時短読書のすすめ

「あたまにスッと入るあらすじ」作者が厳選するあらすじ特選。その本を読んだことがある人は記憶のリフレッシュのため、読んだことがない人は、このあらすじを読んでからその本を読んで、「時短読書」で効率的に自己啓発してほしい。

あの日 小保方晴子さんの逆襲始まる しかし…

あの日
小保方 晴子
講談社
2016-01-29


STAP細胞騒動で、名前を知らない人はいなくなった小保方晴子さんの逆襲本。

Amazonのカスタマー・レビューでは賛否両論で、800以上ものカスタマー・レビューが投稿されている。

さらにそれぞれのカスタマー・レビューにも、時には数百のコメントが寄せられている(相当なコメントがアマゾンによって削除されているので、攻撃コメントだと思われる)。

中には科学誌への論文投稿に詳しい専門家や自殺した笹井副センター長の後輩と称する人も投稿している。

カスタマー・レビューだけを読んでも、この本の内容が大体わかるような分量だ。

小保方さんは、最近、婦人公論に登場している。この本を2016年1月に出版して、逆襲を始めたようだ。



また、STAP HOPE PAGEという英文サイトを立ち上げている。

このサイトは2016年3月に開設されて、4月に数件の追加がなされた後は、そのままとなっている。このタイミングで海外でのSTAP細胞研究のニュースがあって、サイトを開設したのではないかと思う。

STAP HOPE PAGE












出典: STAP HOPE PAGE

STAP HOPE PAGEにはSTAP研究の概要STAP細胞製作のプロトコルSTAP細胞検証実験の結果などが紹介されている。

この本を読んでの筆者の小保方さんに対する評価は、到底一流の研究者とは言えないレベルにあるということだ。

ケアレスミスが多すぎる。さらに、ミスをそのまま放置しているので、これは人をミスリードすることと結果的に同じだ。

筆者も仕事柄、多くの人の報告書をチェックする立場にある。

筆者自身も自分が書いた文章の読み返しはあまり好きではなかった。しかし、他人の報告書をチェックする立場になったら、どれだけ"Proofreading"(日本語の「校正」とは、ちょっとニュアンスが違うので、"Proofreading"という言葉を用いる。徹底的な読み返しのこと)が重要なのか、よくわかった。

スペルミス、タイプミスなどのケアレスミスが多いと、報告書の信用度を大きく棄損する。

報告書作成者が”Proofreading"をしていなければ、報告書の品質は保てず、そんな人が実施した調査や実験はミスがあるのではないかという印象を与える。

また、筆者の経験からいうと、読み返しの習慣は簡単なものなので、他の人に一度注意されたら、ほとんどの人が実行するようになり、次回からはミスは相当減る。

それでもミスが減少しないということは、本人がやる気がないということだと思う。

もともとSTAP細胞の真偽についての論争は、STAP細胞実験がなかなか再現できないというところから出たものではなく、小保方さんの過去の論文の発表資料の使い回しがあったり、早稲田大学での英文の博士論文の序論の部分の大半が、米国国立衛生研究所のサイトのES細胞に関する説明コピーだったということに端を発した。

これはネットのブロガーなどが見つけた不備で、STAP細胞の発表から1週間も経っていなかったので「クラウド査読」として話題になった。

製本して国会図書館に収められた博士論文が草稿段階のものだった。だから、相当な部分がコピペだった?

小保方さんだけの責任ではないかもしれないが、あり得ない言い訳だ。

この件に関しては、アマゾンのカスタマー・レビューで同じ意見を書いている人もあり、これまた賛否両論のコメントが寄せられている。


ともあれ、この本のあらすじを紹介する。

小保方さんは、高校受験に失敗し、大学はAO入試で入れる早稲田大学を選択した。早稲田では体育会のラクロス部で活躍し、理工学部の応用化学科に進学した。応用化学科に進学したのは、組織工学による再生医療に強い興味を持っていたからだ。

組織工学は、細胞と足場になる材料を用いて、生体外で移植可能な組織を作りだすものだ。

この分野が注目を集めるきっかけとなったのは、のちに小保方さんが留学するハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が人工的に作られたヒトの耳をマウスに移植した「バカンティ・マウス」を発表したからだった。

Vacanti_mouse








出典:Wikipedia英語版

組織工学を研究するために、早稲田大学が提携していた東京女子医大先端生命医科学研究所で、大和雅之教授の指導を受けて細胞シートを用いた再生医療技術を研究し、それが縁でハーバード大学に留学する。

ハーバード大学ノバカンティ研では、東京女子医大に比べると設備が揃っていなかったという。バカンティ教授は、麻酔学教室の教授であり、組織工学の第一人者ではあるが、ハーバード学内外で、あまり支援を受けていなかったようだ。

この本の最初の部分は、小保方さんが行った実験に関する技術的な説明で、脚注もないので、あまり一般読者を意識したものになっていない。

覚えておくべきなのは、もともと単一細胞の受精卵から細胞分裂を繰り返して体の各組織が形成されていくなかで、エピジェネティクスと呼ばれる、いわば鍵がかけられ、分化した細胞には多能性は失われるということだ。

そのエピジェネティクスを解除する方法が、iPS細胞では、4つの遺伝子で、STAP細胞は弱酸性の環境である。

STAP細胞の発表の際に、発表の司会を務めていた亡くなった笹井副センター長が、得意顔で「これでiPS細胞が時代遅れとなったとは、決して考えてほしくない」(正確な表現は思い出せないので、筆者の記憶)というようなコメントをしていたことを思い出す。

その時にマスコミに示され、あとで回収されたSTAP細胞とiPS細胞の間違った比較図は、いまだにネットで検索すると手に入る。

STAPiPS比較


















出典:インターネット検索

小保方さんは、バカンティ研所属の研究員として、理研の若山研で、バラバラのリンパ球にストレスを与え、Oct4陽性細胞に変化していくことを確かめる実験を行っていた。これが次のビデオにある実験の第一段階で、STAP細胞研究の発表の際に、公表されたスライドの緑に光る細胞だ。

その次の段階として、Oct4陽性細胞という多能性を示す細胞を使ってキメラマウスをつくる実験は、若山教授が担当していた。これはSTAP幹細胞への変化を立証するものだ。

最初は失敗の連続だったが、Oct4陽性細胞をマイクロナイフで切って小さくした細胞塊を初期胚に注入してキメラマウスができたという連絡があった。

しかし、これはゴッドハンドの若山教授しか成功していないもので、若山教授自身も「特殊な手技を使って作製しているから、僕がいなければなかなか再現がとれないよ。世界はなかなか追いついてこれないはず」と話していたという。

この作製方法は、結局小保方さんには明かされなかった。「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と言われたという。

キメラマウス作製のデータを作る際には、つじつまの合うデータを仮置きして、ストーリーにあわせたデータを作っていくという若山研での方法に従って行われた。

特許申請の手続きも開始され、若山教授は幹細胞株化は若山研の研究成果であり、特許配分も若山教授51%、小保方さん39%、バカンティ教授と部下の小島教授に5%ずつという特許配分を理研の特許部門に提案していた。

このころ、先輩研究員から、「若山先生の様子がおかしい」と言われたという(このあたりが伏線となる)。

小保方さんは、理研のユニットリーダーに応募して合格し、英語の論文をまとめるための指導教官として笹井芳樹副センター長が加わってきた。

STAP=Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotencyという名前を考えたのも笹井教授だ。

STAP論文は5ページくらいのアーティクルと3ページくらいのレターとして、ネイチャーに投稿していた。何度かのやりとりを経て、2013年12月にネイチャーからアクセプトの連絡があり、2014年1月28日に記者会見を開催した。



このときに使われた上記のiPS細胞との比較図に京大の山中教授が抗議して、理研はあとで配布資料を回収し、笹井教授は山中教授に謝罪している。

論文発表から1週間で、前述の通り、論文の写真の使いまわしの疑義があるという話が分子生物学会から理研に持ち込まれた。あとはご存知の通りの顛末だ。



この本で小保方さんは誰かがES細胞を混入させた可能性があるという状況証拠をいくつも上げて、その立場にいたのは研究室の責任者の若山教授ではないかと思わせるような発言を繰り返している。

さらに、若山教授は、論文撤回の際にも、他の著者たちに知らせずに単独で撤回理由書の修正を依頼していたという。

論文撤回の部分はともかく、誰かがES細胞を混入させたなどという証拠もない話を信じるほど世の中は甘くない。

若山教授もいい迷惑だと思う。

小保方さんは、NHKにも、また毎日新聞の須田桃子記者にも逆襲している。

「特に毎日新聞の須田桃子記者からの取材攻勢は殺意すら感じさせられるものがあった。」

須田さんは、先日読んだ「捏造の科学者」という本を書いている。須田さんは小保方さんの早稲田大学理工学部の先輩だ。

捏造の科学者 STAP細胞事件
須田 桃子
文藝春秋
2015-01-07


一方、今年に入って、ドイツのハイデルベルグ大学の研究チームが、小保方さんの作成手順を一部変更する形で細胞に刺激を与える実験を行い、多能性を意味するAP染色要請細胞の割合が増加することを確認したとする論文を発表している。

STAP細胞が再現できる可能性も出てきた。

筆者も、STAP細胞が再現できることはありうると思う。しかし、問題は、それが酸に浸されて死にゆく細胞の最後の光なのか、それともその後STAP幹細胞となる細胞分裂の始まりなのかという点だ。

ドイツでもキメラマウスはできていない。

結局、STAP細胞は単なる捏造騒動に終わるのではないかと思う。

最後に、アマゾンのカスタマー・レビューで、小保方さんの文章力をほめるレビューが結構ある。しかし、筆者はこの本は小保方さんの話をゴーストライターがまとめたものだと思う。

あのメモ程度の文章力しかない人が書ける文章ではない。

obokatamemo















出典:”小保方メモ”ネット検索

この関係では「ビジネス書の9割はゴーストライター」という本のあらすじを紹介しているので、業界事情を参考にしてほしい。




これからも小保方さんは逆襲に転じるのだろうと思う。これは共同研究者同士のいわゆる「内ゲバ」に近い。STAP細胞というアイデアが実用化できない以上、無益な戦いに思えるのだが…。


参考になれば次クリックお願いします。



碧素・日本ぺニシリシン物語 戦時下の日本の抗生物質生産



以前紹介した畑村洋太郎さんの「技術大国幻想の終わり」に、畑村さんが学究の道に入るきっかけとなった本として紹介されていたので読んでみた。



この物語の中心人物、陸軍軍医少佐稲垣克彦は、東京大学医学部在学中に陸軍の依託学生となり、軍医任官後は、旧満州などの勤務を経て、昭和17年に陸軍軍医学校の教官となった。

稲垣軍医少佐は、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月に設立された総力戦研究所に在籍していたこともあり、その関係で、各省庁に知人がいた。総力戦研究所は、日本のトップ頭脳を集めた研究所で、第1期生35名が太平洋戦争が始まる前に、「総力戦机上演習」で日本必敗という結論を出し、時の東条英機首相が激怒して、一切極秘を厳命したという経緯がある。この話は、猪瀬直樹さんの本に詳しい。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
猪瀬 直樹
中央公論新社
2010-06-25


稲垣少佐は、米国から交換船で帰国した人が持ち帰った「フォーチュン」の記事で、当時治療薬として広く用いられていたサルファー剤(当時はドイツ語読みで「ズルフォン剤」と言われていた)が効かない病気にもペニシリンが奇跡的に効くと知った。

さらに情報を求めて、文部省の知己を訪問すると、ドイツから潜水艦で運ばれてきたばかりの医学雑誌を手渡された。この雑誌は英米のペニシリン研究に関するドイツの医学論文が掲載されていた。それにはカビから得られた抗菌性物質のペニシリンは、肺炎、膿胸、敗血症などを引き起こす肺炎双球菌、ブドウ球菌、連鎖球菌や、破傷風、ガス壊疽を起こすグラム陽性嫌気性細菌などの発育を阻止する力を持つと書かれていた。

ガス壊疽、破傷風、敗血症はいずれも軍陣医学にとって重要な感染症だ。

ドイツからの潜水艦による輸送については、このブログで紹介した「深海の使者」に詳しく紹介されている。この本では、様々な情報を総合して、ドイツの医学雑誌は、伊ー8号によって運ばれ、途中のシンガポールからは空輸されたのではないかという推測をしている。

深海の使者 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋
2011-03-10


ペニシリンはよく知られているとおり、英国のアレクサンダー・フレミングが、生育していたブドウ球菌のシャーレに青カビが発生していることを発見し、それから細菌を殺す効果のあるペニシリウムというカビを見つけたことから発明された。ペニシリンは最初の抗生物質だ。

アレクサンダー・フレミング(切手になっている)

Faroe_stamp_079_europe_(fleming)











出典:Wikipedia

当初、ペニシリンはカビから得られる量が少ないことから注目されていなかったが、オックスフォード大学のフローリーチェインがペニシリンに再注目し、米国のロックフェラー財団の支援を得て研究を続け、臨床試験で非常な効果があることがわかった。

第二次世界大戦がはじまると、傷病兵の治療用に大量のペニシリンが必要となったので、1943年の後半から米英で大量生産された。

実用化されたペニシリンQ176株は、米国の北部農業研究所があったイリノイ州ピオリアに住む主婦が、研究所がカビを探していることを新聞で読み、カビの生えたメロンを届け、このメロンから採取されたカビにX線を照射し、さらに紫外線を照射して生き残ったカビから生育されたものだ。

戦争が終わった1945年12月にフレミング、フローリー、チェインの3人はノーベル医学賞を受賞している。

稲垣少佐の文献研究とちょうどタイミングを同じくして、当時中立国だったアルゼンチンの朝日新聞ブエノスアイレス支局から、「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾い ズルホン剤を補ふペニシリン」という特派員報告が昭和19年1月27日の朝日新聞に掲載された。

これに衝撃を受けた陸軍省は、その日のうちに「ペニシリン類化学療法剤の研究」を昭和19年8月までにという期限付きで、陸軍医学校に命じた。

第1回ペニシリン会議が昭和19年2月1日に開催され、七三一部隊で有名な石井四郎軍医少将も出席して、積極的に質問していたという。石井中将(その後昇格)は戦後、戦犯とならず(米国に細菌戦の情報を提供したためといわれている)、米国に招かれ朝鮮戦争時に米国がひそかに行った細菌戦を指揮したという噂がある。

陸軍医学校では勤労奉仕の一高生を30名ほど受け入れ、一高生は翻訳などに取り組んだ。日本各地の大学、研究所、製薬メーカーではペニシリン培養用に最適な培地とカビを探すために、様々な努力をしていた。そのうちこんにゃくの培地に蛹の煮汁を加えたものが良好な成果を示したが、当時はこんにゃくは秘密兵器風船爆弾の糊に使われるために入手困難だった。

東北帝大では、試作ペニシリンのマウス実験に成功し、発見菌株は「ペニシリウム・ノターツム・クロヤ・コンドウ」株と名づけられ、次第に力価を高めていった。東北帝大では臨床試験も実施し、9月には新聞にも報道され、特効薬・ペニシリンを求める人が東北帝大に殺到したという。

当時のペニシリンは純度が低かったが、不思議とよく効いた。純度が低いため、体内にとどまっている時間が長かったので、よく効いたのではないかといわれている。

昭和19年10月にはドイツからペニシリン菌株と資料が中立国とシベリア鉄道経由届いたが、ドイツの研究は遅れており、日本の菌より力が弱かった。昭和19年の初めに、ヒトラーは自分の主治医をペニシリンの発見者として第一級鉄十字勲章を与えていた。しかし、この発表はねつ造であることが戦後発覚した。ヒトラーのあせりがうかがわれる。

日本のペニシリンの初期投与者には、南京に新日傀儡政権を樹立した後、日本に亡命していた汪兆銘がいる。汪兆銘は、名古屋帝大の附属病院に入院していた。骨髄腫だったので、ペニシリンの薬効はなく、昭和19年11月に死亡している。

この本では、東大医学部、東大農学部、伝染病研究所、東京女高師、海軍が依託した小林研究所(ライオン歯磨)、慈恵医大、慶応大学など、日本各地の研究機関で物資が乏しい中、一斉に研究が進められていた様子を描いている。

昭和19年11月には朝日新聞はじめ各紙が、「短期間に見事完成 世界一ペニシリン わが軍陣医学に凱歌」という題で大々的に研究成果を報じている。

しかし、物資不足に悩む日本では量産化できる工場はほとんどなかく、万有製薬、宇治化学、三共、帝国臓器などのメーカーが関心を示していたが、最終的に森永乳業の三島工場(当時は森永食糧工業の三島食品工場)で、試験生産が始まることになった。

牛乳からバターなどを取った残りのホエイを培地にして、森永ではペニシリンの生産が続けられ、陸軍病院や大学病院に送られた。当時の生産量の記録は残っていない。

戦時中のことでもあり、ペニシリンという名前は敵性語だということで、「碧素」という日本名がつけられた。この本では、昭和19年11月末にはB29による東京空襲が始まり、日本各地が爆撃を受ける中でのペニシリン生産と、負傷者に適用されたペニシリンの高い薬能を紹介している。

軍医学校も昭和20年5月に焼け落ち、疎開資料は東京帝大と山形県に送られた。東京帝大の寄託資料は、東大紛争の時に、学生が衛生学教室に乱入し、資料を焼いてしまった。もう一つの山形県に送られた資料は、戦後エーザイの創業者の内藤記念くすり資料館(岐阜県)に移され、日本のペニシリン研究資料として展示されている。

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出典:Wikipedia

この本の最後の方に、終戦直前の昭和20年7月に稲垣少佐が家族を疎開させていた沼津市近郊の志下(しげ)に行くために沼津駅から江梨行きの木炭バスを待っていた時のエピソードが載っている。稲垣少佐の軍服につけた軍医の胸章に気付いた客から、甥が敗血症で死にかかっており、どうしても碧素を手に入れたいという相談を受け、持っていたペニシリンを渡し、あとは森永の工場からもらうように伝えたという。

戦後30年経って、昭和50年に放送されたNHKのスポットライトという番組の「碧素誕生」という回に、稲垣さんが出演し、依頼を受けた大谷実雄さんと30年ぶりに再会し、ペニシリンで救われた川口隆次とも会っている。

ちなみに、この沼津駅発江梨行きのバスは今でも運行しており、筆者も西伊豆の戸田に行くときに利用している。山本コータローの「岬めぐり」のバスのような、海と山の間を走るバスだ。



戦後は「ペニシリンは儲かる」という話が広まり、昭和22年にペニシリン協会に加盟していた会社は80社を超え、製薬メーカーはもちろん、台糖、菓子メーカー、合繊メーカー(東洋レーヨン(東レ))まで種々雑多な業種が参入していた。

昭和21年1月にGHQは突然日本のペニシリンの販売を禁止した。そして5月に突然販売禁止が解除された。なんの理由も発表されなかったが、日本のペニシリンは世界の水準に達していないというのが理由だったという。

GHQは昭和21年8月にペニシリン研究の権威、テキサス大学のJ.W.フォスター教授を招いて、日本各地でペニシリン生産上の秘訣を公開講演し、日本各地の工場を積極的にまわって指導した。フォスターは「日本ペニシリンの恩人」と感謝されている。

日本のペニシリン生産は、昭和21年3万単位、1万1千本が、昭和22年10万単位、6万5千本、昭和23年には10万単位、25万6千本と加速度的に増加し、昭和23年からペニシリンが広く一般に使われるようになった。日本で広く使われたのが前述のピオリア市の主婦が届けてきたメロンから採集したQ176株だ。

昭和24年には国内需要を満たし、昭和25年には朝鮮戦争が起こったために、米軍が買い上げて、日本の薬品が外貨を獲得した最初となり、ペニシリン生産額はさらに増大した。

昭和10年の日本人の平均寿命は50歳で、明治20年ころからほとんど変わっていなかったが、ペニシリンが広く使われるようになった昭和23年から日本人の平均寿命は急に延びはじめ、昭和26年からはストレプトマイシンが使われるようになって日本人の結核による死亡者は激減し、昭和30年に65歳に達した。

今や様々な抗生物質が市場に出ている。

この本にも登場する稲垣さんの東大医学部の同窓で、東大伝染病研究所に勤務していた梅沢浜夫さんが書いている「抗生物質の話」も読んだので、今度あらすじを紹介する。

1962年の発刊だが、日本の抗生物質研究の第一人者が書いた本なので、抗生物質の基本がわかり参考になる。



筆者自身も5歳の時に骨髄炎にかかり、たしかアクロマイシンという抗生物質で完治した。左腕に手術跡があるが、今はなんともない。

そんな体験があるので、興味深く読めた。

古い本だが、大きな図書館なら置いているところがあると思うので(筆者も港区図書館から借りて読み、大変気に入ったのでアマゾンのマーケットプレースで買った)、最寄りの図書館をチェックしてみてほしい。


参考になれば次クリックお願いします。



iPS細胞が医療をここまで変える iPS細胞研究の最新情報

iPS細胞が医療をここまで変える (PHP新書)
京都大学iPS細胞研究所
PHP研究所
2016-07-16


2006年に発表されたiPS細胞の発見から10年経って、現在のiPS細胞研究の現状をまとめた本。

京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授が監修している。

iPS細胞の基本的なことについては、以前山中教授と益川教授の対談「『大発見』の思考法」のあらすじで紹介しているので、こちらを参照願いたい。

「大発見」の思考法 (文春新書)
山中 伸弥
文藝春秋
2011-01-19


iPS細胞は、細胞に3〜4の遺伝子を加えると、体のどんな細胞にも変化できる幹細胞となるというものだ。

iPS細胞はほぼ無限に増やせ、ほぼすべての細胞になることができる。

用途としては、本人の細胞から網膜や臓器など、いろいろな部位を拒否反応なしでつくる再生医療と、マウスなどの動物を使用せず、直接ヒトの細胞をつかって薬のテストや病気になるメカニズムを解明する病気や薬の研究だ。

これらの研究には従来ES細胞という受精卵を用いた細胞が使われてきたが、受精卵という将来人間に成長する可能性のある細胞を研究に使うことに倫理的な問題があり、米国のブッシュ政権はES細胞の研究に公的研究費の支給を禁止した。

iPS細胞は、ES細胞と同様の初期化された細胞でありながら、倫理問題がなく、しかも本人の細胞を使えるということで、画期的な発明である。

さて、最初のiPS細胞発見の発表から10年経って、この本では日本や世界の次のような研究機関でのiPS細胞研究や支援の現状をリポートしている。

日本
・京都大学CiRA(iPS細胞研究所、サイラ)
CiRA、理化学研究所、大阪大学、神戸市立医療センターの共同による加齢黄斑変性の患者に対する他人のiPS細胞からつくった網膜の細胞移植成功

米国:
UCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ分校)の山中教授が兼任しているグラッドストーン研究所
・スタンフォード大学
・カリフォルニア再生医療機構
・ニューヨーク幹細胞財団
・ハーバード幹細胞研究所

ヨーロッパ・アジア:
・カロリンスカ研究所(スウェーデン)
・ユーロ・ステム・セル
・ケンブリッジ大学
・シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)
韓国・CHAヘルスシステムズ

残念ながらここで特筆するような研究成果はなく、発見から10年たっても、基礎研究の段階のところが多い。

ただ、再生医療の分野では、数万あるといわれている細胞のHLA型のなかで、父からも母からも同じHLA型を受け継いだHLAホモ接合体の人の細胞を使ってiPS細胞をつくると、拒絶反応が少なく移植できるという話はグッドニュースだ。

再生医療では、次が5年以内に臨床応用が見込まれている。

・ドーパミン産出神経細胞(パーキンソン病治療)
・角膜
・血小板
・心筋
・軟骨
・神経幹細胞

筆者の亡くなった母もパーキンソン病を患っていた。

この本では、娘と息子が先天性糖尿病なので、糖尿病の治療法を研究している米国の学者など、医学の発展のために日夜努力している研究者が多く紹介されている。

時間はかかるだろうが、少しずつは進歩している。ぜひ早急に実用化につなげてほしいものである。


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無名碑 曽野綾子さんの名著 文庫で復刊され手に入りやすくなった





曽野綾子さんの1969年(昭和44年)出版の作品が復刊された。

筆者の学生時代からの友人がやっているラミーズ六本木の常連・講談社文芸第二出版部鈴木副部長から本を頂いた。

この本は、高度成長時代を迎える昭和30年代の日本の土木業界を取り上げた小説で、主人公は大手ゼネコン・作並建設の土木技術者、三雲竜起(みくもりゅうき)だ。

27歳の三雲は福井県の五条方水力発電所の工事に携わった後、東京の本社への転勤辞令を受けた。

三雲は転勤の際に、鶴来(福井県)の祖母を見舞ってから、東京に行くことにした。三雲の父は、鶴来から列車で30分の金沢に住んでいるが、三雲は父のところには顔を出さなかった。

三雲の父親は元裁判官で、三雲が8歳の時に、ある理由で三雲の実母を離縁した。母は離縁されて、ほどなく結核で亡くなった。三雲は、母を結果的に死に追いやった父をずっと許せないでいた。

石川から東京行きの車中で、三雲は二人の若い女性と知り合いになる。金沢大学生の徳永容子と、神奈川県の三崎にいる親類を訪ねるという颯田善江(さったよしえ)だ。

この二人が小説の展開の弾み車になっている。

容子は恋人と同棲していた過去があり、今風に言うと容子の「元カレ」がいきなり、三雲の会社に容子と付き合うなと忠告に来る。

三雲はほどなく只見川水系の田子倉ダムの建設現場に配属される。日本最大規模の水力発電所を建設するのだ。

曽野綾子さんの人物や風景の描写は、女性作家らしく非常にきめ細かくて感心する。しかし、この小説の最大の魅力は、使われている重機等の説明も含めて、土木工事現場が、読む人にわかりやすく、ビビッドかつダイナミックに表現されていることだ。

ダム現場で使うケーブルクレーン、それから三雲の次の現場の名神高速道路の茨木付近のサンド・パイル工事、ドイツ製のペコ・ビーム、アメリカ製の舗装機械・アスファルト・フィニッシャー、マカダム・ローラーなどなど。

三雲の三番目の現場は、タイのチェンマイ近くのアジア・ハイウェイにつながる道路工事現場だ。

アジア・ハイウェイは東京の日本橋からイスタンブールまで至る道で、アジア32カ国を横断する現代のシルクロードだ。

アジア・ハイウェイを通って、ロンドンからカルカッタに行く定期便のバスが3カ月に一度出ていると、紹介されている。本当にそんなサービスがあったのかどうかわからないが、3台編成で、1台は乗客用、1台は食料等の輸送用、1台は修理工具運搬用だという。

アジア・ハイウェイの現在の全体図は次の通りだ。

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出典:国土交通省ホームページ

アジア・ハイウェイのアフガニスタン部分では、米国がアスファルト工法、ソ連はコンクリート工法で競って舗装工事をやっており、工法が違うまま堂々たるハイウェイができあがりかけていたという。

1989年に出張で行ったロシアのウラル地方の、エカテリンブルグからセーロフ・クロム工場までのコンクリート舗装の道を思いだす。フラットではあるが、乗り心地の悪い道だった。

この本では、袖の下なしでは動かない当時のタイのビジネスの実態と、タイの田舎での生活を描いている。

三雲の私生活は波乱万丈だ。田子倉ダム工事の時代に、徳永容子と結婚するが、生まれた長女は心臓に欠陥があった。筆者の長男も大動脈縮窄症で、1歳の時に米国で手術して、今はなんともないが、他人事に思えない。

颯田善江も、数回の結婚で苦労しながら、ところどころで登場する。

三雲がタイに駐在してからも、工事は様々な困難に直面し遅れに遅れる。それでも完工を目指す作並の技術者たち…。

上下巻で、約950ページのこの本を読み終えた後、読者は読み終えたという達成感と同時に喪失感にとらわれるだろう。

曽野さんの文章は超一流で、生きざまを生き生きと描いている。文庫で復刊して手に入りやすくなったので、ぜひ一度手に取ってもらいたい名著である。


参考になれば次クリックお願いします。


技術大国幻想の終わり 日本産業界の生きる道は「価値」の追及



失敗学の権威・畑村洋太郎東大名誉教授の近著。

この本のカバーに結論が書いてある。

「技術では負けていない!」という思い込みを捨てよ。

「品質」、「機能」はもはや競争力にはならない。これからは人々の欲しがる「価値」を突き詰めろ。


まさにその通りだと思う。

畑村さんは、まずご自身が昔読んで感銘を受けたという「碧素(へきそ)・日本ペニシリン物語」を紹介する。



第2次世界大戦中にアメリカ・英国で実用化されて、多くの傷病兵を救うことになるペニシリンが開発されたという事実を、戦争中にドイツから戻った潜水艦が持ち帰った医学誌で知った日本の医学者が、非常な努力の末、10カ月という短期間で開発に成功する話だ。

戦後50年の日本は、次の絵のように、闇夜に光る灯台のように「答えは存在する」という事実があるだけで、人はその方向に向かって努力し続けられてきた。畑村さんは灯台に向けて和船で漕いでいる絵をシンボリックに掲載している。

ちなみに、この絵は西伊豆の戸田(へだ)で、和船を漕いだことがある人にはピンとくるはずだ。そう、戸田湾の湾口突破すると、左に灯台が見えるのだ。

畑村研究室(現在は中尾研究室)は、毎年研究室の夏合宿を戸田で行っているから、この和船の絵になったのだと思う。

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出典:本書20ページ

しかし、それに次ぐ20年は、「答え」を自分で探さなくてはいけなくなって努力の方向を見失った20年間なのだと畑村さんは語る。

日本の産業界が行き詰っている原因は日本の製品の品質が世界一だという品質幻想だ。品質幻想には次の3つがある。

1.「日本人がつくるものが優れている」という幻想。
 たとえば、日本でつくる日本車のほうが、海外でつくる日本車よりも品質は優れているというような幻想だ。実際には、日系自動車会社ではブラジルで作っている日本車と日本でつくっている日本車の品質は変わらないという。むしろブラジルのほうが、生産性が高いので、日本より良いという。

2.「職人の技幻想」
 たとえばアップルのiPodのステンレスケースは、当初新潟県の燕の金属加工業者が加工していた。ところが、そのうち中国でもできるようになり、燕への注文は来なくなった。職人の技がデジタル制御の加工機械に置き換えられているのだ。

3.品質という言葉に対する間違った理解
 品質とは、あくまで消費者の要求に応えているかどうかで決まってくる。「品質の良いものをつくれば売れる」というのは誤解だ。消費者が求めているのは、良い品質だけではない。「適切な品質」、「適切な価格」、「デザイン」、「必要な機能」、「使いやすさ」、「楽しさ」、「サービス」といった要素すべてで、これらを満たす製品が良い製品なのだ。

もう一度消費者と向き合い、市場を観察しないと、まさに闇夜に海図も持たないで漕ぎ出すことになってしまう。

消費者の求めているものをつくるということを徹底しているのが、韓国のサムスンだ。

この違いは、「価値」を考えることの重要性を理解しているかどうかだ。

畑村さんは、インドに出張した時に、現地企業の社長から、「日本の企業はたしかにどうやってつくるかという構造を考えるのはうまい。でもその土地や土地に住んでいる人々が大切にしている文化のことはあまり考えていません。これは日本企業が価値について真剣に考えてこなかったからではないですか」と言われたことを紹介している。

たとえばインドで売れている電気冷蔵庫は、鍵がかけられ、停電しても何時間は持たすように冷気が上から降りてくる構造だ。サムスンやLGなどの製品がよく売れているという。

畑村さんは、サムスンの元常務だった吉川良三さんとHY研という研究会をつくっている。

以前あらすじを紹介した「『タレント』の時代」の著者の酒井崇男さんはHY研のメンバーだ。



畑村さんは、酒井さんの本から、ある大手通信系の研究所は優秀な若者たちの就職先として知られているが、実際には市場で通用する研究成果がほとんど出てこないまま、毎年数千億円規模の研究費を消化し続けていることを紹介している。

まさに「価値」を考えていない結果である。

サムスンは毎年何百人かの地域専門家を海外各地域に送り出している。

語学研修を終えた後、現地の人と同じように生活することで、その現地の人の習慣や欲求、考え方を吸収していく。現地の文化を身につけた人間を養成することで、はじめて現地の人の価値観にあった商品をつくりだすことができると考えているからだ。

サムスンが変わったのは、1997年の韓国における通貨危機がきっかけだという。このとき韓国は国家の存亡の危機にさらされたが、そんな状況の中で社員の多くが危機意識を持ったことが当時進めていた様々な改革につながったという。

この本では、畑村さんが見聞した世界各地の事例が紹介されていて参考になる。

・中国では自転車はほとんど姿を消し、いまでは見た目はスクーターと変わらない電気自転車が主流だ。年間3,000万台生産しているという。原理的には電気自転車を2台組み合わせれば、電気自動車ができる。

電気自動車が主流になると、電気製品のように組み合わせ技術でつくられるようになる。製品のデジタル化・モジュール化・コモディティ化が進めば、世界のどこで生産しても同じものができるようになる。

・スティーブ・ジョッブスは、いままで機能を中心に考えられていた電化製品の見た目の格好良さ、肌触りといった五感のイメージに徹底的にこだわった。たとえば、iPhoneが入っている紙箱のコストに、600円かかっているという試算があるという。筆者も、他の電気製品の箱はすぐにリサイクルに出してしますが、アップル製品の箱は取っている。なるほどと思う。

・インドの自動車産業は2020年には1,000万台を超えるという予測があり、これは現在の日本の自動車生産台数と同じだ。中国はすでに日本の生産台数の2倍を超えて、2014年では2,400万台を生産した。

中国の自動車生産能力はすでに5,000万台を超えているという見方もあり、いずれ輸出市場に出てくることが予想される。すでに南米ペルーでは、中国車が日本車の半分の価格で売られているという。

・中国で成功している日中合弁の自動車会社は、車体は日本で高級車の部類に入る2,000CCクラスのものを基本にして、そのシートをレザー製にして高級感を出すが、エンジンは1,500CCのものを使ってコストを抑えており、それが市場のニーズに見事に合っているという。

・ホンダベトナムは、密輸された劣悪な中国製コピーバイクに席巻された市場を、コピーバイク修理用にホンダの純正部品を売るという商売で業績を回復し、さらにベトナムで製造した部品をつかったバイクを中国製の倍の価格で売り出して、いまは市場の7割を抑えている。

・インドのニューデリーの地下鉄は日本のJICAの技術援助で建設された。非接触ICカードトークンなどの技術を導入しているが、日本から買った電車は、わずか一編成のみで、その後は自分たちでつくっている。これは中国が日本から新幹線を買ったときとまったく同じやり方だ。日本は単なる製品輸出より、その後のメンテナンスや運用も含めたビジネスを考える必要がある。


畑村さんが経験した具体例が紹介されていて参考になる本である。


参考になれば次クリックお願いします。


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