海賊とよばれた男 上海賊とよばれた男 上
著者:百田 尚樹
講談社(2012-07-12)
販売元:Amazon.co.jp

海賊とよばれた男 下海賊とよばれた男 下
著者:百田 尚樹
講談社(2012-07-12)
販売元:Amazon.co.jp

2011年に100周年を迎えた出光興産の創業者・出光佐三(いでみつ・さぞう)の伝記小説。本の中では、「国岡鐵造」として登場する。

会社の知人が出版社の講談社の人と仕事で打合せしたら、講談社の人から「これは面白いですよ」ということで、この本をもらったという話を聞いたので、読んでみた。

作者の百田尚樹さんの最初の作品の「永遠の0」は、別ブログで紹介している

永遠の0 (講談社文庫)永遠の0 (講談社文庫)
著者:百田 尚樹
講談社(2009-07-15)
販売元:Amazon.co.jp

小説のあらすじは、いつも詳しく紹介しないので、自分でも「予想外の最後の展開に驚く」と書いていながら、最後の展開がどうだったか忘れていたので、再度「永遠の0」を読み返した。



「永遠の0」の宮部も登場

実は、「海賊とよばれた男」の中に、「永遠の0」の主人公の宮部がチラッと出てくる。それは、昭和15年(1940年)の秋に国岡鐵造(出光佐三)が、当時幅広く事業展開していた中国の支店を訪問する場面だ。

上海で石油タンクを保有している国岡商会の上海支店を、国岡が訪問した時に、旧知の海軍大佐と会って、海軍の最新鋭戦闘機として零戦を見せてもらい、その時の若い航空兵が「宮部」という名札を付けていたという場面だ。

講談社の人が勧めるだけあって、上下700ページほどのボリュームだが、一気に読める。


この本の構成

この本の構成は、よくできている。アマゾンの「なか見!検索」に対応しているので、ここをクリックして目次を見てほしい。

第1章 朱夏 (昭和20〜22年)

第2章 青春 (明治18年〜昭和20年)

第3章 白秋 (昭和22年〜昭和28年)

第4章 玄冬 (昭和28年〜昭和49年)


この本は「伝記小説」だ。筆者は、ポリシーとして「小説」のあらすじは詳しく紹介しない。

しかし、出光佐三の経歴自体は一般的に知られているものなので、「伝記」として扱い、割合詳しいあらすじを紹介する。

この本の面白さは、それぞれのストーリーの痛快さにあり、「あらすじ」ではそれを伝えることができない。

以下のあらすじを参考にして、ぜひ本を読んでみてほしい。


第1章は、戦争直後の話。

戦前、朝鮮や満州、中国で幅広く事業展開していた国岡商店は、日本の敗戦で海外の資産をすべて失い、ゼロから再スタートした。

海外からの帰国社員を一名もクビにせずに、ラジオ修理や海軍の巨大な石油タンクの底さらいなど、なんでもやったという話が、国岡鐵造の「馘首(かくしゅ)はならん!」という言葉とともに紹介されている。

海軍のタンクの底に残っている廃油さらいは、専門家の廃油取扱い業者でも嫌がる危険な作業だったが、国岡商店の社員は、幹部社員でもホワイトカラーでも嫌がらずに真っ黒になりながらやりとげた。

そのことが、GHQも注目するところとなった。国岡鐵造は、一旦、公職追放されたが、GHQが見直して、すぐに取り消されることとなった。


第2章は、国岡鐵造の生い立ちから、戦前、戦争中まで。

国岡鐵造は明治18年(1885年)に福岡県宗像市赤間に生まれた。両親は染物業をいとなんでいたが、家は貧乏だった。

鐵造は、父親に反対されながらも、何とか福岡商業(福岡市立福翔高校)、神戸高商(神戸大学)を卒業する。

神戸高商の校長にもらった色紙に書いてもらった言葉が「士魂商才」で、これが鐵造の座右の銘となった。

神戸高商を卒業後、多くの友人が三井物産や鈴木商店などの大会社に就職する中で、鐵造は社員数名で小麦と機械油を取り扱う神戸の個人商店に入社した。独立を考えていた鐵造は小さな会社で、すべての技能を身につけることを選んだのだ。

台湾向けに三井物産の向こうを張って小麦粉の販路をつくるなど、数年で大きな成果を上げ、出身地の福岡の門司で、親族・家族を社員として国岡商店として独立する。明治44年(1911年)、25歳のときだ。

日邦石油の機械油の取り扱いが主な事業で、起業するときに神戸時代に知り合った支援者の日田重太郎から独立資金を出してもらう。

日田重太郎には、その後も国岡商店が潰れそうになった時に追加出資をしてもらい、鐵造の生涯の恩人となった。

ちなみに、鐵造は日田の恩義に感謝して、1970年には日田の出身地の兵庫県姫路市に製油所を建設し、番地名を日田町と命名している。


石油の公示価格

石油は1859年に米国のドレイク大佐が、ペンシルベニア州で油田を発見し、当初は1バレル20ドル近くまで上がったが、その1年半後には供給過剰で10セントまで下がった。石油相場は乱高下してリスクの高いビジネスとなり、石油を掘り当てても、なかなか大金を投じて石油を開発することが難しく、供給は減少していた。

そこで1800年代末に当時のアメリカの石油精製と販売の80%を押さえていたスタンダード石油のロックフェラーが、この値段で買うという「公示価格」を決めた。

公示価格が決まったことで石油の供給は増え、石油業界は拡大した。その後。1911年にアメリカの独占禁止法であるシャーマン法によりスタンダードオイルは34の会社に分割された。


アイデア商人だった鐵造

すでに既存顧客は機械油の仕入れ先が決まっていたので、鐵造は紡績工場のスピンドル(糸車)の軸受油に注目する。独自の調合で最適の軸受油を作り出し、大手紡績工場から大量受注した。

次は焼き玉エンジンをつかっていた漁船の燃料を、当時使われていた灯油から、税金がかからず安価な軽油に転換させて大成功した。

国岡商店は、門司の販売店で、対岸の山口県には売れなかった。そのため、門司側から伝馬船に軽油を積んで、海上で漁船に売るという方法で販売を拡大させた。

これが「海賊とよばれた男」という、この本のタイトルの由来だ。

鐵造はアイデア勝負で、日邦石油の販売店として販売を伸ばしたが、国内では自由な事業展開が難しいかった。そのためセブン・シスターズと呼ばれるメジャーが牛耳っていた朝鮮や満州、中国で事業展開した。

満州でも独自の配合で極寒の満州でも凍らない車軸油をつくって、メジャーに勝利した。

何事にも筋を通す鐵造は、国がつくった石油統制会社などにも反対していたため、石油業界の異端児と見られていた。

米国が日本向け石油の禁輸に踏み切ったことから、日本の石油流通は石油配給統制会社に一本化されてしまった。


初代「日章丸」

鐵造のユニークな点は、単に石油販売のみにあきたらず、自前のタンクを上海などで建設するとともに、自前のタンカーを持ったことだ。

1939年には自社タンカー「日章丸」が完成している。「日章丸」は戦時中徴用され、1944年にアメリカの艦載機の爆撃で沈没した。国岡は全部で3隻のタンカーを持っていたが、すべて戦争で沈没した。

以前、関榮次さんの「Mrs. Ferguson's Tea-set"のあらすじで紹介したとおり、戦時中の日本船舶の損失は大きく、船員の死亡率は43%と、陸軍軍人の20%、海軍軍人の16%をはるかに超えていた。「日章丸」も例外ではなかったのだ。

Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940
著者:Eiji Seki
Global Oriental(2007-02-28)
販売元:Amazon.co.jp


2代め「日章丸」

戦後まもなく、サンフランシスコ講和条約が締結された直後に、2代めの「日章丸」が播磨造船所で完成している。当時としては世界最大級の1万8千トンという大型タンカーだった。

2代めの「日章丸」は、当初、アメリカからの石油製品の輸入に使われ、アメリカ製のガソリンは「アポロ」の商標で人気を博した。

メジャーは日本の石油会社の多くを直接・間接に支配しており、政府からも言うことを聞かない会社として目をつけられていた国岡は、13対1のような戦いを強いられていた。その国岡の武器がタンカーだった。

1951年にイランがイギリスの国策会社アングロ・イラニアン石油の全施設を接収したところ、イギリスはイラン産の石油は自国のものだと主張し、イラン石油を輸送するタンカーを拿捕した。

そんな中で、「日章丸」は1953年4月にイギリスの警戒網を潜り抜けて、無事にイラン産ガソリンと軽油を日本に輸入した。これがイランが石油施設を国有化してから、最初の輸出となった。

その後、イギリスはアメリカと組んで、両国でイランの石油を抑えにかかり、1953年8月にCIAがわずか70万ドルのコストで、政権転覆させ、シャーを復帰させて親米国に転換させ、国岡の優先権は半年で終結した。

この本では、イランとの交渉では、イラン側がタンカーを購入するために、イランにある約3万トンのスクラップで代金を支払うと提案してきたことが紹介されている。

筆者自身は、イランから2,000トンのステンレススクラップを買い付けた経験がある。

1983年ころだと思うが、ちょうどイラン・イラク戦争の真っ最中だったので、国岡が石油を輸入したイラク国境に近いアバダン港は使えず、戦争の影響のないホルムズ海峡に近いバンダル・アッバス港から輸出したものだ。

コンテナーに積み込むフォークリフトがなく、人手で積み込んだので、船積みは3か月ほど遅れたが、品質の良いものだった。


3代め「日章丸」

1957年には中国の黒竜江省の大慶油田の石油生産が開始された。戦前、満州で大慶油田が発見されていれば、日本の運命は違ったものになっただろうと鐵造はやりきれない思いがしたという。

これを機に鐵造は、中東の原油をいかに安く仕入れるかが日本の将来を左右すると考え、世界最大級である13万トンの3代めの「日章丸」を発注する。

3代目の「日章丸」はあまり目立った活躍はなかった。

筆者の会社では、この「日章丸」が廃船となった時に解体船請負契約を結んで函館ドックで解体した。

当時は造船不況の時代で、新造船がなかったので、やむなく雇用調整金を使って石油ショック以来余剰気味だったタンカーを中心に解体したのだ。「日章丸」も1962年に竣工したが、わずか16年でスクラップになった。

タンカーは次第に大型化して、1978年には50万トンクラスのスーパータンカーまで誕生し、13万トンという「日章丸」が矮小化してしまったためだ。


ガルフとの提携

この本では筆者が合計9年間駐在していたピッツバーグにあったオイルメジャーの一社のガルフと国岡が提携したことが紹介されている。

1955年鐵造は70歳にして初めてアメリカを訪問した。サンフランシスコでバンクオブアメリカを訪問して、当時の国岡の資本金の18倍にあたる1千万ドルの巨額融資を取り付け、ニューヨークのあと、ピッツバーグを訪問した。

ピッツバーグには米国のモルガン、ロックフェラーに次ぐ第3位の財閥のメロン財閥系で、オイルメジャーの一社のガルフ・オイルの本社があったのだ。

ガルフは戦前からクウェートの石油開発に力を入れていたが、アジアには進出していなかったため、クウェート産原油の販売先に困っていたのだ。

この本では、鐵造がガルフの本社の広大な敷地と噴水付きの池や豪華な本社に驚いた様子が描かれているが、筆者にはピンとこない。ガルフの本社はピッツバーグの市内にあり、筆者の務めていたUSスチールのビルの斜め向かいが、ガルフ本社だったからだ。

この本で本社といっているのは、今やピッツバーグ大学の応用研究センターとなった、ピッツバーグ郊外にある旧ガルフの研究所のことかもしれない。


人間尊重の経営

鐵造はガルフに招待されたパーティで、「アメリカの民主主義はニセモノで、人間を信頼していない。国岡は『人間尊重』を第一に考え、社員を家族と考えて経営しているので、タイムレコーダーもなければ出勤簿もなく、定年も馘首のない」と演説すると、会場から盛大な拍手が起こったという。

出光興産のホームページでも「人間尊重の百年」という特設ページが設けられており、出光佐三の言葉や出光興産の歴史、出光史料館(門司)などが紹介されている。


石油精製業界に進出

この時に鐵造は石油精製業に進出するため、徳山での国岡最初の製油所の建設を米国のエンジニアリング会社と契約した。この本では通常3年かかる工期を10か月で完成させた話や、大型タンカーを受け入れるために徳山港の沖合2キロに海上バースを建設した話を紹介している。


民族系石油会社の雄として活躍

その後も、1960年には国岡はソ連原油をカスピ海の第2バクー油田から国際市況の半値で輸入した。

これは当時の池田勇人通産大臣から持ちかけられたものだという。当時の日本のほとんどの石油会社はメジャーと提携しており、民族系は国岡だけだったので、持ちかけられたものだ。

1963年には千葉県の姉ヶ崎に東洋最大級の製油所を建設した。

その年の冬は「三八寒波」と呼ばれる豪雪が降り、日本全国で灯油が足りなくなり、火力発電所の重油も不足する事態となった。

通産省は石油業法を通じて、生産調整させていたため、国岡は有り余る原油がありながら、製品をつくることができなかった。

石油連盟と通産省は石油製品の市況を支えるため生産調整を申し入れたが、国岡は行政指導に反発して石油連盟を脱退した。需要に応えるために石油製品を増産し、当時の通産大臣による勧告を出すとの脅しにも屈しなかった。


石油ショックとその後

鐵造の晩年には1973年に第4次中東戦争を機に石油ショックが起こり、原油の値段はそれまで1バレル4ドルを超えることがなかったのが、一気に12ドルにまで上昇し、狂乱物価を引き起こした。

鐵造は1981年(昭和56年)に95歳で亡くなっている。

出光興産は、長らく非公開会社だったが、2006年に東証一部に上場して公開会社となった。

この本では出光佐三が、最初は日田重太郎、次にいくつかの銀行の融資によって助けられ、事業を拡大していく様子がわかったが、たとえばウォルマートの創業者のサム・ウォルトンは、上場することによってウォルマートの成長が加速したことを自伝で書いている。

私のウォルマート商法 すべて小さく考えよ (講談社プラスアルファ文庫)私のウォルマート商法 すべて小さく考えよ (講談社プラスアルファ文庫)
著者:サム・ウォルトン
講談社(2002-11-20)
販売元:Amazon.co.jp


出光が公開会社だったら、民族系として存続できず、とっくの昔に外資系石油メジャーが株を買い占めたかもしれない。

株を公開しなくても、すぐれた経営者だから資金を調達できたのだろう。

それにしても、戦後ほとんどゼロで再出発して、わずか15年くらいで2か所の新鋭製油所を持つ一大石油会社となったことは、日本の高度成長の一例として驚嘆に値する。

出版社の講談社の人が勧める通り、大変面白く痛快なストーリーを満載した本である。ぜひ一読をお勧めする。


参考になれば次クリック願う。