+++今回のあらすじは長いです+++

文庫 竹島密約 (草思社文庫)
ロー ダニエル
草思社
2013-02-02


この本を知ったのは、たぶん鳥居民さんが著書でこの本を紹介していたからだと思うが、何気なく見ていた安倍首相の日々の行動の2014年4月16日11:05〜12:15に、韓国の日本研究者・ロー・ダニエル氏のインタビューと書かれていることに気が付いた。

なぜ安倍首相がロー・ダニエルさんと会ったのか。その理由はこの本のあとがきを読むとわかる。

あとがきの重要部分だけ紹介しておく。

img022





























出典:本書(文庫版)297ページ

なんと、密約締結関係者の一人の中曽根康弘元総理が、ロー・ダニエルさんに真相を究明して欲しいと依頼し、秘書を通じて多くのサポートを与えたというのだ。

中曽根元総理は先日9回目の年男パーティを迎え、5回目の年男の安倍総理他の多くの政治家が集まった。

杖をつきながらも、自分で動けて、発言もしっかりしているのは立派だが、さすがに年齢による衰えは隠せない。

中曽根元総理も、自分が元気なうちに、自分も関係した竹島密約の真実を伝えたかったので、ロー・ダニエルさんに執筆を依頼したのだろう。

関係者の多くは亡くなっているが、それでもロー・ダニエルさんは直接の関係者数名にインタビューしており、この本の信ぴょう性を高めている。

「なか見!検索」は必見

この本は文庫版となってアマゾンの「なか見!検索」に対応するようになった。立ち読み感覚で、重要な部分が読めるので、ぜひここをクリックして、ネット立ち読みしてほしい。特に最初の目次、主な関係者とプロローグ、あとがきをぜひ見てほしい。

あらすじを紹介する前に、竹島がどのあたりにあるのかを紹介しておく。

次が文庫版14ページにある地図だ。「なか見!検索」でも、見られるので、ここをクリックして、目次と登場人物紹介に続く竹島付近の地図を参照して欲しい。

img023














出典:本書14〜15ページ

まさに日本と韓国のちょうど中間地点にあることがわかると思う。

竹島は尖閣列島と違って、地下資源があるという話もなく、日比谷公園程度の大きさで、本来何の役にも立たない無人島である。いままで何度も「爆破したら」という選択肢が、外交の場では半分本気・半分冗談として出されてきた。

しかし、竹島の存在は漁業資源に関係する排他的経済水域の設定には大きな意味を持つ。

昭和20〜30年代生まれまでの人は、「李承晩ライン」という言葉を覚えているだろう。李承晩は、初めての韓国大統領で、反日・反共を貫き、日本との間に勝手に「李承晩ライン」という排他的漁業水域を設け、日本の漁船を多数拿捕した。

日本が韓国との日韓漁業協定締結を急務としたのは、こういった漁船拿捕による漁民からの要望も強かったからだ。

尖閣列島については、1978年の日中平和友好条約交渉の際に、小平が先送りを提案したが、公式には日本側はそれには応じなかったとされている(外務省のホームページによると”福田総理より応答はなし。”とされている)。

しかし、その後、日本企業が尖閣列島付近の資源開発を検討しても、日本政府として許可を出さずに、事実上小平提案の解決の棚上げを尊重してきたという経緯がある。

この本では、日中間の尖閣列島問題の先送り合意の13年以上も前の1965年に、日韓間で竹島問題の先送りを秘密裏に合意していた密約が存在することを明かしている。

竹島密約は次のような簡単なものだ。

img025































出典:本書227ページ

この本では、講和条約交渉の際に、当初は韓国領とされていた竹島が、日本側の外交努力で、1949年12月29日の第6次草案から日本領に変わり、ディーン・ラスク国務次官補は竹島は日本領とみなすと韓国側にレターで回答していることを明かしている。ところが、サンフランシスコ講和条約では竹島に関する記述は抜け落ちて1951年9月8日に調印された。

講和条約が1952年4月28日に発効する前に、李承晩大統領は、竹島は韓国領として「李承晩」ラインを設定、1952年9月から日本漁船の拿捕を始めた。

日韓国交正常化交渉は、1953年10月に外務省参与・久保田貫一郎が、「日本が講和条約を締結する前に韓国が独立したのは不法である。日本の36年間にわたる統治は韓国にとって有益だった」と発言したことから紛糾し、その後4年以上再開されなかった。

その間、1957年2月に首相に就任した岸信介は、地元の山口県の漁民が韓国に抑留され、漁業にダメージを受けているので、自らの「策士」の矢次一夫を使って、韓国に様々なアプローチをしていた。

岸信介は自ら「親韓派」と称していた。

矢次は、岸首相の就任日に、韓国外務部の政治局長と駐日韓国大使館の参事官を秘密裏に、岸首相の南平台にある私邸に案内した。

そのころ岸信介の娘と結婚した安倍晋太郎は、岸信介の秘書として、岸の私邸に同居していた。矢次一行は裏口から入り、オムツの干してある中を通って、就任したばかりの岸信介首相と面談したという。

このオムツをしていたのが、当時2歳だった安倍晋三総理だ。

岸信介は、矢次を使って蒋介石とも連絡を取り、蒋介石・李承晩・岸信介というアジアの反共産主義ラインをつくるろうとしていた。

しかし、1960年に岸信介は新日米安保条約問題で、李承晩は不正選挙問題で退陣する。

李承晩の後は、短期間、民主党の張勉が政権を取り、翌1961年5月16日の朴正煕少将が率いる軍事クーデター後、親日派の朴正煕大統領が誕生する。

朴正煕大統領は、1979年に暗殺されるまで、18年の間、韓国の大統領として、アジアの最貧国の一つだった韓国が先進国クラブのOECDに加盟できるまでに成長させた。

朴正煕大統領と一緒に親日政策を展開したのが、朴正煕の義理の甥の金鍾泌だ。

この本では、第2章”叔父と甥の対日外交”として、、旧陸軍や一橋大学出身者など韓国の親日派が中心となって池田隼人首相の日本と請求権交渉をまとめ上げたことを紹介している。

朴正煕大統領は、就任後アメリカ訪問の前に日本に立ち寄り、政財界の代表の前で、「われわれが、過去のよろしくない歴史を暴きたてるのは賢明なことではありません。両国は共同の理念と目標のために親善を図らなければなりません」と述べて好印象を与えた。

また、岸信介前首相、佐藤栄作、大野伴睦、石井光次郎、船田中、矢次一夫らの政界の「韓国ロビイストの集まり」ともいえるメンバーとの会食では、「未熟な小生をよろしくご指導ください」と日本語であいさつしたという。

韓国の親日派を相手とする請求権交渉では、当初韓国案8億ドル、日本案1億ドルと大きな隔たりがあった。しかし、最終的には1962年10月に金鍾泌中央情報部長が訪日して大平外務大臣と交渉し、有償3億、無償2億、民間借款1億ドルの6億ドルで決着した。これがその後の韓国の発展につながる経済開発5か年計画の資金となった。

請求権交渉が妥結したことで、李承晩ラインも消え、漁船の拿捕もなくなった。次の問題は日韓基本条約の締結だ。

この交渉の過程で、ロッキード事件で一躍有名になったフィクサーの児玉誉士夫の名前も出てくる。

外務省や大平外相は、竹島問題の国際司法裁判所への提訴を条件としたが、韓国側は「未解決の状態で維持する」という作戦にでた。これが後の「未解決の解決」という竹島密約につながる。

金鍾泌は訪日後、下野して外遊、その後1963年12月の朴正煕の第5代大統領就任とともに、与党共和党議長として復帰した。

しかし、「対日屈辱外交反対」を唱える野党勢力や学生デモの前に、朴正煕大統領を守るためのスケープゴートとして辞任した。そのあとを継いで、対日交渉を担当したのが、満州軍官学校出身で、1964年5月に就任した丁一権国務総理と金鍾泌の兄の銀行家金鍾珞だった。

日本川の交渉役は、1964年5月に大野伴睦が亡くなった後、河野一郎が継いだ。

主流派の佐藤派は日韓条約締結に積極的だったが、河野派は佐藤派より5人少ないだけで、党内の第2の勢力だった。もし河野派が反対するとなにもできない。だからキャスティングボードは、党人派を代表する河野一郎が握っていた。

河野一郎を日韓交渉に引っ張りだすには、ちょうど韓国を訪問中だった中川一郎や中曽根康弘が協力した。

そして日韓交渉全体を密にフォローし、時には間を取り持ったのが、大野伴睦の盟友の渡邉恒雄(ナベツネ)の読売新聞社だった。渡辺の指示で、日韓関係をとりもったのが当時の読売新聞のソウル特派員で、幼少期を韓国で過ごした嶋元謙郎さんだ。嶋元さんはこの本の取材に全面協力したので、この本は嶋元謙郎、恵美子夫妻にささげられている。

河野一郎はこのままでは総理になれないというあせりから、日韓交渉を引き受けた。

河野の腹心の宇野宗佑と金鍾泌の兄の金鍾珞が交渉代理人、斡旋役が嶋元謙郎、交渉の責任者が河野一郎、丁一権という交渉チームが出来上がった。

東京オリンピックが1964年10月10日から開催され、池田首相は病気のため、オリンピックを花道に退陣した。そのあとを継いだ佐藤栄作首相の1965年1月の訪米前に、日韓交渉を合意させるというギリギリのタイムテーブル下で、日韓交渉は進められ、1964年末にすべてが決着した。

竹島については、上記に紹介した竹島密約が河野一郎と丁一権の間で成立した。1965年1月11日のことだった。2日後に朴正煕大統領も承認し、1月13日にジョンソン大統領との会談直前の佐藤栄作首相に電話で日韓合意が伝えられた。

日韓基本条約は1965年2月20日に仮調印され、1965年6月22日に正式締結した。河野一郎が病で亡くなったのはその2週間後の7月8日だ。

全斗煥盧泰愚らを中心とする軍部内の「ハナ会」は、朴正煕大統領が暗殺されると、12・12事件を起こして、権力を掌握し、全斗煥が大統領に就任した。

ハナ会」はいわば朴正煕ファンクラブで、メンバーは慶尚道出身の軍人で、滅私奉公に徹した朴正煕を崇拝し、日本流の軍人精神を慕った。

彼らの愛読書は、山崎豊子の「不毛地帯」で、主人公のモデルの伊藤忠の瀬島龍三さんを尊敬していたという。

瀬島龍三さんも、1980年に東急の五島会長と訪韓して、全斗煥、盧泰愚両将軍と面談していることを著書の「幾山河」に書いている。



幾山河―瀬島龍三回想録
瀬島 龍三
産経新聞ニュースサービス
1996-07


竹島密約は、軍人親日主義の朴正煕、全斗煥、盧泰愚の「軍人親日主義」体制では守られた。しかし、盧泰愚大統領を継いだ非軍人の金泳三大統領には伝わらなかった。

野党政治家として半生を送った金泳三大統領は、「歴史の清算」として、光州事件の再調査、全斗煥、盧泰愚両前大統領の逮捕、朝鮮総督府の建物の解体などを実施した。

金泳三大統領自身は、日本語が流暢で、大統領退任後は早稲田大学の特命教授を務めるなど、日本との友好にも貢献した。

金泳三大統領以後は、日韓関係は、金大中大統領や李明博大統領の就任当初や、盧武鉉大統領・小泉純一郎総理のシャトル外交など、一時的な改善の時期はあったが、ほぼ一貫して悪化してきた。

中曽根康弘首相は、首相に就任すると、すぐに「竹島密約」の存在を調査させている。日本の外務省は承知していたが、全斗煥政権の韓国では、発覚を恐れ、密約の紙は処分されていた。

密約の紙自体も、密約の精神自体も消失したのだ。

竹島は、それ自体は何の意味もないが、韓国大統領の対日強硬姿勢を示す格好の話題として、政権の支持率アップのためのプロパガンダとして使われている。韓国の天気予報では、必ず竹島の天気も紹介されるという。

李明博大統領は、竹島に上陸してテレビ中継させている。朴槿恵大統領もいずれ竹島を訪問することだろう。

たかだ日比谷公園程度の島に、そんなに意味があるのか?

引き継がれなかった「竹島密約」の先人の知恵に、あらためて思いを致す本である。


参考になれば次クリックお願いします。