外科医 須磨久善 (講談社文庫)外科医 須磨久善 (講談社文庫)
著者:海堂 尊
講談社(2011-07-15)
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現役医師でベストセラー作家の海堂尊さんが描くゴッドハンド・天才心臓外科医須磨久善さんのノンフィクション。

海堂尊さんは、医師としての専門知識を利用して、「チーム・バチスタの栄光」で文壇デビュー、チーム・バチスタシリーズで数々のベストセラーを生み出している売れっ子作家だ。放射線医学総合研究所のAi(死亡時画像診断)情報研究推進室室長を務めている。

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)
著者:海堂 尊
宝島社(2007-11-10)
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海堂さんはAi情報研究推進室室長

海堂さんの本職では、「死因不明社会」という本を出しているので、こちらも読んでみた。日本では死因をきっちり調査しないで処理される死者が多く、Ai(死亡時画像診断)により死因を特定すべきだと力説している。

死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)死因不明社会―Aiが拓く新しい医療 (ブルーバックス)
著者:海堂 尊
講談社(2007-11-21)
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この本は「心臓外科医 須磨久善の旅」と、「解題 バラードを歌うように」の2部構成となっており、最後にテレビドラマ「外科医 須磨久善」で須磨役を演じた水谷豊さんが解説を書いている。

最初の「心臓外科医 須磨久善の旅」は須磨さん自身が語った心臓外科医としてのキャリアだ。順番は須磨さんのアレンジにより、最初が1992年の海外での初めての公開手術、次が1986年にアメリカ留学から帰って、留学で学んだ経験を活かして始めた胃の大網動脈を使った心臓バイパス術式の開発、3回目がモンテカルロでの経験からインスパイアされて葉山ハートセンターという病院をつくった話、そして最後がバチスタ手術とのかかわりあいだ。

YouTubeで須磨さんを特集した番組がアップされているので、こちらも紹介しておく。




「解題 バラードを歌うように」

第2部の「解題 バラードを歌うように」は海堂さんの「チーム・バチスタの栄光」の映画化の時に、医療監修を須磨さんが引き受けてくれた撮影現場のエピソードだ。

こちらがバツグンに面白い。ほとんどの人が、須磨さんはどういう人かある程度イメージしていると思うので、著者の海堂さんも書いている通り、最初に第2部を読んでから、第1部を読むことをお勧めする。それぞれの面白みが倍増すると思う。

映画では外科医の桐生恭一役をやった歌手で俳優の吉川晃司は、須磨さんに最初にあった時に、挑発されたのだという。

「あなたに本当の外科医を演じることができますか?」
反発を感じながら、吉川が問い返す。
「本物の外科医って、どうやって見分けるんですか?」
とっさにしては、うまい切り返しだ。それに対して須磨さんは。
「本物の外科医は背中で語る。それができなければ一流の外科医とは言えない」
このやりとりで吉川の闘争心に火が付いたという。

桐生役の吉川は、海堂さんが見学した時、外科結紮(けっさつ)の場面で、本物の外科医と見まがうほどの見事な技術を身につけていたという。

一度は糸が絡まって失敗したが、須磨さんが「吉川さん、結紮がロックのビートになっている。ここはもっとリラックス、バラードを歌うようにやってみてください」とアドバイスすると、一発オーケーでものにした。

映画のプロモートをした席での須磨さんの発言もふるっている。「映画は成功します。女性ならみんな、吉川さんみたいな外科医に見つめられながら手術を受けたら、麻酔なんて必要なくなっちゃうでしょうからね」

海堂さんは、須磨さんに聞いたことがあるという。

「一流になるためには、地獄を見ないとダメですね」と須磨さんが言う。
「一流って、どういう人なんですか?」
「一人前になるには地獄を見なければならない。だけどそれでは所詮二流です。一流になるには、地獄を知り、そのうえで地獄を忘れなくてはなりません。地獄に引きずられているようではまだまだ未熟ですね。」

超一流の心臓外科医は、アーティストでもあることが、実感できる須磨さんの言葉である。


須磨さんのキャリア

須磨さんは神戸出身で、甲南中学出身だ。灘中や甲陽学院は当時は坊主頭だったので、死んでも丸坊主になりたくなかったから、甲南中学に行ったという。中学2年の時に医者になろうと決めた。テレビの「ベン・ケーシー」を見ていた須磨さんは、ある日自分が外科医となった夢を見た。それが医者になろうと思ったきっかけだという。



日本人による最初の海外での公開手術は須磨さんの友人が助教授を務めるベルギーブラッセルのルーベン大学病院で行われた。当時須磨さんは三井記念病院の循環器外科の科長で、日に2−3人の手術を行い、世界中から講演の依頼を受け世界中を飛び回るという多忙な生活だった。

実は筆者は当時の須磨さんをたまたま知っている。というのは、岡山で内科医をやっている筆者の義兄が、須磨さんに心臓バイパス手術を三井記念病院でやってもらったからだ。

三井記念病院は東大医学部の系列のような病院だが、大阪医大出身の須磨さんはその中では異色の経歴で、当時から日本でトップクラスの心臓外科医とみなされており、だから医者の義兄も須磨さんがいる三井記念病院で手術をやってもらったわけだ。

日本にいる半年間は一日に何件か手術をこなすが、年の半分は海外にいると聞いたので、やはり超一流の外科医は、いわゆるハイフライヤーで、優雅な生活をしているのだなと感じた記憶がある。実は講演などで世界を飛び回っていたのだ。


バイパス手術に動脈を使う

須磨さんが米国のユタ大学に留学した当時は、心臓バイパス手術には、10年もすると閉塞してしまうが使い勝手が良い静脈をつかう時代だった。一部の医者が胸の内胸動脈を使おうとしていたが、まだ少数派だった。

動脈と静脈では血圧が10倍違う。静脈を動脈代わりにつかうと、血管内皮がすぐ痛んで、血管壁がボロボロになってしまうからだ。

それでも日本の動脈使用率は世界に抜きんでて高い。日本のバイパス手術が世界で最も注目されているのだと。

須磨さんが考え抜いた末に選んだのは、胃の大網動脈だった。しかし何例か手術の成功例を紹介して日本の学界で新しい術式を発表した時に、ノー・リアクションだったという。

須磨さんは日本でのコールドショルダーにらちがあかないと考え、米国心臓協会(AHA)で発表すると、それがNHKニュースに報道され、須磨さんは一躍ヒーローになる。

しかし須磨さんは、もし人工血管が実用化されれば、これらの体の別の部位の血管を使った手術は意義を失うだろうと冷静に語る。


バチカン病院で勤務

須磨さんは心臓外科の名医として日本の心臓外科のトップ三井記念病院から招かれて循環器外科科長に就任する。そして次はローマ・カトリック大学付属のジェメリ病院から客員教授として招かれ、三井記念病院に籍を置いたまま、ローマに赴任する。

ジェメリ病院はベッド数2,000。イタリア最大の私立大学病院で、ローマ法王はじめバチカンの要人が病気になったら、必ずここに入院する。ローマ法王の外遊の際には、ここの大学教授が同行するのが”バチカン病院”として知られるゆえんだ。

数年ローマで生活し、ローマ永住を考えていた須磨さんは1995年にバチスタ手術を知る。当時日本では脳死が認められていなかったので、心臓移植は不可能だった。日本がバチスタ手術を最も必要とする国だと須磨さんは考えた。


日本に帰国してバチスタ手術を執刀

帰国した理由は、「犬のせいでしょうか」だと。須磨さん夫妻は子供がなく、愛犬が病気になった時に、イタリア語で自分の思いを伝えられないことにフラストレーションを覚え、自分の病院での患者の対応も、コミュニケーション力ができないと、十分な医療が行えないことに気づいたのだという。

日本にはバチスタ手術とミッド・キャブ手術を持ち帰った。モナコ・ハートセンターというわずか38床ながら、年間7−800例の心臓外科手術を行う有名な施設を日本にもつくろうということで、徳洲会グループの徳田虎雄さんの支援を得て病院つくりをする。

1996年湘南鎌倉総合病院で、新しい病院建設プロジェクトを手掛けるほか、日本で初めてのバチスタ手術を行った。厚生省の健康保険の対象にもなっていない段階だったが、徳田会長が費用は病院が持つと支援したからこそ実現したバチスタ手術だった。

日本初のバチスタ手術には、イタリアでバチスタ手術を行ったイタリア人の親友・カラフィオーレ教授、アメリカで初めてバチスタ手術を行ったバッファロー大学のサレルノ教授、UCLAの心筋保護の世界ナンバーワン、バックバーグ教授の3人が助っ人で来日してくれた。

手術は成功したが、患者は肺炎を起こして12日後に亡くなった。精根尽きていた須磨さんに、亡くなった患者の妻から手紙が届く。元々何の希望もないなかで、この手術を受けることになり患者は元気になっており、少なくとも手術後は心臓は元気だった。患者に希望を与えるこの手術を辞めないでくれ。

海外でのバチスタ手術の成功率は6-7割で、現在バチスタ手術が生き残っているのは日本だけだという。須磨さんは、心臓を切り取るのではなく、悪い部分を切除して切りあわせるという栽縮する形に変え、成功率は90%を超えた。この術式は、いまは「SAVE手術」別名「スマ手術」と呼ばれている。


葉山ハートセンター設立

葉山ハートセンターは2000年からスタートした。初年度で400例の心臓手術を行い、平均一日2例の手術を行った。2001年NHKのプロジェクトXでバチスタ手術が紹介されたことも、追い風となった。



葉山ハートセンターが軌道にのったのち、2008年に須磨さんは心臓血管研究所に転職した。循環器内科のプロと心臓外科のコラボレーションを狙ったのだ。

須磨さんは現在日本冠動脈外科学会の会長をつとめる傍ら、手術もおこなっている。外科医はアスリートなので、チャレンジング・スピリットがなくなったら終わりだと語る。


本職が医者(元々は外科医)のベストセラー作家が書くと、こうまで面白い物語になるのかと感心する。最近、文庫本になって買いやすくなったので、是非おすすめしたい作品である。


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