それぞれのカテゴリーの代表的職業の特徴と日本における価値、世界におけるポジションがわかりやすく記述してあり、非常にわかりやすい。


中国にはサービスという概念がない

中国で「サロンde千華」という美容サロンを経営する村上千賀子さんの話が興味深い。

「この国にはサービスという概念がないから、美容院でスタッフが客とケンカして、すぐに暴れるの。
中国客は『私を綺麗にして』といきなり言って、セットが終わって気にくわないと全部崩してしまってやりなおし。それでも日本人にやってもらうのは、ステイタスなので、また来ます。
『ありがとうございます』とにこやかに帰って、二度と来ないのが日本人」

日本人は客としても厳しいのだ。

丁寧さと勤勉さは日本人ならでは。中国人はきめ細かな仕事が苦手で、すぐに「差不多(チャブドゥ=だいたいおなじ)」と言う。中国人にみそ汁の味を教えても、3日しか持たないという寿司職人の話もある。

これに似た話は、実は日本でも聞いたことがある。筆者の行きつけの中国料理屋は、何カ所も支店があるが、麻婆豆腐はどうしても本店と同じ物ができないという。教えても、中国人コックは自己流で変えてしまうのだと。


ITコンサルタントやSEは土着職業

EC(eコーマース)におけるITコンサルタントやSE(システムエンジニア)は土着職業だとして、楽天のビジネスを例に挙げている。

楽天には2011年秋の時点で約1000名の技術者が在籍している。三木谷社長は、社内公用語を英語とし、日本のベストプラクティスを海外で展開していく計画だが、中国で百度との合弁の「楽酷天」は結局撤退した。

中国の利用者は、気に入った商品を押さえて、チャット機能で価格交渉し、代金引換で受け取る。だから、サイトで売り上げが立っても、資金が回収できない「とりっぱぐれ」が続出した。

日本の感覚で作ったサイトは、全然ウケず、ユーザビリティも日中で違うことが分かった。

つまり日本のベストプラクティスは、日本の商習慣やカルチャーを共有していないマーケットでは通用しないという当然ともいえる結果になった。

プロジェクトマネージャーやSEが日本人だったので、日本の感覚を持ち込んで失敗したのだと。

楽天では2011年10月に35名の外国人新卒社員を採用した。2012年は60人に増やす計画という。日本で楽天のカルチャーを身につけてから、母国に帰ってサービスを指揮するのだ。比率は中国:インド:その他=4:4:2だという。

別ブログで紹介した「内定とれない東大生」の編集者は、就活2勝58敗!の、扶桑社に勤める桜蔭・東大教養学部出身の女性だ。

内定とれない東大生 〜「新」学歴社会の就活ぶっちゃけ話 (扶桑社新書)内定とれない東大生 〜「新」学歴社会の就活ぶっちゃけ話 (扶桑社新書)
著者:東大就職研究所
扶桑社(2012-03-01)
販売元:Amazon.co.jp
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「ドラゴン桜」の中では「人生のプラチナ・チケット」と言われた東大生でも就活に苦労している時代である。

ドラゴン桜(1) (モーニングKC (909))ドラゴン桜(1) (モーニングKC (909))
著者:三田 紀房
講談社(2003-10-22)
販売元:Amazon.co.jp
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この本を参考にして「ジャパン・プレミアム」や「グローカル」な職業を目指せ!というのは、就活生には難しい注文かもしれないが、別ブログで紹介した海老原嗣生(つぐお)さんの「就職に強い大学・学部」も参考にして、是非ブルーオーシャンを目指して欲しい。

偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 (朝日新書)偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部 (朝日新書)
著者:海老原 嗣生
朝日新聞出版(2012-03-13)
販売元:Amazon.co.jp
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ちなみに筆者は、「品質管理」、「教育(コンサル型)」の仕事をしている。現在は「グローカル」だが、「品質管理」の国際規格化とともに、「無国籍ジャングル」にも進出できるかもしれない。

これもユニクロの「匠」のように、日本人の熟練者の役割として残る仕事だという。


ネット系のメディを本職としているだけあって図を多く用いて、ビジュアルでわかりやすい。

この本を読んだからといって、すぐに就活に役立てられる学生は少ないと思うが、読んでおいて得になる本である。


参考になれば次クリックお願いします。






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