時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

2009年03月

ドンキホーテ 闘魂経営 ドン・キホーテ安田隆夫会長の自伝的経営論 

ドン・キホーテの創業者安田隆夫会長の自伝的ビジネス書。

ドン・キホーテの安田隆夫会長とイオンの岡田元也社長がトップ会談を行い、ドン・キホーテが買い集めた約46%のオリジン東秀株を、いわゆるホワイトナイトとしてTOBを掛けていたイオンに売ることを決定した。

多くの人が驚いた決着ではなかったかと思う。

筆者も驚いたが、このブログでドン・キホーテの安田隆夫会長が目指している標語を紹介していたので、なるほどと思う部分もあった。

それは下記で紹介している『粗にして野だが卑ではない』という言葉だ。

オリジン東秀の全店舗に、ドン・キホーテによる乗っ取り反対というビラが貼られる状態となったので、このままではオリジン東秀の従業員を敵に回してしまうことになり、安田会長が目指している『主権在現』が、とても実現できないと判断したのだろう。

そのまま強引に金任せで買収していては、乗っ取り屋=『卑』となってしまうおそれがあった。

山頂寸前で名誉ある撤退を選んだ安田会長の『美学』を理解するには、この『粗にして野だが卑ではない』という言葉が最も適当ではないか。

そんなことを感じさせられる展開だった。

ドン・キホーテ 闘魂経営ドン・キホーテ 闘魂経営
著者:安田 隆夫
販売元:徳間書店
発売日:2005-08-31
おすすめ度:4.5
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圧縮陳列、深夜営業で人気のディスカウントストアチェーンドン・キホーテの創業者安田隆夫氏の自伝的経営論。

安田さんは昨年ドン・キホーテの社長を後進に譲ったので、かなり年輩かと思っていたが、まだ56歳だ。

ドン・キホーテというと業界の異端児といった型破りのイメージが強く、タイトルも『闘魂経営』とか、『ケンカ商法』とか付いてはいるが、やはり消費者相手の商売の基本は変わらないのだと実感でき、面白く読める好著である。


オリジン東秀へのTOB

安田さんは昨年ドン・キホーテの社長を退きCEOとしてドン・キホーテグループの業容拡大に励んでおり、最近ピンクの看板のオリジン弁当のオリジン東秀にTOB(敵対的買収)をかけたことで一躍有名になった。(毎日インタラクティブの記事参照

筆者はオリジン東秀の唐揚げチキンが好きで、時々買っている。ドン・キホーテの様に権限委譲が実現し、それぞれの店が定番メニューのほかに、自前の弁当メニューを出したら、さらに繁盛するのではないかと思っているが、はたしてどう展開するのか?

オリジン東秀のTOBはジャスコがホワイトナイトとして登場し、ドン・キホーテの買収提案金額を上回る友好的買収条件を提示したので、今後の安田さんの対応が注目される。


セブンイレブンの鈴木敏文さんとの共通点

この本を読んでいて驚くほどセブンイレブンの鈴木敏文さんとの共通点があることを感じた。安田さんは「小売業にとって最良の教師はお客様であり、現場は最高の教室だと確信している」と言う。

このブログでも鈴木敏文さんの『本当のようなウソを見抜く』とか、『商売の原点』、『商売の創造』を紹介しているので、ご興味のある方は見て頂きたい。

表現の違いこそあれ、消費者相手の商売の原点は同じなのだ。


カーネギーとの共通点

鈴木さんは「お客の立場に立って考える」と言い、安田さんは「自分を主語にするのではなく、相手を主語にして考えてみる。そうすると目からウロコが落ちて、今まで見えなかったものが、鮮明に浮かび上がってくる」と言っている。

安田さんは相手の立場に立って考えるということの説明のために、「主語は『自分』でなく『相手』に置け」という一つの章まで書いている。

これはカーネギーの『人を動かす』基本だ。

このブログでカーネギーに影響された有名ビジネスマンの藤田晋さん角川秀樹さん新将命さんなどを紹介したが、相手の立場に立つというのはまさにカーネギーの教えそのものである。


十字架を背負うが挑戦はやめない

2004年末に放火でドン・キホーテの従業員3名がなくなった事件が起き、茫然自失していた時に、ご遺族に「社長さん、うなだれてないで頑張ってください。悪いのは放火犯です。ドン・キホーテがこれでダメになってしまったら、それこそ兄は犬死にじゃないですか」と言われた。

十字架は背負うが、挑戦は辞めないと決意したのだと。


安田隆夫さんとドン・キホーテの軌跡

安田さんは1949年岐阜県大垣市に高校教師の家庭に生まれた。やんちゃな問題児でガキ大将だった。田舎から脱出するため慶応大学法学部に進学したが、金持ちの師弟揃いの同級生に強烈な劣等感と挫折感を抱く。

サラリーマンになったら、永久にこいつらには勝てないだろう。」と思い、みずから起業して経営者になるしかないと決意する。

大学にはほとんど行かず、ボクシングジムに通い詰めたが、子供の時のケガが原因で片目の視力が低下しており、プロテストが受けられず2度目の挫折を味わう。

卒業し小さな不動産会社に就職したが、2年目で倒産。それ以降長く無頼の時期を過ごす。

新聞勧誘員のアルバイトなどをしながら、麻雀プロとして麻雀漬けの日々を過ごし、100戦すれば95勝以上はかたいというほど腕を上げたが、これではいけないと一念発起して、29歳の時に『泥棒市場』という小さな雑貨店を東京杉並に開店。

商売もやったことがなく、知識ゼロ、経験ゼロ、人脈ゼロでスタートし、質流れ品、サンプル品とか廃番品とかを激安価格で売り、苦肉の策として深夜営業までする『流通業の禁じ手のデパート』の様なものだったが、これで現在のドン・キホーテの原型ができた。

次にバッタ品の問屋を始めるが、最初の経験を生かすべく小売業に再参入し、府中にドン・キホーテ1号店を開店する。


ドン・キホーテの初期の苦闘

泥棒市場の経験を元に、流通業界という巨大な風車を相手に、たとえ孤軍奮闘でも突進するということで、ドン・キホーテという名前を付けたが、立ち上がり当初の数年は赤字で大苦戦する。

泥棒市場で成功した圧縮陳列を使って、『買い物の面白さ』が味わえる買い場創りを従業員に伝授しようとするが、どうしても伝わらない。

今思えば、長嶋監督が高校球児相手に「ボールをキッとにらみつけて、ググッと引き寄せてから、こうしてビュンと振り抜くんだ。どうしてできないの?」と指導していた様なものだったと

あきらめて、もうどうにでもなれという気持ちで、教えるのではなく、丸投げして自分ですべてやらせることにしたことが、ドン・キホーテ経営の要の権限委譲のはじまりだ。しかし、これも苦肉の策だった。

最初の4年間は失敗と苦労の連続だったが、ドン・キホーテを今日の成功へと導いた要素がすべて凝縮されていると。


いくつか印象に残った点を紹介しておこう。

成功を掴むのは「勝ち」に敏感で貪欲な人

ビジネスは野球やサッカーのように1点差でも勝てばいいという戦いではない。どこまでも点の総量を競い合うエンドレスゲームだ。

自力で掴んだ幸運なら、その上昇気流に乗って強気にアクセルを踏み続け、いけるところまで一気に駆け上がらなければならない。

幸運時は幸運を120%使い切るつもりで、攻めに攻めて大量得点すべきで、もうこれくらいでいいやと守備固めに回ってはいけない。

本当に守らなければならない時の兵糧をせっせと稼いでおくべきなのである。

セブンイレブンの鈴木さんも欠品、機会損失を厳しく戒め(いましめ)ており、IT業界のCAキャピタルの西條さんのブログでも機会損失について語られていたが、安田さんも機会損失を強く戒める。

勝ちに敏感かつ貪欲な人がビジネスでは大きな成功を収めるのだ


まず『はらわた』力を磨け

ドン・キホーテの成功の理由は「ひたすらお客様のニーズと時代変化という現実に、必死になって食らいついてきただけ」だと。

必要なのは『はらわた』である。

『はらわた』とはもがき苦しむ力であり、紆余曲折しながらも最後に這い上がろうとする一念であると。

勝つまで辞めない。これが『究極の必勝法』である。

ガッツあるいは信念と呼ぶべきか?

『はらわた』とは泥臭い言い方であるが、ベンチャー企業はただでさえ数%しか成功しないのだから、絶対できると信じ、勝つまで辞めないという強い信念が不可欠だ。


なぜ「第2のドン・キホーテ」が出ないのか?

深夜営業、スポット仕入れ、圧縮陳列などドン・キホーテの売り方はなにからなにまで常識はずれだが、極め付きは大胆な権限委譲のマネージメントそのものであると。

ドン・キホーテでは入社数ヶ月から1年の新入社員にも仕入れから値付け、陳列に至るすべての権限を与えており、店長ですら口を挟めない。

任せる金額も半端ではない。月2千万円程度をすべて買い切りで仕入れるのだ。

人は権限を与えられると、それに比例して責任感も思考力も判断力も自己管理能力も増大する。どうすれば売れるのか必死で考えるのだ。

様々な失敗と試行錯誤を繰り返すことによって、頭脳が活性化され、知恵が生まれ、さらに感性が磨かれて、お客様の心の動きを察知する洞察力が生まれるのだと。

ドン・キホーテは社員ではなく、商人を育てるのだ。

ドン・キホーテは本給一本の半年俸制で、自己申告した目標達成度の自己評価と、直属上司による評価によって本給が決まる。業績と待遇が完全リンクする賃金体系を取っているのだ。

従業員1,700人、パート・アルバイトを入れれば5,000人の大企業でありながら、個人商店の集合体が会社となっている。その個人が自ら成長し、他人と競い合いながら成長することで、企業としてのドン・キホーテの発展につながっていくのだ。


粗にして野だが卑ではない

昭和38年に78歳でヤング・ソルジャーと自称して国鉄総裁となった財界の重鎮石田礼助氏を描いた城山三郎氏の小説で有名な言葉だが、この本でこの言葉が出てくるとは思わなかった。

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯 (文春文庫)粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯 (文春文庫)
著者:城山 三郎
販売元:文藝春秋
発売日:1992-06
おすすめ度:4.5
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安田さんはドン・キホーテが株式公開する前に会社のルールとして『御法度五箇条』を決めた。それは1,公私混同の禁止、2.役得の禁止、3.不作為の禁止、4.情実の禁止、5.中傷の禁止から成っている。

店頭はあやしげで猥雑だが、経営はクリーンで行こうとして、この五箇条を決めたのだ。めざすは『粗にして野だが卑ではない』であると。

この他にも参考になる話が満載である。いくつかタイトルだけ紹介すると:

小売業=大衆演劇論

理論や理屈でなく感性を磨け

ドンキ流EQ(Emotional Quotient=心の知能指数)経営とは?

流通心理学を確立せよ!

仕事より趣味が楽しくなったら即リタイアすべし

勝つまでやめない!


異色の経営者が本音で語っているが、決して奇をてらった本ではない。面白く、参考になる本である。一読をおすすめする。



参考になれば次クリックお願いします。





世界のどこにもない会社を創る! セコム創始者飯田さん初の自伝

世界のどこにもない会社を創る!―セコム創業者の痛快な起業人生世界のどこにもない会社を創る!―セコム創業者の痛快な起業人生
著者:飯田 亮
販売元:草思社
発売日:2007-07-31
おすすめ度:5.0
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リクルートの江副さんの次は、セコムの創業者飯田亮(まこと)さんの自伝だ。

実は飯田さんは筆者の湘南高校の大先輩だ。同じ湘南高校出身の石原慎太郎氏は同級生だ。

飯田さんは1933年東京日本橋生まれだ。実家は東京で酒販卸だったが、戦災で焼け出され、葉山に疎開していたため、神奈川県藤沢市にある湘南高校に通ったのだ。

学習院大学に入学し、アメフト部を創設。卒業後は実家の酒販卸に勤める。まずは倉庫番で、4斗樽(72キロ樽)も一人で運べるほど腕っぷしが鍛えられたという。

次に営業で、酒販店のおやっさんに熱意を感じて貰おうと、店の何メートルも前から走ってきて、息せき切って店に飛び込むというパフォーマンスをやっていたという。三木谷さんの本にも同様の手法が出てきた。


浅草の鳥鍋屋で聞いた会話がきっかけ

学生時代の友人の戸田寿一氏と一緒に、誰もやっていない意義のある仕事を始めようと相談し、浅草の鳥鍋屋で飲んでいた時に、海外旅行帰りの人が外国では会社の財産をよその会社に守って貰っているという話を小耳にはさむ。

これが警備業を始めるきっかけだ。

国際警備連盟の存在を知り、コンタクトすると、会長のソーレンセン氏が出資を申し出、ソーレンセン氏が51%、飯田氏と戸田氏が49%で1962年に日本警備保障を設立した。資本金は400万円だった。

料金は3ヶ月前払で営業を始める。この点も楽天の6ヶ月前金と同様だ。

当時はほとんどの会社が守衛を置いていたり、社員が交代で当直していたりして、自分で自分の会社を守るという意識だった。

巡回警備と常駐警備の二つのサービスで売り出し、宿直をやめようと考えていた新橋の旅行会社が最初のクライアントになった。

警備員には不審者とはちあわせした時、大声で誰何することと、警棒の使い方を教えたが、護身術は教えなかったという。

生兵法は大けがのもとになると考えたからだと飯田さんは語る。

1964年の東京オリンピックの選手村や競技場の警備で知名度があがり、帝国ホテルからも受注した。

帝国ホテルでは当時77歳の社長の犬丸徹三さんにホテル内をくまなく案内してもらい、ホテルのセキュリティはどうあるべきか懇切丁寧に指導してもらったという。


「ザ・ガードマン」で知名度アップ

1965年には連続テレビドラマ「ザ・ガードマン」のモデルにという話がTBSから持ちかけられ、このシリーズは7年間350回も続いた人気シリーズとなり、警備業の知名度アップと事業の拡大に大きく貢献した。

「ザ・ガードマンとは、警備と保障を業とし、大都会に渦巻く犯罪に敢然と立ち向かう勇敢な男たちの物語である。」というナレーションを筆者も覚えている。子供の時に毎週見たものだ。

売上も1962年は7万5千円、63年898万円、64年9800万円、65年は1億8千万円と急増した。


機械警備導入がセコム躍進の要因

警備員の泥棒とか不祥事が数件起きて倒産を覚悟したこともあるが、1966年に機械警備のSPアラームを導入し、その後は巡回警備をやめ機械警備一本に絞る。

異常があれば中央官制所に電話線を使って連絡が行き、警備員が直行するというシステムだ。

これを導入したのは、人手不足で人手による警備は限界があると感じたからだ。

人感センサーはアメリカ製、コントローラーとダイヤラーは国産だった。セコムは昔から自前主義にこだわり、他社に丸投げで製造させたりすることはしなかった。

電話回線を使用するときは、当時の電電公社に交渉に行ったが、課長相手では全くらちがあかなかったという。電電公社では権限を持っているのはむしろ係長だという話を聞き、係長と交渉して了解を得てサービスを開始した。

このとき機器を売り切りかレンタルにするか悩んだが、結局レンタルにしたことが、その後のセコムの躍進につながった。最初の顧客は当時の三菱銀行だったという。

筆者もアメリカに駐在していたときに、警備システムを賃貸マンションに入れたが、やはり機器は買い取りだった。たしか2,000ドル程度だったと思う。


長嶋監督のCMで一躍有名に

1971年からは長嶋茂雄氏にコマーシャルに出演して貰うようになり、セコムの知名度は飛躍的に上がった。

1974年には東証2部に上場。1976年には42歳で社長を退任、会長となり長期的な事業戦略を考えることに専念する。

1977年には東電、関電、中部電力と合弁で日本原子力防護システムを設立したり、1979年にセコム科学技術振興財団を設立する。


自宅用セキュリティシステムを売り出し

自宅が泥棒に入られたらサマにならないという思いから、それまでは物音がすると木刀で見回っていたが、家庭用のセキュリティシステムを開発し、マイアラームの商標で売り出した。

当初は売れなかったが、長嶋氏の「セコム、してますか?」という有名なキャッチコピーによって売上は急増した。2007年3月現在でマイアラームの契約世帯数は、39万件だという。

海外では最初に台湾、韓国ではサムスンと合弁で現エスワンを設立。韓国ではセコムはセキュリティの代名詞になっているという。

自宅にセコムを入れているペ・ヨンジュン氏を、コマーシャルに起用している。



社名のセコムとは、セキュリティ・コミュニケーションの略だという。

京セラと一緒に第2電電に出資したり、植物工場、病院経営、在宅医療サービス、保険業などに事業を多角化し、成功も失敗も経験した。

最近のヒットは位置通知サービスココセコムだ。徘徊老人や子供の安全、盗難車の発見などに役立っている。

月々の契約金額を人の場合500円、車の場合900円と安く設定しすぎてしまったという。現在の契約数は30万件を超え、黒字化したそうだ。


生まれ変わっても事業家に

飯田さんは1997年に64歳で引退し、会長から代表権のない取締役最高顧問となった。

小泉政権時代には、政府のいくつかの有識者会議の議長を務めるなど、社会貢献もしたという。企業家ネットワークの依頼で、企業家賞の審査委員長を勤めて、ベンチャーの育成を支援している。刺激になると言う。

最後に飯田さんは「生まれ変わっても事業家に」という文で締めくくっている。90歳までは仕事をしたいと。今74歳なので、あと16年あれば大きな仕事ができるという。

現在は16年先を考えてグランドデザインを考えているという。どうせなら世界にインパクトある仕事をしたいという。

もう一度人生をやり直せるならという質問には、「アメリカで生まれたい。まずアメリカンフットボールの選手になり、次いで歌手になり、最後は事業家で締めくくりたい」と。

まさに事業家魂の権化のようなひとだ。

インデックスの落合会長も著書に書いていたが、起業家はいちどやったら辞められないということだ。

「会社どころか一つの産業を生み出した男」と、本の帯にキャッチが書いてあるが、まさにその通りだと思う。


平易な内容で、簡単に読める。日本を代表する事業家のおすすめの自伝である。



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リクルートのDNA リクルートの強さの秘訣がよくわかる

今回はリクルート創始者の江副浩正さんの自伝的ビジネス書のあらすじを紹介する。

リクルートというと人材輩出企業として有名だが、そのルーツがわかる本である。

リクルートのDNA―起業家精神とは何か (角川oneテーマ21 A 61)


リクルート創業者江副浩正さんの自伝的ビジネス書。

リクルート出身の知人もおり、リクルートは人材輩出企業として有名なので、タイトルに惹かれて読んでみた。

江副さん自身は凡庸な人間だと語る。凡庸な人間でも精一杯頑張れば、ある程度のことができる一つの例として、これから事業を始める若い人の参考になればと、この本を書いたと言う。

江副さんは甲南中学・高校出身。東大の教育学部卒だが、大学にはほとんど行かず、東大新聞の企業向け広告営業で成功し、就職するのがばからしいくらいの収入を得る。

東大新聞社理事の天野勝文さんに「広告もニュースだ」と言われたことがきっかけで大学新聞の就職広告からスタートして、数々の情報広告メディアつくりに進出し、現在のリクルートグループをつくりあげた。

江副さんの功績は、大学生の就職情報、転職、不動産、中古車などの情報を広告と結びつけた新しい広告分野を作り上げたことと、人材輩出企業と呼ばれるリクルートというビジネスシステムを作り上げたことだ。


江副さんの考える成功する企業風土

江副さんの考える成功する企業風土で、一番に来るのが考え方を同じにするということだ。

藤田晋さんの本で紹介されていた話だが、リクルートコスモス出身の現USEN社長宇野さんが現在のインテリジェンスを創業したときに、藤田さんを勧誘したのも『大事なのは金じゃない。本当に大事なのは志を共有できるかどうかなんだ』という言葉だった。

起業するときは仲間全員が同じ方向に向いているが、数年経つと考え方が違ってきて、一度ベクトルがずれるとなかなか元の起動には戻らない。

経営者にカリスマ性があれば、社員はその人についていくが、江副さん自身カリスマ性はないので、自分のメッセージを出せず、弱点を克服するために苦労したという。

次のようなことまで語っている。

「私は子どもの時からケンカが弱く、他人と競うことを避けてきた。人を統率する力はとても弱い。いつも会社のトップでいることがつらかった。そのため社員の誰よりも懸命に働こうと、一番に出社、夜は最後に電気を消して鍵をかけ帰っていた。」

ちょっと信じられない言葉だが、江副さんの本心からの言葉かもしれない。

人前で話す代わりに、江副さんの思いや経営に対するスタンスをリクルートの社訓、心得などにまとめて社員教育の教材とした。結果的に共同体意識が醸成でき、独特の企業風土や企業文化が生まれたのだと。


江副さんは”エゾリン” 社長もニックネームで呼ぶ会社

自由闊達な雰囲気は、社員同志が社長も含めてニックネームで呼んで親愛の情を示していることでもわかる。経営者も社員一人一人をよく知って、現場第一主義に徹していたという。

現役社長時代、江副さんは”エゾリン”と呼ばれており、社員で江副社長と呼ぶ者はなかったという。

現在の社長の柏木斉氏はカッシーだという。ちなみに柏木斉氏は筆者の寮の後輩だが、若い頃から社長候補と目されており、45歳で社長に就任したとのことだ。


大学新聞の広告代理で起業

江副さんは在学中から東大新聞の広告営業で年に50万円の収入があった。サラリーマンになると収入が1/3になるので、昭和35年(1960年)に卒業して、そのまま大学新聞広告代理業でスタートした。

リクルートというと江副さん一人が創業者だと思えるが、実際には鶴岡公(ひろし)さんが創業時からのパートナーだと江副さんは語る。

鶴岡さんは高卒後、東大新聞で原稿制作、校正、印刷の仕事をしていた。江副さんが営業、鶴岡さんが制作という役割分担だ。

早稲田、慶應、一橋、京大などの大学新聞の広告にも扱いを広げ、アルバイトも採用し、教育学部の先輩の森稔さんが学生時代に立てた西新橋の四階建て森ビル屋上の物置小屋を最初の事務所とした。

雨漏りがするので、森さんに話すと、「仕方がないよ。モリビルだもの」と言われたと。

鶴岡さんが就職特集記事をつくり、下に求人広告を入れて各大学新聞に出した広告がよく売れて、初任給が1万2千円の時代に、初年度100万円の利益を出した。

八幡製鉄(現新日鐵)の人事課長に個人との多額の取引は良くないので、株式会社にしてもらえないかと言われ、「株式会社の作り方」という本を買って、自分で設立手続した。リクルートの前身の株式会社大学広告の誕生である。江副さんが23歳の時の起業だ。


リクルートブックの誕生

翌昭和36年にアメリカ留学中の先輩からアメリカの就職情報ガイドブック「キャリア」を入手して、「これだ!」と思い、「企業への招待」という日本版の就職ガイドをつくる。有名なリクルートブックの誕生だ。

今もあるのかどうかわからないが、筆者が大学4年の5月頃に(当時は大学4年の9月1日が会社まわり解禁日だった)電話帳みたいなグリーンのリクルートブックがたしか四冊自宅に届いたので、母がびっくりしていたことを思い出す。

雑誌は表紙のデザインが重要だと考え、当時博報堂のコピー課にいた大学時代の友人の森村稔氏(のちにリクルートに入社してバリバリ広告コピーを書く)の紹介で、東京オリンピックのポスターデザインも担当した亀倉雄策氏にリクルートブックの表紙デザインを依頼する。

編集記事で会社を紹介するというコンセプトで、初年度100社の広告クライアントは軽く集まると思っていたが、いざ営業を始めると同業他社がやらないという理由で、なかなかクライアントが集まらない。

やむなく四十社ほどは無料で広告掲載してもらった。思い切ったギリギリの決断だが、これで最初のリクルートブックが世に出ることになる。

印刷の前金が足りず、頼み込んで芝信用金庫にビルの保証金を担保に融資してもらう。このときの恩義から江副さんの社長時代のリクルートの営業報告書では、常に芝信用金庫を金融機関リストのトップに載せていたという。

初年度は苦労したが、翌年度からは無料掲載はなくなり、売上も四倍となり、それからは倍々ゲームで高収益事業となった。

リクルートブック事業は新卒採用繁忙期の数ヶ月は極端に忙しいが、ほぼ半年はひまで、新卒採用の閑散期に始めた事業が、高校生のリクルートブックだった。

新卒採用情報のリクルートブックで成功したので、就職情報、住宅情報、エイビーロード、カーセンサーなどの様々な分野の情報誌を創刊していった。


フリーマガジン(?)のさきがけ

広告だけの本を書店で販売するのは出版界では初めてのことで、広告だけの本はトーハン、日販といった大手取り次ぎ会社では取り扱って貰えなかった。

そこで直接書店に持ち込み、無償で提供して売って貰うことにした。広告で利益があがるので、本の販売収益はゼロでよかったからだ。

通常の雑誌を売れば、書店の利益は売上の20%、それがリクルートの就職情報などの雑誌を売れば、利益は100%、しかも現金が入るとあって多くの書店で一番目立つ売り場に就職情報を置いてもらえたという。

書店に続きキオスクや駅の売店、ついにはコンビニにもねばり強く交渉し、進出したのだ。

こう書くと何か簡単なことの様に思えるが、取り次ぎ会社を通さずに書店に直販するには何らかの配送網を持たなければならず、今の様に宅配便がない当時ではありえないことだ。

江副さんがこの配送問題をどう解決したのか書いていないが、単に雑誌編集と広告営業だけでなく、配送のロジスティックスまで考えたリクルートのフットワークには頭が下がる思いだ。

今でこそホットペッパーやR25などのフリーマガジンが花盛りだが、リクルートは30年近く前から、消費者には有料でも書店には無料のいわばBtoB(対企業)フリーマガジン戦略で、書店やキオスク、コンビニに食い込んでライバルを部数で圧倒し、ナンバーワンの地位を確保したのだ。

部数がナンバーワンなら広告料も最も高くできる。損して得取れとはよく言ったものだ。まさに江副さんの戦略はその典型だ。

この無料戦略には普通の会社では、なかなか対抗できない。江副さんの「ナンバーツーは死だ」という言葉の意味が分かる。

一時は読売住宅情報がリクルートの住宅情報に挑んだそうだが、リクルートの無料戦略の前に破れさった。リクルートと競合する会社は大変だろう。


リクルートの行動指針

江副さんが考案したリクルートの社訓は、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というものだ。有名なIBMの"Think"のプレートに似せて、プレートもつくった。社訓には進取の精神が表れていて、いかにもリクルートらしい。

この社訓をもとに江副さんが行動指針をつくった。それが次のような経営理念のモットーだ。

1.誰もしていないことをする主義
2.分からないことはお客様に聞く主義
3.ナンバーワン主義(ナンバーツーは死だ)
4.社員皆経営者主義
5.社員皆株主(社員持株会が筆頭株主)
6.健全な赤字事業を持つ
7.少数精鋭主義
8.自己管理を大切に
9.自分のために学び働く
10.マナーとモラルを大切にする

この行動指針はリクルートの精神的バックボーンとなっている。


リクルートの高収益の秘密 PC制

稲盛和夫さんが生み出したアメーバー経営は以前紹介したが、リクルートにおける同様の制度がPC(プロフィットセンター)制だ。

江副さんが書中の師と呼ぶドラッカーが「現代の経営」で提唱していたアイデアに習って、PC制を導入して会社の中に小さな会社をたくさんつくった。

新訳 現代の経営〈上〉 (ドラッカー選書)


このPC制=社員皆経営者主義ゆえに、リクルートは多くの経営者を輩出できたのではないかと江副さんは語る、

ほとんどのPC長は三十歳未満で、十名程度の部下を率いる。

PC長で高い成績を上げれば、事業部長となる。事業部長で実績を上げれば、事業部門長となる。会社組織はピラミッドでなくグリッド型となる。

江副さんの退任時にはPC数は600を超えていた。

リクルート前社長の河野栄子さんは、この経営者育成プログラムの良い例だという。

河野さんは学生時代にリクルートと競合するアルバイトニュースの広告営業をやり、卒業後はニッサン車のセールスをやっていた。リクルート入社後もPC長から事業部長になるまで九年間連続して最優秀経営者賞を受賞し、43歳で専務、51歳で社長に昇格した。


リクルート成功の秘訣

この本にはリクルート成功の秘訣がサラッと書かれている。印象に残った点を簡単に紹介しておく。


最先端のOA

江副さんが昭和38年にアメリカに出張した時の経験から、IBM1100という大型コンピューターを使った自動採点機を導入し、当時急速に拡大していた適性検査の採点業務に使うとともに、大学などから入試採点業務を受注する。

まさに進取の精神だ。

リクルートの広告制作システムも大変自動化されたものだと、リクルート出身の知人から聞いたことがある。

リクルートのファックス一斉配信サービスは一頃市場を席巻していた。OA化も最先端で積極的に進めたのが、リクルートの成功要因の一つだ。


初任給は一流企業の三割増し

創業四年目から新卒採用を開始し、最初の新入社員の給与は一流企業の初任給の3割増しに設定した。高い給与で優れた人を採用するのがリクルート流だ。


リクルートは女性と高卒でもつ会社

2、000名の応募者から大卒四名、高卒四名を採用する。大卒は全員女性、高卒は男女半々だった。つまり採用八名のうち女性が六名だ。

リクルートは高卒と女性でもつ会社、と言われた時期が長く続くようになったそうだ。

今でこそ女性の総合職を採用するのが当たり前になっているが、30年以上前は女性総合職を採用している会社はほとんどなかった。女性の戦力を生かすという面でもリクルートは先進企業だ。


ファブレスのセル生産企業

リクルートは雑誌点数では日本一、印刷ページでも日本一、しかし平均発行部数は少ない。

自前の印刷工場を持たず、製造業で言うと「ファブレス」で、かつ少数多品種の「セル生産」がリクルートの強みだと江副さんは語る。


不動産は成長の原動力で、かつ鬼門

最初は森ビルの屋上の掘っ立て小屋から初めて、西新橋の本社ビル、新橋の本社ビル、大阪、名古屋の地方の支社ビル、銀座本社ビル、銀座日軽金ビルなど不動産で成功を収めた。

その後の不動産バブルもあり、不動産の含み利益がリクルート発展の原動力になったと言っても良い。

そして不動産分譲販売のリクルートコスモスの新規上場株を政治家や財界人などに配ったリクルート事件もまさにバブルの最中の事件だ。

結局撤退した岩手県の安比高原スキーリゾートの開発といい、不動産はリクルートにプラスとマイナスの両方の効果を与えた。


外飯・外酒

江副さんは「外飯・外酒」といって、得意先や社外の人との会食、勉強会や研究会への参加を奨励していた。外の人たちと交流を持ち、視野を広げることもリクルートの特色だった。講師になれば講演の準備が本人のためにもなる。

学会の役員になった人も多く、i-modeで有名な松永真理さんは、大学の非常勤講師を務めていた。前社長の河野さんは政府の総合規制改革会議のメンバーとなったり、経済同友会の幹事にもなっていた。

しかし江副さんの場合は、政治家を囲む会への出席が後にリクルート事件として大きな災いとなってしまった。


江副さんが学んだ名経営者の言葉

江副さんは交遊が広いので、多くの名経営者とのつきあいから、印象に残ったことを書いている。ソニーの井深、盛田、大賀さん、三洋の井植さんなどそれぞれに面白いが、松下幸之助とソフトバンクの孫さんのエピソードだけ紹介しておく。

松下幸之助は経営の要諦について、次のように語っていたという。

「人は誰でも得手なことと不得手なことがありまんがな。誰に、どの仕事を、どこまで要望するかが大事やなぁ」。経営の神様の味わい深い言葉だったという。

筆者も毎日1−2ページづつ愛読している松下幸之助の「道をひらく」は、松下幸之助が書いたPHPの連載コラムを編集したものだが、江副さんが聞いた様な話が満載で、大変参考になるのでこれもお勧めしておく。

道をひらく


ソフトバンクの孫さんの話も面白い。孫さんはゴルフが趣味で、自宅にゴルフレンジをつくり、暇があれば練習しているという。なんでも積極的だ。

孫さんは時間とお金、人を精一杯使う。ベンチャーの成功者になる条件だと。

まさに余談ながら、江副さんはソフトバンクモバイルはいずれKDDIが買収し、ドコモを超えるナンバーワンになるのではないかと予想していると言う。

むしろ孫さんは資金さえあれば、KDDIを買収したいと思っているのではないかと思うが、ともあれ江副さんの予想する合併も将来はありうるかもしれない。

この本でも紹介されているファーストリテーリングの柳井正さんの「一勝九敗」も面白かったが、この「リクルートのDNA」も参考になる。

一勝九敗


「リクルートのDNA」というと、リクルート出身者が持つ共通の性質のように思えるが、この本は江副さんの自伝的ビジネス書であり、リクルート出身者を一般化したものではない。

江副さんは既に現役をだいぶ前にリタイアされているだけに、気負いが全くなく自然体でスッと頭に入る。是非一読をおすすめする。



参考になれば次クリックお願いします。



ルービン回顧録 数々の金融危機を切り抜けた名財務長官の手記

今回はまたオバマ政権にも影響力を持つルービン元財務長官の自伝だ。ルービン氏、サマーズNEC(国家経済会議)議長、グリーンスパン前FRB議長のトライアングルで、クリントン政権が数々の通貨危機を乗り越え、1999年度には国家財政の黒字化を達成したことは特筆すべき業績である。

ルービン回顧録ルービン回顧録
著者:ロバート・ルービン
販売元:日本経済新聞社
発売日:2005-07-26
おすすめ度:4.5
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ゴールドマン・サックスの共同会長を務めた後、クリントン政権入りして財務長官を務め、クリントン大統領から米国初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン以来最高の財務長官と評されたロバート・ルービン氏の回顧録。

ルービン氏はこのブログでも紹介したサンディ・ワイル前シティグループ会長にリクルートされ、現在はシティグループの会長をつとめている。

アラン・グリーンスパン前FRB議長の回顧録を読んで、クリントン政権のルービン財務長官、サマーズ財務次官と強力なタッグを組んで米国のみならず世界の経済をリードしていたことがわかったので読んでみた。

全編を通してルービン氏の根っからの民主党びいきと、クリントン大統領への尊敬の念が溢れている。クリントンはたぐいまれな聞き手であると賞賛している。


日本に対しては手厳しい

メキシコ、タイ、インドネシア、韓国、ロシア、ブラジルなどの経済危機を財務長官として切り抜け、在任中に30年ぶりに財政黒字化を達成したことが、名財務長官といわれるゆえんだが、みずからの手柄としておごることなく、当事者として淡々と語っている。

ただ日本に対してはあまり良く書いていない。

そもそも日本の経済停滞が1997年から1998年までの一連のアジア経済危機の遠因となったという。

G7で圧力をかけたが、日本の橋本首相はもはや回復は目前だというばかりで、結局景気回復が遅れアジアの経済不安を増大させたという。

橋本首相に代表される日本政府の態度は、ゴールドマンサックス時代によく経験していたトレーダーが含み損の回復を祈る態度に似ていたと語っている。

それに対して中国の江沢民主席と朱鎔基首相はルービン氏の呼びかけに対して人民元の切り下げはしないと確約し、約束を守ったという。

中国のリーダー達は手強く、独立心が強く、圧力に屈しない。中国は日本よりも建設的な役割を果たしていると見なされることに満足していたとルービン氏は語る。

21世紀中に中国は恐るべき一大勢力となるはずであり、友好関係を築けば米国にも有益だろうと。

まさに「ジャパンパッシング」を代表している。民主党のオバマ氏がもし大統領になると、ルービン氏の影響力が増すと噂されているだけに、そうなると「ジャパンナッシング」につながることは間違いないだろう。


ルービン氏の経歴

ルービン氏は1938年ニューヨーク生まれ。父親は弁護士で、祖父は民主党の強力な支援者という家系だった。9歳の時に一家はマイアミビーチに転居し、ルービン氏はマイアミビーチの高校からハーバード大学に入学する。

ハーバードでは名門私立高校からのエリートに圧倒されるが、4年後の卒業の時は最優等でファイ・ベータ・カッパの会員資格を取得した。

筆者は米国に合計9年間駐在していたが、このファイ・ベータ・カッパの様なフラタニティ・ソロリティの活動については、誰かの履歴書で見たことがある以外は全く知識がなかった。Wikipediaの解説を引用したので、興味ある方は是非一読をおすすめする。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに1年間留学後、イェール大学のロースクールを卒業。奥さんのジュディとはイェール大学大学院在学中に知り合った。ジュディはフランス文学とクラッシックのボイスレッスンを学んでいたのだ。結婚後すぐに子どもが誕生する。

イェール大学卒業後、ニューヨークの弁護士事務所で2年間働いた後、1966年にゴールドマン・サックスに入社し、裁定取引の部門に配属される。

当時のゴールドマンサックスの伝説のトレーダーのグスタフ・レビーに鍛え上げられる。目の前にいる誰かに、嘘いつわりなく自分の関心を100%向けられる人。それはレビーとクリントンだったという。

ゴールドマン・サックスでは裁定取引やオプション取引をさらに進めて、デリバティブ取引を収益の大きな柱に育て上げた。大変な功績である。

1986年にはオプション取引でゴールドマン・サックスが1億ドルという大きな損失を被ったが、債券部門を崩壊から救った功績で1987年に同僚のスティーブ・フリードマンとともに共同会長に就任した。

ゴールドマン・サックスの共同会長に就任後、従来からの民主党への支援を積極化させ、マイケル・デュカキス候補の資金集めや、1992年の大統領選挙への民主党候補セレクションにかかわった。このときの候補の一人がオバマ氏が今回副大統領候補に指名したジョセフ・バイデン氏である。

選挙支援顧問団の一員としてクリントンの経済政策策定に協力し、大統領に当選したクリントンから政権入りの打診を受けるが、議会対策、マスコミ対策、政治的駆け引きなどの点で経験がないので、まずはそのときに創設されたNEC(National Economic Council)の初代委員長に1993年に就任した。

正式に政権を委譲受ける前からアーカンソー州のリトルロックにクリントン政権の主要メンバーと経済の専門家が集まって政策を議論していた。

財政赤字削減についてはグリーンスパン議長も一部参加して議論が進められた。このときにガソリン税引き上げも織り込まれた。

クリントンとグリーンスパンは初対面だったが、サックス以外に共通点があったと、それぞれの回顧録にこの時のことを書いている(グリーンスパン議長はジュリアード音楽学院で学んだ後、一時プロのバンドでサックスを吹いていた)。


財務長官就任直後にメキシコ経済危機

クリントン政権後最初の中間選挙で民主党は共和党に決定的な敗北を喫し、40年間ではじめて上下両院でマジョリティを失った。その後1995年1月にロイド・ベンツェンが財務長官を辞任し、ルービン氏が後任の財務長官に就任する。

グリーンスパン氏の回顧録にも語られていたが、ルービン氏が財務長官に就任した1995年1月にメキシコ政府はデフォルトを宣言する瀬戸際となり、経済危機に陥った。

メキシコは60億ドルの外貨準備しかなく、それを上回る短期債務の返済期限が迫っていた。

この時にクリントンは「それこそ、国民が私たちをここに送り込んだことなのだ。」と語り、世論調査では国民の支持が18%と低かったにもかかわらず、NAFTA反対論者の多い上院下院議員を説得した。

最終的には議会の承認が不要な外貨準備の一部の為替安定基金(ESF)を使って米国分200億ドルを資金提供し、IMF 100億ドル、カナダ等その他100億ドルを加えて、合計400億ドルの救援パッケージを準備した。

フラット化する世界」の著者のトム・フリードマンは、ニューヨークタイムズのコラムで、「クリントン政権が決定した外交政策の中で、最も人気がなく、最も理解されていないが、最も重要なものである」と高く評価したという。

メキシコペソがその後下落する局面もあったが、メキシコ危機は7ヶ月で終了し、1996年からはメキシコはプラス成長となった。そして米国はこの金融支援で14億ドルの金利収益を得たのである。


財務長官の役割

米国財務長官の役割は米国の財政・為替政策を通して、米国経済の安定的成長を確実なものとすることだ。

ドルは世界の基軸通貨となっているので、発行されているドル紙幣の7割は米国外で使用されている。米国経済が安定的に成長すれば結果として世界経済も安定的に成長するので、米国政府では外交政策を司る国務長官と並んで重要なポストだ。

政治家が就任したり、最近ではビジネス界から転身する例も多い。ルービン氏の前任は民主党の大統領候補にもなったロイド・ベンツェン上院議員で、現在の財務長官のポールソン氏はルービン氏と同じくゴールドマン・サックス出身だ。

財務省は傘下にIRS(内国歳入庁)、関税局、証券印刷局、シークレットサービス、専売局などを持ち、国際局、国内金融局、税制局、経済政策局などの巨大な政策決定部門をかかえる職員16万人の巨大組織だ。

インフレ率、失業率、ドルレート、生産性、貿易収支などの経済指標のいずれかが悪化すると、責任は財務長官にあるとされるのだ。それでいて、長官の権力は制約されており、16万人のうち100人程度の部下の人事権しかなく、それも制限されているという。

政策の決定権は実はホワイトハウスが持っており、長官はいわば二足のわらじを履く。政権メンバーながら、省を代表してホワイトハウスのスタッフに根回しをしなければならないのだ。いわば「分裂病」状態であると。


議会対応

議会対応はゴールドマン・サックス時代に経験した顧客戦術を活用したという。議会対応に長けていたのはグリーンスパン議長であるとルービン氏は語る。

グリーンスパン議長は、質問を受けると、たとえ的はずれな質問でも相手に敬意を表する。たとえば「地球が平らであるとは面白いお考えですな」というような感じでコメントする。

そして「質問を言い換えてもよろしいでしょうか?」と言いながら、全く違う質問を自らに問い、相手を煙に巻くようなニュアンスで答えるので、質問者はもっともらしい顔をしてうなずくか、よくわからないと認めるしかなくなる。

その上で、「ご質問の答えになっているでしょうか?」と尋ねる。すると議員は「はい」と答えるのだという。


為替相場と株式相場

財務長官の一言が為替相場に大きな影響を与えるので、ルービン氏は発言には気を遣っていたという。

具体例として出てくるのが「強いドルは国益にかなう(A strong dollar is in our interest)」という言葉から「強いドルを維持すれば国益につながる(I believe it's in our interest to maintain a strong dollar)」と微妙に言い方を変えたことだ。

翻訳だと何がなんだかわかなかったので、英語原文を読んで初めて理解できた。翻訳でも「と思う」という一言を付け加えれば、意味が通ったのではないかと思う。

いつも「強いドルは国益にかなう(A strong dollar is in our interest)」と言い続けていたこともあって1998年6月には円は146円にまで下落した。

そこで、日本円の下落には到底耐えられないとFRBのグリーンスパン議長、サマーズ財務次官他と協議を行い、介入を実施した。すると円は136円まで反発し、その後も円安には戻らなかったという。

財務長官の責務として株式市場の動きにも眼を向けていた。グリーンスパン議長は「根拠なき熱狂(irrational exuberance)」という名言を残したが、ルービン氏は「株式市場は変動するものだ」と株式市場についての発言は差し控えていた。

唯一の例外は1997年10月27日の株価暴落で、この日はグリーンスパン議長も招いて相談し、「ここ数年、アメリカ経済の基礎的要因は非常に安定しており、現在も強固である」と発表した。

グリーンスパン議長とは個人的にも親しくなり、サマーズ財務次官も交えて毎週朝食会をおこなって議論していたという。

アメリカ経済が長期安定的に成長している理由は生産性が向上したからであることを見抜いたのは、グリーンスパン議長が最初だったという。


相次ぐ経済危機と「火消し長官」

ルービン氏はクリントン政権の二期目の半ば、1998年中に財務長官を辞任して、後任にサマーズ次官を推すつもりだったが、辞任が1999年7月に延びたのは、1997年7月のタイバーツ危機に始まる韓国、インドネシアのアジア経済危機、そして次のロシア、ブラジル経済危機、LTCM破綻などが続いたためだったという。

ルービン氏は就任直後にメキシコ経済危機を手がけた経験があるが、アジア経済危機は世界金融市場に与える影響の大きさからいって比較にならないという。

アメリカがIMFと強調して軍事同盟国の韓国の経済危機を救った舞台裏も描かれていて面白いが、経済危機の韓国から日本の銀行は融資を引きはがしたと、またも日本が酷評されている。

1998年8月のロシアのデフォルト宣言の日に、クリントン大統領はモニカ・ルインスキーとの不倫疑惑を認め、テレビで謝罪演説するという政治的混乱があったが、多くの核兵器を持つロシアが経済破綻すると核兵器のイランなどへの流出も起こりかねないとして、アメリカはIMFとロシア救済に乗り出す。

このときに破綻したのがノーベル賞受賞者2人をチームに入れていたLTCMだ。

ルービン氏は、アジア・世界経済危機の時に、貸手側のモラルハザード(ハイリスク・ハイリターンの投機を行った富裕層・金融機関を助けるのか?という議論)が必ず話題に出たが、世界経済の成長のためにいずれの時もアメリカは支援を主導したと語る。

1999年に入るとロシアとブラジルを除き、韓国などアジア各国は経済成長に戻った。

ほとぼりがさめると韓国の蔵相は予想より金利が0.25%高くなるとして、協調融資を断る発言をしたので、ルービン氏はキレたという。

後に共和党政権で財務長官となったポール・オニール氏は、ルービン氏のアジア経済危機支援を「火消し長官」として批判していたが、結局2001年のトルコ、アルゼンチン、ブラジルの経済危機にはIMFと一緒に支援した。

ルービン氏は「火消し長官」とオニール氏から揶揄されたときに、「いざとなったら手を貸すに決まっている」とつぶやいたものだが、それが的中したと語る。


クリントン政権でやり残したこと

ルービン氏がクリントン政権で達成したかったができなかったことの第一は、ヒラリー大統領夫人が中心となって取り組んだ抜本的な医療制度改革だという。

ヒラリーは世間でのイメージとは裏腹に、反対意見や議論に流されやすかったという。暗にミスキャストだと言いたい様だ。


シティグループ会長に就任

1999年7月にルービン氏は辞任し、外交問題評議会やいくつかの慈善団体に関わった後、サンディ・ワイル氏に誘われてシティグループ経営執行委員会会長に就任する。

ルービン氏の退社時にはゴールドマン・サックスは6,000人の社員を抱え、大所帯だと思ったが、シティグループは102ヶ国に拠点があり、社員は18万人の世界最大の巨大金融機関だ。

ルービン氏はシティグループに入社して、他の二人の共同会長であるサンディ・ワイルとジョン・リードの確執を眼にする。

決定的だったのはリードが推進するインターネット活用策のeシティ計画についての意見の相違だ。結局三人を除く取締役会が議論して、サンディ・ワイルを単独CEOにして決着がついた。

ルービン氏は財務長官退任後、フォードの取締役も引き受け、ファイアストンタイヤの欠陥問題やナッサーCEOの解任を経験する。


2000年のインターネットバブル崩壊

ルービン氏はウォーレン・バフェット氏と30年以上のつきあいだが、バフェット氏はインターネットバブルの時に、市場が過大評価されていると判断していた数少ない人物の一人だったという。

2000年1月に象徴的な出来事があったという。

あるインターネット企業のCEOがルービン氏を訪問してきて、既存金融サービスシステムを一掃する画期的な技術を開発したので、自分の会社と提携しなければシティグループは生き残れないだろうと言ってきた。たいして利益もない会社がピークでは時価総額は200億ドル(2兆円)を超えていたという。

ルービン氏がシステムのことはわからないので、システム部門と話してくれと言うと、CEOは困惑して、「システム部門の人間では話にならない。社員が路頭に迷ってもいいんですか?」と言い出した。実に驚くべき会談だったという。

結局何とかシステム部門の人間と会わせたが、めぼしい話はなく、後にその企業の株価は急落した。

2000年初めに1、527だったS&P500指数は2002年秋には777まで落ち込み、NASDAQに至ってはピークの5、049から、1、114へ8割近く下落した。

筆者もこの時米国に駐在していてインターネットバブルを経験した。

某インターネット企業の株式を1999年12月のIPO時に43ドルで手に入れたが、1ヶ月で300ドルを超え、2000年3月に一部売却したときは平均200ドルを超えていた。しかしその後半年で10ドル台に下落した。まさにローラーコースターだ。

ルービン氏は長期的な業績よりも、短期的な見通しと4半期ごとの利益を重視する現在の株式市場の傾向は気がかりであるが、長期だけ見ていてもいけないと忠告する。


「財政大論争」

2001年のブッシュ減税ではルービン氏は「財政大論争」と呼ばれる反対意見の急先鋒だった。

サプライサイド経済学の理論は、財政引き締めと減税が経済成長を支え、結果的に政府の歳入は増加するというもので、これが1980年代の、レーガノミクスの論拠となった。

レーガンの経済政策は「ブードゥー・エコノミクス」と批判されたが、絶大な人気に支えられドラスティックなレーガン減税が実施された。

筆者も当時米国に駐在していたので、最高50%を超えていた所得税率が一挙に15%と27%(記憶が正しければ)に単純化されたのには驚いた記憶がある。

共和党の減税とスターウォーズ計画に代表される軍事力強化の財政支出拡大が1980年代の巨額の政府赤字につながり、レーガン政権8年間とブッシュ政権4年間で1992年には財政赤字はGDPの4.7%にまで拡大した。

それゆえクリントン大統領は財政再建を第一目標にかかげ、財政支出引き締めとガソリン増税などによる歳入改善に取り組んだ。

90年代末に株式市場が高騰したこともあり、1998年からは30年ぶりに財政黒字を達成した。これはクリントンの経済政策の成果であり、ルービン財務長官の花道を飾った。

ブッシュ政権となっても議会予算局(CBO)は向こう10年で政府の財政黒字は5兆6千億ドルになるとの予想を維持していたことから、ブッシュ大統領は公約通り減税を発表した。

グリーンスパン議長は2001年1月に”大幅な”減税はやるべきでないと語ったが、それは結果的にブッシュ減税に賛同したと見なされた。

グリーンスパン議長の議会証言の前に、ルービン氏がグリーンスパン氏に電話して、ブッシュ減税をやめさせるような発言を求めたことは、グリーンスパン議長の回顧録でも記されている。

ルービン氏は2001年2月にニューヨークタイムズに大規模な減税は政策ミスであり、ベビーブーマーの退職に備え財政黒字を維持するべきだという論文を発表したが勝ち目はなく、ブッシュ大統領は選挙公約通り2001年6月に減税に踏み切った。

筆者も減税のドルチェックを受け取った。思ったよりも大きな金額なので、驚いた記憶がある。

そうすると株式市場は2000年に大幅下落していたこともあり、減税から数ヶ月後に財政赤字となった。

CBOの予想が全く間違っていたのだ。

加えて2001年9月11日にはテロが起きて、アメリカ経済の成長は鈍化し、財政赤字は拡大する一方となった。


財務長官を退任しても影響力は絶大

9月11日のテロ攻撃の後に、ルービン氏はGEの前CEOのジャック・ウェルチから電話を受け、ウォレン・バフェットとジャック・ウェルチと一緒にテレビの人気番組60ミニッツに出演し、閉鎖されていた株式相場を早期に安定化させる発言を行った。

ルービン氏は財務長官を退任しても、大きな影響力を持ち続けている。クリントン氏が言うようにハミルトン以来最高の財務長官かどうかはわからないが、たしかに幾多の修羅場をくぐり抜け、財政黒字を達成した功績は高く評価されるべきだろう。

ルービン氏は最後に国際共存時代について語り、「可能な限り最善の答えを追求する旅」は果てしなく続くと結んでいる。

確率論者のルービン氏らしいエンディングである。


近々紹介するグリーンスパン議長の回顧録は自らが書いたもので、英文も格調高い。それに比べるとジャーナリストに書かせたルービン氏の回顧録は、平板で面白みに欠けるが、ゴールドマン・サックス時代にデリバティブ取引を拡大させた功績も、財務長官としての功績も抜きんでたものがある。

世界経済危機の「火消し長官」による舞台の裏側がわかる、ややとっつきにくいが、じっくり読むと味がわかるおすすめの本である。


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父の肖像 堤清二(辻井喬)が書いた西武グループ創始者 堤康次郎の伝記小説

今回は西武グループ創始者の堤康次郎氏の伝記小説を紹介する。息子の堤清二(小説家の辻井喬)氏が書いた「父の肖像」だ。

堤康次郎氏は一代で西武グループを作り上げた。やり手という言葉がいろいろな意味で当てはまる人物だ。

父の肖像


西武百貨店(セゾン)グループの総帥だった堤清二氏は辻井喬(つじいたかし)のペンネームで作家としても有名である。

筆者の読んだ本のなかでは詩人で住友財閥の重役だった川田順のことを書いた『虹の岬』も印象に残る作品だったが、この本は自ら『最大の宿命』と呼ぶ、父であり西武グループの創始者である堤康次郎氏の伝記小説である。


虹の岬


実は図書館で3ヶ月前に借りて一旦読み出したのだが、あまりのボリューム(640ページ)に完読できず、再度またリクエストして読んだのだ。

この本は雑誌『新潮』に2000年から2004年にかけて連載されたものを2004年9月に本にまとめて出版されたものでもあり、西武鉄道・コクドの事件とは直接関係はないが、この作品で辻井喬氏が野間文学賞を受賞したこともあり、出版後1年以上経つのにいまだにリクエスト者が数十名居るという、図書館でも非常に人気が高い本である。

筆者のポリシーは小説を紹介するときは、面白みが薄れてしまうので、詳しいあらすじは書かないというものだが、この小説は堤康次郎の生き様を描くかたわら、作者堤清二自身の出生の秘密と未知の実母に対する複雑な思い(フィクションなのか実話なのか不明)がちりばめられた伝記と小説の混合なので、640ページという大作でもあり、印象に残った点を紹介したい。


西武鉄道有価証券法違反事件

堤ファミリーが保有する株式を、第三者名義にして株主名を何十年も偽って報告したため、有価証券取引法違反等で、昨年西武鉄道の総帥堤義明氏が逮捕されたことは、記憶に新しい。

この本の中でも堤康次郎が堤義明らに次のように言ったとされている:

「世間では東急を近代的とか大企業らしいなどと言っているが、どの企業も五島家のものではない。そこへいくとわしの事業は全部堤家のものだ。」

「西武鉄道は上場しているが、それは形だけのこと。絶対の支配権はわし一人が握っている。成り立ちが違う。経営の実態を知らない近代かぶれの学者や記者ごとき軽薄才子に惑わされてはいかんぞ。」

「お前らは堤家中興の祖、曾祖父清太郎の遺志だけを継げ、世間の評判は一切無視しろ。そんなもの、悪ければわるいほどよろしい。」


なんと最初は特定郵便局長から事業開始

小泉首相が郵政民営化は是か非かを問うた今年9月の総選挙が記憶に新しいが、なんと堤康次郎は東京に出てきて早稲田大学高等予科に通う傍ら、郵便局を買収して郵便局長として最初の事業を始めている。

明治時代から特定郵便局は儲かる商売だと思われていたようだ。

堤康次郎は明治22年滋賀県東畑郡六箇荘生まれで、幼少の頃父が腸チフスで亡くなったため、弟は養子に出され、実母は実家に帰ることとなり、妹と一緒に祖父に育てられた。しかしその祖父も康次郎が19歳の時になくなる。

田舎では肥料の仲買をやったり、郡役所に勤めたりして最初の結婚をし、21歳で長女が誕生しているがすぐに離婚した。

祖父から相続した田畑を売り、学資をつくって上京し、早稲田大学予科に入学し、政治経済学部へ進学する。立身出世を目指す康次郎は雄弁会で弁舌を鍛えながら、柔道でも腕を上げる。

学生ながら株式投資でできた資金を使って特定郵便局を買収する一方、鉄工所も買収し、複数事業に同時に取り組むという今で言うとポートフォリオ戦略を実行する。

郵便局長時代に23歳で、局員に産ませたのが長男であるが、この相手とは結局結婚はしなかった。


政治への野望

早稲田時代には、ちょうどオックスフォードでの留学を終えて教授として帰国したばかりの永井柳太郎に師事、当時第2次大隈内閣を率いていた早稲田大学創始者の大隈重信とも近づきとなる。このとき永井の指導で『日露財政比較論』という本も出版している。

ほとんどが士族出身で、なおかつ藩閥内閣の薩長閥が力を持っていた当時の政治の世界では、近江の百姓出身というコンプレックスを常に抱いていた康次郎だったが、大正5年に永井の妻の友人の編集者で、2歳年上で小名浜の医者の娘の桜と2度目の結婚をした後は、文人とのつきあいも増え、コンプレックスは薄れた様だ。

桜との間には結局子供はできず、長男と、夭折した弟の息子として戸籍上は届けられた作者堤清二を引き取り、堤清二は桜に育てられる。

永井柳太郎が大正9年に当選し、康次郎もその後を継いで大正13年に衆議院議員となり、以来戦前戦後を通じてずっと議員の資格を持つ。

大正13年の最初の選挙では『家老の子か、土民の子か』という戦略で、普通選挙を求める民衆の意識の高まりをうまく利用し、かつ勧業銀行、興業銀行、山下汽船、東京電燈、実業之日本社などの社長、早稲田や東大教授の支援を得て当選し、永井のいる憲政会に入党する。

ちなみに普通選挙法は大正14年に成立するので、康次郎の民衆意識に訴えるという戦略は、まさに時代を先取りしていた。

昭和7年には永井が外地(台湾・韓国・満州など)を担当する拓務省の大臣となった関係で、政務次官となる。このとき満州を視察し、匪賊に悩まされている辺境の開拓民の実体を知り、満州経営は非常に困難であることを実感したが、流れを変えることはできず、昭和11年に2.26事件が起こったあとは日本は全面戦争に向けひた走ることになる。


地域開発事業への進出

大正2年に大学卒業後、大正6年に後藤新平のすすめで軽井沢の沓掛地区に80万坪の土地を購入し、地域開発事業に進出。郵便局とか鉄工所は手放したが、東京護謨(ゴム)という会社を買収するなど、事業には才能があり、不動産業や鉄道業でもその才覚を発揮する。

司法大臣等を歴任した政治家大木遠吉を訪ねて熱海を訪問した時に、十国峠を越えて箱根を視察し、首都から1日圏の観光地としてのポテンシャルを見抜き、観光地開発を決意、三島から修善寺を走っている駿函鉄道も買収して伊豆・箱根開発に力を入れる。

また東京市長の後藤新平と相談して、国分寺と立川の間に国立をつくり、ドイツのハイデルベルク等にならって、核となる東京商科大学(一橋大学)を敷地が4千坪から2万坪になるという計画で誘致し、駅から延びる『60メートル道路』を持つ学園都市として開発する。

昭和初期には第1次世界大戦後の不況で、不動産業は窮地に陥り、開発費の支払いが滞り、コクドは破産状態となっていたが、なんとか持ちこたえ、戦争拡大とともに景気は回復し、窮地を脱する。

コクドはその後減資・増資して埼京鉄道(西武鉄道)を買収し、さらに路線での不動産開発をすすめ、西武グループは新興企業グループとして確固たる地位を占める。

このころ学園都市開発で知り合った大学教授の娘の治栄とねんごろになり、三男が誕生する。堤義明氏である。治栄とは婚外で2男、1女をもうけた。

戦後、衆議院議長として宮内に正式な妻ではない治栄と一緒に拝謁したことから、スキャンダルを恐れ、長年別居していた正妻桜と離婚して治栄と正式に結婚する。

昭和15年には麻布に一万坪の六荘館とよぶ迎賓館を建設し、一族はそこに住む様になる。東条内閣の時には大東亜迎賓館と呼ばれ、政府の公式な迎賓館としても使われたが、結局空襲で焼けてしまう。


難民は叩き出せ

空襲で大東亜迎賓館が焼け、近所の避難民が逃げてきたとき、堤康次郎は「叩き出せ。絶対に入れるな。棍棒を持って追い出してこい。一度入れたら居座られるぞ。」と大音声を発したと。

「いいか清二、覚えておけ。今、難民たちに甘い顔をしてみろ、どこまでもつけあがるぞ。そのうちに小屋掛けをして居座り、結果は乗っ取られる。財産を守るというのはそういう事だ。」と叫んだという。


戦後の発展

戦後康次郎は5年間公職追放となっていたが、軽井沢、箱根、西武線沿線、ホテル、デパート、スキー場、国立地区、三浦半島、大磯、伊豆など西武グループの事業はさらに拡大した。従業員には康次郎は『大将』と呼ばれ、人望も厚かったようだ。前立腺肥大で尿管閉塞を起こし、これが持病となるが、見事快復する。

康次郎の会社の3原則は:

第1に人のためになることをせよ
第2に人のやらないことをせよ
第3に儲かることをせよ

だという。

箱根では五島慶太率いる東急グループ、小田急グループと熾烈な箱根戦争を繰り広げ、西武が建設した自動車専用道路(箱根ターンパイク?)に東急パスが路線申請をしたことから訴訟合戦も繰り広げられることとなるが、その後自動車専用道路を静岡県に売却し、伊豆観光開発の利権につなげる。


作者出生の秘密

この本を通じての最大のテーマが作者出生(しゅっしょう)の秘密である。

作者は「私は自分が何者なのかを知りたくて、そこから父の伝記を書こうと考えたのだ。」と語っているが、作者出生の秘密を握る謎の人物が出てくる。

渋谷の飲食店経営者で後に近江に戻り尼となる平松摂緒とその姪平松佐智子である。

このふたりは小説の中心の人物なので、詳しく説明しないが、この作品に不思議なテイストを与えている。


不思議な読後感

その他作者が康次郎に反発して、東大経済学部時代に共産党に入党したことや、結核療養、一緒に訪米してマッカーサー、アイゼンハワーに面談したことなどのエピソードもあるが、これは詳しくは本を読んでいただきたい。

結局読み終えるまで20時間以上かかったが、読み終えてみると艶福家(えんぷくか)というより好色の事業家堤康次郎に対する嫌悪感は残らず、一介の百姓から西武グループを創り衆議院議長にまでなった尊敬できる人物の様に思えてきた。

たぶんこれが作者堤清二氏の康次郎氏に対する現在の感情なのであろうと思う。

不思議な読後感であった。


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わが闘争 ヒトラーならぬ角川春樹の復活宣言

わが闘争―不良青年は世界を目指すわが闘争―不良青年は世界を目指す
著者:角川 春樹
販売元:イーストプレス
発売日:2005-06
おすすめ度:4.0
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「不良青年は世界を目指す」とサブタイトルのついた角川春樹の『わが闘争』。前回紹介した幻冬舎の見城徹社長の元親分だ。

ビル街で鎧(よろい)を着た角川春樹の写真の表紙が目を引くので、つい読んでしまった。

太宰治を思わせる和服姿で刀を持った角川春樹の写真が、随所に出てくるが、ちょっと貧弱に感じるのは出所すぐで体力が落ちているからか?

読んで驚いたが、ひさびさに『頭にスッと』でなく、『頭をガーンと』やられた本である。本の帯に『カリスマ、復活!』とか書いているが、今まで彼の関係した本や映画を見ていて、角川春樹という人物を意識したことはなかったが、この本を読んではじめて彼がカリスマプロデューサーであったことがわかった。

塀の中の懲りない面々 (新風舎文庫)塀の中の懲りない面々 (新風舎文庫)
著者:安部 譲二
販売元:新風舎
発売日:2004-04
おすすめ度:4.0
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筆者は年間2〜300冊の本を読んでいるが、この本の様に何故かわからないが、頭をガーンとやられる衝撃を経験したのは安部譲二の『塀の中の懲りない面々』以来だ。その意味ではこの衝撃は20年ぶりくらいだろう。

安部譲二の本もそういえば刑務所出所直後の本であり、角川春樹の『わが闘争』も同じく麻薬で2年半の懲役から戻ってきた直後の本である。

安部譲二の本は楽しく読める本で、この本とは異なるが、才能のある人が懲役の様な異常体験を経験した直後に出す本はとぎすまされた殺気の様なものがあるのかもしれない。

わが闘争』は勿論ヒトラーのマインカンプ"Mein kampf"が有名で、筆者は大学時代にヒトラーの大作は読んだ。

わが闘争 上―完訳   角川文庫 白 224-1わが闘争 上―完訳 角川文庫 白 224-1
著者:アドルフ・ヒトラー
販売元:角川書店
発売日:1973-10
おすすめ度:4.5
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この角川春樹のわが闘争はヒトラーとは何の関係もないと思っていたが、ここで書いていてわかったのだが、ヒトラー本も角川文庫で出版されている。角川春樹は麻薬所持で逮捕されて、追放されるまで角川書店の社長だったので、角川文庫本を意識しているのかもしれない。

おれの魂はスサノオノミコトである』とか言いながら始まるので、なんか『おれ』とか書いていて変なオッサンだなと思ったが、読んでいくと引きつけられるものがある。

おれの魂はスサノオノミコトだが、刑務所生活で仏の慈悲に目覚めたという。刑務所で毎日『我慢我慢の辛抱は大きくて強くてあたたかい心の人をつくるよ』、『前へ前へ。どんなにつらくてとも悲しくとも、いつかきっと道は開けるよ。だから前へ前へ』とも唱えていたのだと。

UFO体験とか、おれの脳細胞は20%近く覚醒しているとか、強い精神エネルギーがあるおれは歩く神社だとか、なにかわけがわからないが、たしかにパワーを感じる。
父親の角川源義、姉の辺見じゅん、弟の角川ホールディング社長の角川歴彦、自殺した妹の真理、生母、義母、自分自身の五回結婚、五回離婚の話とか、言葉では簡単に言い尽くせない生い立ちと家系である。

父親の角川源義は國學院大學の理事だったが、角川書店のビジネスも大きく國學院卒業生に依存していたので、早稲田の文学部に受かっていたのに、父に國學院に入るよう言われて従った話とか、不良ではあるが、父親に認められようと父の愛に飢えていたことがよくわかる。

巨富を築く13の条件巨富を築く13の条件
著者:ナポレオン ヒル
販売元:きこ書房
発売日:2001-03-27
おすすめ度:4.5
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ナポレオン・ヒルのThink and Grow Rich『巨富を築く13の条件』がおれを大きく変えた本であり、デール・カーネギーの『人を動かす』も影響を受けた本であると。

人を動かす 新装版人を動かす 新装版
著者:デール カーネギー
販売元:創元社
発売日:1999-10
おすすめ度:5.0
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筆者もこの二冊、特にカーネギーは常々読み返す本なので、こんな共通点がガーンとやられる衝撃を受ける基盤なのかもしれない。

仕事はカリスマプロデューサーであることは間違いない。いままで知らなかったが、角川書店が近代的なメディアミックスの有力グループとなって、本、文庫、翻訳、ベストセラーの映画化、テレビコマーシャルとつぎつぎに成功を収めたのは角川春樹の力に依るところが大きい。

ラブストーリー、いちご白書、ジャッカルの日などフォーサイス作品、人間の証明、八つ墓村、犬神家の一族等の横溝正史作品、文庫カバーのビジュアル化、セーラー服と機関銃等々。

生涯不良宣言というのもふるっている。『女と金は追いかければ追いかけるほど逃げる』というのが角川春樹の法則だと。

今は角川春樹事務所でベストカンパニーを目指している。組織が大きくなると一人ひとりのキャラクターが生きなくなる。中島みゆきの歌に『人は多くなるほど、物に見えてくる』という歌詞があるが、その通りだと。社員50名以下が良いのだと。

パワーを感じる強烈な本である。


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サンディ・ワイル回顧録 シティグループを築いたM&Aの巨人の自伝

サンディ・ワイル回顧録―世界最大の金融帝国を築いた男 (上)


シティコープとトラベラーズ・グループを1998年に合併させ、世界最大の金融グループのシティ・グループを創り上げたサンディ・ワイルの自伝。

昨年の米国金融危機以来、シティグループは政府管理会社になっているので、資産2,000億円と言われたサンディ・ワイルは、シティを食い物にした経営者として批判されるかもしれないが、それにしても一介の証券ブローカーから、幾多の企業買収を経て、挫折を乗り越え、世界最大の金融グループを築き上げた手腕は抜群のものがある。

この本の中に、サンディがリーマン・ブラザース買収を検討したが、買収できずに悔やんでいる話があるが、リーマンがシティグループの一角となっていたら、彼らも存続でき、歴史も違っただろう。

2007年の"Forbes"によるとサンディ・ワイルは資産19億ドル(約2,100億円!)の億万長者で、カーネギーホールの理事長をつとめるほか、自分の名前を冠したワイル・コーネル医科大学の監督委員長などを勤め、今まで数百億円(!)の寄付を行ってきた篤志家(とくしか)でもある。

シティグループ成立後は、シティコープのジョン・リード会長とともに、共同CEOとなったが、両雄並び立たず、ジョン・リードは合併後の2000年にシティグループを離れ、サンディ・ワイルが唯一のCEOとなった。

サンディ・ワイルは2003年にシティグループのCEOを引退し、次のCEOとなったのが、サブプライムローンによる巨額損失で退任したチャック・プリンスだ。

サンディ・ワイルは1933年生まれ、ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれるが、サンディが大学生のときに父親は家庭を捨てる。今はないピークスキル士官学校を卒業後、コーネル大学で学ぶ。1955年の卒業直前に結婚し、卒業後証券業界に入り、ベア・スターンズで証券ブローカーとして働き始める。


必ずしも順調でないスタート

証券ブローカーとしてはすぐに頭角を現したわけではなく、自分や奥さんのジョーンの親類縁者に株投資をしてもらったが、相場でみんなに損失を出させたことで、落ち込んで引きこもろうとするのを、奥さんのジョーンが、顧客に電話するようにハッパをかけたという弱い面もあった。

創業者タビー・バーナムが率いるバーナム&カンパニーでブローカーとして頭角を現し、当時としてはトップクラスの収入を得る。タビー・バーナムはサンディ・ワイルが師と仰ぐ人物である。

自信を得て、1960年に仲間4人と証券会社のカーター・バーリンド・ポトマ&ワイル(CBPW)を創設する。

米国の株式市場は1960年のダウ平均600ドルから、現在の13,000ドルまで50年弱で上昇した。

下がり相場もあったが、長期的には順調に拡大しており、サンディ・ワイルも証券市場のアップトレンドにそって自分のキャリアと資産をアップしてきた。


買収で企業規模を拡大し続ける

サンディ・ワイルの経歴で際だっているのがM&Aの実績と、友人・同僚との仲違いである。

サンディの買収の特徴は、単なる会社合併でなく、バックオフィスやシステムなどのオペレーションの合理化を行って合併効果が必ず出るようにしている。だからこそ買収が成功し続けているのである。

友人、同僚との仲違いは、サンディの性格によるものかもしれないが、アメリカのトップは自己主張が強く、トップエクゼクティブの転職市場も完備しているので、会社を変えることが簡単にできる。だから、みずから権力を握ろうとして、妥協することなく、ぶつかりあうからかもしれない。

最初のCBPWでも、2人が方針の対立で退社し、新たに2人を加えて1968年には社名がコーガン・バーリンド・ワイル&レビット(CBWL)となった。

このときに法律問題で世話になったのが、サンディの生涯の友となる弁護士ケン・ビアルキンである。

サンディの最初の買収対象は、1970年に経営危機を迎えていた大手証券会社のヘイドン・ストーンだ。これによって支店数は2から30カ所に増え、口座数も5,800から51,000に増えた。

ベトナム戦争の影響もあるが、ダウ平均は1970年には、1961年末の水準と同じ725ドルに下落し、多くの証券会社が赤字を出していたことが背景だ。

証券会社はそれまで非公開のパートナーシップが大半だったが、1970年にDLJが公募を行い、1971年にはメリルリンチが最初に株式を公開し、株式公開がブームとなる。

CBWLヘイドン・ストーンも、メリルリンチに続いて株式を公開し、パートナー達はみんな億万長者となった。

1973年に証券取引と商品取引のヘンツ&カンパニーを買収、規模を拡大した。ここでパートナーのマーシャル・コーガンが退社、サンディが初めてCEOとなる。

この時代にピーター・コーエンをアシスタントして重用する様になる。


シェアソンを買収

1974年にシェアソン・ハミルと合併し、社名をシェアソン・ヘイドン・ストーンとする。一挙に売上が倍以上になり、ブローカー数も1,500人となる。

今まで弱かったオペレーション部門のトップに20代のピーター・コーエンを据えて、シェアソンのオペレーション部門に統一し、強みとする。

最初からのパートナーのロジャー・バーリンドが趣味の作詞・作曲で生きたいと退社し、次に3人の経営陣が脱落する。アーサー・レビットがアメリカ証券取引所の会長となり、CBWLはいよいよW=ワイルのみが残った。

1979年にはローブ・ローズ・ホーンブロアーを買収、またもや会社の規模が倍になり、社名をシェアソン・ローブ・ローズに変え、支店270、ブローカー3,500人という第3位の規模となった。

1981年にはジム・ロビンソンが率いるアメリカン・エクスプレスと合併した。


不遇のアメックス社長時代

アメリカン・エクスプレスは社内の順序や秩序にうるさい古い体質の会社で、ビジネス文化の違いにも悩まされ、また当初ねらっていたアメリカン・エクスプレスの顧客名簿を、クロスセルのためシェアソンでも共用することは結局実現しなかった。

サンディが「仇敵」と呼び、その後IBMに転じたルー・ガースナー(このブログでも紹介している「巨象も踊る」の著者)の抵抗にあったためだ。

サンディはアメリカン・エクスプレスの社長になったが、名目だけの社長で、実権はなかったので、メインの消費者向けビジネスは手がけなかった。

まずはバックオフィスサービスのアレゲニーインダストリーズのIDS(インベスターズ・ダイバーシファイド・サービスズ)社を買収、オペレーション重視の戦略をさっそく発動した。IDSはアメリカン・エクスプレスの最も成功した買収例になった。

アメリカン・エクスプレスでは、ピーター・コーエンがシェアソンのトップとして、トレード・ディベロプメント銀行の買収を進め、次にレーマン・ブラザースを高値で買収したが、社長のサンディはつんぼさじきに置かれていた。

ある時ピーター・コーエンに電話した時に、ピーターの息子が電話に出て、父親を呼ぶときに「サンディ・ワイルからだよ。お父さんの嫌いなやつでしょう。」と言うのを聞き、いたく傷つけられたという。

アメックスでサンディが担当していたファイアマンズ・ファンド保険の売却が決定され、サンディは伝説の投資家ウォレン・バッフェトの協力を得て買収を試みるが失敗し、失意のもとに1985年にアメリカン・エクスプレスを去る。

1982年にカーネギー・ホールの理事になっていたが、浪人時代はカーネギー・ホールの募金活動にも力を入れ、自らも250万ドル寄付し、全体で6,000万ドルの募金を集め1986年にカーネギーホールをリニューアルオープンする。

名バイオリニストでカーネギーホールの運営者であるアイザック・スターンの熱意にほだされたのだと。

アイザックはサンディの最初の寄付への謝意を示すために、カーネギーホールの新劇場にジョーン&サンフォード・ワイル・リサイタル・ホールという名前を付けた。

浪人中にバンカメリカの買収を検討するが、失敗。その後の片腕となるジェイミー・ダイモン(現JP Morgan銀行CEO)がアメックスを辞めて、サンディのアシスタントとなった。


ボルチモアのコマーシャルクレジット社から再出発

サンディの再出発は1986年のボルチモアのコマーシャル・クレジットという地方の中規模消費者金融会社の経営者だった。これが破竹のM&Aサクセスストーリーの始まりだ。

アメリカの消費者金融事業は年収15,000ドルから45,000ドルの4,500万人の中産階級向けのビジネスで、コマーシャル・クレジット社は、注目に値するリスクリターンの会社であることがわかったので、IPOを実現させた。

コマーシャル・クレジットでは人脈をフルに利用し、フォード元大統領、ハーバードビジネススクールの教授、元国防長官、ウェスティングハウスの会長などが関わっていた。サンディの人脈を物語る豪華な顔ぶれだ。

サンディを継いでシティグループのCEOとなり、今年11月始めに退任したシティグループのトップ、チャック・プリンスはコマーシャル・クレジットの法律顧問をしていて、サンディと知り合ったものだ。

コマーシャル・クレジットのリストラ、ノンコア事業譲渡を行い、格付けはAマイナスへ4段階アップして、順調に再建した。

コマーシャル・クレジットは証券会社のスミス・バーニーや、ALウィリアムズなど数社の保険会社、ホテル、小売りチェーンなどを持つプライメリカ(旧アメリカン・キャン)を15億ドルで買収し、社名をプライメリカに変更した。

時間は掛かったが、資産売却、自己資本増加、格付けアップなどで、株価も高騰し、1990年7月には37ドルまで上昇するが、すぐにS&Lクライシス、ジャンクボンド崩壊、クウェート侵攻などで金融不安が広がり、株価は3ヶ月で18ドルにまで下がった。

しかし1991年から市場は回復し、1992年には最高の利益を上げる。

このころ別荘としてニューヨーク州北部のアディロンダックに17万坪の別荘地を買った。この地方には、ザ・ポイントというリゾートホテルもある。

その後はシェアソンの買い戻しや、GEからキダー・ピーボディの買収などを試みたが、成立しなかった。


トラベラーズグループを合併 証券・保険の一大グループに

次の大型案件は不動産に過剰投資し、弱体化していた保険業界の大手トラベラーズグループとの経営統合だ。まずは1992年に27%の株を取得した。

つぎにCEOジム・ロビンソンが経営不振で退任したアメリカン・エクスプレスから古巣のシェアソンをほぼ簿価の21億ドルで買収し、証券部門をシェアソン・スミス・バーニーとする。

このときリーマンを買収しなかったことは、間違いだったとサンディは語っている。

アメックスの提示額は、後のリーマンのすばらしい業績を考えるとべらぼうに安かったが、投資銀行業務やトレーディング部門について理解が不足していたと語る。

そして1993年末にはトラベラーズと完全合併し、保険・証券の一大グループをつくり上げる。

モルガン・スタンレーから投資銀行のスーパースターであるボブ・グリーンヒルを破格の条件で雇い入れるが、うまくいかず、彼は1994年末に退社する。

1996年には保険業界No. 2のエトナをほぼ簿価の42億ドルで買収し、保険業界トップの座を揺るぎないものにした。

保険業界は成熟した業界かもしれないが、タイミングの良い合併と、優れた経営陣を活用すれば、すばらしい投資収益を上げることができるのだと。

10年間で売上は10億ドルから210億ドルへ、利益は4,600万ドルから23億ドルへ急増し、1996年の資産1,510億ドルは31倍、アメリカン・エクスプレスグループを時価総額で上回った。

多角経営の巨大金融サービスグループの先行きを疑問視する一般の見方を覆して、成功を収めたのだった。


名門ソロモン・ブラザースを買収

トラベラーズグループのCEOとなったサンディは、JP Morgan銀行との合併を画策するが失敗したので、次の合併のターゲットとしてソロモン・ブラザースを選び、1997年に90億ドルで買収する。

1997年当時のソロモン・ブラザース、ロンドンのヘッドトレーダーが伝説のトレーダー、シュガー明神(明神茂)だ。サンディは、ソロモンのデューデリジェンス中にシュガー明神によるソロモン・ブラザースの自己勘定取引分析を聞き、感銘を受けたという。

このシュガー明神はその後、松本大さんのマネックス証券設立時にチューダーというベンチャーキャピタルとしても活躍している。

ソロモン買収直後にいわゆるアジア通貨危機が起こり、ソロモンの業績が足を引っ張り、トラベラーズグループの収益も急落するが、時価総額400億ドルという巨大企業になったことから、次の戦略ターゲットとしてシティコープを選ぶ。


世界最大の金融機関シティグループの誕生

シティコープのジョン・リードCEOとは25年来の知己であったこともあり、1998年に入ると秘密裏に交渉し、トラベラーズグループとシティコープの合併により、世界最大の金融グループ、シティグループが成立する。

片腕だったジェイミー・ダイモンは旧シティコープの経営陣と権力を分担することを拒み、コントロール不能となり結局退社する。

インターネットバブルの波に乗ろうと設立したeシティを巡って、ジョン・リードとあらそいとなる。

サンディの目から見ると、ガレージで仕事をしているインターネットのオタク連中と張り合うのに、eシティはマンハッタンの一流オフィスにいて、社員の報酬も莫大だったという。巨額の損失を出し、ちゃんと経営されていないとサンディはジョンを突き上げた。

ジョン・リードのお気に入りの「シックス・クオーター・ローリング予算」やGEばりの「シックス・シグマ」などの経営手法も、官僚主義をはびこらせるとして、サンディは葬り去る。

結局ジョンとサンディの二人の権力闘争は、デュポンのエド・ウーラード前会長が仲裁に乗り出し、2000年にジョン・リードが共同CEOを退くことになった。

退任の時に、ジョンはサンディに幸運を祈ると電話をよこしたが、その翌日に、持ち株をすべて売却したという。完全な決別だ。

1999年にはクリントン政権の財務長官だったボブ・ルービンが副会長として入社。投資銀行と商業銀行の合併を禁じた大恐慌時代の遺産のグラス・スティーガル法を廃止することに成功し、新たにグラム・リーチ・ブライリー法が成立し、金融サービスの構造が現代化された。

シティグループはその後も買収を続け、2000年に日本などに事業を持つ消費者向け金融のアソシエイツ・ファースト・キャピタルを310億ドルで買収、2001年にはメキシコのバナメックスを125億ドルで買収。

保険事業は2001年にトラベラーズをIPOで会社公開した後、9.9%を残して全部持ち株を売却した。但しこれは、保険の「製造」をやめただけで、クロスセルのアイテムとして保険の「販売」はやめたわけではない。もっと資本効率の良い資産運用に変えただけであると。


シティグループCEO在任時代の最後は司法対策に忙殺

その後エンロン事件や、インターネットバブル後の株の急落に関連して、証券スキャンダルでサンディは追求されることになり、スミス・バーニーの株価操作のケースなどで、CEO時代の最後は司法対策に忙殺され、結局3億ドルの罰金を払って和解に合意することになる。

そして、サンディは法律家であるチャック・プリンスを後任CEOに選び、2003年10月に引退する。

それからは、イタリア製の全長45メートルのクルーザーに奥さんのジョーンと乗ったり、のんびり本を読んだりしてほぼ50年ぶりに自由な時間を使い、慈善事業にも従来以上に力をいれている。

慈善事業の関係でゲオルグ・ショルティの指揮研究会に参加した時に、ショルティがたった45分のうちに、それまで縁もゆかりもなかった人たちを、一致団結した集団に変わらせたことを見て、音楽でも仕事でもリーダーシップに変わりはないと感じたという。


この本を読んで、改めて感じたことは、サンディはじめアメリカのエクゼクティブは昇進や転出に関わる重大な出来事の時には、奥さんに必ず相談することで、部下の配偶者も入れての私的なつきあいがビジネスの重要な部分を占めていることである。

ここまで奥さんが関与しているので、離婚訴訟などになった場合には、奥さんが数億ドルという財産分け前を得るという判決が出たりするのだろうと思う。

他人のことをぼろかすに言っているので、必ずしも格調がある内容ではないが、MBAも持たない一介の証券ブローカーから、世界最大の金融グループを誕生させ、2,000億円もの個人資産をつくったサクセスストーリーの鍵は、戦略=目の付け所と、実行=人の使い方、だと改めて感じた。

会社合併も広い意味での人の使い方だと思う。

上下2冊の本で、それぞれの買収イベントを時系列的に長々と述べているので、必ずしも読みやすい本ではないが、参考にはなる本である。




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巨象も踊る IBMを立て直したガースナー氏の自伝

巨象も踊る巨象も踊る
著者:ルイス・V・ガースナー
販売元:日本経済新聞社
発売日:2002-12-02
おすすめ度:4.5
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1993年から2002年までCEOとして巨大な赤字を出して不振に陥っていたIBMを立て直したルイ・ガースナー氏の自伝。

ガースナー氏はIBMのCEOに就任した時に、「いま現在のIBMに最も必要ないもの。それがビジョンだ」と発言して話題となったことでも有名だ。

ガースナー氏のeメールや『eビジネスの将来』と題した講演、IBM再生の財務実績などの付録も含めて460ページにものぼる大作なので、読むのに時間が掛かった。

ガースナー氏はニューヨークのロングアイランド出身、ダートマス大学工学部を卒業してすぐにハーバードビジネススクールに入り、1965年にマッキンゼーに新卒で入社し、すぐに頭角を現し9年で上級パートナーに昇進し、金融グループの責任者として上級指導委員会の委員となった。

しかし経営コンサルティングを一生の仕事にするつもりがないことがはっきりしたので、マッキンゼーに12年居た後、1977年にアメリカン・エクスプレスに旅行関連サービスグループの責任者として入社した。

アメリカン・エクスプレスで様々なポストと経験した後、1989年に投資会社のKKRがLBO(レベレッジド・バイアウト=買収する会社の資産を担保に資金を調達するやりかた)で買収したRJRナビスコのCEOに就任した。


アメリカの為に引き受ける

RJRナビスコで4年経営に携わった後、1993年4月にIBMのCEOに就任する。IBMの株価の推移をリンクでご紹介するが、ガースナー氏が就任した時は13ドルで、退任した2002年の1月は120ドルまで上がった。現在は80ー90ドルで推移している。緊急危機でもさほど株価が落ちていないのはさすがだ。

当時のIBMは世界のメインフレーム市場で圧倒的なシェアーを誇っていたシステム360が前年比60%値下がりするなど、利益を長年もたらしたメインフレーム商品が寿命を迎えていた、

1980年代から急速に拡大しつつあったPC市場では、IBMは先駆者ながら心臓部のソフトをマイクロソフト、CPUをインテルに任せてしまったので結局先駆者利益を得られず、会社として巨額の赤字を計上していた。

ちなみに筆者が米国に初めて駐在した1986年には、オフィスのPCと言えばIBMのPCがメインで、ワードプロセッサー専用機のWang Laboratoriesがまだ広く使われていた時代だった。

日本ではNECの98シリーズが日本語対応の独自システムで圧倒的なシェアを持っていたところに、IBMがDOS-Vでなぐり込みをかけた頃だ。

先も見えず、会社分割は不可避と思われ、危機的状況だった。

こんな状況でCEOを引き受けたのは、CEO選定委員長の「IBMはアメリカの至宝だ。アメリカのために引き受けて欲しい」という殺し文句のためだったと。


ビジョンつくりの代わりになすべき事

ガースナー氏の就任会見で最も有名な言葉は、「いま現在のIBMに最も必要ないもの。それがビジョンだ」というものだ。

ビジョンの代わりに戦略をつくり、実行する。

収益性を回復し、顧客の維持・獲得に勝利する。

クライアント・サーバー分野にさらに力を入れる。

会社分割はせず、業界で唯一の総合的なサービス・プロバイダーとして、総合的ソリューションを提供する。

顧客本位の姿勢を強めるといったことが、ガースナー氏の就任会見で発表された。


ガースナー氏の経営方針

ガースナー氏がCEO就任直前にIBMの経営会議に出席したときに次の経営方針(抜粋)を発表している。就任直前のCEOは簡単に挨拶する程度ですませるものだが、ガースナー氏は45分も熱弁を振るった。

1.手続きによってではなく、原則によって管理する

2.われわれがやるべきことのすべてを決めるのは市場である

3.問題を解決し同僚を助けるために働く人材を求めている。社内政治を弄(ろう)する幹部は解雇する

4.わたしは戦略の作成に全力を尽くす。それを実行するのは経営幹部の仕事だ

5.速く動く。間違えるとしても、動きが遅すぎたためのものより、速すぎたためのものの方がいい

6.組織階層はわたしにとって意味を持たない。会議には地位や肩書きにかかわらず、問題解決に役立つ人を集める。

このうち最も重要なのは、原則によるリーダーシップ、顧客(市場)の立場に立った判断、戦略の実行、それに待遇・報酬改革だ。


原則によるリーダーシップ

ガースナー氏の経営のやり方は原則によるリーダーシップだ。それまでのIBMがプロセスにとらわれていたので、プロセスを破壊して組織全体に新風を吹き込んだ。

ガースナー氏の原則とは市場、品質、顧客満足度、株主価値、生産性、戦略的なビジョン、緊急性の感覚などである。

これらをIBMの経営幹部に目覚めさせるために、世界中から420名を集めた上級経営幹部会で、顧客満足度と市場シェアーの2つの図を見せた。どちらもIBMは急速に順位を下げていた。

IBMは競争相手にぶっ飛ばされているのだと。

さらに競争相手CEOのIBMをあざける言葉をこの会議で紹介した。

たとえばオラクルのラリー・エリソンは「IBM?死んだ訳ではないが、相手にする必要がない会社になった」と語った。

IBMでは社内の他部門に対する怒りは日常茶飯事だが、競争相手に対する怒りはなかった。それをガースナー氏はかき立て、社員の怒りのベクトルを競争相手に向けさせた。


顧客・市場重視

ガースナー氏は就任後すぐにベア・ハッグ作戦を発表した。経営幹部50人が3ヶ月以内に最低5社の大口顧客を訪問する計画だ。

ちなみにベア・ハッグとは強く抱きしめることで、プロレスの技にもなっている。

IBMの天動説的顧客無視主義はガースナー氏自身も経験していた。アメックス時代、たった1台のアムダール機を購入した為に、IBMが契約の打ち切りを宣言してきたこともあった。

地域ごとに独立していた組織も全世界産業別の組織に再編成した。銀行、政府、保険、流通、製造業などの11の産業別分野と中小企業の12の分類したのだ。

顧客は二の次というIBM文化を変えるためだ。


勝利、実行、チームが新しいIBMリーダーのスローガン

ガースナー氏は社員の前で訴えた、IBMでは計画実行の失敗を繰り返していると。

実行と進捗報告を要求していない。期限を設定していない。タスクフォースをつくる。またタスクフォースをつくる。しかし実行はしない。

就任記者会見で一躍ガースナー氏を有名にした言葉、「いま現在のIBMに最も必要ないもの。それがビジョンだ」という言葉の裏には、ビジョンを創っている余裕はない、戦略をつくり、それの実行あるのみだという強いメッセージが込められている。

戦略を着実に実行する。情熱を持って組織を率いて勝利を得る。そんなリーダーをIBMは求め、重用するようになった。

IBMに着任する前の経営会議で幹部が50人ほど集まっていたが、ガースナー氏だけブルーのシャツで、他は全員白いシャツだった。短期間に全員がカラーシャツを着るようになった。

IBMの会議ではオーバーヘッド・プロジェクターを多用していたが、ガースナー氏は歩み寄ってプロジェクターの電源を切って、「事業について話をしよう」と呼びかけたことも全社にまたたく間に知れ渡った。

社内で独立帝国の様な存在だったヨーロッパなども、幹部を入れ替え、IBM文化を変えていったのだ。


待遇・報酬体系の改訂

ガースナー氏が就任した当時のIBMではストックオプションやボーナスはごく一部で、大半が固定報酬で、全部門共通の等級に基づき同じ給料が支払われ、しかもほとんど差が付けられていなかった。

福利厚生もアメリカ企業でNo. 1だった。無料医療や社員専用カントリークラブなど古き良きアメリカだったのだ。

しかしIBMが窮地に陥り、数万人がレイオフされていた状況では制度改革が必要だった。

ガースナー氏は、業績に基づく報酬体系に変更し、社員の多くにストックオプションを導入し、2002年には7万人がストックオプションを持つ様になっていた。

IBMでは30万人の社員のほとんどが知的労働者であり、それをつなぎ止め、全社的目標達成に向かわせるためにストックオプションを拡大したのだ。

また所属部門の業績にリンクしていたボーナスを、上級社員ほど全社業績にリンクする様に変えた。

全社の業績が悪くとも自分の部門さえ良ければよいという文化を変えたのだ。

全社が一丸となったチームの基盤ができた。


ガースナー氏の功績

1.メインフレーム事業への再注力

ガースナー氏の兄もIBMで働いていたが、病気でコンサルタントとなっていた。兄がメインフレーム事業の位置づけを再認識するように助言した最初の人間だった。

メインフレームではIBMのヨーロッパやアメリカの研究所が提唱したアーキテクチャーのバイポーラからCMOSへの大胆な移行を決断し、コストを下げ、価格を大幅に下げて競合の日立他を引き離し、後継のシステム390でメインフレーム事業をよみがえらせた。

2.サービス事業の拡大

クライアント・サーバーモデルでは顧客自身が様々なサプライヤーの機器やソフトを統合しなければならない。そのため様々なサプライヤーの技術を統合するソリューションが重要だと考えた。

ハードウェアも自社のものにこだわらず、サービス主導のビジネスに変えたのだ。

3.『eビジネス』というブランドでネットワーク型コンピューティング推進 

単体のパソコン中心の時代の次にくるもの。それはネットワーク型コンピューティングであるとの考えのもとに、オープンな標準規格化を推進した。

ネットワーク社会となるにつれ、パソコンの機能は大型システムやネットワーク機器に代替される。

テレビ、ゲーム機、携帯端末、携帯電話、自動車や家電などがパソコンに取って代わるという今で言うユビキタスコンピューティングにガースナー氏は賭けたのだ。

『eビジネス』という言葉をつくり、これがIBMにとって『月旅行計画』、会社を活気づける大目標と宣言した。

『eビジネス』のマーケティングと宣伝に50億ドルを投じたが、ブランド力の向上という意味で、自分のキャリアで最高の仕事だとガースナー氏は振り返って語っている。


4.世界最大のソフトウェア事業を再構築

ガースナー氏就任当時IBMは世界最大のソフトウェア企業だった。しかしIBM自身がソフトウェア企業であるという認識がなかったし、ソフトウェア事業部もなかった。

そこでIBMのソフトウェア資産を一人の経営幹部のもとに集め、自社仕様をすべてオープン仕様にした。

数百のアプリケーションソフトから撤退し、IBMが強いミドルウェアに注力し、グループウェアのノーツを持つロータスやTivoliを買収。シーベルとの提携など、強みを活かし、2001年現在でマイクロソフトに次いで世界第2位のソフトウェア売上となった。


5.自社の研究資産を競争相手にでさえ売る

IBMの研究所のノーベル賞の受賞者数は、ほとんどの国を上回っており、世界の情報技術の大半を生み出してきた。しかし自社が開発した技術は外には売っていなかったため、結局科学的な発見を効果的に市場化できないでいた。

競争相手に自社の虎の子の技術を売るという問題はあったが、自社の製造部門は既存技術での製品が売れている以上、新規技術の商品化に消極的だったので、社内で商品化できないものは社外に売るという方針に転換した。

そこで技術のライセンス供与とDRAMを初めとする部品のOEM販売を開始した。結局DRAM事業からは撤退したが、ガースナー氏はDRAM事業はIBMが部品市場に参入する入場料のようなものだったと語る。

カスタム半導体でトップとなり、ゲーム機向けのパワーPCでコンピューター以外の成長分野にも進出できた。


ガースナー氏の座右の銘 世の中にいる4種類の人

最後にガースナー氏は長年オフィスに掲げていた標語を紹介している:

世の中には4種類の人がいる。
動きを起こす人
動きに巻き込まれる人
動きを見守る人
動きが起こったことすら知らない人

IBMの標語は"Think!"だと思っていたが、ガースナー氏の標語は異なる。

楽天の三木谷さんの"Best effort basis"の人と"Get things done"の人という2種類の分類とは若干切り口が異なるが、同様の区分である。

460ページの本を読み終えて、ガースナー氏の実行こそ最も重要で、リーダーシップ次第では『巨象も踊る』のだというのがよくわかった。

まずは長年続いた経営会議を廃止し、取締役会も人材一新という破壊から始まり、内外からの人材を起用したリーダーシップチームつくりも参考になった。

ガースナー氏が名前を挙げて特筆しているリーダーシップチームは、CFO、人事担当、広報担当と全世界一つの広告代理店、サービス部門の責任者、ソフトウェア部門の責任者である。

どこの会社でもCFOと人事と広報がCEOの改革チームには必要だと思う。

あらすじを書くのにえらく時間が掛かったが、何度も読み返したせいでガースナー氏の強いリーダーシップにより、IBMという会社がいかに復活したかよくわかった。

やや取っつきにくい本だが、まずはこのあらすじを読んで、大作に挑戦いただきたい。


参考になれば次クリックお願いします。





成功はゴミ箱の中に 柳井さんのバイブル マクドナルド創業者の自伝

これから数回は自伝的なビジネス書を紹介する。今回はマクドナルドの実質創業者レ・クロックの自伝だ。

スティーブン・コヴィーだったか、ブライアン・トレーシー、だったか、それともジム・ローンだったか思い出せないが、昔読んだ英語のオーディオブックで、次のような話が紹介されていた。

記憶を頼りに再現すると:

レイ・クロックが大学で学生相手に講義をした後の飲み会で、学生達に「私の仕事は何か知っているかい?」と質問したという。

学生達はレイが冗談を言っているものと思って、取り合わなかったが、そのうち勇気ある学生が「レイ、あんたの仕事はハンバーガーだってみんな知っているよ」と答えると、レイは笑って「そう言うと思ったよ。」と答えた。「紳士淑女諸君!私の仕事は不動産業です」と。

このエピソードを思い出させる話が、この本の”成功の理由”という章に紹介されている。


最近のフォーブス誌で、日本一の資産家としてランクされたユニクロの柳井さんや、ソフトバンクの孫さんが絶賛しているが、参考になるところが多い本だ。

レイがハンバーガーチェーンを始めたのは52歳からだ。

ケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースの話を以前読んだことがあるが、カーネルはたしか65歳で起業した。

カーネル・サンダース―65歳から世界的企業を興した伝説の男
著者:藤本 隆一
販売元:産能大学出版部
発売日:1998-09
おすすめ度:5.0
クチコミを見る


人生80年くらいになっているので、筆者も中高年でも”もう一旗”という気になる本である。

成功はゴミ箱の中に―レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男-マクドナルド創業者 (PRESIDENT BOOKS)
成功はゴミ箱の中に―レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男-マクドナルド創業者 (PRESIDENT BOOKS)


マクドナルドの創業者レイ・クロックの自伝。

ソフトバンクの孫さんとユニクロの柳井さんが自分たちの人生のバイブルだとして、本のあとがきの対談や解説に登場している。柳井さんは事業の創り方として7つの法則を巻末にまとめている。

世界一億万長者を生んだ男と言われているレイ・クロックの起業家としてのスタートは遅い。

レイは52歳の時にカリフォルニア州ロスアンジェルス郊外のサンバーナーディーノでマクドナルド兄弟が経営するハンバーガーレストランを発見し、ハンバーガービジネスに進出した。

この本の4割くらいがマクドナルド以前のレイ・クロックで、ペーパーカップやマルチミキサーのセールスマンとピアニストの2足のわらじをはいて生活をしていた時代のエピソードがつづられている。

柳井さんは「バイブル」と呼んでいるが、読み物としても面白い。


マクドナルド創業まで

レイ・クロックはボヘミア(チェコ)系アメリカ人で、1902年にシカゴ郊外に生まれた。高校卒業後、夜はピアニスト、昼間はペーパーカップのセールスマンとして働く。

仕事はハンバーガーの肉の様なものであると。自分にとって仕事は遊びと変わらない喜びを得られるものであると語る。

レイ・クロックはペーパーカップの次にマルチミキサーを販売する。マックシェイクなどのソフトアイスをつくるミキサーだ。

そのマルチミキサーを8台も使っているレストランがあり、同業者が同じミキサーを注文してくる様になった。

レイ・クロックは興味を惹かれてカリフォルニアのサンバーナーディ−ノのマクドナルド兄弟のドライブインレストランを訪問し、ひっきりなしに訪れる客の列にびっくりする。

マック&ディックのマクドナルド兄弟のレストランは15セントのハンバーガー、19セントのチーズバーガー、10セントのフライドポテト、コーヒーは5セント、ソフトドリンクは10セント、ミルクシェイクは20セントでこれがメニューのすべてだ。

清潔なダイニングと駐車場、合理的で清潔なキッチン、なかでもフライドポテトは独自の製法と機械を入れ、飛ぶように売れていた。

レイ・クロックはマクドナルドレストランをチェーン展開することを申し入れる。マルチミキサーをすべての店に売ることが目的だった。

マクドナルド兄弟が事業化に乗り気でないので、レイ・クロック自身がフランチャイズチェーン展開を行い、当初は20年間有効のライセンス料が950ドル。売上の1.9%のロイヤリティを0.5%マクドナルド兄弟、残りをレイ・クロックが取ることでスタートした。

ゴールデンアーチを持ち、赤と白が基調のおなじみのマクドナルドのスタートだ。

しかしマルチミキサー販売会社の社長だったレイが、ハンバーガービジネスを始めたことで、奥さんとの関係は修復不能となってしまった。

マクドナルド兄弟との契約はずさんで、既にカリフォルニア州付近にはマクドナルド兄弟と契約した10店のフランチャイジーがあり、レイとの契約後も、マクドナルド兄弟が契約したフランチャイジーに悩まされることが続き、レイは煮え湯を飲まされる。


成功の理由

レイとマクドナルド揺籃期からの友ハリー・ソナボーンは、フランチャイズビジネスが儲からないことから、フランチャイズ権を販売する普通のやり方でなく、出店場所をマクドナルドが選び、地主と契約してマクドナルド自身が店を建設して、フランチャイジーに20%から40%のマークアップを乗せてサブリースするやり方を編み出す。

そのための会社がFranchise Realty Corporationだ。

このやり方なら、店が繁盛すると店舗不動産の値上がり益はマクドナルドが手にする。フランチャイジーの規律も保て、マクドナルドが強く要求するQSC&V(Quality, Service, Cleanliness and Value、品質、サービス、清潔さと価値)の徹底もできる。

Forbesの"Greatest Business Stories of all time"にレイ・クロックも紹介されており、英文だがサンプル要約が紹介されており、より詳しくマクドナルドのビジネス手法が紹介されているので、ご興味あればこちらもご覧頂きたい。

Forbes Greatest Business Stories of All Time (Forbes)
Forbes Greatest Business Stories of All Time (Forbes)


開業から10年で株式公開

マクドナルドコーポレーションの最初の店舗はレイの生まれ故郷シカゴ郊外、オヘア空港のあるデスプレーンズに1955年4月15日に開店した。

しかしマクドナルド兄弟は勝手にフランチャイジーと契約続けており、もはや目の上のたんこぶ状態だったので、やむなくレイ・クロックはマクドナルド兄弟から権益をすべて買い取ることを決断する。

マクドナルド兄弟の言い値は270万ドルであり、当時のマクドナルドコーポレーションの収益では到底負担できないものだったが、なんとか融資をまとめて支払った。

最初は低利益に苦しんだが、不動産ビジネス化したとたん、収益が急増していった。

開業してから10年後の1965年4月15日にマクドナルドは上場し、レイは一躍億万長者となる。

ユニクロの柳井さんはまさに同じ道を歩んだ。


広告の活用が成長の原動力

レイ・クロックの成功のもう一つの要因は広告をうまく活用したことだ。レイ自身が、「広告に出費することに何の躊躇もない。なぜなら、それがすべて利子とともに自分の元へ返ってくるからだ。」と語っている。

マクドナルドが起用している広告会社のおかげで、マクドナルドという名前は世の中に知れ渡った。

マクドナルドの広告の効果は単に直接的な売上アップだけではない。満足した顧客はリピーターとして友人を連れてくるし、CMを見た子供は両親にせがんで来店する。そして顧客が増えるのだ。

そういえば、孫さんのソフトバンクも、柳井さんのユニクロも広告に熱心だ。レイ・クロックの教えを経営に生かしているのだろう。


経営者は孤独 創業メンバーと衝突する

レイは社長に創業メンバーのハリー・ソナボーンを起用し、事業を拡大してきた。しかし上場後に、二人の対立は埋めようがなくなる。

もう一人のマクドナルドの創業メンバーで、経理を担当してきたのが、ジューン・マルティーノで、彼女はマルチミキサーのプリンスキャッスル時代からの同僚だ。

レイはハリーとジューンを退社させることにする。レイには20%、ジューンには10%の持ち分株式を与えたので、上場により二人は億万長者になる。

レイは2度離婚して、3度結婚している。2度の離婚は同じ女性、既婚者で子供もいるジョニ・スミスと結婚するためだ。ジョニ・スミスと結婚するため最初の妻と分かれたが、ジョニ・スミスの家族の反対で、結局結婚できず、別の女性と結婚する。しかし数年後ジョニ・スミスと再開し、今度は2度目の妻と別れ、ジョニ・スミスと結婚する。

レイの友人関係や結婚をみていると、一途というのか、自分勝手というのかわからない。そのどちらも正しいのかもしれない。


新商品はフランチャイジーのアイデア

マクドナルドのメニューは上記の通り当初は6品だけだった。フィレオフィッシュはカトリックが多い地区の日曜日対策が必要なフランチャイジーの発案だ。もっとも、チーズを入れたのはレイの発案だという。

ビックマックはピッツバーグのフランチャイジーのアイデアで、バーガーキング対抗商品だ。

エッグマクマフィンがフランチャイジーのアイデアで誕生したので、パンケーキも取りそろえ、朝食マーケットに参入した。

次は夕食マーケットだという。


レイ・クロックの社会貢献

成功した後、レイ・クロックは様々な慈善事業を支援する。病気の子供を持つ恵まれない家族が、安い費用で病院の近くに宿泊できるドナルド(英語ではロナルド)・マクドナルドハウスプロジェクトは全米や世界に広がっている。

クロック財団をつくり、医療研究や病気の子供と家族の支援を中心に毎年数百万ドルの寄付をして、70歳の誕生日には総額750万ドルの寄付を行った。

「お金は儲けるより使う方が難しい」。レイ・クロックの言葉だ。



最後に柳井さんのまとめるレイ・クロックの教えを紹介しておこう:

1.成功者の発想法 ー 商売の神髄はBe darling, be first, be different(勇気を持って、誰よりも先に、人と違ったことをする)

2.失敗を乗り越える力 ー 原理原則を知ることとわかることは違う

3.リーダーシップ ー お客様に配ったあんパンと牛乳への想い

4.成長する組織づくり、人材づくり ー なぜ高学歴社員だけでは駄目なのか

5.ヒットの作り方 ー 売れるブランド、売れる営業の相関関係

6.ライバルとどう戦うか ー なぜレイ・クロックはゴミ箱を見るのか

7.大富豪の金銭感覚 ー お金は儲けるより使う方が難しい


レイ・クロックの成功法則がわかると同時に、柳井さんの経営についての考えもわかる。グリコのように一粒で2回おいしい、おすすめの本である。



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