時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2012年01月

采配 監督・落合博満が初めて明かした采配の秘密

+++今回のあらすじは長いです+++

采配采配
著者:落合博満
ダイヤモンド社(2011-11-17)
販売元:Amazon.co.jp
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落合博満前中日監督が2011年の日本シリーズ中に出版した本。この本は監督・落合博満が書いた最初の本で、現在アマゾンで売り上げランキング20位前後と、ベストセラーになっている。筆者が読んでから買った数少ない本の一つだ。

落合は参考になる本を何冊も出しているので、このブログでも紹介しているが、中日の監督に就任してからは本は一切出していない。レポーターが書いた「落合戦記」という本はあるが、これは落合が書いた本ではない。

落合戦記―日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」落合戦記―日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」
著者:横尾 弘一
ダイヤモンド社(2004-11)
販売元:Amazon.co.jp
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「落合戦記」は絶版になっており、中古本がプレミアム付きで売られている。このブログで紹介した「超野球学1・2」も、いずれも中古本がプレミアムがついている。
落合博満の超野球学〈1〉バッティングの理屈落合博満の超野球学〈1〉バッティングの理屈
著者:落合 博満
ベースボールマガジン社(2003-05)
販売元:Amazon.co.jp
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落合博満の超野球学〈2〉続・バッティングの理屈落合博満の超野球学〈2〉続・バッティングの理屈
著者:落合 博満
ベースボールマガジン社(2004-03)
販売元:Amazon.co.jp
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落合は監督退任表明後、いくつものテレビ番組の取材に応じているので、YouTubeに次の対談など、いくつかアップされている。それぞれ面白いので、時間があればチェックしてみてほしい。




勝つための66の言葉

この本では落合が勝つための66の言葉として、次の6章にわけて述べている。

1章 「自分で育つ人」になる
2章 勝つということ
3章 どうやって才能を育て、伸ばすのか
4章 本物のリーダーとは
5章 常勝チームの作り方
6章 次世代リーダーの見つけ方、育て方

アマゾンの「なか見!”検索」に対応しているので、ここをクリックして目次を見てほしい。それぞれの章に10前後の言葉があり、大体の感じがわかると思う。


「オレ流」はない

落合の采配はマスコミに「オレ流」とレッテルを貼られているが、この本で「オレ流はない。すべては堂々たる模倣である。」と語っている。

自分がいいと思うものを模倣し、反復練習で自分の形にしていくのが技術であり、模倣は一流選手になるための第一歩だ。ピアニストも画家も同じ。大事なのは誰が最初に行ったかではなく、誰がその方法で成功を収めたかだ。

「オレ流」として、いままで議論を読んできた落合采配の「謎」をこの本で自ら解説していて、大変面白い。そのいくつかを紹介しておこう。


補強なしに現有戦力で優勝する

落合采配の最初の謎は中日の監督に就任した時に、「誰一人クビにしない。目立つ補強もせず、現有戦力を10〜15%アップさせて優勝する」と宣言したことだ。巨人などのカネにまかせて他球団のエースや4番打者ばかり集めてくるチームには、イヤミに聞こえる発言だろう。

これを落合が実行した理由は、最初に部下に方法論を示し、「やればできるんだ」という自信をつけさせるためだという。

「あの人の言う通りにやれば、できる確率は高くなる」と、上司の方法論を受け入れるようになれば、組織の歯車は目指す方向にしっかりと回っていく。そして有言実行で就任一年目でリーグ優勝した。

しかし、2004年のシーズンが終わった後、18人の選手がドラゴンズのユニフォームを脱いだ。積極的な補強をしなければ、2005年は戦えないと判断したからだ。

ドラゴンズのユニフォームを脱ぐ選手には、ドラゴンズでは競争に負けたが、ほかの球団では通用する実力をつけさせたいと落合は語る。事実、2005年戦力外通告を受けた鉄平は楽天に行って、パリーグの首位打者になった。ドラゴンズの厳しい練習が間違っていなかった証拠だと落合は語る。


2月1日紅白戦の謎

「2月1日に紅白戦をやる。春のキャンプでは初めから1軍も2軍もない。キャンプの間に見させてもらう」。

「全員一からポジションを争ってもらいます」というのは、敵を欺くにはまず味方を欺けという戦法だ。

2001年に発刊した「コーチング」の中で、落合はコーチングの基本を「教えない。ただ見ているだけでいい」と定義した。

コーチング―言葉と信念の魔術コーチング―言葉と信念の魔術
著者:落合 博満
ダイヤモンド社(2001-09)
販売元:Amazon.co.jp
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実際に監督になって、「見ているだけのコーチング」が基本となることは確認できたが、それと同時に「最低限、教えておかなければならないこと」があることに気づいたという。それは、「自分を大成させてくれるのは自分しかいない」ということであり、選手の自覚を促す方法が2月1日の紅白戦だった。

プロ野球選手の契約では12月1日から1月31日までの2か月はポスト・シーズンと呼ばれ、球団に拘束されない期間だ。監督やコーチが練習させたくとも、できない。

「2月1日の紅白戦」という監督のメッセージを受け止め、選手は考える。「自分自身で自分の野球を考える」習慣を植え付け、それができる選手がレギュラーの座を手にするのだ。

落合が2月1日紅白戦と宣言したことで、メディアや評論家がキャンプを訪れ、高齢でめったに現場に足を運ぶことはないと言われていた川上哲治さんをはじめ、広岡達郎さん、関根潤三さんなどの監督経験者も2時間以上続くノック練習を楽しそうに見ていたという。落合も1999年から5年間の評論家時代は12球団のキャンプ地すべてに足を運んだ。「プロだからこそ見なければわからない」のだと。

なかにはキャンプを見もしないで「初日から紅白戦なんて意味がない」と批判する評論家もいた。2004年、中日がリーグ優勝したことで、足を運んだ評論家の多くは「厳しい練習が実を結んだ」と評価し、足を運ばなかった評論家はだまっているしかなかったという


6勤・1休の厳しい練習

他の球団は4勤・1休が多いだろうが、中日のキャンプは6勤・1休だ。それだけで中日のキャンプの厳しさがわかる。しかし、6勤・1休は昔はどの球団でも同じだったという。「オレ流」ではないのだと。

落合は「休みたければユニフォームを脱げばいい。誰にも文句を言われずにゆっくり休めるぞ」と言う。「一年でも長くユニフォームを着ていたいのなら、休むということは考えちゃいけないよ。」というのが本音のメッセージだ。

不安だから練習する。練習するから成長する。「心技体」ではなく、体をつくる練習が先に来る「体技心」だと。これが成長のサイクルだ。

春季キャンプでは、全体練習を終えた後、落合自身がサブ・グラウンドでノックして守備練習する。守備練習は強制ではなく、ノックを受けたいと思った選手がコーチに申告し、落合がノッカーに指名される。1,2時間は当たり前、どちらがギブアップするかまで続けられる。

「これ以上続けたら体が壊れてしまうと感じたら、グラブを外してグラウンドに置く」ということだけがルールだ。

落合の中日監督時代に生え抜きからレギュラーになったのは森野将彦ただ一人だ。その森野は「終わる時間は自分で決めなさい」と言うと、いつも最後までグラウンドにいたという。

ノックでも、落合がもう限界なのではないかと思ったが、グラブを外さないので、続けたら、突然バタッと倒れて救急車を呼びそうになったことがあるという。グラブを外したくとも手が腫れ上がって外れなかったのだと。

そうまでにして自分の限界まで追い込んでポジションを奪い取った。だから「自分から練習に打ち込んでいる間は、オーバーワークだと感じても絶対にストップをかけるな」というのが落合のルールだ。

コーチにも「どんなに遅くなっても、選手より先に帰るなよ。最後まで選手を見てやれよ」と言っていたという。選手の指導については次の2点を徹底してきた。

1.絶対に押し付けてはならない
2.鉄拳制裁の禁止

厳しい競争は自然にチームを活性化させる。だから選手たちが自己成長できるような環境を整え、そのプロセスをしっかり見ていることが指導者の役割なのだ。


3年間一軍登板ゼロの川崎憲次郎を開幕投手に

落合が監督に就任した2004年のシーズンでは、沢村賞投手ながら、ヤクルトから移籍して肩を痛め、3年間一軍登板ゼロの川崎憲次郎を開幕投手として登板させた。落合は投手起用については森繁和コーチに全面的に任せており、これが落合が先発投手を決めた唯一のケースだという。

川崎ほどの実績のある投手が故障で宝の持ち腐れとなっていたので、本人の復帰を後押しするつもりで、開幕投手に指名し、具体的目標を与えたのだ。

川崎は2回で5失点してマウンドを降りたが、ドラゴンズ打線はコツコツ反撃して、最後は8対6で広島に勝った。

復帰を目指して川崎が必死で努力する姿をチーム全員が見て、川崎に勝たせようと全員が動くことでチームとはどういうものなのかを実感させた。大きなリスクを覚悟した落合の監督として最初の采配は成功だったのではないかと。

川崎はこの年もう一試合先発登板したが、ワンアウトも取れず4失点で降板し、その年に現役を引退した。しかし新監督がチームとしてのまとまりをつくる方法としては、落合のいうように成功だったと言えると思う。


2007年日本シリーズ第5戦の「山井の幻の完全試合」

落合の采配で最も議論を読んだのが、2007年の日本ハムとの日本シリーズ第5戦で、8回まで完全試合を続けていた山井を9回に岩瀬に交代させた采配だ。



落合は自分の采配を正しかったか、間違っていたかという物差しで考えたことはないという。「あの時点で最善といえる判断をしたか」が唯一の尺度だ。

落合・中日の日本シリーズの成績は2004年対西武3勝4敗、2006年対日本ハム1勝4敗だった、2007年はリーグ優勝できなかったが、クライマックスシリーズで勝ち上がり、またもや日本ハムとの日本シリーズとなった。

なんとしても勝ちたい中日は3勝1敗で名古屋で第5戦を迎えた。山井は完全試合を続けていたが、4回から右手のマメが破れ血が噴き出していた。8回で1:0でリードしていて、9回の守りをどうするか考えているときに、森繁和コーチが「山井がもう投げられないと言っています」と言いに来た。

落合は即座に「岩瀬で行こう」と決断した。岩瀬はプレッシャーのかかるなかで、3者凡退に打ち取り、ドラゴンズは53年ぶりに日本一になった。

落合も山井の完全試合を見たかったが、その時点でのリードは1点しかなく、監督としてはどうしても53年ぶりにドラゴンズを優勝させたかった。この采配は53年ぶりの優勝という重い扉を開くための最善の策だったという。

ドラゴンズが日本一になったという事実だけが残る。その瞬間に最善と思える決断をするしかない。それがブレてはいけないのだと。


「勝利の方程式」よりも「勝負の方程式」

この本で落合は、「負けない努力が勝ちにつながる」と語っている。これが落合野球の真髄だと思う。落合は投手力を中心とした守りの安定感で勝利を目指す戦いを続けてきた。監督が投手出身か打者出身かは関係ない。これが勝つための選択なのだと。

試合は「1点を守り抜くか、相手をゼロにすれば負けない」。そしてチームスポーツでは「仕事をした」と言えるのは、チームが勝った時だけである。たとえ10点失っても勝った投手は仕事をしている。0対1で完投負けした投手は、厳しいようだが、仕事をしていないのだ。

勝利をひきよせるための手順=「勝負の方程式」はあるが、こうすれば絶対に勝てるという「勝利の方程式」はない。

落合は現役時代に「勝負の方程式」という本を書いている。

勝負の方程式勝負の方程式
著者:落合 博満
小学館(1994-06)
販売元:Amazon.co.jp
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「こうすれば相手は嫌がる」、「こんな取り組みをして失敗した」という様に勝負を少しでも優位に戦うための原則論をまとめたものだという。

ドラゴンズでは勝ち試合は8回に浅尾、9回に岩瀬を送って白星をつかむケースが多いので「勝利の方程式」と呼ばれている。

岩瀬の代わりに浅尾をストッパーに起用すると、「岩瀬に何かあったのか」とか「ストッパーを岩瀬から浅尾に代えるのか」と騒ぎ立てられるが、落合はあくまで勝利に近づくための最善策としかとらえておらず、岩瀬や浅尾に対する信頼感とは別次元の問題だという。

この本で落合は「岩瀬を出せば勝てる」と思ったことは一度もないと語る。勝負には何があるかわからない。だから岩瀬が打たれて負けた試合の落合のコメントは、「岩瀬で負けたら仕方がない。岩瀬だって打たれることはある」というものだ。

これに対して「勝利の方程式」を信じている監督は「まさか、あの場面で岩瀬が打たれるとは…」と言うだろう。

落合は日本一を目指して戦うなら「まさか」で黒星を喫したくない。勝負に絶対はないが、「勝負の方程式」を駆使して最善の策を講じていけば、仮に負けても次に勝つ道筋が見えるのだと。


なぜ落合は2009年WBCの監督就任要請を断ったか

落合は2009年WBC監督就任要請を断り、原辰徳監督が監督に就任するとドラゴンズの選手が全員代表入りを辞退したことが大きな批判を浴びた。

落合は中日ドラゴンズと契約しており、その契約には「チームを優勝させるために全力を尽くす」という条項がある。3月はペナントレース前のオープン戦の時期で、そんな時期に「契約している仕事」を勝手に放りだすわけにはいかないのだ。

現役監督に全日本の監督を任せたいのであれば、日本野球機構とオーナー会が決めて、中日のオーナーから落合が命令を受ければ、断る理由はない。筋を通せばよいのだ。しかし日本の社会には「国のため」とかいう大義名分があると、契約をあいまいにして物事を決めようとする悪い部分があるという。

ましてや出場を辞退した選手に理由を明かさせるのは大問題だ。選手は球団と契約している個人事業主であり、選手のコンディションは「企業秘密」なのだ。

プロ野球は契約社会でありながら、肝心な場面で契約が二の次に考えられることに落合は違和感を覚えるという。「自分はどこと契約しているのか」、「自分の仕事はなんなのか」を優先しなければならない。

この本で明かしているが、岩瀬は2004年と2008年のオリンピックに自ら参加した。しかし、北京オリンピックでメダルを逃して帰国すると脅迫電話やヤジに悩まされ、「もう国際大会は勘弁してください」と言ってきたという。監督として「日の丸を背負えるのだから行って来い」とは口が裂けても言えないのだと。

大変参考になる本だが、詳しく紹介しているとあらすじが長くなりすぎるので、要点を、1.落合流強いチームの作り方、2.落合の企業秘密、3.落合の指導法に整理して簡単に紹介しておく。


1.落合流強いチームの作り方

★任せるところは1ミリも残さず任せきる/人脈や派閥のような感覚でコーチを起用しない
落合が先発投手を自分で決めたのは、上記の川崎憲次郎の開幕投手だけだった。それ以外はすべて森繁和コーチが決めた。森コーチの采配にすべての責任を負うのが監督の仕事だという。

現役時代に仕えた監督を見てきて「なんでも自分でやらなければならない監督ほど失敗する」と感じていたという。だから投手に関することは森コーチに任せられると思うと、全面的に任せ、落合自身は先発投手が誰になるのかも直前まで知らなかったという。

森コーチは駒澤大学のエースとして活躍し、社会人の住友金属経由、西武に入団。黄金時代の西武でプレーして、現役引退後もすぐにコーチとなり、西武、日本ハム、横浜で投手コーチを務め、一年たりともユニフォームを脱いだ年がなかった。現場が必要としている人材なのだ。

そうはいっても落合と森コーチの接点は、アマチュア時代の世界選手権でチームメートになったくらいで、決して親しい仲間だったわけではない。

野球の世界に限らず、一般社会でも気心しれたヤツだけを自分の周りに置きたがる人がいる。落合は名前は出していないが、典型的な例が北京オリンピックの星野ジャパンの星野・山本浩二・田淵幸一トリオだろう。

落合は仕事は一枚の絵を描くようなものだと言う。自分の持っている色だけではなく、自分とは違う色を持っている人を使う勇気が絵の完成度を高めてくれると語る。


★「いつもと違う」にどれだけ気づけるか
さすが落合と思わせるのがこのポイントだ。2010年4月の名古屋ドームの試合で落合は試合が始まってすぐ主審が体調を崩していることに気づいた。タイムをかけて、主審に声をかけたが、大丈夫というので続けると、次の回で立っていられなくなり、予備審判と交代した。

「監督、よくそんなところまで見ていましたね」と言われたという。

落合はいつもダグアウトの同じ場所に腰掛け。試合の流れを追いながら、視野に飛び込んでくる様々な光景について次のようなことをあれこれ考えている。

「試合の流れが、この間の対戦に似ている。こういう守り方で逃げ切れるかな」

「向こうのベンチの雰囲気が暗い。首脳陣が何か余計なことを言ったんじゃないか」

「三塁手が足をかばいながら動いている。あれはどこか痛めているな」…。

監督の仕事は勝利に結びつく采配をすることで、その際に大事なのはグラウンドの中にある情報をどれだけ感じ取れるかどうかだ。

固定概念を取り除き、普段と違うんじゃないかと感じることができれば、頭がその理由を探ろうと動き出す。落合の長年の勝負師としてのカンが生きている発言である。


★なぜ2009年、2010年と荒木・井端のポジションを変えたのか

落合は12球団で最も安定していた荒木・井端の二遊間コンビを入れ替えた。レギュラークラスの選手から「慣れによる停滞」を取り除かなければならないという考えを二人に話して、「挑戦したい」という意思を確認してうえで、コンバートに踏み切ったのだと。

ドラゴンズの2−3年後を考えると、井端の後釜に据えられる選手が見当たらない。井端の後釜に荒木を据えて2,3年後も安泰にしておきたいという事情があったのだという。

荒木・井端自身もマンネリがあったことを認めている。落合らしい「よく見ている」一例だと思う。


★できる・できない両方がわかるリーダーになれ
落合の真骨頂がこれだ。「毎シーズンAクラスのチームを作ることができた要因は何ですか」と問われたら、落合は「選手時代に下積みを経験し、なおかつトップに立ったこともあるから」とはっきり答えるという。

監督には「名選手、名監督ならず」で、できない選手の気持ちがわからない人がいる。その一方で、現役時代は実績を残せなかったが、早くして指導者になり、コツコツと経験を重ねて、2軍監督やコーチを経験して「できない選手」の気持ちがよく理解できるので、若い選手を育て上げる手腕にたけている人もいる。しかしこのタイプの監督は「できる人の思い」が理解できず、スター選手と無用な衝突を起こしたり、ベテランから若手に切り替えるタイミングを間違うことがある。

落合自身プロに入ったのは「もうけもの」と考え、プロになればすぐクビになっても「元プロ野球選手」になれるので、残った契約金で飲食店でもやろうと考えていたという。「できない人の気持ち」は若いころの自分の気持ちそのものだと。

落合のようにプロに入った時はあまり期待されていなかったが、あとで超一流選手になったという経歴のある監督は、川上哲治さん、野村克也さんがいる。

しかし二人とも野球から一歩も離れず、ずっと真剣に取り組んできたという点で落合とは大きな差があると思う。鉄拳制裁になじめず、秋田工業高校では野球部の入部退部を繰り返し、東洋大学野球部ではケガもあって退部し、大学も中退して、故郷に帰ってプロボウラーを目指していたというキャリアの監督は落合くらいだろう。

川上さん、野村さんの二人とも名監督だが、落合くらい選手の気持ちがわかる監督もいないだろうと思う。


★連戦連勝を目指すより、どこにチャンスを残して負けるか
長嶋監督はファンを愛する人で、試合を見てくれるファンがいるかぎり毎試合勝とうとした。落合は今日は負けても、翌日に戦う力、勝てるチャンスを残すべきではないかという考えだ。

「1敗は1敗でしかない」と割り切ることも大切だ。

いい結果が続いている時でもその理由を分析し、結果が出なくなってきた時の準備をする。負けが続いた時でも、その理由を分析し、次の勝ちにつなげられるような負け方を模索する。

組織を預かる者の真価は、0対10の大敗を喫した次の戦いに問われるのだと。


「ファンが喜ぶ野球ーそれは勝ち続けることなのだと信じて。」
この本、いや落合野球で一番の問題はここだと思う。

「最大のファンサービスは、あくまで試合に勝つことなのだという信念が揺らいでしまったら、チームを指揮する資格はない。」と落合は語る。

そこで、「ファンが喜ぶ野球ーそれは勝ち続けることなのだと信じて。」という言葉が来る。

たしかに球場に来るファンはひいきチームが勝つことが最大の喜びだ。しかし球場まで行くことはめったにないが、ひいきチームはあるという人が圧倒的多数だろう。

野村さんはこのブログで紹介した「あぁ、監督」という本で、落合のサービス精神の欠如について、次のように語っている。

「どうも落合は勘違いしているのではないか。彼はグラウンドで結果を出せばいいと考えているようだが、それだけではプロ野球の監督として失格なのだ。いくら強くても、実際にファンが球場に足を運んでくれなければ、商売は成り立たないのである。

誰のおかげで自分が存在できるのか。ファンあってのプロ野球ということをいま一度考えてもらいたいのである。」

あぁ、監督    ――名将、奇将、珍将 (角川oneテーマ21)あぁ、監督 ――名将、奇将、珍将 (角川oneテーマ21)
著者:野村 克也
角川グループパブリッシング(2009-02-10)
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球場に行ったこともないが、ひいきチームはあるという、いわばサイレントマジョリティのファン、そしてひいきではないが興味はあるので、一度はプレーを見てみたいというファン、そういった人を球場に来てもらえるだけの魅力と話題性を提供するのが本当の一流監督ではないのか?

別に落合がコメディアンになる必要はない。ただ玄人好みでなく、素人好みの路線がプロ野球には必要とされていると思う。その典型が今度横浜の監督に就任する中畑清監督だと思う。

中畑監督はこの本で落合が排しているお友達内閣を組織しつつある様に思える。たぶん横浜は今季もダメだろう。

しかしスポンサーのDNAは別に強い横浜が欲しいわけではない。社名のDNAが広く知れ渡るような話題性のある広告塔が欲しいのだ。最下位でも注目度が上がればそれでよいのだ。

だから今のところ力の衰えが目立つラミちゃん以外は目立った補強をしていない。筆者は、もう付き合えないので、今年限り郷土の球団の横浜ファンから「引退」するが、DNAのやり方はこれはこれでアリだと思う。

筆者は正直、落合が日本で再度監督をやるかどうかはわからないと思っている。野球がオリンピック・スポーツとして復活したら、中国が落合を監督にリクルートする可能性は高いのではないかと思う。

幅広いファンとの折り合い、そしてマスコミの使い方、これが次に落合が日本で監督をやる際には飛躍するための課題となるだろう。


2.落合の企業秘密

落合が45歳まで現役でプレーできた理由で最も大きかったのは、対戦相手が落合という選手の考え方を分析できなかったからだ。野球はメンタルなスポーツという典型例である。

落合の打撃の特徴は、「外角のボールをライトスタンドに放り込んでしまう」ことだと言われてきたが、実は落合自身はその記憶はない。

実際には内角寄りのボールを力負けせずに、押し込むようにライトスタンドに運ぶ技術を持っていたのだが、元プロのスコアラーには内角のボールをライトスタンドまで運べるはずがないとして、コースを真ん中よりに記録してしまう。そんなプロの盲点の積み重ねが「外角球をライトスタンドに放り込む男」という評価なのである。

実際外角のボールに3三振することもあったのに、ライトへのホームランが多いということだけで、「落合は外角に強い」と誤解されてきたから45歳までプレーできたのだと。

これは落合の「企業秘密」だったから、引退するまで決して口外しなかった。これがプロの戦術なのだ。監督となれば、対外的なことだけではなく、自軍のコーチや選手にも読まれてはいけない部分もある。

監督は何をやろうとしているのかをコーチに読まれると、監督にすり寄って、選手を見ないコーチが生まれる。コーチの見るべき方向は監督の顔色ではなく、選手なのだ。

落合は今季中日のユニフォームを脱いだが、プロ野球の監督は引き継ぎは一切しない。しかし、引き継ぎはしないが、次の監督が困らないチームにしておく、それが監督としてやらなければならない仕事なのだと。

最後に落合は「仕事で目立つ成果を上げようとすることと、人生を幸せにいきていこうとすることは、全く別物と考えているのだと語る。一度きりの人生に悔いのない采配を振るべきではないか。

一杯の白飯と穏やかな時間。その中で生きていこうとしているのが、落合博満の「人生の采配」なのだと結んでいる。

大変参考になる本だったので、あらすじも長くなりすぎた。「若手諸君、成長したけりゃ結婚しよう」などの落合の指導法については、つづきを読むに載せたので、興味があれば見ていただきたい。

冒頭で紹介したとおり、筆者が読んでから買った数少ない本の一つだ。一読の価値はあると思う。


参考になれば次クリックお願いします。



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終わらざる夏 千島列島最北端 占守島の戦いをめぐる浅田次郎のファンタジックな小説

終わらざる夏 上終わらざる夏 上
著者:浅田 次郎
集英社(2010-07-05)
販売元:Amazon.co.jp
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終わらざる夏 下終わらざる夏 下
著者:浅田 次郎
集英社(2010-07-05)
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浅田次郎が第2次世界大戦終了3日後後、千島諸島最北端の占守島(しゅむしゅとう)で突如起きた、日本軍守備隊とソ連軍との戦いを取り上げた小説。

上下約1、000ページという大作だ。

占守島の地図がこの本の最後に載っている。

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出典:本書裏表紙

カムチャッカ半島の目と鼻の先で、終戦直後にカムチャッカ半島の砲台から砲撃を受けという。十分に砲弾が届く距離だ。

YouTubeに占守島の戦いのことが載っている。



全編を通じて映画のような構成だ。45歳で突然召集された出版社の英語専門編集者、日中戦争でたびたび戦果を挙げて金鵄勲章を与えられたが、右手には2本しか指が残っていない3度目の召集のトラック運転手・軍曹、医高専出身だが優秀さを買われて東大医学部に派遣されていた間に召集された医師の3人とその家族や仲間のエピソードで全編を構成している。

下巻の最後に占守島の戦いの場面があるが、直接的な描写ではなく、ソ連兵の回想というかたちで描写している。

小説のあらすじは例によって詳しく紹介しない。全体にスクリーンにぼかしが入ったような読後感がある。

とくにエンディングなどは、まさに映画のようにぼかしとフェードで戦闘が取り上げられているような感じだ。戦った軍人はその後シベリア抑留され、多くが命を落としていることも描かれている。

占守島の戦い自体は、日本軍23,000人に対して、ソビエト軍8,000で、日本側の勝利に終わった。攻める側が守る側より兵力が劣っていては、当然負けるだろう。

小説で詳しく書いてあるが、関東軍の精鋭戦車舞台が占守島に配属転換され、新品の97式戦車など50両を持っていた。

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出典:いずれもWikipedia

食糧は毎日のようにサケとイクラを食べていたという。タンパク質豊富な食事をしていたので、兵隊はいたって健康で、武器・弾薬ともに十分で、敗残の軍隊という感じではない。

ソ連が終戦後占守島を攻めてきた理由は不明だが、あわよくば千島列島を総なめにして北海道まで占領しようというスターリンの領土欲のためと思われる。

そんな冒険主義のソ連軍を占守島で出鼻をくじき、それ以上の侵攻を止めた占守島守備隊の功績は大きい。

靖国神社の遊就館でも占守島守備隊のことを紹介したパンフレットが置いてある、

この資料には転載のことについて何も書いていないが、たぶん多くの人の目に触れることが、靖国神社がこのパンフレットを用意した目的だと思うので紹介しておく。

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出典:「士魂会事務局

たぶん浅田さんも日本人は決して忘れてはならないもう一つの「日露戦争」として、この話を小説にしたのだと思う。

重い題材だが、全体をファンタジックに描いている。映画化が待ち望まれる作品である。



参考になれば次クリックお願いします。






ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録 「前のめり」で戦う銀行トップ

+++今回のあらすじは長いです+++

ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録
著者:西川 善文
講談社(2011-10-14)
販売元:Amazon.co.jp
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住友銀行(現三井住友銀行)のトップとして君臨し、小泉元首相に推されて2006年に民営化された日本郵政の社長となった西川善文さんの回顧録。

西川さんは悪役とされることが多かった。だから筆者自身も、この本はあまり読む気がしなかったが、会社の知人から面白かったという話を聞いたので読んでみた。たしかに大変面白い、「経団連は無用の長物」などという発言もある。

西川さんも最後に書いているが、この本では大規模プロジェクトへの融資による日本産業への貢献とか、組織の飛躍的拡大をもたらした経営策の実践とか、大手銀行の頭取を務めた人なら必ずあるだろう華やいだ話題が少ない。そういうことがなかったのではなく、それを懐かしむほどのんびりした時代ではなかったのだと西川さんは語る。

アメリカでは政府の要職や有名企業トップを務めた人が、退任後すぐに回顧録を出す例は多い。たとえばGEのジャック・ウェルチの本などは、会社の上司や部下を実名で批判し、自分の功績を際立たせるような書きっぷりだ。

ジャック・ウェルチ わが経営(上) (日経ビジネス人文庫)ジャック・ウェルチ わが経営(上) (日経ビジネス人文庫)
著者:ジャック・ウェルチ
日本経済新聞社(2005-04-29)
販売元:Amazon.co.jp
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一方、西川さんがこの本で批判している上司・仲間は、一時「住友銀行の天皇」と呼ばれた磯田一郎さんだけで、会社再生や郵政合理化の実情を淡々と語っている。


「前のめり」の経営

西川さんは銀行役員時代から、記者会見などでスタッフの用意したメモに沿わないで発言したり、経営に関してトップダウンで決断したという。それを「西川の独断」などと批判する人もいるが、リーダーシップとは「直面する難題から逃げないこと」だと語る。遅滞なくスピード感を持って決断する。トップが逃げないから部下も逃げない。「前のめりで戦う」のだと。

坂本竜馬が死ぬ時も前のめりに死んだ?という話はあるが、「前のめり」という言葉をビジネスで使っている本は記憶にない。一般的にはコンサーバティブな金融機関のトップが「前のめり」で経営していたと語るのは、20社ほどあった都市銀行が3大グループに集約されるという激動の金融再編の時代に経営を任されたからだろう。

思えば、筆者が大学を卒業した1976年には、都市銀行は第一勧業銀行、三菱銀行、富士銀行、住友銀行、三井銀行、協和銀行、東京銀行、太陽神戸銀行、大和銀行、あさひ銀行、埼玉銀行、東海銀行、北海道拓殖銀行などがあり、長期信用銀行としては日本興業銀行、日本長期信用銀行(長銀)、日本不動産銀行などがあった。

これらがすべて消滅するか、現在の3大金融グループに再編された。筆者の友人には銀行に就職した人もいるが、コンタクトもなく、今どうしているのかわからない友人が多い。


西川さんの経歴

西川さんは1938年・奈良県生まれ。戦時中は米軍戦闘機の機銃掃射も経験したという。親類に東大を出て毎日新聞の記者となった人がいて、西川さんも新聞記者になることを夢見て東大受験を目指したが、受験直前に体調を崩し、結局大阪大学法学部に入学した。

新聞記者を目指していたが、友達のさそいで住友銀行の面接を受け、Tシャツ姿で行くと、「新聞記者などやめておきなさい」と言われ、人事部長だった磯田一郎さんの面接を受けた。京大ラグビー部出身の磯田さんは体もがっしりして迫力があり、大学時代はラグビーに明け暮れ、勉強などほとんどしていなかったという。その日のうちに人事担当専務と会い、内定をもらったという。

1961年(昭和36年)に住友銀行に入社し、支店勤務から調査部で粉飾決算などを見抜く経験を積み、後に頭取となる巽さんに引っ張られて審査部に異動した。

当時の日本ではM&Aをビジネスとしていた会社はほとんどなかったが、西川さんはいずれM&Aの時代が来るだろうと予想して、審査部時代にM&Aを研究したという。そして西川さんの最初の功績が安宅産業の破たん処理だ。


安宅産業破たん処理

安宅産業は1904年創業の総合商社で、1975年当時は業界9位だった。新日鐵の5大指定商社の一社で、金属や機械部門は強かったが、エネルギー部門が弱かった。

上位商社に追いつくためにカナダのニューファウンドランド・リファイナリー(NRC)に突っ込み、巨額の融資をしたところで、オイルショックが襲い、中東原油の精製をやっていたNRCは巨額の損失を出し始め、不動産投資失敗も加わって安宅産業の息の根を止めた。

負債総額1兆円の安宅が破たんすると日本企業の国際信用が失わわれ、「日本経済は焦土と化してしまうかもしれない」との懸念から、メインバンクの住友銀行と協和銀行が中心となって、伊藤忠商事が安宅の優良部門を吸収合併し、銀行は債権放棄して破たん処理を実現した。

安宅の合併相手を探す段階では、住友商事にも2度、話を持って行った。しかし、住友商事はつねに慎重でリスクを取ることが少ない企業体質で、すでに住友金属の鉄鋼商権を持っていたこともあり、安宅産業との合併はには引き気味だった。また、当時の住銀の樋口廣太郎常務(元アサヒビール社長)と住友商事の財務担当の屋代副社長が不仲だったという。

それでも伊藤忠と安宅の合併が決まった後、住友商事は誰も引き取らなかった資産を引き取ってくれたという。それが米国ニューヨーク州北部にある鉄鋼メーカーのオーバーン・スチールだ。オーバーンには筆者も行ったことがある。ニューヨーク州の北部の風光明媚なフィンガー・レイク地帯にあり、世界最初の電気イスでの死刑執行で有名?な町だ。


安宅コレクション

この本では、伊藤忠側の交渉責任者だった不毛地帯のモデル・瀬島龍三さんのシンプルでストレートな交渉ぶりや、当時「社賓(しゃひん)」という肩書だった創業者の息子の安宅英一氏が集めた安宅コレクションについても触れている。

不毛地帯 (1) (新潮文庫)不毛地帯 (1) (新潮文庫)
著者:山崎 豊子
新潮社(1983-11)
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帳簿には70億円と記載があったが、売れば500億円以上にもなるという大変なコレクションで、近代日本画家・速水御舟(はやみぎょしゅう)の作品106点と朝鮮(高麗・李朝)と中国(後漢から明朝)の陶磁器850点だった。

コレクションの散逸を防ぐために御舟の作品はすべて山種美術館に買ってもらい、古陶磁器は安宅の破たん処理が終了した段階で、大阪市に寄付して1982年に開館した大阪市立東洋陶磁器美術館を建設して所蔵した。

安宅コレクションについては「美の猟犬」という本が詳しいので、いずれあらすじを紹介する。

美の猟犬―安宅コレクション余聞美の猟犬―安宅コレクション余聞
著者:伊藤 郁太郎
日本経済新聞出版社(2007-10)
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磯田一郎の時代

磯田一郎さんといえば「向こう傷を恐れるな」という言葉が有名だ。1977年に安宅産業の破たん処理が決着がついたタイミングで頭取に昇格、以後15年間、住銀の頭取・会長としてトップに君臨し、「住友銀行の天皇」と呼ばれた。

この本では「磯田一郎の時代」ということで、関東の支店数を一気に伸ばすために店舗数だけは多いが、ボロ店舗ばかりの平和相互銀行の合併や、バブル期に闇勢力と組んで不動産と(磯田さんの長女がからむ)美術品投資にのめりこんだイトマンへの肩入れなどを具体名を挙げて説明している。

日本経済の構造変化で、株式や社債なその直接金融が増え、銀行融資などの間接金融が細るなかで、「磯田一郎の時代」は終わった。磯田一郎さんにとどめを刺したのは西川さんだと自ら語る。

安宅産業、平和相互銀行、イトマンと問題案件を企画部長として処理したので、西川さんには、問題処理に強く、厄介事は西川さんに任せておけという評価が定着したという。


「不良債権と寝た男」

西川さんは、ある新聞に「不良債権と寝た男」と書かれたという。

日本経済は1986年からバブル経済期に入り、不動産価格が1986年は前年比75%、1987年は37%と上昇し続け、株価も1989年12月に日経平均株価が38,915円という史上最高値をつけた。

その後不動産価格も株価もピークを打って下がり始め、株価は1992年8月にはピークの半値以下の15,024円にまで下落した。

バブル崩壊によって日本経済はガタガタになり、1992年秋に大蔵省は大手21行の不良債権額は12兆3千億円あるという試算を発表した。筆者も覚えているが、当時は到底12兆円などという額ではない、50兆円、あるいは100兆円あるのではないかと言っていたものだ。

西川さんは、当時の住友銀行頭取の小松さんから、1992年夏に当時の宮澤総理から軽井沢の別荘に大手行の頭取が全員呼ばれて公的資金投入を打診されたという話を、後日明かされたという。頭取はみんな反対したが、今思うと、あの時に決めておけば、こんな大騒ぎにならなかっただろうと小松さんは言っていたという。

銀行の赤字決算は終戦直後も含めて、それまで例がなかったので、不良債権処理に保有株式を売って黒字決算を続けていた。しかし、西川さんは当時の巽会長と森川頭取に進言し、1995年に8,000億円の不良債権処理を行い、3,300億円の赤字決算とした。そうすると株価は逆に上昇した。

日本の不良債権処理が進んだのは1997年に大蔵省が不良債権償却証明制度を廃止し、銀行の自己査定による債権処理が可能になったことと、1998年の公的資金注入制度の効果だと西川さんは語る。


日本版金融ビッグバン

不良債権処理を進める一方、故・橋本竜太郎首相は1996年に日本版金融ビッグバンを提唱し、銀行、証券会社、保険会社の垣根が一部取り払われ、金融ホールディングカンパニーも認められた。

西川さんはチャンスだと考え、積極的に個人向け投資信託販売を拡大し、外部人材を起用するほか、山一證券から150名の窓口販売要員を採用して、リテール部門を拡大した。

ネット証券業にも進出したが、設立したDLJディレクトSFG証券は楽天に売却した。その関係で、楽天・三木谷浩史社長と知り合い、その斬新で革命的な考え方に共感することが多かったので、西川さんは頭取退任後、楽天の顧問に就任した。


頭取就任は「男子の本懐」

1997年6月に西川さんは住友銀行の頭取に就任した。58歳での就任で、50歳台の頭取就任は「住銀の法王」と呼ばれた堀田庄三さん以来だという。

就任記者会見では西川さんは「男子の本懐です」と語ったという。当時、銀行は企業の不良債権処理を手伝って、企業が再生できるようにする「野戦病院」のような役目だった。日本経済再生に貢献する重大な責任を任されたという意味で、「男子の本懐」という言葉になったのだという。

男子の本懐 (新潮文庫)男子の本懐 (新潮文庫)
著者:城山 三郎
新潮社(1983-11)
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西川さんが頭取に就任してからは、住銀の長年の重要取引先だった大和証券と法人部門の合弁会社(大和証券SBCM、ただし2009年に合弁解消)設立、さくら銀行との合併で2001年4月の三井住友銀行の誕生、ゴールドマン・サックスとの資本提携強化、GS幹事の海外マーケットでの資金調達などダイナミックなM&Aを行った。

2兆円にものぼる資本準備金を不良債権処理にあてる為の、さくら銀行子会社のわかしお銀行との逆さ合併(存続会社はわかしお銀行で、三井住友銀行は消滅)には驚かされたものだ。

UFJ信託銀行と住友信託銀行との合併が決まっていたのにキャンセルされて「売られたケンカ」だとして、UFJ銀行をめぐって東京三菱との買収合戦に乗り出した話を紹介している。

同じ関西系の長年のライバル同士のUFJ(旧三和銀行)と住友銀行では、合併は難しいと筆者は思っていたが、この本では当時のUFJ銀行のトップや関係者は、住友銀行との合併を望んでいた様にも思えたことを紹介している。


日本郵政会社の社長に就任

2005年、西川さんは三井住友銀行の頭取を退任し、特別顧問となった。退任直後に大腸ガンが見つかり手術を待っているときに、ウシオ電機の牛尾会長から「小泉総理や竹中大臣が郵政民営化のリーダーを西川さんにお願いしたいと言っている」との話があった。

西川さんは一旦は断ったが、手術後竹中大臣から「小泉総理はもう決めています。」という話があり、奥さんの反対にもかかわらず引き受けることになった。小泉総理からは一言、「ご苦労だけど、西川さん、頼むよ」と言われたという。

この本では郵政民営化準備会社の社長となった2006年1月から民主党が政権を取り、亀井郵政・金融担当大臣より自分で進退を判断しろと通告されて社長を辞任する2009年10月までの出来事を、80ページほどにわたり解説している。

恥ずかしながら筆者自身も郵政民営化の目的がいま一つクリアーに理解できていないが、西川さんは郵政民営化の目的は、大きくは次の2点であると最初に整理している。

1.資金の流れを官から民に変えることで、国民の資金を成長分野に集め、結果として日本経済の活性化や効率化を図る。

2.少子高齢化社会の到来によって先細りが懸念される郵政事業を、民営化で新規事業にも参入できるようにし、国民の利便性を高めると同時に収益性を向上させる。

西川さんはこの民営化の目的を理解してもらわないと、西川さんが全精力を注ぎこんだ意味が分かってもらえないと語る。

この本で知名度があがり、一番得したのはたぶんコンサル会社のA.T.カーニーだろう。コスト削減に強いコンサルタントとして住友銀行時代と日本郵政時代に登場している。

筆者は2000年ごろA.T.カーニーと、別ブログで紹介した逆オークションなどの電子調達関係プロジェクトで一緒に仕事をしたことがある。

総理、増税よりも競り下げを!総理、増税よりも競り下げを!
著者:村井宗明
ダイヤモンド社(2011-08-26)
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A.T.カーニー米国子会社が持っていた逆オークションのASPを使って日本でも逆オークションのトライアルを実施し、A.T.カーニー・ジャパンの人たちと一緒にJ/Vをやれないか検討したのだ。当時のメンバー2人がプリンシパルになっている。

調達関係のコンサルでは2000年の段階でA.T.カーニーがベストだった。住友銀行のコスト削減でも実績を出して、日本郵政にも採用されたようだ。さすがA.T.カーニーである。

日本郵政社長時代のエピソードだけでも十分一冊の本が書けるほど、いろいろなことが起こっているが、詳しく紹介するとあらすじが長くなりすぎるので、箇条書きで紹介する。

★2004年には郵貯と簡保は合計で350兆円の規模となり、国民の金融資産1,400兆円の1/4を占めていた。

★運用は2000年までは全額大蔵省の資金運用部に預託する義務があり、10年物国債の利回り+0.2%の金利を保証されていた。

★郵貯の「ヒト・モノ・カネ」のネットワークは想像以上に緻密で底力があり、これこそが郵便局の最大の経営資源だ。

★郵政民営化によりいままで免除されていた法人税、事業税、預金保険料などを支払うようになり国や地方の税収が増えた。

★全銀システムとは店番号と口座番号が違うので、銀行から郵貯には送金できなかったが、民営化後にやっと全銀システムと接続した。

★西川さんが社長に就任してすぐに取り組んだのが次の3つのプロジェクトだ。

1.調達コストの削減と調達戦略の一元化
2.コールセンターの一元化
3.「郵政福祉」、「郵貯振興会」などのファミリー企業との取引関係の見直し

★ゆうパックの欠点だった冷蔵・冷凍輸送ができないことを、日通のペリカン便と合併することにより解消し、シェアアップを狙ったが、なかなか国会の承認が得られなかった。

★麻生内閣の鳩山邦夫総務大臣が政治問題化した「かんぽの宿」一括売却問題と東京中央郵便局再開発問題について、西川さんは鳩山大臣の論点を詳細に逐一反論している。よほど悔しかったのだろう。


総じて淡々とした書きっぷりに好感が持てる。

筆者が知っている案件もあり、その記述から判断すると、この本に書かれているのは表向きの説明といえる。それでも一面の真実をとらえていると思う。

一読する価値のある同時代史だと思う。先入観だけで判断せず、まずは手に取ってパラパラめくって欲しい。


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