アリババ帝国 ネットで世界を制するジャック・マーの挑戦アリババ帝国 ネットで世界を制するジャック・マーの挑戦
著者:張 剛
販売元:東洋経済新報社
発売日:2010-07-09
おすすめ度:5.0
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中国のインターネット企業を代表するアリババグループCEOの馬雲(ジャック・マー)の1999年から2009年までの10年の軌跡。

マーさんは、大株主のソフトバンクの孫さんや米国Yahoo!に無断で、アリペイという世界最大のインターネット決済プラットフォーム会社の株を、取締役会にかけずに、すべて自分の会社に移したとして問題になっている

馬雲さんは独特の風貌で、ひときわ目立つ。YouTubeにもファイナンシャルタイムズのインタービューが掲載されているので、紹介しておく。馬雲さんの英語のうまさに驚くと思う。



馬雲さんは1964年浙江省杭州生まれ。杭州師範大学の英文科を卒業し、5年間英語教師をやったあと、「自分が成功できるなら80%の人が成功できる。そのことを証明するために起業した」という。


浙江省杭州市は中国で筆者の最も好きな都市

余談になるが、浙江省や杭州は筆者にとって中国で最も愛着がある場所だ。

筆者は1983年に浙江省にフィリピン産鉱石を持ち込んで、ステンレス鋼の原料に加工して日本に持ち込む委託加工(当時は合作と呼んだ)のビジネスを担当していた。その契約相手が浙江省の杭州市にあった浙江省冶金分公司(こんす)だった。

当時は中央集権を見直していた時期で、北京の冶金公司と交渉を始めたが、最終的に契約相手は浙江省冶金分公司になった。

初めて中国を訪問した1983年の夏には、北京、上海、長沙(上海ー長沙は汽車で20時間以上)の工場を歴訪し、最後に上海から電車で杭州に行き、杭州から車で1日掛けて横山という場所にある工場を訪問した。

当時は外国人の中国での旅行は厳しく制限されており、横山や途中の町も非開放地区だったので、杭州を朝出発したが、途中の町の役場に立ち寄っては通行許可証を取っていたので、横山に辿り着いた時は夜になっていた。

その夜歓迎宴を工場の人が開いてくれたが、夏はスッポンが手に入りにくいため数日前に捕まえておいたというスッポン料理で歓待してくれて感激した。

横山工場には遊休となっていたニッケルの生産設備があり、それはアルバニア人技術者が建設したものだと語っていた。中国はソ連と断交した後、同じくソ連と断交していたアルバニアと親しくなり、アルバニアから技術を導入していたのだ。

優秀な品質の製品をつくる工場で、日本でも評判が良かった。

当時はビジネスで出張すると、せっかく来たんだからと先方がわざわざ観光地を案内してくれる習慣があり、北京では万里の長城、故宮、上海では豫園(よえん)、長沙では毛沢東の生家や刺繍工場を見学した。

杭州では西湖をボートで観光し、日本の天台宗の開祖の最澄も学んだ天台山国清寺、龍泉茶で有名な龍泉(泉の水をかき回して波立てても、しばらくするとスーッと波が消えて、鏡のようになる)などを観光した。

鉱石を陸揚げした寧波にも行って一泊した。当時は中国にはエアコンなどなく、水浴びをしてなんとかしのいだ。夜になると多くの市民が夕涼みのために散歩していて、大変な混雑だった。

杭州市ではできたばかりの花園飯店というホテルに泊まり、宴会の後に若い従業員も加わって、みんなで歌った。千昌男の「北国の春」が中国でもヒットしていたことを思い出す。

毎日おかゆには飽きたので、朝食にパンを頼んだら、カステラみたいにボロボロくずれるパンが出てきたことには閉口した。当時はまともなパンは北京と上海の一流ホテルでしか食べられなかった。

杭州の最初の宴会では、山西省出身の人民解放軍上がりの総経理に汾酒(アルコール度53度でセメダインみたいなにおいがする)で乾杯させられ、死ぬほど飲まされたので、翌日の楼外楼での答礼宴では、ブランデーで乾杯し、コカコーラを用意して、乾杯するたびにコーラを飲んで薄めていた。

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楼外楼は日本にも支店がある杭州の老舗レストランだが、当時はそんなきれいな店ではなく、一般庶民も多く利用していた。名物の乞食鳥を初めて楼外楼で食べた。乞食鳥という名前を奇異に感じたものだ。

閑話休題


1999年にアリババ起業

馬雲さんは「中国黄頁」(中国版イエローページ)など何件か起業した後に、中国国際電子商務中心の情報部総経理(部長)となり「国富通」、「中国商品交易市場」などのサイトを立ち上げる。これらのサイトはすぐに黒字となり、合計300万元(40万ドル)の黒字となった。

馬雲さんはこの成功でインターネットの可能性を感じ、1999年に仲間とBtoBサイトのアリババを立ち上げる。


アリババというサイト

アリババは日本語サイトも立ち上げている。もっぱら企業向けなので訪問したことがない人が多いと思うが、BtoB(企業間取引)向けのサプライヤーとバイヤーのマッチングサイトだ。

alibaba





筆者は10年ほど前にインターネット逆オークションを使った電子調達ビジネスを研究していたので、アリババのサイトも10年ほど前から知っている。

自分の興味ある商品を登録しておくと、メルマガなどでサプライヤーのリストを送ってくれるが、そのサプライヤーの品質がどうか、信頼できそうな相手なのかは自分で調べなければならず、結局使わなかった。

今はアリババの登録ユーザーは4000万人で、中国が8割。登録店舗数は5百万件にまで成長してきたので、それなりの信用や品質情報などもあるのだと思うが、当時は企業版のYellow Pageをインターネットに載せたようなものだった。


アリババ起業の十八羅漢

このときの起業メンバーが馬雲さんも入れて「十八羅漢」と呼ばれる面々で、現在でもアリババやタオバオの幹部を占めている。ちなみに仏教では普通十六羅漢と呼ばれるが、十六でも十八でも大きな差はない。

十八羅漢の中でも、1999年10月の蔡崇信(現アリババCFO)の入社で、アリババは資金確保に悩まされることはなくなった。

蔡崇信は、スウェーデンのインベスターABグループの副総裁だったが、アリババと投資交渉をしていて、急に気が変わり、アリババに入社することを決意、70万ドルの年俸を捨ててわずか500元(60ドル)の月給でアリババに入社した。

蔡崇信が入社してすぐにゴールドマンサックスなどが500万ドルを投資した。


ソフトバンクの孫さんが二千万ドル投資

そのすぐ後に馬雲さんと会ったのがソフトバンクの孫正義さんだ。1999年9月のビジネスウィークにはebiz25というインターネット起業家特集があり、孫さんは日本人として唯一ebiz25に入っていた。

次が1999年9月のBusiness Weekの表紙だ。当時筆者は米国に駐在しており、IPO投資した電子調達会社の社長もebiz25に入っていたので、この表紙をスキャンして保存していたものだ。

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出典: Business Week

この記事はBusinessweek.comで読めるので、参照して欲しい。

孫さんは5−6分馬雲の説明を聞いただけでビジネスモデルを理解し、「我々はアリババを第2のヤフーに育て上げる」と語り、30%の株式を2,000万ドルで取得し、アリババの顧問にもなった。

孫さんの目標は「情報革命で人々を幸せにする」ことで、馬雲さんも「インターネットを通じて、社会を豊かにする」との夢を共有する同志であるという。

ソフトバンクの投資は、後に回収するときに70倍以上になってソフトバンクに富をもたらした。

孫さんのヤフー立ち上げ時の1億ドルの投資は有名だが、それに負けずとも劣らないのが、アリババへのこの2,000万ドルの投資である。

1999年はインターネットバブルのピークで、中国の初期のポータルサイト新浪(sina.com)に、シリコンバレーのベンチャーキャピタルが数千万ドル投資し、クライナー・パーキンス、住友商事の子会社のPresidio Venture Capitalなどもsina.comに投資している。


アリババの目標

馬雲さんの打ち出した目標は次の3つだ。

(1)80年持つ企業になる。この80年は後に102年となり、1999年から2101年まで3世紀にわたって存続する企業を目ざすと若干変わった。

(2)世界のインターネットビジネスで10位内に入る。

(3)ビジネスマンなら誰でもアリババが必要となるようにする。

2000年のネットバブルの崩壊直前にアリババは必要十分な資金を調達したので、順調に拡大を続けたが、好事魔多し、アリババにダメージを与えたのは2003年に広まったSARSだった。SARSのためにアリババのオフィスは12日間隔離された。


タオバオとイーベイの覇権をめぐる争い

2003年5月にアリババのCtoCサイト、タオバオが誕生した。タオバオはイーべイが支援する易趣網に対抗して作られたBtoC、CtoCサイトだ。

taobao site






イーベイはヤフージャパンのオークション無料化戦略で2002年に日本から追い出されたが、中国では1999年スタートのCtoCサイト最大手易趣網に2,000万ドル投資し、33%の株を取得して中国でのシェアを90%以上にまで押し上げていた。

アリババはイーベイの小口送金サービスペイパルに対抗し、アリペイを2003年10月に立ち上げた。

2004年初めのタオバオのシェアは9%だったが、ヤフージャパンと同じく手数料無料戦略をとったので、急速にイーベイ易趣網からシェアーを奪い、2004年末には9%から41%にシェアを上げた。イーベイ易趣網は90%から53%にまで落ちた。

それには2004年2月のソフトバンクの6,000万ドルを核とする8,200万ドルの追加投資が役に立った。日本からイーべイを追い出したヤフージャパンの代理戦争がタオバオでも始まっていたのだ。


2005年に決着

2005年は中国企業が大躍進を遂げた年だ。レノボがIBMのPC部門を買収、中国海洋石油総公司がユノカル買収を発表(結局米国政府が認可しなかった)、他にも英国ローバーを南汽が買収した。

2005年でタオバオとイーベー易趣網の戦いはタオバオの勝利に終わり、タオバオ57%、イーベイ34%という結果となった。さらにタオバオはシェア−7%で3位の一拍網も傘下に収めた。

アリババは順調に成長し、2006年に国際貿易の会員数は3百万人を超え、2006年の取り扱い高は260億ドルと、2005年の200億ドルを3割上回った。国内取引でも会員社数は1,600万社を超えた。

タオバオはさらに急成長を遂げ、2006年には取引額は169億元で、2005年のほぼ倍、2006年一年間で220万台の携帯電話、2000万の携帯電話カード、4000万の化粧品、230万のインナーウェア、60万台のデジタルカメラを売っていた。


アリババの株式を公開

2007年はアリババが株式を上場して、飛躍を遂げた年だ、2007年11月アリババは香港市場で株式を公開し、IPO当時の時価総額は260億ドルとなった。

2007年には米国ではサブプライム問題、中国では不動産バブルが発生しており、馬雲さんは、当初の予定の2009年上場を早める必要があると考え、2007年中に香港市場で上場したのだ。

アリババ株の33.5%を持っていたヤフーのジェリー・ヤンは多額の資金を得たが、それでも米国Yahoo!の経営は立て直せず、失意のうちに経営を退いた。

第二位株主のソフトバンクの持ち株の時価総額は45億ドルとなった。投資資金が七十倍のリターンをもたらしたのだ。

アリババ社員は26%持っており、一挙に約5千人の富豪サラリーマンが誕生した。このうち7名の幹部社員が13%を持っていた。馬雲の持ち分は7%で、創業社長にしては少なかったが、馬雲は社員が裕福になったことを喜んだという。

アリババ上場後、香港株は下がった。このブログでも紹介しているバイクライダー投資家のジム・ロジャースは香港株は高すぎるが、アリババ株は例外だと語ったという。


株式上場後、すぐに非常事態宣言

株式公開後すぐの2007年末に馬雲さんは非常事態宣言を出し、タオバオの総裁、アリババグループのCTO,VPが交代すると発表した。

2008年9月には中国の検索で70%以上のシェアを持つ百度ヨウアというECサービスを始め、タオバオと直接競合するようになった。百度からはタオバオに行けないようにしたので、タオバオは報復としてタオバオからも百度に行けないようにした。

リーマンショックの影響が大きかったので、馬雲はアリババの登録費用を6万元から、2万元弱に引き下げて、5万社の中国企業を支援すると発表した。

2009年にはタオバオは利益はまだ出していないが、1.2億のユーザー、アリペイは1.8億人のユーザーを持っているという。アリババの登録ユーザーは4、000万人で、中国が8割。登録店舗数は5百万件だ。

中国のインターネット人口は、1999年末の630万人から、2009年には4.4億人に急拡大しており、中国のほとんどのECサイトに急激なトラフィック増加をもたらした。


顧客第一、社員第二

馬雲さんは、顧客第一、社員第二、株主第三だと語る。

馬雲さんは、本を書くなら「アリババと1001の過ち」という本を書きたいと語っている。アリババの過ちを公開することで、多くの人にヒントを与えるからだと。

最後に馬雲さんの2009年6月の北京大学国際MBA卒業式のスピーチを紹介している。結びの言葉は、なんと映画フォレストガンプの有名な言葉だ。さすが元英語教師の馬雲さんらしい。

"Life is like a box of chocolates, you never know what you're gonna get"だから"Enjoy the life"だと。



著者のジャーナリストの張剛さんは、公開されている資料中心に、そつなく十年間の軌跡をまとめているが、たとえば何故タオバオのトップを総入れ替えしたのかなど、馬雲さんの考えがわからない。

馬雲さんのインタビューを中心に本を書けばもっと良かったと思う。


参考になれば次クリック願う。