希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年
著者:原田 知津子
幻冬舎ルネッサンス(2012-07-18)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

IOC委員の世話役のコンパニオンやオリンピック選手団役員を40年間勤めた原田知津子さんの本。実は原田さんは、筆者の友人のお母さんだ。

原田さんはオリンピック選手団役員として1960年のスコーバレー・オリンピックからオリンピックに参加し、1964年の東京オリンピックでは、国際オリンピック委員会=IOC委員の世話をするコンパニオンのリーダーとして約40名のコンパニオンを統率した。1998年の長野オリンピックまで実に40年間もコンパニオンや選手団の世話役としてオリンピック開催に貢献された経歴を持つ。

オリンピック以外でも、グッドハウスキーピング教室を自宅で開催されており、数百人の生徒を教え、「快速家事」など5冊の本を書かれているスーパーレディだ。

ゆとりの3Sライフ (快速家事)ゆとりの3Sライフ (快速家事)
著者:原田 知津子
文化出版局(1991-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

ちなみに原田さんのハウスキーピングクラスの教え子で、フルート奏者の山形由美さんが、ブログで原田さんのことを紹介しているので、参照して欲しい。


コンパニオン(アシスタント)の役割

国際オリンピック活動では、日本を訪れるIOC委員を心から歓迎し、多忙な日程のなかでも日本を理解し、日本に親近感を持ってもらうことが、将来のオリンピックの日本誘致やIOCにおける日本の発言力の強化につながる。

IOC委員や委員夫人にアテンドして日本滞在中の予定をスケジュール通りこなす一方、日本と日本文化の理解を深め、親しみを持ってもらうようにするのがコンパニオンの重要な役割だ。英語やフランス語などのバイリンガルであることは必要条件の一つで、あとは教養や人柄なども必要条件だ。

コンパニオン(現在はアシスタントと呼ぶ)はボランティアで、勤務条件は次のようなものだ。

1.報酬:無償
2.旅費:IOCメンバーと行動をともにした旅費は事務局が負担。それ以外は自費
3.宿泊:事務局が手配
4.食事:業務が食事時間にかかる場合は支給
5.被服:事務局が支給または貸与
6.期間:オリンピック開催期間、大体3週間程度
7.勤務地:空港出迎え→オリンピック会場移動→大会開催→閉会後空港見送り

東京オリンピックでは約40人、長野オリンピックの時は170人のコンパニオンが、IOC委員や委員夫人のアテンドにボランティアとして駆り出された。これらのコンパニオンは公募せず、すべて原田さん、元NHKアナウンサーの磯村尚徳夫人で、フランス語が堪能な磯村文子さんの二人の人脈で選んだという。

巨人軍の長嶋終身名誉監督の亡くなった奥さんの長嶋亜希子さんも、東京オリンピックの時からのコンパニオンの先輩として、長野オリンピックにもボランティアの助っ人として参加したという。

ちなみに長嶋亜希子さんは、「私のアメリカ家庭料理」という本を出している。亜希子さんは、ミネソタ州の聖テレサ大学というところを卒業している。米国中西部の料理が多いのかもしれないが、どんな米国料理を紹介しているのか興味があるので、一度こちらも読んでみる。

私のアメリカ 家庭料理私のアメリカ 家庭料理
著者:長島 亜希子
文化出版局(1991-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

原田さんの経歴

原田さんは1922年生まれ、お父さんの仕事の関係で11歳までカナダのトロントで過ごし、日本に帰国後、東洋英和女学院、聖心女子大学英文科を卒業してNHKに就職した。今年で90歳になるはずだが、文筆に年齢はまったく感じられない。原田さんがオリンピックのコンパニオンとして貢献された40年余りの経験とエピソードを淡々と、読みやすい文章で語っている。

原田さんの亡くなったご主人は原田敬策さんという元男爵で、西園寺公望の懐刀と言われた原田熊雄男爵の長男だ。原田熊雄は、吉田茂、近衛文麿、樺山愛輔などと一緒に「ヨハンセン・グループ」として、戦争の早期終結を模索した一人だ。

原田さんと夫になる原田敬策さんが知り合ったのは、1945年12月の友人のダンスパーティだったという。1947年3月に行われた結婚式の披露宴は日比谷の日本工業倶楽部で、ウェディングケーキとビュッフェ形式の食事、新郎の原田敬策さんのハワイアンバンドが演奏して、来客がダンスを踊り、それ以来、日本工業倶楽部はダンスパーティで有名になったという。終戦直後の食料危機を完全に超越している生活があったのだ。

原田敬策さんは、白洲次郎が設立した貿易庁に務めた後、三菱商事の前身の協和交易に入社し、それ以降三菱商事で勤務された。原田さん自身は結婚を機にNHKを退職し、その後は外務省の要請で英文同時速記者の資格を取って、パートタイムで国際会議の英文速記をやっていた。


竹田宮の依頼でオリンピック活動に参加

原田さんとオリンピックとのつきあいは、家族ぐるみで親しくしていたスポーツの宮・竹田宮恒徳(つねよし)王からの紹介で、JOC会長でIOC委員でもあった東龍太郎さん(後に東京都知事になる)に会い、1958年に東京で開催されたIOC総会にIOC委員や夫人にアテンドするコンパニオンを集めてくれないかという依頼を受ける。

原田さんはバイリンガルの良家の子女・夫人を20名ほど集めて協力した。この時のメンバーは山本権兵衛の孫の山本貴美子さん、重光葵元外相の娘・華子さん、道面味の素社長夫人、若杉元ニューヨーク総領事夫人、NHKのキャスターの磯村尚徳夫人の文子さんらだったという。

日本でのもてなしに感激したIOC委員たちが、翌年のミュンヘンIOC総会で、1964年の夏季オリンピック開催地を大差で東京に決定するという結果となった。

これがきっかけで、原田さんは日本オリンピック協会=JOCの依頼で、各地で行われるIOC総会やオリンピックなどの公式イベントにIOC委員のアテンド役やオリンピック選手団の正式な役員(シャペロン=世話係)として参加するようになった。


オリンピックに役員として参加

原田さんが最初にオリンピックに参加したのは、1960年のスコーバレー冬季オリンピックで、日本選手団の団長は、当時の日本スキー連盟会長で、種なしスイカの発明者の木原均さんだったという。スコーバレーオリンピックでは、ウォルト・ディズニーと近づきになれたのがうれしかったという。

その後インスブルック冬季オリンピックでもシャペロンとして参加、そして1964年の東京オリンピックではコンパニオンのリーダーとして大会の成功に貢献した。


ミスター・アマチュアリズム

原田さんがアテンドしたミスター・アマチュアリズム、当時のIOCブランデージ会長のエピソードも面白い。

ブランデージ会長は、開会式に天皇陛下に開会宣言をお願いするために、テープレコーダーを部屋に持ち込んで「謹んで(つつしんで)、天皇陛下に、開会宣言をお願い申し上げます」という日本語を必死になって覚えていた。

一切ショー的なものを嫌ったブランデージ会長は、開会式では浴衣姿の盆踊りや小学生のマス体操をショー的すぎるとして中止させたという。マス体操に参加する予定で、数か月前から練習していた原田さんの次男(筆者の友人)もこれにはがっかりしたという。

開会式、閉会式のショーが話題を集め、NBAのプロバスケットボール選手も参加する今のオリンピックとは全く別物の純粋アマチュアリズムの考え方だ。

東京オリンピックでは開会式でオリンピック賛歌を演奏し、これがそれ以降のオリンピックのならわしとなった。自衛隊のブルーインパルスが五輪の雲を描いたことも、それ以降のオリンピックでマネされるようになったという。




清川IOC委員の秘書役

東龍太郎氏の次のIOC委員の清川正二氏は、戦前のロスアンジェルスオリンピックの背泳の金メダリストで、IOC副会長と、競技大会へのIOC代表という要職をこなした。ブランデージ会長の後を継いだアイルランドのキラニン卿、その後のスペイン出身のサマランチ会長の信任が厚かったという。

清川さんはオリンピック開催中は、前日の競技報告書を2−3ページにまとめて、サマランチ会長はじめIOC委員に翌日届けるという仕事を毎日やっており、原田さんは秘書としてタイプとレター配布したという。


ロス五輪を黒字化したユベロスの手腕

1984年のロサンゼルスオリンピックでは、大会組織委員会のユベロス会長が極端なコスト削減策と、収益改善策を導入し、オリンピックとして初めて黒字になった大会となった。

建設費をかけずに既存の施設を改修して使い、選手村は夏の間空いているUCLAの大学寮を使った。巨額のテレビ放映料と、ボランティアの大量投入が黒字化のカギだった。ボランティアには制服が支給されたが、日当は昼食代の5ドルだけだったのには驚いたと原田さんは書いている。

そのほか、原田さんが参加したグルノーブル冬季オリンピック札幌冬季オリンピック、日本がボイコットしたモスクワオリンピックカルガリー冬季オリンピックソウルオリンピックなどのエピソードも興味深い。

原田さんが参加した最後のオリンピックは1998年の長野冬季オリンピックで、開会式で天皇陛下から「原田さん、東京オリンピックからずうっと、ですね」と声をかけられたときは恐縮したという。

原田さんの長年のオリンピックへの貢献に対して、IOCは原田さんと弟の平井俊一さんに2000年にオリンピックオーダー(五輪功労賞)を送った。


知っている人が出てきて親しみを感じる

実は筆者は山本権兵衛のひ孫の山本衛さんと、アルゼンチン駐在時代に知り合い、年賀状をやり取りしている。山本貴美子さんは山本衛さんの叔母さんだと思う。

東龍太郎さんは東大ボート部の出身だ。東一家は毎夏、西伊豆の東大戸田寮に来られていたので、寮委員の間では有名だった。

サッカー出身で元IOC委員の岡野俊一郎さんは、筆者が湘南高校のサッカー部に在籍していた時に、サッカーの指導で藤沢まで来られ、教えてもらったことがある。

サッカーのアクロバチックなプレーに、オーバーヘッドキックがあるが、岡野さんが体育館で手本を見せてくれたのには驚いた。湘南高校のサッカー部では誰もできなかったが、当時40歳くらいだった岡野さんはやすやすとこなしていた。



筆者の友人は原田さんの次男で、大阪オリンピック誘致事務局に出向していたことがある。オリンピック誘致のような活動では、筆者の友人は、お母さんの原田さんや叔父の平井さんの人脈が活用できたと思うので、まさに適材適所だったのではないかと思う。

この本を読むとIOC委員にアテンドしてお世話するとともに、日本の良さを知ってもらうコンパニオン活動の重要性がよくわかる。

個々のIOC委員との人と人のつながりが、日本のサポーターを増やし、それが結果として日本が東京、札幌、長野とオリンピックを3回開催することにつながったのだと思う。

前回、東京がオリンピック開催地に立候補したときに、石原都知事が将来のスタジアムを目の前に投影するバーチャルディスプレイゴーグルを視察団に見せて、日本の先進性と技術力を見せつけたと自慢していたが、筆者は何か違うのではないかと感じていた。

もちろん開催地決定はきれいごとばかりではない。政治的な思惑や、ソルトレークシティオリンピックで明らかになったように、過去には買収や過剰接待攻勢もあった。それでも原田さんの活動のように、ボランティアのコンパニオンが手分けしてIOC委員を心からもてなし、日本のサポーターとなってもらうというのが、本来あるべき姿だし、時間はかかるが、それが一番確実な道ではないかと思う。

いまどきそんな悠長なことはやれないのかもしれないが、もし東京が、あるいは日本のどこかの都市が本気でオリンピック誘致に乗り出すのであれば、少なくともIOCの有力委員には、原田さんたちのような人と人のアプローチが重要なのではないかと思う。

そんなことを考えさせられる本である。


参考になれば次クリックお願いします。