時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2010年08月

日本海軍の戦略発想 ”マベリック”海軍参謀の敗戦分析と反省記

+++今回のあらすじは長いです+++


今回は元海軍参謀の敗戦分析を紹介する。日本海軍の敗因はいくつもあると思うが、この本は系統立てて説明していて、大変参考になる。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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最後の海軍大学卒業生で、終戦の時に連合艦隊砲術参謀中佐だった千早正隆さんが昭和22年に書いた日本海軍の反省記の改訂版。プレジデント社で1982年に発売され、1995年に文庫本になっている。

読んだのは中公文庫版だが、2008年12月に、プレジデント社から再発売されている。たぶん日本海軍の戦略の失敗の現代的意味を問い直そうということだろう。

千早さんは戦後GHQの戦史室調査員となり、このブログでも紹介した「ミッドウェーの奇跡」などを書いたGHQ戦史室長ゴードン・プランゲ博士の調査に協力した。

この本は英訳されて、多くの英語の戦史研究に引用されている。


千早さんはいわば”マベリック”

映画トップガンを見た人は覚えているだろうか?トム・クルーズが演じる主人公のコードネームが”マベリック”だ。マベリックとは、異端者、へそまがりという意味で、千早さん自身も自らの性格をそう評している。



たとえば千早さんはアメリカ人の戦争観を知るためにシンガポールで押収した「風とともに去りぬ」を見たいと、海軍大学時代に言いだしたが、さすがにこれは認められなかったという。

次にクレマンソーを研究したいと言い出して、クレマンソー研究家の酒井陸軍中将を招いて講演をしてもらったら、酒井中将は大東亜戦争出直し論を2時間論じたという。

クレマンソーといえば、「皇族たちの真実」で終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王が、フランス留学時代に親交のあった元首相のクレマンソーに警告されたという話を思い出す。

「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」

まさにクレマンソーの警告した通りの展開になったわけだ。


海軍大学卒業に際して放校になりかける

海軍大学卒業に際して、教授連に対して、ほとんど造反ともいえるマベリックぶりを見せた。

千早さんたち学生に意見を求められたので、千早さんは海軍大学の教育方針を独善的で各科バラバラであると評した。

科学的に戦争そのものを分析して、日米戦の対策はどうあるべきかという大命題の下に、あらゆる科目を統合して研究すべきで、艦隊の運動の研究などはその一部にすぎないと書いた。

「現在の戦況の苦境もつまるところ、研究に不真面目であったためである。深く戒む(いましむ)るところがなければならない」と要約したら、翌日学生全員が集められ、主任教官より名前を挙げて譴責されたという。

処分の話も出たが、同期生全員がかばってくれたのと、校長が代わったので処分なしで終わったという。


参謀としてもマベリック

参謀としても並み居る海軍大学出身参謀たちと対立して、ビアク島防衛の重要性を強調し、「ビアク気違い」と呼ばれたりしたという。

ちなみにビアク島には1万人の兵力が駐留し、米軍の攻撃までに十分陣地を構築する時間がなかったにもかかわらず、善戦して米軍を手こずらせたのでマッカーサーは激怒し、指揮官を子分のバターンボーイズの一人のアイケルバーガー中将に代えている。

マッカーサーが厚木飛行場に乗り込んできた時に、ぴったり寄り添っているのがアイケルバーガー中将だ。

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出典:以下特記ないかぎりWikipedia


千早さんの経歴

千早さんは昭和2年の海兵第58期生。昭和5年に海兵を卒業後、すぐに艦隊勤務となり、駆逐艦、巡洋艦などの現場を経験し、砲術学校での学習を経て巡洋艦・戦艦の対空砲の分隊長となった。

千早さんの書いた艦隊防空のレポートは、海軍省の昭和16年の最優秀作品に選ばれたという。

千早さんは戦艦大和の艤装作業に立ち会い、大和は1トン爆弾の直撃にも堪えるように全体を装甲200ミリの鉄板で覆っているのに、巡洋艦から転用した副砲塔の装甲は30ミリしかないことを指摘したという。

戦争が始まると戦艦比叡に乗艦し、昭和17年11月の第3次ソロモン海戦で比叡が夜間探照灯砲撃で集中攻撃を受けた際に千早さんも両手の親指を負傷するが、奇跡的に指はつながり、内地で病院生活を送った。

比叡は切手にもなったので、筆者も亡くなった叔父に貰って、この満州国建国記念の切手を今でも持っている。

Japanese_battleship_Hiei_on_stamp




昭和18年7月から海軍大学校に学び翌19年3月に普通2年のところを8ヶ月で繰り上げ卒業し、艦隊参謀、連合艦隊作戦参謀として勤務し終戦を迎える。


千早さんがこの本を書いた理由

千早さんがこの本を書いた理由は、戦後多くの日本人、アメリカ人に次のような質問をされ続け、千早さん自身もその理由を解き明かしたかったからだと。

1.日本で米国のことを一番知っていたのは、日本海軍ではなかったか、その海軍がなぜ米国と戦争することになったのか。

2.アメリカンフットボールで同じ手を使って連敗するのは下の下といわれるが、日本海軍はなぜ同じ手を繰り返してその都度叩きのめされたのか。


米軍の攻撃で最も驚いた点

千早さんが連合艦隊参謀として勤務していて、米軍の攻撃で最も驚いたのは次の点であると。

1.B29による本土爆撃。超航空を飛ぶB29には対空砲も届かず、迎撃戦闘機も有効でなかった。

Boeing_B-29_Superfortress_USAF






2.B29による瀬戸内海への機雷敷設。これは「飢餓作戦」と呼ばれたものだ。使用された機雷は日本海軍が見たこともなかった磁気式、水圧式に度数式を組み合わせた新型のもので、特に低周波音響機雷には有効な掃海手段はなかったので、瀬戸内海はほとんど通行不可能となった。

まさに日本の首を真綿で絞めたのと同じ結果となった。

3.原子爆弾。連合艦隊作戦参謀だった千早さんでも原子爆弾の概念すら持っていなかった。慚愧(ざんき)に堪えないという。


この本の目次

目次を読めば大体この本の内容がわかると思うので、紹介しておく。

第1部 日本海軍の対米戦争に関する判断

 1. 日本海軍の仮想的は米国海軍

 2. 日米戦争に関する研究

 3. 戦術面のみに目が奪われた

 4. 不備だらけの日本海軍の戦務(戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のこと)

 5. 大局を忘れた日本海軍の戦備

 6. 陸海軍協同の不完全

 7. 戦争についての各種判断の誤り

第2部 戦争はかく実証した

 1. ハワイ海戦の戦訓

 2. 日本海軍の小手先芸

 3. 小手先芸の限界

 4. あと1ヶ月あったなら(ガダルカナルも敵に簡単に奪われることもなかったろう)

 5. 馬鹿の一つ覚え

 6. 偵察、索敵の軽視

 7. 追撃戦の宿命
    追撃戦で最後まで徹底的にやった戦例が乏しいのは、徹底性を欠く国民性にあると千早さんはいう。

 8. 慢心と増長の悲劇
    ミッドウェー海戦が典型例である。作戦の根本思想、敵空母出現の可能性の未検討、索敵の不備など、暗号が解読されている以外にも慢心と増長は多い。

 9. 美辞麗句が多くなった作戦命令

10. 用法を誤った潜水艦戦と時代遅れの対潜作戦
    日本の船腹量は約1千万トンだったが、戦争で喪失した船腹量は800万トン、このうち潜水艦の攻撃によるものが全体の57%、航空機が31%、触雷が7%、敵の砲撃はわずか2万トンにすぎない。

    B29と潜水艦の前に日本の戦力は崩壊したといえる。

11. 補給戦に敗れた
    ニューギニア戦線では14万人が補給もなく投入され、実に13万人が死亡したが、戦死はわずか3%で、残りは餓死、戦病死だった。

12. 誤った作戦で犠牲になった設営隊
    昭和19年、暗号が解読されていると千早さんは疑い、わざわざ「長官の名前の画数を足した日」というような指令をだしたが、島の防衛隊からの返信に「では○○日のことか?」と打ち返してきて頭を抱えてしまったという。結局敵に待ち伏せされたという。

13. 軽視した情報、防諜のとがめ

14. 甘かった人事管理

第3部 総まとめ

 1. 後手、後手となった作戦計画

 2. 完敗に終わった「あ」号作戦「捷」号作戦
 3. 水上部隊の悲惨な最期 戦艦大和が片道の燃料で向かったという話は実は誤りで、実際には簿外の在庫を呉の機関参謀がかきあつめ、往復に必要な燃料を積んで死出のはなむけとしたのだと。これでほとんどの艦船を沈められて、燃料もなく日本海軍は静かに死を待った。

 4. マクロ的な考え方と総合性の欠如

 5. 物量の差だけではなかった

 6. 教育に根本の問題があった

いくつか参考になった点を紹介しておく。


日本海軍の仮想的は明治以来米国海軍

明治40年、日露戦争の2年後に決定された「帝国国防方針」では日本の仮想敵は陸軍はソ連、海軍は米国とされた。

米国は日本海軍が兵力を増強するための目標敵であったが、実際に昭和12年南京攻略時に日本の爆撃機が間違って米国の砲艦バネー号を撃沈した時には、米国に陳謝するとともに多額の賠償金を支払った。あくまで仮想敵であって、本当に米国と戦線を開くことなど考えてもいなかったのだ。

ところが三国同盟に猛反対していた米内海軍大臣が昭和15年に及川海軍大臣に交代すると、海軍は簡単に三国同盟に賛同し、一挙に対米戦が現実味を帯びてくる。

昭和14年9月の第2次世界大戦勃発以降、対米関係は悪化の一途をたどった。ナチスの傀儡のヴィシー政権の承認を強引に得た昭和16年7月の南仏印進駐が引き金となって、米国が在米資産凍結、石油全面禁輸を発表し、海軍は対米戦の準備を開始した。

いわゆる月月火水木金金の猛訓練だが、この時も大口径砲の戦艦で敵を迎え撃つ艦隊決戦が戦略の中心で、潜水艦の船団攻撃や船団の対潜護衛の演習は皆無だったという。


太平洋戦争開戦時の連合艦隊の戦力

太平洋戦争が始まった時の連合艦隊の戦力は次の通りだ。これは戦艦と潜水艦こそ米国の6割を切っていたが、航空母艦と重巡洋艦では米国と肩を並べる兵力で、これにくわえて大和、武蔵の巨大戦艦2隻が加わった。

戦艦   10隻
航空母艦  9隻
重巡洋艦 18隻
軽巡洋艦 18隻
駆逐艦  90隻
潜水艦  55隻
潜水母艦  3隻
水上機母艦 2隻
合計   133万トン(基準排水量)

対米戦のために長年兵力を整備した結果だった。日本海軍は米軍に比肩しうる戦力を持っていたことがわかる。

ちなみに今度あらすじを紹介する佐藤晃さんの「太平洋に消えた勝機」という非常に面白い本の巻末に、「日米主要艦の戦力推移」という表が載っているので、紹介しておく。

太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)
著者:佐藤 晃
販売元:光文社
発売日:2003-01
おすすめ度:4.5
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日米主要艦推移







出典:本書230ページ

この表を見ると、日本は戦争の後半でほとんどの艦船が撃沈されているのに対して、アメリカは真珠湾で戦艦2隻、1942年に空母が4隻沈没した他は、1942年以降戦艦の喪失ゼロ、1943年以降は主要艦船の喪失ゼロという状態が続いていたことがわかる。

日本側の一方的敗北だったことがよくわかる表である。昭和19年のマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」を言われ、日本艦船を米軍が面白いように葬ったが、かくも一方的な敗北だと本当に「バカの一つ覚え」と言わざるを得ない。

実はこの表は正規空母までで、米国が圧倒的な産業力を注力して大量に製造した1万トン級のリバティー船と8,000トン級の護衛空母や軽空母が含まれていない。

リバティ船は戦後構造的欠陥が判明したが、溶接を使わず、鉄板をリベット接合して、わずか42日で完成し、戦時中実に531隻が建造された。

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護衛空母100隻以上が建造され、ドイツ潜水艦の脅威を封じ込めるのに成果を上げた。

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日露戦争以来の大鑑巨砲主義の旧弊が支配した海軍

日本の大鑑巨砲主義という伝統は崩せず、開戦時の10名の艦隊長官のうち、4名が鉄砲屋(砲術出身)、4名が水雷屋、1名が航海屋、1名が航空屋だった。

唯一井上成実(しげよし)第4艦隊長官が昭和16年1月に「航空兵力の充実、海上護衛兵力の大増強、南方島嶼(とうしょ)の守備の強化」という正鵠を得た「新軍備計画論」を訴えたが、大鑑巨砲主義の主流派から無視される結果となった。


馬鹿の一つ覚えの艦隊決戦でのアウトレンジ戦法

日本の戦法は敵の射程距離外から砲撃して敵を撃滅するというアウトレンジ戦法で、これがため世界最大の46センチ主砲を持つ大和・武蔵を建造したものだ。

この巨大戦艦はパナマ運河を通行できないため、アメリカのように大西洋と太平洋両方に面している国は機動力が生かせないので、アメリカは同じサイズの戦艦をつくれないと見られていた。

そうすると大和・武蔵の46センチ砲はアメリカ戦艦の40センチ砲よりも射程距離が長く、それがためアウトレンジ戦法で勝利できるというシナリオだった。

しかしアウトレンジ戦法が度が過ぎて、射程距離を縮めて命中確率を上げようという積極性に欠け、レーダー測敵機もないので、遠距離から射撃しても非常に悪い命中率にとどまっていた。

たしか大和の大砲は小田原から撃って、東京に届くという話を聞いたことがある。射程距離は最大42キロだという。しかし、現実問題そんなに離れていては光学照準機では到底ねらえない。

戦争中の艦隊決戦の例では、昭和17年のジャワ沖海戦では、日本の重巡洋艦は敵の15センチ砲にまさる20センチ砲を持っていたので、アウトレンジ戦法で砲撃したが、数百発の20センチ砲弾のうち1発が敵に命中しただけだった。

次に戦艦2隻が36センチ砲を打ち込んだが、300発撃って一発も命中しなかった。

アッツ島ではまたもアウトレンジ戦法で、900発撃って5発しか命中しなかった。

昭和19年のレイテ沖海戦では、栗田艦隊の戦艦大和と長門が最初で最後の砲撃を敵艦隊に浴びせるが、大和は約100発、長門は45発撃ち、金剛、榛名がそれぞれ100発づつ撃ったにもかかわらず、敵駆逐艦を1隻沈め、1隻を大破させただけだった。

アメリカ側はレーダー測敵器があるので、照準は正確だったようだ。これが前記の表の圧倒的な日米の艦艇損失の差になるのだ。


不備だらけの日本海軍の戦務

戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のことである。

燃料は海軍は当初の2年分の燃料は備蓄して戦争に臨んだと言われているが、実際には開戦時の備蓄は600万トンだった。

必要な燃料量を年280万トンと見込んで戦争に突入したが、実際には年500万トン近くを消費し、南方などからの石油供給も海上輸送路を攻撃されて満足にできなかった。昭和17年後半以降は常に燃料に苦しめられることとなった。

燃料備蓄量以外にも、日本艦船は日本近海の艦隊決戦を想定して建造されているので、航続距離に問題があったという。

さらに問題なのは弾薬で、開戦時に艦艇に定数通りの量を配給したら、弾薬庫には25ミリ機銃弾がなくなり、その後も弾薬の不足は解消されなかった。

日本海軍の対空砲の弾薬定数は高角砲200発(約10分)、機銃1,500発(約10分)のみで、撃ち尽くしても補充は受けられなかった。

これも艦隊決戦で大砲には一門の大砲が発射する弾数に限度があるので(大口径砲では120発。それ以上だと大砲が焼き付いてしまう)、それと同じ考えを対空火器まで適用したことが問題だった。

この点では相当期日にわたる会戦を単位に弾薬を準備していた日本陸軍の方がましだったと千早さんは語る。


日本は潜水艦による近代戦を理解しなかった

日本の潜水艦戦略には通商破壊戦の考え方はなく、艦隊決戦のみを想定していた。それでも対潜水艦対策は皆無だった。

「享楽的で質実剛健に乏しい米人は、困苦欠乏をもっとも必要とする潜水艦の乗員には適しない。従って、米国潜水艦はあまり恐れる必要はないだろう」とたかをくくっていたという。

有名な米国海軍のフロスト中佐は逆に「潜水艦は米人の使用に好適の艦種である。なんとなれば、米人は敏活、果断、独創に富み、潜水艦の乗員に最適な性質を具備している。われわれ米国海軍軍人は、潜水艦戦において、世界いずれの海軍軍人も凌駕することができる」と語っているという。

まさに日本の見方と正反対だが、これが結果的に真実となった。前述の「日米主要艦の戦力推移表」でも、米国潜水艦に沈められた空母や戦艦が多いことがわかる。

排水量わずか2,000トン程度の潜水艦が、3−5万トンの戦艦や航空母艦を葬り去るのである。実に効率のよい戦いである。

ノックス米海軍長官は「日本は近代戦を理解しないか、あるいはまた近代戦に参加する資格がないか、いずれかである」と語っていたという。


海軍大学の画一的で時代遅れの教育

千早さんは昭和18年7月に海軍大学に入学し、9ヶ月で繰り上げ卒業している。卒業したときはギルバート、マーシャル諸島は敵手に落ち、ラバウルも秋風落莫の状態だったという。

明治につくられ、最終改訂が昭和9年の最高機密「海戦要務令」が絶対規範として生きていた。

これは艦隊決戦主義で、航空部隊も潜水艦部隊もそれを支援するという域を出ていなかった。もちろん通商破壊もなく、対潜水艦作戦もない。いかに日本海軍の用兵者の考えが硬直的だったかがわかる。

海軍大学の戦略、戦術の研究は机上演習に終始し、日米海軍の決戦を想定した自己満足のものだった。

決戦が起こるのか、決戦が起きたら戦争は終わるのか、負けたらどうなるのかといった問題はまじめに研究されなかった。

おまけに机上演習ではゼロ戦は1機でヘルキャット10機に相当するなどという、ありえない前提が演習統監により出されていたという。

千早さんは海軍大学で教育を受けた画一的なエリートが参謀なり司令官なりになって戦争を指導したことが、日本海軍の敗因であると推論している。

アメリカ軍は日本軍の敗因は、チームワークの欠如にあったと分析しているという。マクロ的かつ長期的な総合性と計画性を欠く日本人特有の結果に基づくのではないかと。

たしかにたまたま真珠湾で大勝利してしまったがゆえに、徹底性を欠く一般的な日本人の性格、オペレーションリサーチマインドというか、科学的な彼我の戦術の分析の欠如が、敗戦につながったことは否めないと思う。

いろいろな戦記もののタネ本ともなっている本で、昭和22年に最初の原稿が完成し、まだ戦争の記憶が生々しいなかで書かれたこの本は、冷静な分析と反省に満ちている。

プレジデント社から2008年末再度発売されたことでもあり、是非一度手にとって見て欲しい本である。


参考になれば次クリック願う。




日本軍のインテリジェンス 論文としても一級で、かつ面白い

第2次世界大戦史の一部として、防衛省防衛研究所教官のインテリジェンス=諜報活動の本を紹介する。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
著者:小谷 賢
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:4.5
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イギリス政治外交史とインテリジェンス研究が専門の防衛省防衛研究所戦史部教官小谷賢さんの旧日本軍のインテリジェンスに関する研究。

関榮次さんのMr. Ferguson's Tea-setを読んでインテリジェンスについて興味を持ったので、読んでみた。

Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940
著者:Eiji Seki
販売元:Global Oriental
発売日:2007-02-28
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出典などを記した註だけでも460もあり、研究論文としても一級のものだと思うが、内容的にも一般にはあまり知られていない事実を明らかにしており、非常に面白い。

ウィキペディアでも防衛研究所は詳しく紹介されている。

旧日本軍に関する情報は終戦の時に、大半が焼き捨てられているので、直接の資料が少なく、関係者の回想録とかインタビューなどが中心だ。日露戦争や第1次世界大戦の時までの資料はそろっているが、太平洋戦争の資料となると極端に限られていると言われている。

社会の関心が低いことも資料が散逸している根本原因の一つだ。

しかし小谷さんはそんな話をインテリジェンス研究の泰斗ケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリュー教授にしたら、次の様にしかられたという。

「けしからん!資料が少ないからといって言い訳などしてはならない。イギリスのインテリジェンス研究にしても、一昔前まではほとんど公開されている史料などなあったが、それでも私はやってきた。それに史料が少ないのはインテリジェンス研究に限ったことではない。例えば中世史の研究を見たまえ。史料が少ないという理由で歴史が記されなかったことがあるかね。あなたの言っていることは研究者の怠慢に過ぎない。」

小谷さんはこの言葉に反省するのみならず感銘を受け、防衛研究所勤務という恵まれたポジションを利用して、旧日本軍のインテリジェンス研究に精を出すことになる。

このクリストファー・アンドリュー教授は、「インフォメーションとインテリジェンスを厳密に分けるのは英語に特有である」と語っており、アングロサクソン特有の情報に対する鋭敏なセンスが現れている。

事実英国ではベスト・アンド・ブライテスト(最優秀)な学生が、インテリジェンスコミュニティにリクルートされているという。

それに対して日本は、最近でこそ佐藤優さんの登場で、インテリジェンスに関心が高まっているが、一般的には関心は低く、特に戦前のインテリジェンスの包括的な考察はなされていない。

歴史を振り返ることは重要で、これが小谷さんが旧日本軍のインテリジェンスを研究する理由だ。


進んでいた旧日本軍の情報収集

太平洋戦争の敗因の一つに日本軍の暗号が米軍に解読されていたことがしばしば挙げられる。たとえばミッドウェー海戦や、山本五十六元帥機の撃墜だ。

しかし小谷さんは、日本陸軍も同様に連合国側の暗号を解読していたと指摘する。問題は情報部が得た情報はセクショナリズムから作戦部に生かされず、さらに陸軍が暗号を解読していたことを1945年まで海軍は知らなかったというありさまだ。

旧陸軍の中央特情部の人員は1945年には1,000名を超え、数学、語学専門の学生を集め、IBM製の統計機を用いていたという。陸軍の機密費の年間の予算は1945年には現在の価値で3,200億円にも増加していた。

ところが旧陸軍の関心は仮想敵国のソ連、中国情報活動であり、ガダルカナル島で敗北した1943年から対米情報活動に注力するようになった。

米軍の最も高度なスプリット暗号も、旧陸軍は解読に成功していたが、時既に遅かった。

対ソ連ではスパイ活動を積極的に行っていたが、対米では人的情報は限られており、新聞などの公開情報が中心で、量的にも不足していた。

ちなみに対米情報活動に当たっていたのが、娘の名前マリコを開戦の暗号としたことで知られる外務省の寺崎英成一等書記官である。

マリコ (1980年)マリコ (1980年)
著者:柳田 邦男
販売元:新潮社
発売日:1980-07
おすすめ度:5.0
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防諜の不徹底

陸軍に比べると海軍の情報活動は規模的にも小さく、しかも防諜活動は積極的でなく、情報漏洩が重大な敗因の一つとなっていた。

すでに開戦直後の1942年1月にオーストラリア沖で撃沈された伊号124号潜水艦から暗号が連合国側にわたったのではないかという不安がありながら、なんの対策を講じることもなく、これがミッドウェー海戦の敗北や山本五十六元帥機撃墜につながった。

さらに1944年には海軍飛行艇がフィリピンのセブ島で遭難し、防水の書類ケースに収められた海軍の暗号書と対米作戦計画が米軍にわたった。

米軍は潜水艦でオーストラリアに運び複写した後に、飛行艇の不時着した付近に書類を戻し、日本側に発見させるという手の込んだ諜報作戦を行っている。

海軍は海軍高官が虜囚の辱めを受けたのではないかという調査に終始し、暗号が敵にわたった可能性については配慮されず、米軍の思うつぼにはまった。


陸海軍に於ける情報部の軽視

陸海軍では伝統的に作戦部に最優秀の人材が配置され、情報部の人材は劣るという意識が強かった。さらに石原完爾少将が参謀本部第一作戦部長となった1937年頃からは、作戦部が情報部を無視して自らの情報源と判断で作戦を進めるようになる。

自らの目的にあった情報収集、分析をしてしまうので、客観的な状況把握ができなくなり、太平洋戦争中に問題が続出する。

たとえば1944年の台湾沖航空戦による空母19隻撃破という戦果誤認が(実際には撃沈した空母はゼロ)、レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅的な打撃を受けることになる。

搭乗員が未熟で正確な戦果確認ができなかったので、撃破したはずの空母がすべて健在だったのである。


当初の海軍の対米分析は正しかった

開戦直前の日本海軍の陣容は、戦艦10隻、空母10隻、巡洋艦28隻、駆逐艦112隻、潜水艦65隻、(合計98万トン)、航空機3,300機というものだった。

これに対して日本側が算出した米国海軍の戦力は戦艦17隻、空母10隻、巡洋艦37隻、駆逐艦172隻、潜水艦111隻(合計140万トン)、航空機5,500機となり、日本海軍は約7割の戦力を有していた。

7割ならランチェスター法則により、日本海軍は米海軍と互角に戦えると試算していた。

しかし彼我の生産能力の差で、1943年には日本の戦力は5割程度になると予想され、1944年には航空機の差は日本の1万5千機に対し、米国10万機と圧倒的な差となるので、戦争を仕掛けるなら1941年で、最初の1年間は互角に戦えるが、それ以降は見通しがつかないものであった。


3国同盟にいたる情勢判断

1940年夏のドイツによるフランス降伏に次ぎ、イギリスの陥落も時間の問題の様に思われて、「バスに乗り遅れるな」という南進論の元、日本は三国同盟締結に向かう。

しかし、その重大局面で、情報部は呼ばれておらず、ドイツの英本土侵攻は困難という在英武官や、ストックホルム武官、海軍情報部の主張は、親独派の大島浩駐独大使らの意見にかき消されてしまう。

当時の外務大臣松岡洋右は、日英同盟時代からの縁で近日感のあったチャーチルが戦争は不利益をもたらすという親書を出してきたにもかかわらず、無視して、ソ連も入れた4国同盟というありえない野望を抱き、3国同盟を結ぶ。

チャーチルの警告とは次のような内容だ:

「ドイツが制空権を奪えない状態で、ドイツのイギリス本土侵攻はありえない。イギリス空軍は1941年の終わりにはドイツ空軍を凌駕する。また年間9,000万トンもの鉄を生産している米英両国に対して、年産700万トンの日本がどうやって戦うのでしょう?」

今更ながらに当たり前の議論である。



総力戦研究所

さらに驚くのが太平洋戦争のシミュレーションを戦争直前に行った総力戦研究所のレポートだ。

総力戦研究所とは1941年に陸海軍や官庁から当時の若手官僚35名を集め、日本が直面するであろう総力戦について研究するために内閣直属の組織として設置された研究所である。

その図上演習の結果は、日本は当初2年間は戦えるが、4年後には国力を使い果たし、最後にはソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵入し、日本が敗北するという見事な予想であった。

これを近衛内閣の政府関係者列席の元に披露した際には、東条英機陸相は「日露戦争でも勝てるとは思わなかったが勝った。机上の空論と言わないとしても、意外裡の要素を考慮したものでない」と切り捨てている。

このような戦力分析に基づく冷静な判断でなく、主観的判断とアメリカは他民族国家なので、いざ戦争になると世論が分かれる等の思いこみで、戦争に走った当時の日本の指導者の愚かさが浮き彫りになる。


日本軍のインテリジェンスの問題点

小谷さんは次が日本軍のインテリジェンスの問題点であると指摘する。

1.情報部の立場の弱さ
2.情報集約機関の不在
3.近視眼的な情報運用
4.リクアイアメント(根本戦略)の不在
5.防諜の不徹底

この本全体を通じて、上記の問題点がわかりやすく説明されている。

知識としても、たとえばウルトラ情報(英国によるドイツエニグマ暗号の解読成功。これがため第2次世界大戦の終結が2年は早まったといわれているほど重要な出来事だ)とか参考になる。

論文としても一級であり、読み物としても面白い。おすすめできる旧日本軍のインテリジェンス研究だ。


参考になれば次クリック願う。






ミッドウェーの奇跡 元GHQ戦史室長がまとめた中立的戦史

8月15日が過ぎた。今度は、戦史とその教訓を振り返る本をいくつか紹介する。

ミッドウェーの奇跡〈上〉ミッドウェーの奇跡〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-02
おすすめ度:5.0
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ミッドウェー海戦といってもあまりピンと来ない人もいるかもしれないので、あらすじとともにYouTubeの映像もいくつか紹介しておく。

原書房という知らない出版社だし、装丁もパッとしないので、あまり期待しないで読んでみたが、実は著者のゴードン・プランゲ博士はGHQの戦史室長として昭和26年まで日本に滞在し、旧軍人を中心に200人もの人を自宅に招いて何度もインタビューし、それをもとに3つの作品を残した人だった。

プランゲ博士の収集したプランゲ文庫は、ワシントンDC郊外のメリーランド大学に保管されており、1945年から1949年の日本のほとんど全ての印刷物を集め、中にはGHQの検閲で発禁になったものも含まれる貴重なコレクションとなっている。


ブレンゲ博士の3部作

プランゲ博士の残した3つの作品で最も有名なものは、日米合作映画「トラ・トラ・トラ」の原作となった「トラ・トラ・トラ」だ。



トラトラトラ〈新装版〉トラトラトラ〈新装版〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:並木書房
発売日:2001-06-01
おすすめ度:4.5
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もう一つは日本経由でドイツの情報がソ連に流れていたゾルゲ事件を取り上げた「ゾルゲ・東京を狙え」。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-04
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そして今回の「ミッドウェーの奇跡」だ。


翻訳者の千早さんも戦史専門家

翻訳者の千早正隆さんは、終戦時の連合艦隊参謀で元海軍中佐、プランゲ博士が戦史室長を務めていた時にGHQ戦史室に勤め、資料収集に協力した。

千早さん自身も「日本海軍の戦略発想」という本で、敗戦原因について語っており、昨年末に新装版が発売されている。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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この本では、真珠湾攻撃に成功し、マレー沖海戦で英国艦隊に打撃を与え、セイロン沖海戦にも勝利して、米海軍に対し物量的にも優っていた日本海軍が、なぜアリューシャン列島攻撃ミッドウェー作戦という意味の無かった作戦を行い、敗れたのかを当時の日米関係者へのインタビューも含めて中立的に描いている。

「ミッドウェー」という映画も作られている。




ミッドウェー海戦の本

ミッドウェー海戦はまさに太平洋戦争の転換点となったので、敗戦の理由は過去からいろいろ取り上げられ、様々な本が出版されている。


「運命の5分間」

真珠湾攻撃総隊長として戦果を挙げた淵田美津雄氏(戦後は宣教師となった)と大本営参謀の奥宮正武氏の「ミッドウェー」。

ミッドウェー (学研M文庫)ミッドウェー (学研M文庫)
著者:淵田 美津雄
販売元:学習研究社
発売日:2008-07-08
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ミッドウェー海戦では、日本軍空母が地上攻撃の爆弾から艦隊攻撃の魚雷に爆装転換していた「運命の5分間」に太陽を背にした米国急降下爆撃機が突如現れ、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」に直撃弾を食らわせ、それが準備中の爆弾・魚雷に引火して大爆発を起こした。

それが直接の敗因で、あと5分あれば全機発艦して被害は免れていたというものだ。この「運命の5分間」についてはNHKがまとめたビデオで紹介されている。



これに対して「ミッドウェー海戦史に重大なウソを発見した」という澤地久枝さんは、「滄海よ眠れ」という全6巻のミッドウェー戦記を書いて「運命の5分間」に疑問を投げかけている。

滄海よ眠れ 1―ミッドウェー海戦の生と死
著者:澤地 久枝
販売元:毎日新聞社
発売日:1984-09
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澤地久枝さんの「記録ミッドウェー海戦」

澤地久枝さんは、集めた資料を一冊の本にして「記録ミッドウェー海戦」という本も出版している。

記録ミッドウェー海戦
著者:澤地 久枝
販売元:文藝春秋
発売日:1986-05
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実は筆者の亡くなった父からミッドウェー海戦で、いとこが空母の機関員として必死の操艦の末戦死したと、子どもの頃聞いたことがある。

この「記録ミッドウェー海戦」を調べてみると、たしかに「加賀」の機関員として「須山正一」という人が戦死している。筆者のおじさん(父の弟)から貰った昭和16年の戸籍謄本があるので確認してみたら、たしかにこの人は父のいとこで間違いない。

慰霊碑で親戚の名前を見つけた思いだ。19歳5ヶ月で戦死している。さぞかし家族は悲しんだだろうと思う。筆者もあたらめてショックを受けた。


ミッドウェー敗戦の根本原因

山本五十六大将は、ミッドウェー海戦後、部下に「敗戦は私の責任だ」と語ったそうだ。プランゲ博士もミッドウェー海戦の敗戦の真の責任者は山本五十六だと述べながらも、驕慢が海軍のみならず全国民に蔓延していたことを強調している。

「日本をこのように征服、驕慢、傲慢に駆り立てた歓喜に溺れた雰囲気の背景を見ることなくしては、ミッドウェーの史的ドラマの真相を理解することはできない。

「彼らが自信から生まれた幸福感にひたった過程を見ることなくしては、彼らが真珠湾で見せた綿密な作戦計画、徹底した訓練、細心な機密保持が、わずか6ヶ月足らずの間にどうして消え失せたのかを、知ることはできないであろう。」


ミッドウェー海戦の評価

この本でプランゲ博士はアメリカの海軍大学で教えている204SMEC方式という作戦評価方式で、日本軍のミッドウェー作戦を評価している。いかに成功の可能性が少なかったかがよくわかる。

1.目的
ミッドウェー島を攻撃し占領するのか、ニミッツの太平洋艦隊を撃滅するのか。プランゲ博士は日本の計画は最初から「双頭の怪物」だったという。そもそもアリューシャンとミッドウェーの両方をなぜ攻略しなければならないかったのか目的が不明だ。

2.攻勢
計画を成功率の高いものにするためには、"IF"に対する備えがなければならない。もしアメリカが察知していたら?もしアメリカが早く発見したら?もし第1航空艦隊が大損害を受けたら?日本は全く対策を立てていなかった。

もしリスクをきちんと考えていたら、敵がまだ発見出来なかった段階で空母4隻を一個所に集中させるような艦隊配置は取っていなかっただろう。

プランゲ博士が指摘する日本海軍のリスク認識欠如、慢心を示す一例が服装だ。空母の乗員の多くは半ズボン半袖で、防火効果がある長袖、長ズボンの戦闘服を着させていなかった。これがためやけどで命を失った乗員も多い。

3.交戦点における優勢
日本はこの時点では物量でアメリカを上回っていたのに、兵力を分散して集中効果を失った。アメリカ軍がほとんどいないアリューシャンを同時に攻めたり、戦艦を空母から300海里後方に配備したり、用兵を誤った。防御の弱い空母の代わりに戦艦を先頭に立てていたら、空母全部がやられることもなかっただろう。

4.奇襲
アメリカは日本海軍のJN25暗号を解読していた。日本側の通信の中で頻繁に出てくる"AF"がミッドウェーだということも知っていた。日本は潜水艦による策敵も飛行艇による哨戒も不十分だった。

ミッドウェー海戦前の暗合解読についてのNHKの番組がYouTubeに掲載されている。



5.機密保持
日本海軍は真珠湾の時のような機密保持の注意や綿密さは完全に消え失せた。ニミッツは事前に日本側の戦力をほぼ完全につかんでいた。

日本の空母にはレーダーが装備されていなかった。レーダーの試作機は戦艦伊勢と日向に装備されたが、この2戦艦はアリューシャンに向かっていた。レーダーが空母に装備されていたら、4空母が一度に沈められるということもなったろう。

6.単純性
山本長官は戦艦主義と航空主義の調整をつけられなかった。

戦艦は40センチ以上の主砲を持ち、陸上のいかなる要塞砲にも圧倒的に勝っているのに、ミッドウェー砲撃を主張する部下に、「君は海軍大学校の戦史の講義で、海軍艦艇は陸上兵力と戦うなということを習っただろう」と言ったという。

宇垣はさらに辛辣だったという「艦隊の砲力で陸上の要塞を攻撃することが、いかに愚かなことであるかは、十分に知っているはずではないか」

ミッドウェー島のどこに要塞があるというのだ。

彼我の戦力の徹底的な分析なしに、日露戦争の時の旅順攻撃の後遺症の「艦砲は要塞砲に敵し難い」という原則を忘れたのかと叱責する始末だった。

戦艦の艦砲射撃と航空攻勢を融合したのはニミッツだった。

7.行動性、機動性
山本長官は南雲部隊の空母4隻は失ったが、依然として4隻の空母、110機の航空戦力を持っていた。

アメリカ空母3隻のうち2隻が沈没あるいは大破だったので、日本は依然として強力な戦力を持っていた。それにもかかわらず、山本長官は空母を沈められ、艦載機の多くを失って、どうしたらよいかわからなくなくなって日本に逃げ帰った。

プランゲ博士は、山本長官はケンカ好きのテリアに追われて、しっぽを巻いて逃げ帰るセントバーナード犬のように大部隊を率いて本国に逃走したのだと評している。

8.戦力の最善活用
山本長官はあらゆる艦船を出撃させ、貴重な燃料を浪費した。さらにミッドウェー基地の空襲に使用した航空戦力は過大で、まだ見えないアメリカ機動部隊の反撃に備えるべきだった。

9.協同、統一指揮
山本長官は旗艦を連れて行ったばかりに、この重要な法則に違反することになった。無線封止を保つ必要から戦艦大和からは山本長官は指揮できなかったのだ。これに対してニミッツは真珠湾にいた。


血のつながった親戚が亡くなっているので、敵機がいつ現れないとも限らない戦場で、爆弾を積んだ飛行機をすべての空母の航空甲板上に並べていた日本海軍のリスク意識の欠如に憤りを感じるが、たしかにプランゲ博士が指摘しているように、当時は日本全体が戦勝に酔っており自らを失って慢心の極にあったことが根本原因だろう。

昭和天皇が「昭和天皇独白録」で、敗戦の第一の原因として挙げている通りだ。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」


ミッドウェー海戦は様々な教訓を残している。知識経営論の野中郁次郎教授も参加している日本軍の戦略の失敗を研究した「失敗の本質」は1984年発刊だが、いまだによく売れており、アマゾンでも540位のベストセラーだ。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
著者:戸部 良一
販売元:中央公論社
発売日:1991-08
おすすめ度:4.5
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あなたの親戚にも戦争で命を落とした人がいるはずだ。失敗から学ぶことが我々の使命だし、今なお学ぶべきことは多い。機会があれば、上記で紹介した本のどれかを読んで自分の参考にして欲しい。


参考になれば次クリック願う。



昭和天皇論と天皇論 小林よしのりの天皇論2部作

ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論
著者:小林 よしのり
販売元:幻冬舎
発売日:2010-03
おすすめ度:5.0
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小林よりのりによる「昭和天皇論」と「天皇論」を続けて紹介する。

まずは「昭和天皇論」だ。次に紹介する「天皇論」は、天皇家についての知識が深まり大変参考になったが、「昭和天皇論」は、歴史というよりは昭和天皇の誠実な人柄を描いている。

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出典:Wikipedia(以下別注ない限りすべて)

本の帯に「これほどの覚悟、これほどの孤独、これほどの無私を貫いた日本人がいただろうか?」と書いてあるが、まさにその通りだと思う。

この本では太平洋戦争終戦前後の話を中心に、終戦を決めた昭和天皇の「聖断」に至るまでの天皇を取り巻く人々の動きと、天皇の「聖断」が明治憲法上も適法であったことをマンガで説明している。

御前会議

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マッカーサーとの会見

天皇とマッカーサーとの最初の会見では、命乞いをしにきたと思いこんだマッカーサーに対して、自分が全責任を負う、自分の身は連合国の裁決にゆだねるために来たと天皇は言い放った。マッカーサーは感動して、予定を変更して陛下を見送ったという。

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もっともこれはマッカーサーの自伝や、GHQ勤務者などの話を総合して、できたストーリーで、昭和天皇ご自身はマッカーサーとの約束で「男子の一言」のようなもので、明かせないと終生語らなかった。


8年半の全国巡幸

戦後は敗戦から立ち直ろうとする日本国民をはげますために昭和21年から8年半全国を巡幸し、165日、合計3万3千キロも全国をまわった。

農村、山村、漁村、常磐炭坑、三池炭坑では地下数百メートルの採炭場所まで降りて、炭坑夫を励ました。

この本では各地での住民との交流でのハプニングなども取り上げ、天皇の人柄を描いている。本当に無私の人である。


敗戦時は天智天皇をしのぶ

敗戦時の天皇の心境は、百済を支援した日本水軍が、663年白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦い惨敗し、本土決戦に備えた天智天皇(中大兄皇子)の心境と同じものがあるという。

昭和21年の終戦記念日に際しては、次のように語っている。

「わが舟師が唐軍と白村江で戦い惨敗した当時の天智天皇がおとりになった国内整備、いわゆる文化国家建設の経綸をしのびたい」


環境劣悪な御文庫

昭和天皇は皇居が空襲にあって消失してからは、防空建設の地上1階、地下2階の御文庫に住まわれていた。御文庫は御前会議も開かれた500キロ爆弾にも耐える防空建造物だったが、住環境劣悪で、猛烈な湿気で、光もささず、健康に悪い。

しかし昭和天皇は「世の中には住む家のない人もある」として転居を拒否し、昭和36年新たに建設した吹上御所に移られた。「こんないい家に住めるようになったのも、みんな国民のおかげだ」と語られたという。

天皇の背広や帽子にはつくろいの跡があったことは、有名な話だ。国民の生活が楽にならないうちは、洋服はつくる気にならないとして10年以上も新調しなかったという。


昭和天皇の墓 武蔵野陵

八王子市の武蔵野陵(むさしののみささぎ)が昭和天皇のお墓だ。高尾山駅からタクシーで行くところだそうだが、小林よしのりは、武蔵野陵を訪問して、その様子も書いている。

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全編を通して、使命感の権化ともいえる、昭和天皇のお人柄がしのばれる。


昭和天皇の御製で昭和天皇の人柄をしのぶ

最後に小林よしのりが好きな天皇の御製をいくつか紹介している。お人柄がよくあらわれている御製である。


昭和20年終戦

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて


昭和21年 歌会始

ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ


昭和62年 

思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを


昭和63年 全国戦没者追悼式

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど


昭和63年 最後の御製

あかげらの 叩く音する あさまだき 音たえてさびし うつりしならむ


次は「天皇論」だ。歴史知識の部分が多いので、参考になる。

ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論
著者:小林 よしのり
販売元:小学館
発売日:2009-06-04
おすすめ度:4.5
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別ブログでも紹介した「靖国論」、「いわゆるA級戦犯」など、役に立つマンガ作品を多く書いている小林よしのりの作品。筋の通った主張とマンガとは思えない綿密な下調べには脱帽する。

アマゾンのランキングでも上位となっており、よく売れているようだ。

400ページ弱の作品だが、マンガとは思えないほど字が多く、ところどころ手書き風の感想をページの上に載せたりして大量の情報を凝縮しているので、読むのに3日ほどかかった。

たとえば99ページの上の感想は:

「4月10日、天皇皇后両陛下の御大婚50年をお祝いする集いに参加した。宇崎竜童のスピーチは素晴らしかった。あの緊張感ある中、巧みなユーモアを織り込みながら会場を和ませ、しかも品を落とさず、あんな見事な話が出来るとは!」

といった感じだ。


日本人は天皇についてもっと知るべき

日本人がもっと天皇について知るべきだという主張をこめて、小林よしのりはこの本を書いたのだと思うが、筆者自身もあまりに天皇について知らないことを思い知らされた。

その意味では大変勉強になった。

たとえば「三種の神器」。まずは読み方だ。

恥ずかしいことながら、いままでずっと「さんしゅのじんき」だと思っていた。

「さんしゅのじんき」で転換すると、「三種の人気」になってしまう。つまり間違いなのだ。

正しくは「さんしゅのじんぎ」である。これを転換すると「三種の神器」と正しく表示される。


三種の神器

三種の神器とは八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ、天叢雲剣=あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことだ。

てっきりすべて皇居にあるものと思っていたが、実は皇居にある鏡と剣は分身で、八咫鏡の本体は伊勢神宮に、草薙剣の本体は熱田神宮にある。

三種の神器は天照大神(あまてらすおおみかみ)から高天原(たかまがはら=神々の国)から豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに=地上)に降臨したニニギノミコトに授けられたものだ。ニニギノミコトのひ孫が神武天皇で、代々の天皇が受け継いできた。

天皇家の宝物であり、天皇の皇位継承権を裏付けるものだ。

これで終戦の直前に、天皇が米軍が伊勢湾あたりに上陸してくれば、伊勢神宮も熱田神宮も米軍の手に落ちるので、国体も護持できなくなると言われていたことが納得できた。

その部分を「昭和天皇独白録」から引用すると。

「当時私の決心は第一に、このままでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護することが出来ない。

第二には国体護持の事で木戸も同意見であったが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直に敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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祭日の本来の由来

祭日(祭祀を行う日)の本来の由来も知らなかった。

勤労感謝の日の11月23日は新嘗祭(にいなめさい)、春分の日は春季皇霊祭、秋分の日は秋期皇霊祭、つまり皇室の先祖を祀る祭日だった。

GHQの指令で祭日の呼び名が変わったのだ。

ちなみに天皇が即位して最初の新嘗祭が大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)だ。


天皇は祭司王

この本では小林よしのりは、天皇は「祭司王」であり、祭祀(さいし)を行うことこそが天皇の本質であると力説する。天皇は国民の為に祭祀を行い、祈っているのだ。

天皇の祭祀と儀礼はこの本に簡単に紹介されているので、参考になる。

皇室祭祀

皇室祭祀












出典:本書151ページ


あらためて天皇皇后両陛下への尊敬の念を抱く

この本を読むと天皇皇后両陛下への尊敬の気持ちがあらためてわいてくる。

多くの感動を与える話が紹介されているので、小林よしのり自身も「泣いているのではない」と強がりをいいながらも、こんな絵をところどころに載せている。

小林よしのりの「涙管が塞がっている」図

小林よしのり感動






出典:本書150ページ


詳しくは是非この本を読んで欲しいが、いくつか紹介しておく。


皇后さまの失語症からの回復

1993年皇后陛下がマスコミのバッシングの心労から倒れられ、失語症になられたときがあった。

「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを翌年出されている。

そして皇后様が声を取り戻したときの第一声は、「もう大丈夫、私はピュリファイ(浄化)されました」だったという。

小林よしのりも語っているが、理不尽なバッシングから回復したことを、「清められた」と表現することが常人にできるだろうか?


社会的弱者支援への熱意

小林よしのりは平成20年12月19日の天皇陛下御即位二十年奉祝中央式典に参加したという。国会議員連盟と民間の委員会の共催で、149名の国会議員、99カ国の駐日大使、出席者4,000人が出席した。

そのときに小川榮一日本身体障害者団体連合会会長は、障害者支援の天皇陛下や皇室の熱意を、感謝を込めて語っている。

パラリンピックがオリンピックの翌年同じ都市で開催されるようになったのは、東京が最初で、その実現には当時の皇太子殿下、今上天皇陛下はじめ皇室の絶大なる支援があった。

「ハンディがあっても、国民の一人として尊重してくださり、障害者とその家族、関係者に勇気と自信を与えてくださっている皇室こそ、日本の素晴らしい国柄を代表されていると思っております」


沖縄県民への思い

今上天皇陛下は皇太子時代、本土復帰前から沖縄に心を寄せ続けておられた。そして沖縄の文化を学び、3,000首もの歴代琉球王が詠んだ琉歌をノートに書き写し、自分でも琉歌を作れるようになられたのだ。

琉歌はサンパチロクと言われる8+8+8+6語の琉球語の古歌だが、今や沖縄生まれの人でも作れる人は少ないという。

沖縄を訪問されて、自作の琉球歌を詠まれた。摩文仁(まぶに)と呼ばれるこの御製の琉歌は、毎年沖縄の慰霊祭の前夜祭で演奏されているという。摩文仁村は村民の半分が戦死した沖縄戦の最大の激戦地だ。

「フサケイユルキクサ ミグルイクサアトゥ クリカイシガイシ ウムイカキティ」
(ふさかいゆる水草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて)

訳:かつての戦場跡には草木が茂っている。その草木の間を巡りながら繰り返し繰り返し戦争の当時のことを思う

今上天皇は独学で琉歌を覚え、この歌をつくった。

沖縄の遺族はこう語る:

「天皇陛下から直接お言葉を賜ったあの日の感激は、今なお私たち遺族の心の支えになっております。」

小林よしのりは語っている:

「これほど深く敬意を示した慰霊の姿勢が、他にあるだろうか!」

たしかにそう思う。

1975年の最初の沖縄訪問では真夏にもかかわらず、当時皇太子・妃殿下両だった陛下は正装のままで、流れる汗もぬぐおうとせずハンカチを一度も使わなかったという。

サイパンでもバンザイクリフスーサイドクリフに向かって深々と黙祷を捧げられた。日本の慰霊碑のみならず、米軍の慰霊碑、韓国人慰霊碑に黙祷を捧げられた。


天皇陛下の行幸

天皇の国内訪問は行幸(ぎょうこう)と言われているが、最大の目的は人に会うことだ。

基本的には各都道府県が提案する場所に行くが、まず福祉施設(障害者施設、老人ホーム、保育園など)、地方の文化施設で皆の誇りになっているところ、そして農業・漁業など地域の産業に関係するところを選んで欲しいと地元に伝えているそうだ。


天皇陛下が人に会うときには事前にその人のことを色々調べて、当人も驚くほどにその人のことを知っていると言われている。

超多忙な天皇陛下がそれだけまめに、会う人のことを調べているのは、感動を通り越して、驚異といった方が良いと思う。

あらためて感動を覚えるとともに、今上天皇皇后両陛下を国の元首として戴いていることに国民の一人として喜びを感じる。


文字情報が多いのでマンガだからといって、決して読みやすいわけではないが、天皇の歴史と実際の姿がわかる。

国民必読の天皇論だと思う。是非書店で手にとって見ることをおすすめする。


参考になれば次クリック願う。






昭和天皇独白録 寺崎英成 御用掛日記 貴重な歴史資料

+++今回のあらすじは長いです+++

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記
著者:寺崎 英成
販売元:文藝春秋
発売日:1991-03
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外交官出身で、戦後すぐ昭和21年2月に昭和天皇の御用掛となった寺崎英成氏の記した昭和21年3ー4月の昭和天皇の独白録と寺崎さんの昭和20年から昭和23年までの日記。

寺崎氏は1900年生まれ。昭和天皇より1歳年上だ。兄太郎氏と英成氏の外務省の寺崎兄弟は、柳田邦男さんのノンフィクション「マリコ」の中心人物で、「マリコ」を日米交渉の暗号として連絡を取り合い、日米開戦を回避するために最後まで努力したことが知られている。

マリコ (1980年)マリコ (1980年)
著者:柳田 邦男
販売元:新潮社
発売日:1980-07
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上記に文庫版と単行本を紹介したが、1991年に単行本として出版されたときは、「昭和天皇独白録」(130ページ)、「寺崎英成御用掛日記」(230ページ)、寺崎さんの娘のマリコ・テラサキ・ミラーさんの寄せた「遺産の重み」等(40ページ)の3部作がセットになっていた(カッコ内は、それぞれのページ数)。

「寺崎英成御用掛日記」は元々かなりカットされているが、それでもページ数が230ページと多い。人に公開する前提で書いたものではなく、あまりに私的な部分が多いからだろうが、1995年の文庫版では収録されていない。

その代わり文庫版では半藤一利伊藤隆児島襄秦郁彦の4氏による座談会「独白録を徹底研究する」を解説代わりに付けている。

「昭和天皇独白録」は1990年12月の文藝春秋に発表されて、その存在が明らかになったもので、昭和21年3月から4月にかけて松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、 張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を 4日間計5回にわたって昭和天皇から直接聞き、まとめたものだ。

昭和21年始めにマッカーサーは天皇の戦争責任を追及しないという方針を固めていた(この辺の事情は後述の「御用掛日記」の解説にもふれられている)。

なぜ天皇へのヒアリングが同年4月からの東京裁判直前に行われ、ヒアリングが何のために役立てられたのか、寺崎氏の筆記録以外に本紙があったのか、天皇の証言ははたして英訳されたのかなど、文庫版の座談会でも議論されているが不明なままだ。

こんな第1級の資料が1990年になるまで埋もれていたこと自体が信じられないが、寺崎英成氏が昭和26年に死去した後、遺品は米国在住の寺崎夫人グエンドレン(グエン)さんと、娘のマリコさんに引き取られた。

マリコさんの家族は日本語が読めないのでそのままになっていたところ、マリコさんの長男コール氏が興味を持ち、知り合いの南カリフォルニア大学ゴードン・バーガー教授経由日本の現代史研究家に紹介したところ、「歴史的資料として稀有なものである」というお墨付きを得て、文藝春秋に発表したものだ。ちなみに日本の現代史研究家とは座談会にも出席している伊藤隆東大名誉教授のことだ。

「昭和天皇独白録」は、寺崎氏特注の便箋に大半が鉛筆書きで記入され、上下2巻にまとめられたものだ。

出だしに「記録の大体は稲田(周一内記部長)が作成し、不明瞭な点については木下(道雄侍従次長)が折ある毎に伺い添削を加えたものである」

「昭和21年6月1日、本扁を書き上ぐ 近衛公日記及迫水久常の手記は本扁を読む上に必要なりと思い之を添付す」となっている。

この寺崎メモが発見される前に、同じく天皇のヒアリングに立ち会った木下道雄氏の「側近日誌」に断片的に記されていたので、ヒアリングがあったという事実はわかっていたが、克明な資料が残されていたことが、寺崎メモで初めて明らかにされたのだ。

側近日誌
著者:木下 道雄
販売元:文藝春秋
発売日:1990-06
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この「昭和天皇独白録」の重要部分は、前回紹介した半藤一利さんの「昭和史」、別ブログで紹介した小林よしのりの「天皇論」旧皇族の竹田恒泰さんの「皇族たちの真実」にも引用されているが、まさに昭和史のFAW(Forces at Work=原動力)を裏付ける証言となっている。

昭和天皇が崩御された1989年の翌年の1990年にこの本が出版されたことも、昭和という時代を振り返る上で良いタイミングであったと思う。

不勉強で恥ずかしい限りだが、実はこの本を読むまで「昭和天皇独白録」は、昭和天皇御自身が書かれたものだと思いこんでいて、御用掛の寺崎さんが記録したものとは知らなかった。


独白録の項目

この「独白録」には、ところどころに半藤一利さんの解説も付いているので大変理解しやすい。まずは各項のタイトルを紹介しておく(カッコ内は実際に起こった年で、原本とは異なる)。

<第1巻>
・大東亜戦争の遠因
・張作霖爆死の件(昭和3年)
・倫敦会議、帷幄上奏(いあくじょうそう)問題(昭和5年)
上海事件(昭和7年)
・天皇機関説と天皇現神説(昭和10年)
二二六事件(昭和11年)
・支那事変と三国同盟(昭和12年と15年)
・ノモンハン事件(昭和14年)
・阿部内閣の事(昭和14年)
・平沼と日独同盟(昭和14年)
・御前会議というもの
・米内内閣と陸軍(昭和15年)
・三国同盟(昭和15年)
・南仏印進駐(昭和16年)
・日米交渉(昭和16年)
・9月6日の御前会議(昭和16年)
・近衛の辞職と東条の組閣(昭和16年)
・開戦の決定(昭和16年)
・ルーズベルト大統領の親電

<第2巻>
・宣戦の詔書
・ローマ法皇庁に使節派遣(昭和17年)
・詔書煥発要望の拒否及伊勢神宮
・敗戦の原因
・東条内閣の外交
・東条内閣の内政
・東条という人物
・東条の辞職
・小磯内閣
・小磯の人物
・講和論の台頭
・御名代高松宮の神宮参拝
繆斌(ぼくひん)問題
・最高幕僚設置問題
・小磯の辞職
・鈴木内閣
・首相推薦の重臣会議
・外務大臣・陸軍大臣の任命
・沖縄決戦の敗因
・講和の決意
・6月8日の御前会議とX項
・ソビエトとの交渉
・ポツダム宣言をめぐっての論争
・8月9日深夜の最高戦争指導会議
・8月10日の重臣会議
・12日の皇族会議
・8月14日の御前会議前後
・結論

貴重な資料なので、どれもふれておきたいが、一々紹介していくときりがないので、特筆すぺき発言の要点だけを記すと次の通りだ。(現代仮名遣いに修正済)


★大東亜戦争の遠因
この原因は、第一次世界大戦後の平和条約で、日本の主張した人種平等案は列国から認められず、差別意識は残り、青島還付やアメリカの排日移民法などが日本国民を憤慨させ、反米感情を決定的にした。このような反米国民感情を背景として、ひとたび軍が立ち上がると、これを抑えることは容易ではない。

これが独白録の冒頭文だ。昭和天皇の考える根本のFAW(Forces at Work)をあらわしていると思う。


★張作霖爆死事件の顛末
当時の田中義一首相がうやむやに葬りたいと言ってきたことに対して、「それでは前と話が違うではないか。辞表を出してはどうか」と天皇が言ったことが、田中義一内閣の総辞職と、2ヶ月後の田中義一首相の死去につながった。

実際には首謀者の河本大佐が軍法会議で日本の謀略をすべてバラすと言ったので、軍法会議が開催出来なかったという事情があったらしい。

「こんな言い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう言い方をした。」

「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは、たとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。」

天皇は国家機関の一部であるとする美濃部達吉の「天皇機関説」は、一時は主流学説だったにもかかわらず、昭和10年に突如国体に反するとの声があがり、禁止された。しかし天皇自身はこのように内閣の上奏は拒否しないことで、絶対君主的な統治者ではないことをはっきり認識されていた。

ちなみにこの項でいわゆる「君側の奸」にもふれている。

原文を引用すると、

「田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」という言葉を作り出し、内閣のこけたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。」

「かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とかいう、いやな言葉や、これを真に受けて恨(うらみ)を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々まで大きな災いを残した。かの二二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。」


二二六事件
天皇は田中内閣の苦い経験があるので、必ず輔弼の内閣の進言通りにしたが、二二六事件と終戦の二回だけは積極的に自らの考えを実行させた。反乱軍には天皇自ら討伐命令を下した。

二二六事件以降軍事テロの恐怖が、常に昭和天皇や政府首脳の頭にトラウマとしてこびりつくことになる。


御前会議
枢密院議長を除く、内閣、軍令部のメンバーは事前に意見一致の上、御前会議に臨むので、反対論を言える立場の人は枢密院議長だけで、多勢に無勢、全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない。


★日独伊三国同盟
昭和15年9月7日、バトルオブブリテンでドイツの英国侵攻失敗が決定的になった日にドイツからスターマー特使が来日、9日後の9月16日、日独伊三国同盟締結が閣議決定された。

昭和天皇は同盟反対だったが、閣議決定には従わざるを得なかった。

この項の前にも昭和天皇は三国同盟締結を勧める秩父宮とケンカしたとか、私が味方にしていたのは、前には(第一次近衛内閣)米内、池田、後では(平沼内閣)有田、石渡、米内だったと語っている。

「この問題については私は、陸軍大臣とも衝突した。私は板垣(征四郎)に、同盟論は撤回せよと言ったところ、彼はそれでは辞表を出すという。彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」

さらに畑俊六陸軍大将を侍従武官に任命した時にも、日独同盟反対ということが確かめられたので任命したと語っている。

「宮中が極力親英米的であったという事は之でも判ると思う」と天皇は語っている。

日独伊三国同盟は、いずれソ連を入れて日独伊ソ四国同盟として、英米に対抗して日本の対米発言権を強めようという松岡洋右外相の空虚な発想のもとで締結されたが、松岡は吉田善吾海軍大臣をだまして日独同盟に賛成させたと天皇は語っている。

この部分を引用すると、

「吉田善吾が松岡の日独同盟論に賛成したのはだまされたと言っては語弊があるが、まあだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬというのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶドイツ種がいるから之が時に応じて起つと信じていた、吉田は之を真に受けたのだ。」

「吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米軍は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果たさず後辞職した。」

「後任の及川(古志郎)が同盟論に賛成したのは、前任の吉田が賛成した以上、賛成せざるを得なかった訳で当時の海軍省の空気中に在ってはかくせざるを得なかったと思う。近衛の手記中に於て、近衛は及川を責めているが、之はむしろ近衛の責任のがれの感がある」

松岡洋右については、昭和16年2−4月のドイツ訪問後ドイツびいきになったことで、「それからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる」とまで語っている。

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

さらに三国同盟については、天皇は近衛首相に、次のように言っている。

「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」

そしてその結末については、

「日独同盟については結局私は賛成したが、決して満足して賛成した訳ではない。(中略)三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦まできた三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思う」

「日米戦争は油で始まり油で終わった様なものであるが、開戦前の日米交渉時代にもし日独同盟がなかったら米国は安心して日本に油をくれたかも知れぬが、同盟があるために日本に送った油がドイツに回送されはせぬかという懸念の為に交渉がまとまらなかったとも言えるのではないかと思う」


★近衛の辞職と東条の組閣
陸軍は主戦論、海軍は戦争はできないことはないが、2年後になると財政経済の国力の問題になるから、和戦の決定は総理大臣に一任するという立場だった。

近衛は信念と勇気を欠いたので、処理に悩み辞職した。

その後は陸軍を抑える力のあるものということで東条を首相とし、9月6日の御前会議の決定を白紙に戻して平和になるよう極力尽力せよということで条件を付けた。

天皇の東条の評価は高いことがこの「独白録」からもわかる。


★開戦の決定
天皇の言葉は次の通りだ。

「問題の重点は油だった。中略。石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考が決定的になったのは自然の勢と言わねばならぬ。」

「もしあの時、私が主戦論を抑えたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタがおこったであろう。」

「実に難しい時だった。そのうちにハルのいわゆる最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に至った訳である。」

尚、半藤一利さんも「昭和史」のなかでコメントしていたが、天皇の広田弘毅の評価は低い。「玄洋社出身の関係か、どうか知らぬが、戦争をした方がいいという意見を述べ、又皇族内閣を推薦したり、又統帥部の意見を聞いて、内閣を作った方が良いと言ったり、全く外交官出身の彼としては、思いもかけない意見を述べた」


★ローマ法皇庁に施設派遣
「開戦後法皇庁に初めて使節を派遣した。これは私の発意である。」

ローマ法皇庁が全世界に及ぼす精神的支配力を見込み、戦争を終わらせる上で好都合で、世界の情報収集にも便利という発想だったという。ただ日独同盟の関係から、ヒトラーと疎遠な関係にある法皇庁に十分な活動はできなかったという。


★敗戦の原因
天皇の言葉をそのまま引用する。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」

半藤さんの解説には、最近になって公表された昭和20年9月9日付けの皇太子(今上天皇)宛の天皇の手紙が引用されている。

「我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである。
我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。
明治天皇の時には、山縣、大山、山本等の如き名将があったが、今度の時はあたかも第一次世界大戦のドイツの如く、軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」


★戦況の分かれ目
「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから(昭和18年9月)勝利の見込みを失った。一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、ドイツとの単独不講和の確約があるので国際信義上、ドイツより先には和を議したくない。それで早くドイツが敗れてくれればいいと思ったほどである。」


★沖縄決戦の敗因
「これは陸海作戦の不一致にあると思う。沖縄は本当は三個師団で守るべきところで、私も心配した。」

「特攻作戦というものは、実に情に於いて忍びないものがある。敢えてこれをせざるを得ざるところに無理があった。」

「海軍はレイテで艦隊のほとんど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、これも飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」


★本土決戦準備
「敵の落とした爆弾の鉄を利用してシャベルを作るのだという。これでは戦争は不可能ということを確認した」


★結論
「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なる所はない。」

中略

「今から回顧すると、私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於いてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。」

「日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ちながらいよいよという時に決起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作ってこれに補給しようとすれば、日本の産業をほとんど、全部その犠牲とせねばならぬ。それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。」

「開戦当時に於ける日本の将来の見通しは、かくの如き有様であったのだから、私がもし開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。」

「それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う。」

これが「昭和天皇独白録」の結論である。


寺崎英成御用掛日記

昭和20年8月15日から昭和23年2月15日までの寺崎英成氏の日記だ。寺崎家の日常のこともふれられていて、何を食べたとか、誰と会ったとかの記録がほとんどで、たとえば「昭和天皇独白録」のヒアリングについては一切ふれていない。

たぶん公の機密事項については、他人が読む可能性のある日記には書かなかったのだろう。

230ページもの日記だが、マリコ・テラサキ・ミラーさんが書いているように、この時代が寺崎氏のキャリアで最も充実した時代だった。戦前から米国には多くの知人があり、奥さんが米国人だったこともあり、GHQ,大使館にはフリーパスだったそうだ。

寺崎氏は日米開戦時にワシントンの日本大使館に勤務していたが、日米開戦後帰国し、待命状態が続き、一時は外務省を離れていたが、昭和20年11月に終戦連絡中央事務局(終連)連絡官として復職する。

このときの同僚が終連参与の白洲次郎だ。

吉田茂の引きで終連参与となった白洲次郎は、どうやら寺崎氏など外交官出身者には吉田茂の虎の威を借る狐のように思えた様で、

「白洲、新聞記者が部外者に自動車を出していて怪しからぬと言う。怪しからぬハ白洲なり。余を部外者とハ何ぞや。」

「陛下ハ吉田白須(白洲)のラインに疑念を持たるるなりと言う」

というような表現も見られる。

寺崎氏の戦前からの知己、ジョージ・アチソン氏がマッカーサーの政治顧問団団長だったり、マッカーサーの直属の副官部の軍事秘書で、いわゆるバターンボーイズの一人のボナ・フェラーズ准将が夫人のグエンさんの親戚だったりで、GHQへの食い込みは単なる知米派を超えるものがある。

この日記を見ると頻繁にGHQのアチソン、フェラーズ、バンカー(マッカーサー副官)、フィットネー(ホイットニー民政局長。白洲次郎の宿敵のケーディス中佐の上司)他の様々なスタッフと頻繁に会ったり、食事したり、ゴルフや鴨狩に行ったりして公私ともに親密なつきあいをして、それが日本のためにもなっていることがわかる。

マッカーサーの写真を見ると腰にピストルを持っている副官が必ず同行しているが、それがフェラーズ准将であり、小泉八雲に傾倒し、天皇についても「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない。事実、記録をよく調べてみたまえ。そうそればどちらが戦犯か明らかになる」と明言していたという。

このフェラーズ准将は、次のような天皇に関する覚書を昭和20年10月2日付けで作成していた。マッカーサーはこの覚書を常にデスクに入れ、時々読み返していたことをウィロビー少将などが認めている。

「…われわれアメリカ軍は天皇に協力を求め、日本への無血侵入を成功裡に遂行した。七百万余の日本軍将兵が武器を捨て、急速に陸海軍が解体されたのは天皇の命令による。この天皇の行為によって、数十万の米軍将兵は死傷を免れた。戦争も予期された時日よりはるかに早く終結した。」

「このように、いったん天皇を利用した上で、その天皇を戦争犯罪を口実に裁くならば、日本国民はそれを信義にもとるものと見なすであろう。…もし天皇を裁判にかけるならば、日本の統治組織は崩壊し、民衆の決起は不可避である。他の一切の屈辱に耐えても、この屈辱に日本国民は耐ええないであろう…。」

まさにアメリカの天皇に対する占領政策を決めた覚書である。

統率の取れた武装解除を物語るビデオがYouTubeに掲載されているので、紹介しておく。昭和20年8月30日厚木飛行場に到着したマッカーサー一行が移動する時に、沿道には日本の兵隊が50メートルおきに立ち、全員マッカーサー一行に背を向けて、不届き者が近づかないように監視していた。

日本軍から攻撃されるかもしれないと戦々恐々だったマッカーサー一行は、秩序だった警備に感動し、これが天皇には手を付けてはならないという確信に繋がったのだろう。



半藤一利氏も「この日記のなかで、いちばん注目せねばならないのは、何といってもフェラーズの名であろう。」と解説している。

頻繁に会っているのがワシントン時代からの旧知の仲で、国際検察局捜査課長として赴任してきたロイ・モーガンだ。その面談の頻度から、東京裁判の被告人選定などに寺崎氏から情報収集をしていたのではないかと思わせる。

昭和21年に寺崎氏は皇太子(今上天皇)の家庭教師、ヴァイニング夫人の選定にもかかわっており、着任したヴァイニング夫人ともよくコンタクトしていたことがわかる。


遺産の重み

最後のマリコ・テラサキ・ミラーさんの「遺産の重み」は「宿命的な母グエンの死」、「ある外交官の挫折と栄光」、「かけ橋(ブリッジ)こそ父母の遺産」の3部作で構成されている。

寺崎氏の生涯や夫妻の出会い、戦時中の生活などを紹介している。冒頭で紹介した柳田邦男氏のノンフィクション作品「マリコ」で描かれている寺崎兄弟の日米戦回避努力が”表側”の生活だとしたら、戦時中の”裏側”の苦労などが綴られていて興味深い読み物となっている。

マリコさんは日米間のかけ橋となって欲しいという父母の遺産の重みを感じており、毎年のように来日して各地で講演している。

その象徴はドテラだ。

寺崎氏が、グエンさんを抱いてドテラにくるまって、「こうすれば二人は”一人の巨人”で怖いものなしさ」と言っていたという。ただでさえ難しい国際結婚で、しかもお互いの国が戦争していたのだから、普通以上の苦労をした二人であった。

日本とアメリカが”ドテラ”にくるまってひとつになったときに、本当の巨人になれるというメッセージを伝え続けていきたいとマリコさんは語っている。

8月の終戦記念日を迎え、昭和生まれの人にも平成生まれの人にもおすすめできる本だと思う。

文庫本の方が手っ取り早く読むには適しているが、時間があれば単行本も読んで頂きたい。単行本には写真も多く掲載されており、寺崎さんの日記も参考になる。

文庫本の座談会は、調べてみたら全員東大出身の小説家、学者で、児島襄さんは、半藤さんの東大ボート部の3年先輩だった。自由闊達な座談会でないのがやや残念なところだ。

参考になれば次クリック願う。




昭和史 1926−1945年 半藤一利さんの「あたまにスッと入る昭和史」

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
著者:半藤 一利
販売元:平凡社
発売日:2009-06-11
おすすめ度:3.5
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このブログでの終戦記念日特集は、今度はみずから「歴史探偵」と語る現代最高の歴史小説家の一人半藤一利さんの歴史講釈。

半藤さんの「幕末史」のあらすじを別ブログで紹介したが、本としてはこの「昭和史」の方が先に出版された。

編集者の「学校でほとんど習わなかった昭和史のシの字も知らない私たち世代のために、手ほどき的な授業をしていただけたら、たいそう日本の明日のためになるのですが」という説得から、4人のスタッフを相手に1回2時間弱、月1回程度、寺子屋的に行った昭和史の講義を編集したもの。

少人数の講義という意味では「幕末史」も同様だが、最近の作品の「幕末史」の方が歌あり、漫談ありでリラックスしてきた感じだ。


昭和史のFAW

さすが「昭和史の語り部」と呼ばれているだけあって、非常にわかりやすく昭和史を解説している。まさに「頭にスッと入る昭和史」だ。

なぜわかりやすいかというと、コンサルがFAWと呼ぶ(Forces at Work)出来事の根っこにあるトレンド、歴史を作った原動力が明確に示されているからだ。

この本で挙げられている昭和史のFAWの最も重要なものを、筆者なりに抜き出すと次の通りだ。

1.張作霖爆殺事件処理をめぐる昭和天皇の田中義一首相譴責 ー 「沈黙の天皇」誕生

「昭和天皇独白録」に収録されている天皇と田中義一首相とのやりとりは次の通りだ。

「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」、「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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これ以降内閣の一致した意見ならば、天皇はたとえ不賛成であっても裁可を下すことになり、まさに天皇機関説通り、最高権力者としての天皇でなく、一国家機関になった。「沈黙の天皇」の誕生である。


2.統帥権という「魔法の杖」 内閣と統帥権の分離

1922年海軍大臣が認めたワシントン軍縮条約を軍令部が拒否し、「統帥権干犯」問題が発生した。

これ以降、軍の統帥権は天皇の不可侵の権利とされる。内閣と軍令部の二重構造が常態化したのだ。

司馬遼太郎さんが「魔法の杖」と呼ぶ統帥権分離を思いついたのは2.26事件で銃殺になった北一輝といわれている。


3.戦争をあおって売り上げを急増させた新聞などマスコミ

今は朝日新聞などは左派リベラルのようになっているが、戦前はマスコミ全部が戦争に大賛成していた。

昭和6年の満州事変以来、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)の各社は関東軍を支持、売り上げを伸ばす。

戦争中の大本営発表自体が戦果を誇張、というよりも戦果をねつ造していたもので、それに輪を掛けてマスコミ各社は戦争を賛美していたのだ。

これはいわゆる知識人も変わらない。ほとんどが戦争賛成だったのだ。

半藤さんは「真珠湾の日」で小説家や評論家などの発言を多く載せているが、この本でも当時の第一級の知性といわれた小林秀雄亀井勝一郎横光利一中島健蔵などの民族主義的発言を紹介している。

“真珠湾”の日 (文春文庫)“真珠湾”の日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2003-12
おすすめ度:4.0
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そんな中で敗戦を予想して、東京都鶴川村に隠棲した白洲次郎の生き方は自分のプリンシプルを鮮明に打ち出していて、いかにも次郎らしい。

白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
おすすめ度:4.0
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4.2.26事件が残した軍事テロの恐怖

松本清張は「2.26事件」で、次のように書いている。

「これ以降の日本は、軍部が絶えず”2.26”の再発をちらちらさせて、政・財・言論界を脅迫した。かくて軍需産業を中心とする重工業財閥を軍が抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股に歩き出すのである。この変化は、太平洋戦争が現実に突如として勃発するまで、国民の眼にはわからない上層部において、静かに、確実に進行していった」

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)
著者:松本 清張
販売元:文藝春秋
発売日:2005-07-08
おすすめ度:4.5
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「昭和天皇独白録」でも天皇はこう語っている。

「私がもし開戦の決定に対して”ベトー(拒否)”したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それはよいとしても結局狂暴な戦争は展開され…」

山本五十六は「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい」と語ったという。

これも2.26事件の大規模なテロの恐怖がもたらしたものだろうと、半藤さんは語る。


広田弘毅内閣の3大失策

これらの4つが戦争までの昭和史の大きなFAWだが、それ以外にも小さなFAWがあった。

特に戦争につながったという意味では、広田弘毅内閣の軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定、「北守南進」政策(南進論)という3大失策を挙げている。

・軍部大臣現役武官制が復活したので、これ以降軍部が内閣の生殺与奪の権を握ることになった。

・日独防共協定は、日独伊防共協定、そして1940年9月の日独伊三国同盟につながり、枢軸国側につくことで英米との対決を決定的なものにし、結果的にアメリカが第2次世界大戦に参戦する理由となった。

「昭和天皇独白録」で天皇はこう語っている。

「三国同盟について私は秩父宮と喧嘩して終わった」

1940年9月16日に三国同盟を上奏する近衛首相に対して天皇は物資不足や図上演習の結果などを示し反対する。しかし近衛は松岡の日独伊ソ4国同盟の可能性も説き、天皇は結局自説をまげて了承する。

・南進論は日米関係を決定的に悪化させ、日米戦争を引き起こした。

1940年9月日本は北部仏印に進駐する。本来平和的に進駐する予定が、現地のフランス軍と戦火を交えてしまい、武力進駐と世界から非難される。

「統帥乱れて信を内外に失う」とは現地指揮官が東京に打電してきた言葉だ。

南進論に反応しアメリカは一連の対日制裁を発動する。

1940年1月に日米修好通商条約廃棄、1940年9月にくず鉄輸出禁止、1941年8月には石油を全面禁輸とする。ABCD包囲網の完成だ。

広田弘毅は城山三郎さんの「落日燃ゆ」でヒロイックに描かれているので人気があるが、非軍人として唯一東京裁判で死刑になった元首相であり、日米開戦の直接の原因を作ったのも広田内閣である。

落日燃ゆ (新潮文庫)落日燃ゆ (新潮文庫)
著者:城山 三郎
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発売日:1986-11
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国際情勢のFAW

筆者なりに日本をめぐる国際情勢のFAWを整理すると次の3つとなる。

1.国防、経済発展の生命線「赤い夕陽の満州」

結局日本が明治以来40年掛けて獲得した海外領土、海外権益を戦争ですべて失うことになるが、戦争に至った背景には、日本の生命線は満州であり、満州の権益は絶対に失えないという思いがあった。

終戦までに満州移民は150万人いたと言われており、このうち一般民間人で戦争で亡くなったのは18万人だ。

大日本帝国領土






2.アメリカの巧みな外交による日英同盟の廃棄、日本封じ込め


アメリカは1922年のワシントン軍縮会議の時に、英国にプレッシャーをかけて日英同盟を廃棄させる。

それ以降は日本人を目の敵にした日系移民排斥法などを成立させる他、蒋介石の中国を支援し、日本が必要なくず鉄や石油などの資源を禁輸にして日本を封じ込め、兵糧攻めをはかる。

前回紹介した「真珠湾の真実」で詳細に検証されていたルーズベルトが対独戦に参戦するために、日本に先制攻撃を仕掛けさせたという「ルーズベルトの陰謀説」も根強い。


3.ナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまうという恐怖

「真珠湾の真実」のあらすじでで、筆者の個人的見解を書いたが、半藤さんも1938年にドイツのオットー・ハーンが核分裂実験に成功し、翌1939年8月にはアインシュタインがナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまう恐れがあることをルーズベルトに直言したことを紹介している。

アインシュタインからルーズベルト宛のレター

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ルーズベルトは「マッチ箱一つで戦艦を吹き飛ばせる」原子爆弾を開発するため20億ドルを投じてマンハッタン計画をスタートさせ、原子爆弾を完成させた。


なぜ海軍は日米開戦賛同に変節したのか

元々英米協調路線で、日米開戦に絶対反対、日独伊三国同盟反対だった海軍がなぜ変節したのかというのは、多くの人が抱く疑問だ。

米内光政山本五十六井上成実の海軍良識派トリオは親米派で、開戦忌避努力を続けた。

特に山本五十六は同郷(半藤さんは長岡藩の系譜)の先人でもあり、いろいろな機会で開戦回避努力をしたことを半藤さんは紹介している。

親米路線だった海軍が日独伊三国同盟に賛同したのは、親米良識派トリオをはずした内部抗争とカネの問題だった。

ワシントン軍縮条約の16インチまでという主砲サイズ制限を破って、ひそかに46センチ主砲を持つ超大型戦艦大和・武蔵の建造を進めていた海軍の及川海軍大臣、豊田次官は、軍事予算の分配で陸軍に恩を売るために(?)日独伊三国同盟に賛同した。半藤さんは「カネのために魂を売った」とまで言っている。

それでも山本五十六は航空兵力不足を訴え、三国同盟締結に異を唱えるが、1940年9月14日及川海軍大臣、豊田次官以下の海軍首脳は三国同盟に正式賛同する。

皮肉にも翌日の9月15日に英国はバトルオブブリテンで最大の戦果を挙げる。

敵機195機撃墜、味方損失26機と発表された。その後撃墜数は少なかったことがわかるが、それでも大打撃を与えたことは間違いない。



バトルオブブリテンの時の有名なチャーチルの言葉が、"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few"(人類の戦争の歴史の中で、これだけ多くの人が、これだけ少ない人によって、かくも多くの恩義を受けたことはない)。だ。

9月15日の敗北でドイツは英国侵略をあきらめ、対ソ戦の準備を始める。もはやナチスの勢いは落ちてきていたのに、世界の情勢を日本は全く掴まずに9月に日独伊三国同盟を結んだのだ。


あだ花の「日米諒解案」と松岡の日独伊ソ四国同盟構想の愚

翌昭和16年、日独伊ソ四国同盟案を提唱していた松岡外相は4月にヨーロッパ訪問後、モスクワを訪問する。

このときチャーチルは松岡宛に鉄鋼生産高など事実を示して日本を参戦させないようにレターを書く。

このときのレターの内容は関榮次さんの「チャーチルの愛した日本」のあらすじで紹介しているので、参照して欲しいが、おどしでも何でもなく、冷静に事実を考えてみようというレターだ。

しかし松岡は侮辱ととり、「日本の外交政策は偉大な民族的目的と八紘一宇の実現を意図し、周到に考慮して決められたものだから、余計な心配するな」と回答する。

松岡はドイツがひそかにソ連攻撃を準備していたことを全く知らず、スターリンの「お互いアジア人同士だ」という言葉にコロッと来て、スターリンがドイツ戦の準備で日ソ中立条約を結びたがっているという事情を全く理解しないまま。日ソ中立条約を結ぶ。

その後ウォルシュ司祭とドラウト神父の2神父が仲介してルーズベルトと近衛が太平洋のどこかでサミットミーティングを持って、事態を打開するという日米諒解案が野村大使とハル国務長官との間で詰められ、日本側は陸海軍すべて賛同したが帰国した松岡外相の反対でついえる。

ヨーロッパから帰ってきた松岡がやたらドイツの肩を持つので、松岡はヒトラーに買収されたのではないかと天皇が疑うほどだった。

「松岡は二月の末に独逸に向い四月に帰って来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになった。おそらくはヒトラーに買収でもされてきたのではないかと思われる」

その後6月に独ソが開戦すると、松岡の日独伊ソ四国同盟案は雲散霧消し、松岡は一転してソ連を叩くべきだと言い出したという。

その後9月の御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製「四方の海みなはらからとい思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」を2回詠み、戦争に反対した。

ちなみに「公文書で見る日米交渉」という日本の国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトに日本の公文書の情報が公開されており、興味深い。

国立公文書館






真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争

山本五十六は反対論が強いなかで、ハワイ作戦を立案する。

「結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に、追い込まるる次第に御座候」。戦争を早く止めるための作戦だったという。

開戦期日を昭和16年12月上旬に決めたのは、海軍戦力がアメリカの7割になるのがそのときで、それ以降は差はどんどん拡大するからだという。

ルーズベルトは暗合解読で事前に日本の開戦を予期していたが、日本とドイツに先に宣戦布告させるために日本に真珠湾攻撃をしかけさせ、大義名分を得て参戦する。

早くも17年6月に敵の空母を叩くつもりが、逆に6隻の正規空母のうち4隻を失うミッドウェー海戦の大敗で勢いは決した。

ミッドウェー海戦の敗戦は、作戦のせいではない、敵の待ち伏せを予期して、半分の飛行機は即時待機とし、あらゆる機会を捉えて敵空母部隊を攻撃しろという連合艦隊命令を南雲指揮官が無視した驕慢の結果だったと元参謀は語っていたという。

はるかニューギニアのガダルカナル島で日米両軍の主力が激突する戦争が起きたのは、米国からオーストラリアの補給ルートを日本が絶とうとしての作戦だった。

ガダルカナル敗退、山本長官戦死、アッツ島玉砕、インパール作戦敗退、サイパン喪失、神風攻撃にもかかわらず沖縄戦敗戦、そして原爆投下、ソ連参戦と続き、日本の敗戦となる。

日本の終戦交渉をすべきだと主張するラルフ・バード海軍次官は原爆投下に反対し、1945年7月に次官を辞任する。


太平洋戦争の死者数

「日本のいちばん長い日」のあらすじで紹介した最後の陸軍大臣阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書いて、8月15日に切腹した。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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最後に半藤さんは310万人と言われる太平洋戦争の死者の数を列挙しているが(以下は概数)、到底阿南陸相一人が切腹して済む問題ではない。

・ガダルカナルで戦死8千人、餓死・病死1万1千人

・アッツ島で2,500人

・ニューギニアで病死も含め戦死15万7千人

・タラワ島で戦死4千7百人、マキン島で700人,ゲゼリン島で3,400人

・グアム島で戦死1万8千人

・サイパン島で戦死3万人、市民の死亡1万人

・インパール作戦で戦死3万人、戦病死4万2千人

・インパール作戦の一つで中国本土で戦死2万9千人

・ベリリュー島で1万人

・フィリピンで戦死47万7千人

・硫黄島で戦死2万人

・沖縄で戦死11万人、市民の死亡10万人

・日本本土空襲で30万人

・日中戦争で41万2千人(日ソ1週間戦争の死者8万人も含む)

・特攻で4千6百人

全て合計すると310万人が太平洋戦争で亡くなった。


5つの教訓

昭和史の教訓として半藤さんは次の5つを挙げている。

第1に国民的熱狂をつくってはいけない。

第2に最大の危機に於いて日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないこと。希望的観測が、確信になってしまう。「ソ連は攻めてこない」というような。

第3に日本型のタコツボ社会における小集団の弊害がある。陸軍大学卒が集まった参謀本部作戦課が戦争の全権を握るのが良い例だ。

第4にポツダム宣言受諾は意志の表明にすぎず、降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際常識の欠如。これがためソ連に満州侵攻をゆるし、戦死者8万人を出し、シベリアで抑留された人が57万人、このうち帰還者は47万人で、10万人以上がシベリアで亡くなっている。

そのうちの一人が「プリンス近衛殺人事件」のあらすじで紹介した近衛文麿の長男、近衛文隆だ。

プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
販売元:新潮社
発売日:2000-12
おすすめ度:4.0
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第5に対症療法的なすぐに結果を求める短兵急な発想。大局観のない複眼的な見方の欠如した日本人のありかた。


結論としてまとめると、政治的指導者も軍事的指導者も根拠なき自信過剰と「大丈夫、アメリカは合意する」などの底知れぬ無責任が、日本を敗戦の危機に追いやったといえる。日本人に多くの教訓を与えてくれた昭和史だと締めくくっている。

500ページもの大作だが、テンポが良いのですぐ読める。文庫本が出たことでもあり、是非一読をおすすめする。


参考になれば次クリック願う。




暗闘 スターリンとトルーマンの日本降伏を巡っての競争 日米露の資料から構成

暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏
著者:長谷川 毅
販売元:中央公論新社
発売日:2006-02
おすすめ度:5.0
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在米のロシア史研究家、長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の終戦史再考。終戦記念日が近づいているので紹介する。

大前研一の「ロシア・ショック」で取り上げられていた。

ロシア・ショックロシア・ショック
著者:大前 研一
販売元:講談社
発売日:2008-11-11
おすすめ度:4.5
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この本を読んで筆者の日本史の知識の欠如を実感させられた。

終戦秘話といえば、大宅壮一(実際のライターは当時文芸春秋社社員だった半藤一利氏)の「日本のいちばん長い日」や、終戦当時の内大臣の「木戸幸一日記」、終戦当時の内閣書記官長の迫水(さこみず)久常の「機関銃下の首相官邸」などが有名だ。

「日本のいちばん長い日」は映画にもなっている。このあらすじを別ブログで紹介しているので参照して欲しい

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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木戸幸一日記 上巻 (1)木戸幸一日記 上巻 (1)
著者:木戸 幸一
販売元:東京大学出版会
発売日:1966-01
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新版 機関銃下の首相官邸―2・26事件から終戦まで
著者:迫水 久常
販売元:恒文社
発売日:1986-02
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今まで終戦史は、日本の資料かアメリカの資料をベースに何冊もの本が書かれてきたが、この本は米国在住の日本人ロシア史専門家が、友人のロシア人歴史学者の協力も得て完成させており、日本、米国、ロシアの歴史的資料をすべて網羅しているという意味で画期的な歴史書だ。

この本の原著は"Racing the enemy"という題で、2005年に出版されている。日本版は著者自身の和訳で、著者の私見や、新しい資料、新しい解釈も加えてほとんど書き下ろしになっているという。

Racing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of JapanRacing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of Japan
著者:Tsuyoshi Hasegawa
販売元:Belknap Pr
発売日:2006-09-15
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約50ページの注を入れると全部で600ページもの大作だが、日本の無条件降伏に至る太平洋戦争末期の世界の政治情勢がわかって面白い。

この本では、3つの切り口から日本がポツダム宣言を受諾した事情を描いている。


1.トルーマンとスターリンの競争

一つは日本を敗戦に追い込むための、トルーマンスターリンの競争である。

1945年2月のヤルタ密約で、ソ連が対日戦に参戦することは決まっていたが、戦後の権益確保もあり、トルーマンとスターリンはどちらが早く日本を敗北に追い込む決定打を打つかで競争していた。

ヤルタ密約は、ドイツ降伏後2−3ヶ月の内に、ソ連が対日戦争に参戦する。その条件は、1.外蒙古の現状維持、2.日露戦争で失った南樺太、大連の優先権と旅順の租借権の回復、南満州鉄道のソ連の権益の回復、3.千島列島はソ連に引き渡されるというものだ。

元々ルーズベルトとスターリンの間の密約で、それにチャーチルが割って入ったが、他のイギリス政府の閣僚には秘密にされていたという。

ルーズベルトが1945年4月に死んで、副大統領のトルーマンが大統領となった。トルーマンといえば、"The buck stops here"(自分が最終責任を持つ)のモットーで有名だ。

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出典:Wikipedia

トルーマンは真珠湾の報復と、沖縄戦で1万人あまりの米兵が戦死したことを重く見て、これ以上米兵の損失を拡大しないために、原爆を使用することに全く躊躇せず、むしろ原爆の完成を心待ちにしていた。

1発では日本を降伏させるには不十分と考え、7月16日に完成したばかりの2発の原爆を広島と長崎に落とした。

原爆の当初のターゲットは、京都、新潟、広島、小倉、長崎の5ヶ所だった。

原爆を開発したマンハッタン計画の責任者のグローヴス少将は最後まで京都をターゲットに入れていたが、グローヴスの上司であるスティムソン陸軍長官は京都を破滅させたら日本人を未来永劫敵に回すことになると力説して、ターゲットからはずさせた。

2.日ソ関係

2つめは、日ソ関係だ。

日ソ中立条約を頼りにソ連に終戦の仲介をさせようとする日本の必死のアプローチをスターリンは手玉にとって、密かに対日参戦の準備をすすめていた。

1941年4月にモスクワを訪問していた松岡外務大臣を「あなたはアジア人である。私もアジア人である」とキスまでして持ち上げたスターリンは本当の役者である。

ポツダム宣言

ポツダム会議は1945年の7月にベルリン郊外のポツダムに英米ソの3首脳が集まり、第2次世界大戦後の処理と対日戦争の終結について話し合われた。

会議は7月17日から8月2日まで開催されたが、途中で英国の総選挙が行われ、選挙に敗北したチャーチルに代わり、アトリーが参加した。

ポツダム会議はスターリンが主催したが、ポツダム宣言にはスターリンは署名しなかった。

トルーマンとチャーチルは、スターリンの裏をかいて、スターリンがホストであるポツダムの名前を宣言につけているにもかかわらずスターリンの署名なしにポツダム宣言として発表するという侮辱的な行動を取ったのである。

トルーマンは原爆についてポツダムでスターリンに初めて明かしたので、スターリンにはポツダム宣言にサインできなかったこととダブルのショックだった。

これによりスターリンはソ連の参戦の前にアメリカが戦争を終わらせようとしている意図がはっきりしたと悟り、対日参戦の時期を繰り上げて、8月8日に日ソ中立条約の破棄を日本に宣言する。

ソ連の斡旋を頼みの綱にしてた日本は簡単に裏切られた。もっともソ連は1945年4月に日ソ中立条約は更新しないと通告してきていた。

7月26日の段階で、ソ連軍は150万の兵隊、5,400機の飛行機、3,400台の戦車を国境に配備しており、ソ連の参戦は予想されたことだった。

ソ連は終戦直前に参戦することで日本を降伏に追い込み、戦争を終結させた功労者として戦後の大きな分け前にありつこうとしたのだ。

日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾したが、スターリンは樺太、満州への侵攻をゆるめず、ポツダム宣言受諾後に千島、北海道侵攻を命令した。

スターリンの望みは、千島列島の領有とソ連も加わっての日本分割統治だったが、これはアメリカが阻止した。


3.日本政府内の和平派と継戦派の争い

第3のストーリーは日本政府内での和平派と継戦派の争いだ。

この本では、和平派と継戦派の争点は「国体の護持」だったという見解を出しているが、連合国側から国体護持の確約がなかったことが降伏を遅らせた。

アメリカ政府では元駐日大使のグルーなどの知日派が中心となって、立憲君主制を維持するという条件を認めて、早く戦争を終わらせようという動きがあったが、ルーズベルトに代わりトルーマンが大統領となってからは、グルーはトルーマンの信頼を勝ちとれなかった。

開戦直後から日本の暗号はアメリカ軍の海軍諜報局が開発したパープル暗号解読器によって解読されていた。この解読情報は「マジック」と呼ばれ、限定された関係者のみに配布されていた。

ところでパープル解読器のWikipediaの記事は、すごい詳細な内容で、暗号に関するプロが書いた記事だと思われる。是非見ていただきたい。

日本の外務省と在外公館との通信はすべて傍受されて、日本の動きは一挙手一投足までアメリカにつつ抜けだった。

広島に8月6日、長崎に8月9日に原爆が投下された。ソ連は8月8日に日ソ中立条約の破棄を通告し、8月9日には大軍が満州に攻め込んだ。関東軍はもはや抵抗する能力を失っていた。

こうして8月14日御前会議で、ポツダム宣言受諾の聖断が下りた。

Gozen-kaigi_14_August_1945





出典:Wikipedia

最後まで戦うべきだと主張する阿南惟幾(これちか)陸軍大臣を中心とする陸軍の抵抗を、原爆やソ連参戦という事態が起きたこともあり高木惣吉ら海軍中心の和平派が押し切った。

天皇の玉音放送が流れた8月15日に阿南陸相は自刃し、象徴的な幕切れとなった。

ちなみにWikipediaの玉音放送の記事の中で、玉音放送自体の音声も公開されているので、興味がある人は聞いてほしい。

8月15日には天皇の声を録音した玉音盤を奪おうと陸軍のクーデターが起こるが、玉音盤は確保され、放送は予定通り流された。

しかし千島列島では戦争は続いた。最も有名なのは、カムチャッカ半島に一番近い占守島の激戦で、8月21日になって休戦が成立した。

スターリンはマッカーサーと並ぶ連合国最高司令官にソ連人を送り込もうとしたが、これはアメリカに拒否され、結局北海道の領有はできなかった。


歴史にIFはないというが…

長谷川さんはいくつかのIFを仮説として検証している。

1.もしトルーマンが日本に立憲君主制を認める条項を承認したならば?

2.もしトルーマンが、立憲君主制を約束しないポツダム宣言に、スターリンの署名を求めたならば?

3.もしトルーマンがスターリンの署名を求め、ポツダム宣言に立憲君主制を約束していたならば?

4.もしバーンズ回答が日本の立憲君主制を認めるとする明確な項目を含んでいたら?

5.原爆が投下されず、またソ連が参戦しなかったならば、日本はオリンピック作戦が開始される予定になっていた11月1日までに降伏したであろうか?

6.日本は原爆の投下がなく、ソ連の参戦のみで、11月1日までに降伏したであろうか?

7.原爆の投下のみで、ソ連の参戦がなくても、日本は11月1日までに降伏したであろうか?


歴史にIFはないというが、それぞれの仮説が長谷川さんにより検証されていて面白い。


日、米、ソの3カ国の一級の資料を集めて書き上げた力作だ。500ページ余りと長いがダイナミックにストーリーが展開するので楽しめるおすすめの終戦史である。


参考になれば次クリック願う。


日本に足りない軍事力 本当に有効な戦力とは何かを考えさせられる

日本に足りない軍事力 (青春新書INTELLIGENCE)日本に足りない軍事力 (青春新書INTELLIGENCE)
著者:江畑 謙介
販売元:青春出版社
発売日:2008-09-02
おすすめ度:3.5
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終戦記念日が近づいているので、現在の日本の自衛隊の戦力をわかりやすく解説した本を紹介する。

この本は昨年急逝した江畑謙介さんの作品だ。

来週北朝鮮が人工衛星打ち上げロケット(テポドン?)を発射すると発表しているが、テポドンが発射されたらミサイルで迎撃する可能性もあるので読んでみた。

この本では最新の軍事技術や武器の多くが写真入りで紹介されていて参考になる。

様々な角度から日本の軍事力を分析すると、軍事費の面では世界第3位かもしれないが、戦闘機や戦車、イージス艦など正面装備は世界トップクラスのものを装備していても、本当の戦闘能力、国としての脅威に対処する戦略という意味で日本には大きな問題があることがわかる。

国家の安全保障上の義務は、予想される脅威に備えることだが、日本は予想される脅威に準備をしていない点が多い。

たとえば北朝鮮の脅威は弾道ミサイルだが、日本は1993年のノドン発射自体も米軍から教えてもらって初めてわかったありさまで、1998年のテポドン発射まで日本の体制に大きな変わりはない。

米国からパトリオットミサイルと軍艦から発射するスタンダードSM−3ミサイルを整備して、今度は北朝鮮の弾道ミサイルは迎撃できると言っているが、はたしてそれができるのか。

弾道ミサイルの発射を監視し、早期発見する軍事衛星網はすべて米国に頼っている。2008年に宇宙基本法が成立したので、日本も早期警戒衛星を持つ道が開けたが、江畑さんは衛星でなくともたとえば無人飛行船でも早期警戒はできると語る。

巡航ミサイル防衛もできていない。

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トマホーク巡航ミサイル

出展:Wikipedia

北朝鮮がウクライナから巡航ミサイルを買って、核攻撃能力を備えたというのが、手嶋龍一さんの「ウルトラダラー」のストーリーだが、日本は超低空で飛行する巡航ミサイルの迎撃体制はない。

ウルトラ・ダラー (新潮文庫)ウルトラ・ダラー (新潮文庫)
著者:手嶋 龍一
販売元:新潮社
発売日:2007-11
おすすめ度:3.5
クチコミを見る


防衛庁は巡航ミサイル探知能力に優れるF−22導入を進めたい考えだが、巡航ミサイルを探知するために超高価でしかも米国が販売を許可しないF−22導入を考えるのは誤りだと江畑さんは指摘する。

F-22






出展:Wikipedia

早期警戒機や、早期探知気球など安価なソリューションが他にある。

日本には長距離地上攻撃能力も対地精密攻撃能力もない。北朝鮮の基地を叩こうといっても、どだい無理な相談なのである。

総合作戦能力もない。帝国陸軍、帝国海軍の連携の悪さを引きずり、陸上自衛隊のヘリコプターを船内に収納できる護衛艦はない。

専守防衛に反するとして、パワープロジェクション能力(短時間に兵員を投入できる能力)を整備していない。だから国際的な人道活動や平和維持軍などにも迅速に対応できない。

サイバー戦の準備も後手だ。2008年3月に自衛隊に「指揮通信システム隊」を発足させ、サイバー戦の準備を始めたが、中国などのサイバー攻撃に十分な防御ができるのかは疑問だ。

このような日本の軍事力の問題点がわかりやすく指摘されている。


最新の軍事技術

江畑さんが解説する最新の軍事技術で特筆すべきものを紹介しておく。

●飛躍的に上がった爆弾必中率

爆弾のCEP(半数必中率)はレーザー誘導と衛星誘導(GPS)の導入により飛躍的に向上している。たとえば1999年のユーゴ空爆ではGPS誘導爆弾のJDAMのCEPは実質3−4メートルになっているという。

これだけ必中率が上がると大型の爆弾を使用する必要はなく、小型の爆弾で良い。


●無人兵器の発達

ラスベガスの基地から誘導されてアフガニスタンやイラクで活躍しているプレデターは、トム・フリードマンの「フラット化する世界」でも紹介されていたが、これの改良型がリーバースカイ・ウォリアーだ。プレデターはヘルファイアーミサイルを搭載しており、リーバースカイ・ウォリアーは大型化され、ミサイルと爆弾まで搭載できる。

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プレデター

出展:Wikipedia

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リーパー(死に神の意味)

出展:Wikipedia

短距離空対地ミサイルの代表がヘルファイアーで、誘導装置も初期のレーザー誘導型から、ミサイル先端部分の誘導装置を交換すれば赤外線誘導型、ミリ波レーダーを使った画像認識誘導型にもできる。

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ヘルファイアーミサイル

出展: Wikipedia

ヘルファイアーはイギリスで改良され、プリムストーンミサイルになった。射程が7キロから12キロに伸び、弾頭はタンデム型(2段型)で、爆発反応装甲(ERA)に対する破壊力が増大している。次の写真の戦車に煉瓦のように積まれているものがERAだ。

先端の弾頭で戦車のERAを爆発させ、防御能力を減衰させてから2段目の弾頭ば戦車の装甲を貫通して爆発するのだ。

ERA






爆発反応装甲(ERA)

出展: Wikipedia

ブリムストーンミサイルは目標の自動発見、捕捉、攻撃能力を持つので、ファイア・アンド・フォゲットの攻撃が可能で、敵のフレア(赤外線妨害弾)やチャフ(レーダー妨害材)がある環境でも的確に目標を捉え、攻撃できる能力が増している。

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ブリムストーンミサイル

出展: Wikipedia

複数の目標にも1発ずつ個別に攻撃できるような誘導装置のアルゴリズムが開発され、一つの目標に複数のミサイルが命中するという無駄がなくなった。同志討ち防止や、家のような動かない目標は攻撃しないとか、水面上の船のような大きい目標のみ狙うとかといった設定もできる。

このような自律誘導型のミサイルを多数発射されると、地上部隊はよほど遠方から攻撃機を察知しないと、一方的にやられるままになるおそれがある。


●低コストで戦力アップーロケット弾のミサイル化

第2次世界大戦から使われてきたロケット弾も弾頭部にフィン付きのレーザー誘導装置やGSP誘導装置を取り付けると安価な精密誘導型ロケット弾になる。

自衛隊も持っているMLRS(多連装ロケット弾システム)の先端の弾頭を取り替えるだけで、小型精密ミサイルになり、射程が70キロと長いので”70キロ狙撃銃”に変身できるのだ。

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ハイドラ・ロケット弾

出展: Wikipedia


このように手持ちのロケット弾を精密ミサイルに安価に転換する武器が開発され、米軍が大量発注している。


●対レーダー兵器・無人兵器のない日本

日本の自衛隊ではARM(対レーダー攻撃ミサイル)ももっておらず、敵のレーダーを攻撃する兵器を持っていない。これでは危なくて航空機は戦場には近づけない。

これを見ても自衛隊は戦闘機や戦車、ミサイルなどの正面装備の調達には積極的だが、本当に有効な武器の調達には積極的でないと言わざるを得ない。

プレデターなどの無人兵器を展開するには、米国の様な陸軍・海軍・空軍が一体となった統合防御システムを構築する必要があり、これには多額の費用がかかることは間違いない。

しかし米国のソフトをライセンス導入するにしても、これらは日本企業で構築可能であり、今のような不況時にはF−22などに一機数百億円使うよりは、無人機による偵察・防衛システムを構築する方が景気対策にもなり、コスト的にも実効性の高い防御システムではないかと思う。

遠隔操作で操縦する操縦士の育成も必要だが、無人機の操縦士はジェットパイロットの様に身体も頑強である必要はないので、育成のコストも全然違うと思う。(もっとも無人機のパイロットは長時間勤務でメンタル面では結構つらいらしい


●サイバー戦争も現実化

1999年のユーゴ空爆では、実際には存在しないNATO軍機が到来するような偽の情報を米空軍はユーゴの防空システムに送り込み、別の方向から航空部隊を進入させたという。

この種のサイバー攻撃は、2007年のイスラエル軍がシリアの北朝鮮型黒鉛原子炉を爆撃する作戦でも、シリアの防空システムを無力化する手段の一つとして利用されたという。

2007年4月にはエストニアがサイバー攻撃にさらされ、約3週間政府機能や、銀行、携帯電話などのインフラが停止した。エストニアはE-stoninaと名乗るほど、国家としてIT化を進め、電子政府化でペーパーレスになっており、国政選挙にもネット投票が導入されているほど先進的だが、そのネットワークの脆弱部分が攻撃されてしまったという。


最新の軍事技術が写真入りで紹介されており、軍事予算が削減されている環境下で、各国とも低コストで有効な軍事力を備えるため、開発にしのぎを削っていることがよくわかる。

日本の自衛隊も安価で実効性の高い軍備を保有する必要があるのではないか。

田母神さんも指摘しているが、特に海岸線の長い日本で最も有効で、自衛隊が大量に保有しているクラスター爆弾を、国際条約に従い人道的でないとして廃棄するのは、筆者は間違いだと思う。米国・ロシアはクラスター爆弾禁止条約を承認していない。

現代の武器はもとより使う前提で配備するのではない。クラスター爆弾の持つ北朝鮮に対する抑止力は絶大なものがあると思う。安価で実効性の高い軍備ということではこれにまさるものはない。


ともあれ、日本の軍事力について考えさせられる本である。是非一度手にとってページをめくってみることをおすすめする。


参考になれば次クリックお願いします。



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